広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成17年 〜2005年〜
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○鯨の潮吹き(くじらのしおふき)
今では万屋町の代名詞ともなった長崎くんち奉納踊りの鯨の潮吹きですが、始まりは江戸中期の安永5年(1776)愛宕山(愛宕大権現)の祭事の際、万屋町の旅館:呼子屋に滞在していた鯨組主人:中原甚吉が、奉納の米引きを見て発案。愛宕山の祭事に奉納したのが始まりといわれています。そしてこれが大変な人気だったため2年後の諏訪神社のくんちに奉納となったといわれ、それが現在に続いています。また、ある年、鯨の生地となる「黒しゅす」が入手困難になった時があって、町内の女性たちの帯をほどいて間に合わせたという話も残っており、狂歌に「お祭をするとて町の女房たち 帯までほどいて鯨するかな」と唄われています。




B-224:愛宕五仏地蔵堂(あたごごぶつじぞうどう)【愛宕神社境内】
愛宕山大光院願成寺には五つの仏像がお祀りされていて、その五仏とは五智如来(ごち-にょらい)とも呼ばれ、大日如来阿閦(あしゅく)如来宝生(ほうしょう)如来不空成就(ふくうじょうじゅ)如来阿弥陀如来の五つの仏をいい、そしてそれぞれに個性を持ち、大日如来は宇宙全体を意味し、阿閦如来は物事のすべての現象、宝生如来は平等を意味し、阿弥陀如来は正しいものを見る目、不空成就如来は正しい行いを意味します。明治維新による廃仏毀釈で仏具は清水寺などに移され、五仏は愛宕神社境内に移されました。残念ながら阿弥陀如来像だけが現存しません。五仏像の歴史を紹介した五佛像縁起之碑が昭和29年(1954)建立されています。




鐘ケ江清太郎滝川三浪翁顕彰碑【愛宕神社境内】
(かねがえせいたろう・たきがわみなみ-おうけんしょうひ)
愛宕町に住んでいた茂木藤田尾出身の鐘ケ江清太郎は、友人であった滝川三波と共にある子供を交通事故から救い、さらに同じ頃、鐘ケ江清太郎の父:清一氏の50回忌が行われ、鐘ケ江清太郎は冥福を祈るため愛宕神社に寄附を行います。また、滝川三波は元陸軍大佐の伊吹元五郎と共に西島助継:所有の愛宕山を無償で寄進するように交渉した人物で、この西島助継の父は元陸軍中将の西島助義で愛宕山にとても関係の深い人物でした。愛宕神社はこの二人の功績を後世に伝えるため昭和49年(1974)碑の建立となるのです。




愛宕神社修繕記念碑
:明治29年(1896)社殿および雪見灯篭改築【愛宕神社境内】
桜樹記念碑:明治41年(1908)桜35本植樹【愛宕神社境内】
皇紀二千六百年記念碑:昭和15年(1940)【愛宕神社境内】
皇紀とは日本書紀に記された日本独自の紀元のことで、第1代神武天皇が即位した年(西暦紀元前660年)を元年とします。皇紀二千六百年は昭和15年(1940)に当り、当時の日本は日中戦争から太平洋戦争へと戦況が激化する頃で、全国で皇紀二千六百年記念行事が行われました。これは国威高揚の政治的意味合いが大変強い行事だったのです。




B-223:愛宕神社(あたごじんじゃ)
愛宕1-24-29(旧長崎村高野平郷)
明治維新を受け愛宕山大光院願成寺は廃寺となり、堂内の仏像は清水寺に移され、石仏などは堂外に置かれ、仏具一切はすべて裁判所に納入となり売却されました。そして愛宕大権現と同じ火の神である火産霊神(ほむすびのかみ)をお祀りし愛宕神社と改称します。明治期以降、境内整備のため吉野桜や楠、松などの植樹が行われ(現在、楠のみ現存)、現在では旧高野平郷に当たる高平町と愛宕地区の鎮守としてお祀りされています。




