広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成16年 〜2004年〜
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A-291:梅花泉(ばいこせん)
鳴滝1-11-7(長崎村中川郷字松山)
文化文政年間(19世紀始め)に長崎の名所を綴った「長崎名勝圖会」というものがあって、鳴滝の欄に梅花泉を見ることができます。ここには「鳴滝にあり。地下より湧出で、味は甘冷。傍に一株の梅樹があり、春は花を水に浮かべ、夏は葉が繁って泉を掩(おお)う、故に名を得たり」とあります。昭和35年(1960)までは湧水が多い井戸があったのですが、現在は個人宅の地下に隠れています。また、梅花泉は次のようないわれがあります。戦国時代、矢上の軍勢が本河内より鳴滝に入り、城の古趾の長崎氏を攻め込むのですが失敗し撤退します。その際、この梅花泉で喉を潤したといわれていますが、多くの負傷者がここで倒れたといいます。現在、この付近に地蔵尊がお祀りされていますが、これは当時、付近の住民が供養のためにとお祀りしたものといわれています。




A-290:キイレツチトリモチ自生北限地(喜入土鳥餅)
本河内1,中川2,鳴滝1(長崎村本河内郷/中川郷)
キイレツチトリモチはツチトリモチ科の寄生植物で、主に九州の鹿児島-熊本-長崎に分布。トベラ、ネズミモチ、シャリンバイなどの地表に近い細い根に寄生しています。10月中旬から2月までが時期で、一見キノコのように見えますが顕花植物で高さが10から15センチメートルの白黄色をしています。このキイレツチトリモチですが明治43年(1910)鹿児島湾に面した喜入村(当時)で発見され、植物学者:牧野富太郎博士によって命名されました。さらに昭和16年(1941)秋、長崎でもその自生が発見され、調査によってこの地がキイレツチトリモチ自生の北限地となります(昭和26年(1951)国天然記念物の指定)。しかし、現在はその存在はなく長崎では伊王島灯台付近や稲佐山で確認ができます。
※この発見には裏話があり、喜入で発見される3年前、長崎市飽の浦ですでに発見されていたのです。しかしこの時の標本が悪く新種とは断定できませんでした。




A-289:鳴滝成田不動堂(なるたき-なりた-ふどうどう)
鳴滝1-8-9(長崎村中川郷字松山)
成田不動とは千葉県成田市の真言宗のお寺、新勝寺にお祀りされている不動明王のことで、この鳴滝成田不動堂は同じ不動明王がお祀りされています。言い伝えでは欠かさず参詣すれば願が叶うといいわれていますが、このほか敷地には江戸時代盛んであった四国八十八ヶ所の石像が並び、昭和9年(1934)崇敬者の横山慈照によって「神となり 仏となりて 水の中 火炎の中に 立つも世のため」という不動明王にちなんだ句碑も建っています。




A-288:赤地蔵尊(あかじぞうそん)【高林寺境内】
高林寺境内には江戸時代初期:承応3年(1654)に作られた長崎最古といわれている石像の地蔵尊があります。この地蔵尊はいつもく塗られていて赤地蔵とも呼ばれています。
もともと地蔵信仰とは子供を守る信仰ともいわれ、各地多くの地蔵さんを見るとの前掛け(よだれかけ)をつけています。これは子供つまり赤ん坊にから来ていてに塗ることで魔除けになるともいわれています。このほか願を掛けるときはの前掛け、成就すると白の前掛けに変えるとも聞きます。