B-222:真言宗愛宕山大光院願成寺跡
(-あたござん-だいこういん-がんじょうじ-あと)
愛宕1-24-29(旧長崎村高野平郷)
願成寺開基の修験者(山伏):宥慶は江戸時代の初めに平戸から長崎入りし立山に一寺を建立します。寛永20年(1643)第12代長崎奉行馬場三郎左衛門利重の許しで合斗峰(ごうとほう=愛宕山)のふもとに移転し、合斗峰山頂の上宮に愛宕大権現と栄術太郎坊天狗をお祀りし、ふもとに地蔵尊を本尊として願成寺(愛宕宮)を開きます。愛宕大権現は火の神様ということもあって、以降ここは長崎奉行より長崎の安全祈願を命ぜられ、幕府老中からの添書きも与えられます。文政元年(1818)や嘉永元年(1848)には唐船より安全祈願のため多額の寄附を得、拝殿や鐘楼堂などの再建に役立てます。しかし、明治維新により神仏混こう禁止令で願成寺は廃寺となり愛宕神社となります。




B-221:玉木女子学園跡(たまき-じょし-がくえん-あと)
高平町8,愛宕1-21-6ほか(旧長崎村高野平郷)
玉木女子学園は明治25年(1892)玉木リツが長崎女子裁縫学校を創立したことに始まり、明治39年(1906)玉木女学校に改称、明治42年(1909)裁縫の専門科の裁縫教員養成科、高等裁縫研究科を置き、大正15年(1926)には玉木職業女学校を設立、昭和18年(1943)には玉木高等実践女学校となります。そして昭和22,23年(1947-48)教育改革により玉木中学校、玉木高等学校となり、昭和28年(1953)玉木女子短期大学、平成7年(1995)長崎医療技術専門学校を設立します。平成19年(2007)玉木学園に改称し、長崎玉成短期大学、長崎玉成高等学校となり男女共学の学校になります。平成24年(2012)新校舎を愛宕1丁目に建設し移転。玉木女子学園は創立から裁縫教育(被服科)を中心に食物、看護などを幅広い分野の人材育成に努めています。




B-220:榎観音堂(えのき-かんのんどう)
高平町14-13(旧長崎村高野平郷)
榎観音堂の創建ははっきりしませんが、天和3年(1683)奉納の地蔵尊像、安永9年(1780)奉納の地蔵尊像があって共に高野平郷の者が安置したとあります。また、明治維新後、廃寺となった願成寺の観音像がここに安置されました。榎の名称は付近を流れる小島川を別名:榎渓(エノキダニ)によります。
さらにここは長崎四国八十八ヶ所霊場の中の五十九番霊場に当り、弘法大師をお祀りされています。




B-219:真言宗宝寿院真福寺文殊院跡
(-ほうじゅいん-しんぷくじ-もんじゅいん-あと)
高平町12,13,21,22付近?(旧長崎村高野平郷)
宝寿院真福寺文殊院は寛永8年(1631)僧:快尊が今籠町付近(現 大光寺南側)に一寺を建てたのが始まりで、寛永18年(1641)高野平に移ります。当時、境内には高野山を開いた弘法大師が修行したといわれる弘法大師座石と呼ばれる巨石があって、後にこれが高野平(高平町の旧名)の由来となります。天明5年(1785)大破のため長崎奉行所から、文政2年(1819)唐船からそれぞれ寄附を受け修復されます。しかし明治維新後は財政難となり廃寺となります。




B-218:潮灌地蔵(しおかけ-じぞう)
高平町3-4(旧長崎村高野平郷)【高平町下自治会内】
昔から地蔵堂の前(清水寺の門前)の道は付近の農民が畑地に向かう通りとなっていて、ちょうどここが休憩場所になっていました。さらに農民は町からのを担いで通るためお堂の前は大変な臭気だったのです。ある夜、近くの農民の一人が不思議な夢を見ます。その夢は一人の僧が現れ「自分はそこのお堂の地蔵菩薩であるが、毎日、不浄を置くので臭くてたまらぬ。信心の心あれば堂の周りを清めてくれ」と告げたものでした。翌朝、その男はお堂に花や線香を供え、潮水を汲んで来てお地蔵さまに灌(そそ)ぎます。いつしか付近の者もお堂をきれいにし塩水をかけるようになり、お地蔵さまの体は潮水の乾く暇がなかったそうです。以降このお地蔵さま潮灌地蔵というようになりました。
※現在ではその言伝えを知る者がいなくなったせいか、お堂の前はゴミステーションとなり臭気が漂っています。残念なことです。




B-217:高野平(こうやびら)
現 高平町、愛宕1〜4(旧長崎村高野平郷)
高野平という地名は現在では使われていませんが、その昔、高野山を開いた弘法大師がこの付近にあった真福寺文殊院で修行をしたという伝説からこの名がつきます。地域は風頭山から愛宕山にかけての南西部で、江戸時代は長崎村高野平郷、明治になり下長崎村に属し明治31年(1898)長崎市に編入します。大正2年(1913)高野平郷の北部を高野平の「野」の字を省略して高平町とし、南部を愛宕山にちなみ愛宕町に改称。昭和48年(1973)現在のような町番になります。




B-216:清水寺墓域
清水寺墓域には次の方々の墓碑を見ることができます。
【江戸時代初期】唐通事:馬榮宇を祖とする中山家
【江戸時代後期】豪商で後に宿老:徳見家
【明治時代以降】大浦慶など。




不許五辛酒肉入院内(ごしん-しゅにく-いんないにいるを-ゆるさず)【清水寺境内】
禅宗寺院の山門横には「許不葷酒入山門(くんしゅ-さんもんに-いるを-ゆるさず)」の碑が立っていますが、これは臭気の強い野菜や酒は人に迷惑をかけ心を乱してしまうので寺院に立ち入らないようにという意味があります。この葷酒とは(にら)(ねぎ)大蒜(にんにく)酒を意味します。
一方、清水寺には「不許五辛酒肉入院内」の碑があって、五辛とは五葷(ごくん)ともいい辛味があって臭気の強い野菜で大蒜(にんにく)茖葱(らっきょ)慈葱(ねぎ)欄葱(のびる)興渠(こうご)のことをいいます。そしてこれらに酒と肉が加わり五辛酒肉となり、臭気だけでなく精力を高めるものはすべて禁止するという大変厳しいものになっています。




B-215:奇縁氷人石(きえん-ひょうじん-せき)【清水寺境内】
奇縁とは不思議なめぐり合わせという意味で、氷人とは婚礼の仲人という意味があります。碑の左側「たつぬるかた(訪ねる方)」・右側「をしゆるかた(教える方)」と刻され、使い方は求婚の者が名前を紙に書き左側に貼り、紹介したい人はその紹介したい人の名前を紙に書いて貼り、その後、お互いお見合いするというもので求婚の伝言板のようなものです。
この氷人は中国の歴史書:晋書(シンジョ)の中の月下氷人(ゲッカヒョウジン)という話から来ていて、その昔、狐策(コサク)という男が「月の光る氷の上に立ち、その氷の下の人と話をする」という夢を見ました。その夢を占い師に相談すると「氷の下は陰(イン)、氷の上は陽(ヨウ)、陰と陽が話し合ったのだから氷が溶ける頃に結婚の仲立ちをする」と予言します。翌日、狐策に仲介の話が来て見事、結婚となる訳ですが、このことから月下氷人とは良縁を結ぶ仲人という意味を持つようになります。




B-214:時雨塚の碑(しぐれづか-のひ)【清水寺境内】
時雨塚の碑は全国各地に見ることができ、長崎では春徳寺境内の時雨塚が有名です。春徳寺のものは宝暦14年(1764)に建立され、松尾芭蕉の句「宿かして 名をなのらする しくれかな」が刻されていますが、清水寺境内のものは「時雨塚/志ぐれ塚」と刻されているだけで、いつ誰が建立したのかは不明です。