A-287:曹洞宗コ光山高林寺(とっこうざん-こうりんじ)
鳴滝1-6-27(長崎村中川郷字松山)
高林寺は正保3年(1646)皓臺寺一庭が禅僧天宗融察と、オランダ通詞の名村、猪俣両氏の援助を受け炉粕町に創建します。一方、上長崎村中川郷に知足庵(当初は栖雲庵)という皓臺寺の末庵があって、明治40年(1907)池田新吉という者が、シャム国王(タイ国)勅願寺サケート寺に安置してあった釈迦如来の銅像をもらい受け、軍艦で長崎に運ばれここに安置します。しかし由緒ある仏像を末庵に納めることに市内寺院から反対が起こり協議会が開かれます。そして当時、移転を検討していた高林寺が手を挙げ、明治42年(1909)知足庵と合併し、この地に高林寺を移し現在に至ります。




A-286:ミルス坂(みるす-ざか)
鳴滝1-3〜4(長崎村中川郷)
現在の鳴滝高校と旧長崎県立女子短期大学付属幼稚園の間の坂をミルス坂といいます。昭和10年(1935)頃、海星学園の英語教師ミルス先生/font>が旧県立女子短大付属幼稚園のところに住んでいました。ミルス氏は地域の人々に大変親しまれていて、その人望の厚さが坂の名前になったのでしょう。




橋本清敏の桜(はしもときよとし-のさくら)【長崎県立鳴滝高校】
橋本清敏は、三菱長崎造船所第一ドック建設を手掛けたり、病院を開業して財を成した橋本清の息子にあたり、清敏も医者の道を進みます。清敏は大正4年(1915)大正天皇の御大典記念として、出身校であった旧長崎県立長崎中学校に植木の寄付を行ないます。植樹したのは桜100本、月桂樹2本、多行松(たぎょうしょう)2本、ポプラ5本で現在でも桜など数本が残っています。




織部灯篭(おりべ-とうろう)【長崎県立鳴滝高校】
県立鳴滝高校の庭園には織部灯篭が復元されています。もともとこの庭園は唐通事:彭城家の別荘跡で、碑文にはこの彭城家の庭園内にあったものを復元したとあります。灯篭は陶製で十字架を意味するクルスが窓に使われ、平成13年(2001)長崎県窯業技術センターほかの協力で旧制長崎県立長崎中学校の同窓会が建立しました。




A-285:長崎県立鳴滝高等学校
大正15年(1926)長崎市は中学校への入学難の緩和や青少年労働者への勉学の機会を与えるため県立瓊浦中学校内に長崎夜間中学校を開設。昭和8年(1933)長崎市立夜間中学校に改称。昭和18年(1943)一旦廃止され、新たに長崎市立中学校を設置します。昭和23年(1948)学制改革により旧制中学は新制高校に変わり金屋町に長崎市立長崎高等学校が誕生します。昭和40年(1965)栄町の市立長崎幼稚園跡地に新校舎が完成し移転。昭和57年(1982)長崎市立長崎第二商業高等学校と統合、長崎市立長崎高等学校となります。平成12年(2000)長崎県立女子短期大学の跡地に長崎県立鳴滝高等学校が開校し、それまでの長崎市立長崎高等学校が移管されます。




A-284:長崎県立女子短期大学跡
鳴滝1-4-1(長崎村中川郷)【長崎県立鳴滝高校】
昭和23年(1948)長崎県立長崎中学校の廃校を受け、昭和25年(1950)長崎県立女子短期大学が開校します。そして旧長崎中学校のグランドに県立女子短期大学寮と長崎県の職員住宅が建てられました。昭和32年(1957)から昭和44年(1969)まで長崎県立短期大学として一時男女共学になりますが、再び女子短大となり平成11年(1999)まで開学します。平成11年(1999)長崎県立シーボルト大学に統合され、平成20年(2008)長崎県立大学と統合し長崎県立大学シーボルト校に変わります。