B-213:磯部橘郎翁頌徳碑(いそべ-きつろうおう-しょうとくひ)
【清水寺境内】
碑文によると、磯辺橘郎(万延元:1860-昭和9:1934)は専修大学を卒業後、官界に進み、その後、実業界に転身します。そして幼い頃から相撲に興味を示していたこともあって東京大角力協会を指導。明治43年(1910)常陸山梅ヶ谷など自ら力士を率いて満韓地方(旧満州〜朝鮮半島)へ巡業を行ったり、協会の紛争を解決させたりと多くの貢献を果たします。そしてこの碑は大正12年(1923)当時の東京大角力協会の取締役ほか力士、行司など100名以上の賛同で建立され、碑文は伊藤弥次郎と高見松太郎、書は呼鳥平田秀生によるものです。磯辺橘郎墓所:正覚寺後山。

○磯辺橘郎の碑
頌徳碑のそばにもう1つ碑があって碑には「間中至楽・為磯辺橘郎翁」「無花酔月・関直彦書」「虚心高節・雪香書」と3面に刻され、1面に「元衆議院議員副議長・関直彦/工学博士・小花冬吉/大正13年」とあります。




B-212:清水寺梵鐘(-ぼんしょう)【清水寺境内】
寛永19年(1642)開山の慶順が清水寺大壇越(だいだんのつ)の博多商人:伊藤小左衛門吉次の寄進を得て、京都三条釜座:伊豆守藤原朝臣真次に命じて鋳造したのが現在の清水寺の梵鐘で、長崎に現存するものでは古い方で京都の鋳物師が造ったものでは他の例がないといわれています。この博多商人:伊藤小左衛門吉次の子供の伊藤小左衛門吉直は寛文7年(1667)朝鮮へ武器を密輸したのが発覚。磔(ハリツケ)の刑に処せられました。
一方、大正12年(1923)長崎市史によると、慶順が梵鐘を建立した後、度重なる修繕を加え明治初年(1868頃)に大破。となりの現應寺が八坂神社に変わったのを期に明治10年(1877)八坂神社より梵鐘を貰い受け使用するとあります。真意は分かりません。市指定文化財。




B-211:清水寺石門(-いしもん)【清水寺境内】
清水寺石門は階段を上り詰めた本堂前にある石門で明和8年(1771)に四方田慈輔によって建立されました。門の表面には「廣大圓滿」の4字、裏面には「」の字を刻し、左右に「花雨化成千載澤」「香風吹遍十万春」の二句を聯書(れんしょ:対句を下げる意)してあります。そして「辛卯季夏上浣三山游樸庵題」とあり最後に「明和八年九月良辰四方田慈輔謹建」と刻されています。




B-210:清水寺石灯籠(-いしどうろう)【清水寺境内】
清水寺本堂前にある3基の石灯籠は2メートル近くある大きなもので、1つは享和2年(1802)、1つは文化8年(1811)、もう1つは元治元年(1864)建立のものです。その中の元治元年のものは竿石(足の部分)が3本の唐船維纜石(とうせん-いらんせき)で支えられていて、この唐船維纜石の維纜とは船をつなぎ止める綱を意味し、纜石(=ともづないし)はその綱をくくるための石を意味します。ゆえに唐船維纜石とは中国船の綱を止めるための石になります。このような纜石を使った石灯篭は金比羅神社と旧大徳寺の3ヶ所に存在しています。




B-209:花見塚(はなみづか)【清水寺境内】
清水寺本堂前にある花見塚松尾芭蕉(正保元:1644-元禄7:1694)と平田祥禾(ひらたしょうか)の句碑で松尾芭蕉没後130年を記念して文政7年(1824)に建てられたものです。平田祥禾は松尾芭蕉の高弟(焦門十哲)の一人の向井去来の流れを汲む俳人で、碑は平田祥禾の弟子の中川其映、志賀省夫、桑村対笠、平田有隣によって建立されました。また、平田祥禾はこの以前に松尾芭蕉没後120年などを記念して蛍茶屋にある渡り鳥の碑(文化10:1813)を建てています。
碑文「しばらくは 花の上なる 月夜かな 翁
初さくら 世に偽りの 道もなし 祥禾




奉頌碑(ほうしょうひ)【清水寺境内】
奉頌碑は弘法大師の功績をたたえた碑で本下町の高野作重によって建立されたものです。
一字一石塔(いちじいっせき-とう)
一字一石塔は一人一人の信者が一つの石に一文字ずつ文字を書き、その塔の下に埋め願いを掛けるというもので、清水寺には宝永7年(1710)の塔、享保17年(1732)の塔などがあります。

宝塔(ほうとう)【清水寺境内】
宝塔は供養塔的意味合いがあるもので、享和元年(1801)、明和3年(1766)などに建立されたものがあります。

廻国塔(かいこくとう)【清水寺境内】
廻国塔は大乗妙典六十六部塔ともいい、これは当時の日本の中の国々(66カ国)を巡り大乗妙典経を一部づつ奉納すると願いが成就するという信仰で日本各地に見ることが出来る石碑です。石碑はお経の経典の形をしたものが多く円形の筒状になっています。




B-208:重建碑(じゅうけんひ)【清水寺境内】
清水寺本堂の裏手にある重建碑は、寛文8年(1668)祟福寺の大壇越:何高材と何兆晋が本堂の改修したことを記念して建てられたものです。碑文は清水寺の観音菩薩の教えなどが書かれていて唐僧:独立によるものです。また、言伝えでは碑面を撫でさらに自分の顔をこすり付けると痘瘡(天然痘)にかかっても重くならず快復が早くなるといわれ、そのことから皮膚病リュウマチなどに苦しんでいる人も快復が早く肌荒れなどが起きないといわれています。




B-207:瑞光石(ずいこうせき)【清水寺境内】
瑞光石は薬師石ともいい清水寺の建立のきっかけになった石です。その昔、清水寺開基の慶順が長崎入りし小島の民家に滞在していた時のことです。ある夜、小島の民家から見て東の方向に何か光輝くもやのようなものを見つけました。翌朝、その場に向うと大きな石から光が発していて慶順は「これこそ観音様のお告げ」と信じ、この場所に清水寺を建立するのです。慶順はその石に瑞光石と名付け、その後も光を放っていたそうですが、第4世住持:瑞桂が瑞光明と刻むと光を放たなくなったそうです。瑞光石は当初、石門のそばにありましたが転々とした後、現在地に納められます。




築町大師堂(つきまち-だいし-どう)【清水寺境内】
築町大師堂は観音堂横にある小さなお堂で、大師つまり弘法大師像は明和6年(1769)から築町でお祀りされていたものでした。明治4年(1871)清水寺に移設され、さらに明治13年(1880)もう1体弘法大師像を置き築町の人々に管理されていました。さらに大正昭和と改修され現在に至っています。最近はあまり奉仕されていないようです。




観音堂(かんのん-どう)【清水寺境内】
観音堂は本堂の裏手に昭和48年(1973)頃に改修された白と朱色のひときわ目立つ建物です。ここには金色の如意輪観音が安置されていて長崎西国巡礼の第一番札所になっています。長崎西国巡礼とは近畿地方の観音巡礼である西国三十三ヶ所霊場に行くことが困難な人のために開かれたもので、長崎西国三十三ヶ所霊場を巡ると近畿地方の巡礼と同じご利益があるといわれています。