A-283:長崎県立長崎中学校跡【長崎県立鳴滝高校】
明治6年(1873)公立小学校(向明学校、啓蒙学校)が開校。
明治9年(1876)小学生の卒業に伴い県立準中学校が外浦町の民家に開校。しかしすぐに手狭となり中島聖堂内(現 伊勢町)に移ります。
明治11年(1878)立山の英語学校の廃止に伴い移転し長崎中学校と改称します。のちに県立長崎中学校へ。
明治17年(1884)文部省令によって県内の他の中学校を廃止し長崎県立中学校が設立。
明治19年(1886)中学校令により長崎県尋常中学校に改称。
明治32年(1899)中学校令により長崎県長崎中学校に改称。
明治34年(1901)長崎県立長崎中学校に改称。
明治41年(1908)福富町(現 幸町)に仮校舎を建て移転。
立山の跡地に長崎県女子師範学校入る。
大正2年(1913)中川郷(現 鳴瀧高校)に新築移転。
昭和23年(1948)学制改革により旧制中学は新制高校に変わり長崎県立長崎高等学校とし、のちに明治35年(1902)開校の県立長崎高等女学校、大正11年(1922)開校の県立瓊浦中学校の3校を統合し、長崎東高、長崎西高の2校に統廃合。西山町に長崎県立長崎東高等学校、竹の久保町に長崎県立西高等学校が開校します。




A-282:平賀源内假寓の地(ひらがげんない-かぐうのち)
【長崎県立鳴滝高校】
平賀源内(享保13:1728-安永8:1779)は江戸時代中期の本草学者であって科学者で、宝暦2年(1752)25才のとき来崎。一年間ほど蘭学を学んだ後、大坂で医学や本草学を学びます。28才で江戸に渡り、西洋の知識を持って様々な研究開発を行ないます。当時、あまりにもかけ離れた振舞いに世間から変人扱いにされたのは有名。この平賀源内は来崎時、唐通事の彭城家にも出入りをし、この地を訪れたといいます。




A-281:彭城家別荘跡(さかきけ-べっそう-あと)
鳴滝1-4-1(長崎村中川郷)【長崎県立鳴滝高校】
彭城家は林家、頴川家などと並ぶ唐通事の名家で、ここはその彭城家別荘がありました。この彭城家は中国福建省出身の劉一水(りゅう-いっすい)を祖とする家で、2代目彭城仁左衛門宣義(寛永10:1633-元禄8:1695)は唐大通事として活躍、後に第13代長崎奉行牛込忠左衛門勝登より東閣の号を受けます。別荘地の庭園は一部現存。




A-280:鳴瀧の彫刻(なるたきのちょうこく)
鳴滝1-1-2付近(長崎村中川郷)
県立鳴滝高校のグランドの下付近、暗渠の出口に当るところが鳴瀧の由来となった滝があります。そしてその滝の岩肌に「鳴瀧」の文字が刻まれていますが、これは唐通事の林道栄(りん-どうえい)の書を刻したものです(一説には皓臺寺21世:黄泉ともいわれている)。当時、鳴瀧と命名した長崎奉行牛込忠左衛門勝登は、この林道栄との親交も厚く、後に林道栄牛込忠左衛門より官梅の号を受けます。




A-279:鳴瀧/鳴滝(なるたき)
鳴瀧地区はもともと平堰(ひらいで)といい、烽火山を源に七面谷から中島川に流れ込む馬込川(現 鳴川)の流域に広がる地域を指します。また、平堰の「平」は崖、「堰」は堰(せき)の意味があるので、当時は山間に堰を設け田畑が広がっていたと考えられます。この馬込川には途中に小さな滝があって、延宝年間(1673-80)第23代長崎奉行牛込忠左衛門勝登(かつなり)によって鳴瀧と命名され、それからこの地を鳴瀧と呼ぶようになります。これはこの地が京都の鳴瀧(京都市右京区)の地に似ていたからといい、その由来となった鳴瀧は県立鳴滝高校のグランドの下付近にあります。




A-278:中川(なかがわ)
中川はもともと大村氏の所領の長崎村に属し、長崎開港後の慶長10年(1605)天領とし長崎代官管轄の長崎村中川郷(ナカゴウ)とします。明治31年(1898)長崎市に編入し長崎市中川郷、大正12年(1923)中川郷は中川町と鳴滝町になります。昭和56年(1981)中川町は1丁目と2丁目に分けられます。地名の由来は中島川とその支流である馬込川(現 鳴川)に囲まれた中央部に位置するところから中川となったものと考えられ、長崎甚左衛門の末裔にはその中川を姓に持っている方もいます。




A-277:中川町観音堂(なかがわまち-かんのんどう)
中川2-4-7(長崎村中川郷)
中川町観音堂には天和3年(1683)に中川村の住民が奉納したとされる地蔵菩薩像や観音菩薩像、弘法大師像などがあり、昭和6年(1931)に250年祭記念幔幕があるところから天和年間(1681-83)の創建です。また、長崎街道沿いということもあり交通安全を祈願するお堂と考えられます。このお堂の扉の格子は独特の形をして当時の細工の工夫が見られます。平成25年(2013)道路拡張のため移転新築しました。なお、このお堂から古橋までの坂をトロトロ坂と呼び、以前までは古い石畳が張られていました。




A-276:中川橋(なかがわ-ばし)
昭和9年(1934)に完成する国道(電車通)の完成に合わせ桜馬場の通りから蛍茶屋に抜ける道路が造られますが、それに先立ち大正7年(1918)新たな石橋:中川橋とが架けられます。これによりそれまで中川橋と呼ばれていた橋は古橋と改称します。大正時代の石橋として大変貴重な石橋で、以降、架橋はコンクリート橋に変わっていきます。市指定文化財。




A-275:古橋(ふるばし)
桜馬場2丁目-中川2丁目間(中島川支流鳴滝川)
古橋は承応3年(1654)貿易商で唐通事の林守壂(りんしゅでん)によって架けられたで石橋で、眼鏡橋の架橋後、僅か20年で石橋の布石に工夫が見られ、これが林氏の知恵なのか加工の技術なのか判らないが大変貴重な構造となっています。林氏は崇福寺の大檀越で、この橋は亡き母の供養のために架けられました。市指定文化財。
当初、この橋は中渓(なかがわ)橋、中河橋、中川(なかごう)橋、中川(なかご)橋などと呼ばれていましたが、大正7年(1918)下流に電車通りに抜ける道路と橋が造られたのを機に古橋と改称しました。




一字一石塔(いちじいっせき-とう)
七面山道標の横に「南無妙法蓮華経」と彫られた塔がありますが、これを一字一石塔といいます。これは一人一人の信者が一つの石に一文字ずつ文字を書き、その塔の下に埋め願いを掛けるというもので、側面には「天長地久国土安穏 五穀豊穣萬民快楽(ケラク)」と刻されています。明治26年(1893)建立。おじかげ?

お亀屋敷跡(おかめやしき-あと)
傳八稲荷神社からこの付近をその昔、お亀屋敷と呼んでいました。




A-274:七面山道標(しちめんざん-どうひょう)
桜馬場2-4-17(長崎村馬場郷)
七面山道標より約1600メートル入ったところに七面山があります。ここでいう七面山とは山を意味するのではなく日蓮宗七面山妙光寺のことをいい、この道標より七面山の参道が始まります。道標は文政6年(1823)に江戸麻布の小岩井正甫守一によって建立されたもので、お題目の「南無妙法蓮華経」などが彫られています。明治17年(1884)町内の田川大造氏によって再建されます。




A-273:木谷稲荷木谷橋(きやいなり-きやばし)
明治期以降、桜馬場において木谷という熱心に地域活動を進めた大地主がいました。その後、しばらくして木谷氏の先代がアメリカに移住した際、桜馬場がますます発展するようにと木谷氏の依頼を受けて、木谷家に伝わる稲荷神を傳八稲荷神社に合祀することになりました。このほか中川2丁目と新中川町とを結ぶ橋がありますが(丸川公園上手)、これは木谷氏の功績で架けられたもので木谷氏の名前をとって木谷橋と名付けられています。




A-272:森田庄屋稲荷(もりたしょうや-いなり)
江戸時代、桜馬場中学校の敷地は長崎村の庄屋職であった森田家の屋敷があって、屋敷内には代々伝わる稲荷社がお祀りされていました。明治22年(1889)長崎県師範学校の敷地となったころから、いつの間にか稲荷社は取り壊されてしまいます。その後、しばらくしてこの師範学校で度々火事が起こるようになり、不思議に思った学校長が付近の長老に相談に行きます。長老が敷地内の稲荷社の存在を教えると、校長はすぐに敷地を掘り返し、石垣に埋められた稲荷社の符石を発見します。それからその稲荷社の御霊を傳八稲荷神社に合祀すると災害が起こらなくなったそうです。




A-271:傳八稲荷神社(でんぱち-いなりじんじゃ)
桜馬場2-4-14(長崎村馬場郷)
その昔、この付近に伝八という者がいて、大変、慈悲心が深く付近の住民はたびたび伝八の世話になっていました。伝八は普段から熱心に稲荷神を信仰していて、いつしか付近の住民はこの稲荷神を地区の守り神としてお祀りするようになります。創建:延享年間(1744−47)
このほかこの神社には3体の稲荷神がいて、一つは旧森田庄屋内にお祀りしてあった稲荷神、一つは付近の地主であった木谷家に伝わる稲荷神、一つは由来の判らない稲荷神がお祀りされています。大祭10月19日。




A-270:長崎県植物試験所跡(-しょくぶつしけんじょ-あと)
桜馬場2-2-2,3(長崎村馬場郷字森田)
庄屋森田家頭取が戸町に移転したのを期に明治10年(1877)庄屋敷地の上手に長崎県植物試験所が置かれます。ここは特別な植物を研究するのではなく、白菜などの野菜を栽培しそれを農家に栽培方法などを教育することが目的で、城の古趾にかけて広大な畑を持っていました。




○桜馬場中学校校門横の2本の貝塚息吹(カイヅカイブキ)
桜馬場中学校の校門をくぐり玄関に続く坂の途中に貝塚息吹が2本立っています。これは私の歴史の師である高田泰雄先生(大正5年-平成19年)ゆかりの木で、先生が長崎県師範学校付属小学校を卒業した昭和2年(1927)3月6日(最初の地久節の日)に植樹したものです。この日、高田先生は同級生4人と当時の担任であった小曽根先生と一緒に梅屋敷から金比羅山の北側に登り、大きな農家から2本の貝塚息吹をもらいます。そして浦上の方に下り、当時電車の終点だった「下の川」電停(現 浜口町付近)から電車に乗り「諏訪神社下」終点で下車、そして新大工町を担いで学校に向います。そしてここに植えたのが第19回卒業生記念樹となるのです。今は大きく育っていますが卒業生記念樹と知っている人はほとんどいません。




A-269:長崎市立桜馬場中学校(-さくらばばちゅうがっこう)
昭和12年(1937)長崎県男子師範学校が西浦上に移転した後、一時、東亜同文書院仮校舎として使用されます。昭和13年(1938)から昭和23年(1948)までは長崎市立高等女学校が置かれ、昭和22年(1947)新学制により長崎市立桜馬場中学校となり現在に至ります。

東亜同文書院仮校舎跡(とうあどうぶんしょいん-かりこうしゃ-あと)
東亜同文書院とは日本初の海外高等教育機関で、現在の愛知大学の前身にあたり、明治34年(1901)中国の上海に設置されました。これは当時、貴族院議長であった近衞篤麿公が日中友好のために人材を育成する目的で開かれたものです。しかし日本の敗戦によって上海の学校はすべて中国に接収され、廃止されます。




A-268:長崎県師範学校付属小学校及び幼稚園跡
【長崎市立桜馬場中学校】
明治9年(1876)新町(現 興善町)に置かれた崎陽師範学校には付属小学校が併設され西浜町(いりえ付近)に校舎を置きます。明治41年(1908)立山に長崎県女子師範学校が開校した際、女子師範学校付属小学校及び幼稚園が開かれます。大正12年(1923)女子師範学校の移転に伴い、付属小学校と幼稚園もこの地に移転。これまであった男子師範学校付属小学校と幼稚園と合併します。昭和18年(1943)西浦上に移転。長崎師範学校男子部・女子部付属小学校となります。これが後の長崎大学教育学部付属小学校と幼稚園の前です。




A-267:長崎県女子師範学校跡(-じょししはんがっこう-あと)
【長崎市立桜馬場中学校】
明治17年(1884)公立崎陽師範学校附属小学校内に長崎県女子師範学校が開校。明治19年(1886)女子師範学校は男子師範学校と合併します。明治41年(1908)改めて立山に長崎県女子師範学校が開校。大正12年(1923)男子師範学校が大村に移転したため女子師範学校がこの地に移転します。しかし昭和9年(1934)男子と女子の師範学校の入れ替えが行なわれたため大村に移転。昭和18年(1943)西浦上に移転、長崎師範学校男子部・女子部となります。これが後の長崎大学教育学部の前身です。




A-266:長崎県尋常師範学校跡(-じんじょうしはんがっこう-あと)
【長崎市立桜馬場中学校】
明治5年(1872)明治政府は学制を頒布。
明治6年(1873)第一番小学向明学校(のちの勝山小学校)内に教員伝習所(教員仮師範所)を設け、私塾の教員に教授法の指導を始めます。
明治7年(1874)改めて小学教則講習所を設置。
明治8年(1875)小学教則養成所と改称し、興善小学校(旧 新興善小学校)に移転。
明治9年(1876)→小学教師養成所→長崎公立師範学校と改称。
明治10年(1877)旧 勝山小学校に再移転して公立崎陽師範学校と改称。
同年、新町(現 興善町:長崎腎病院)に新校舎を設け移転し、あわせて付属小学校も開校します。
明治11年(1878)長崎県師範学校と改称。
明治19年(1886)長崎県女子師範学校を吸収合併。のち長崎県尋常師範学校と改称。
明治22年(1889)桜馬場(現 桜馬場中学校)に移転します。
大正12年(1923)〜昭和8年(1933)まで大村に移転。跡地に女子師範学校が移転。
昭和9年(1934)桜馬場に再移転。女子師範学校と交換。
昭和12年(1937)西浦上(昭和町)に移転。
昭和18年(1943)長崎師範学校男子部・女子部となります。
昭和24年(1949)新学制の下、長崎大学が開学。長崎師範学校は大村に移転。
昭和26年(1951)長崎師範学校の最後の卒業生を送り出す。




A-265:長崎村庄屋森田家屋敷跡
(ながさきむら-しょうや-もりたけ-やしき-あと)
桜馬場2-2-1(長崎村馬場郷字森田)【長崎市立桜馬場中学校】
永禄12年(1569)長崎甚右衛門が春徳寺のところにトードス・オス・サントス教会を建てた後は、桜馬場地区は南蛮寺門前町としてさらに発展します。そしてこの長崎氏に仕えていたのが森田氏で、慶長10年(1605)長崎甚右衛門が長崎を退去してからも、この地を離れず、慶長14年(1609)より明治12年(1879)まで、代々、長崎村13郷(馬場、中川、片淵、夫婦川、本河内、船津、岩原、西山、木場、伊良林、高野平、小島、十善寺)の庄屋役を務めます。その森田氏の屋敷が現在の桜馬場中学校のところにありました。墓所は鳴滝:松山墓地:鳴滝1-17付近。




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