B-206:桜姫美人大明神【清水寺境内】
桜姫美人大明神はもともと小桜姫大明神といい八坂神社にもお祀りされている稲荷神社です。ここには次のような言い伝えが残っています。
清水寺開基の慶順は寺の一室にキツネが出て来たため、これは稲荷神のお使いということで寺のそばに稲荷神をお祀りすることしました。その頃、寺のそばに金子源右衛門という男とその妻が住んでいました。源右衛門は大変誠実で仏の源右衛門と呼ばれ、妻は観音さまを深く信仰していました。ある日、1匹のキツネが参道で源右衛門夫婦を腹を抱えて待ってました。キツネはみごもっていて夫婦はすぐに抱きかかえて家に帰り、しばらくしてコタツの中で1匹の子供を産みます。夫婦は甚太郎狐と名付け介抱し、後に寺の下に返してあげたそうです。源右衛門の子孫の代になり寺の下にキツネを設けます。以降、そこは子供の守り神となったといわれています。




B-205:大師堂(だいしどう)【清水寺境内】
大師堂は本堂の北側にあって弘法大師像のほか、親鸞の木像、開基の慶順の木像などを安置していましたが、近年、老朽化のため弘法大師像を残し移設されています。
当初は祖師堂、浄名庵、喜見庵などといって貞享3年(1686)に創建され宝暦11年(1761)に改築されます。その後も改修しながら現在に至っていますが、老朽化が顕著となっています。

大師石堂(だいしせきどう)
大師石堂とは以前まで、大師堂の裏山の洞窟に弘法大師の像が安置されていて信仰の対象になっていましたが昭和57年(1982)長崎水害で裏山が崩壊し、現在はその近くに石祠を置き安置されています。

弘法水の碑
本堂後山は多くの地蔵尊や弘法大師、観音菩薩などの石像があって大変霊験新たかな場所になっています。また、昔から湧き水が豊富で弘法水とも呼ばれていました。




B-204:聖天堂(しょうてんどう)【清水寺境内】
元禄8年(1695)久留米藩主:有馬氏は清水寺を緊急時の出陣地と定め、毎年、清水寺に寄進をすることになります。文政5年(1822)には聖天堂を建立。その後、天保14年(1843)大火により類焼、弘化元年(1844)すぐに再建。明治初年にも一度大破しますが再建されます。明治4年(1871)廃藩置県により有馬氏の寄進が無くなると維持が困難になりました。一方、聖天堂には子宝や夫婦和合、商売繁盛などの徳があるといわれている歓喜天がお祀りされていたため江戸時代から多くの参詣者があり、その中には大浦慶の姿もあったといわれています。明治維新後は廃仏毀釈の影響で清水寺の末庵となり今に至ります。

○安産子産み石
その昔、風頭の石切り場で石切りをしていた石屋の太郎は、妻がお産で苦しんでいたため早く生まれるようにと大石を持ち上げ力いっぱい投げ落としたところ、ちょうど清水寺に届いたときに元気な男の子が生まれたといい、力太郎と命名してお礼の祈願したといいます。石には指の跡が残り石を撫でるとお産が軽くなるそうです。




清水の舞台(きよみずのぶたい)【清水寺境内】
清水の舞台”といえば京都清水寺観音堂の舞台のことで、諺「清水の舞台から飛び降りる(重大な決意を固める意)」の発祥ともなっていて、これはその昔、病気や物事の吉凶さらには恋愛の成就などを祈る際、高いところから飛び降りる風習から来ています。
長崎の清水寺は元和9年(1623)に創建され寛永4年(1627)に本堂の改修が行われます。その時、島原藩主:松倉豊後守重政は本堂の前に石畳を敷設し石欄を設けました。この石欄は京都清水寺観音堂の舞台を模し造られたもので、後に中国の商人らによって改修され現在に至っています。当時は長崎市街地を一望できる絶景でした。




清水寺の山号:長崎山の由来【清水寺】
清水寺の山号(寺院の別称)は長崎山(チョウキザン)といいますが、由来は開基の慶順が外浦町(現在の万才町県庁付近)を通行中、一つの蔵の鍵を見つけたことに始まります。持ち主が分からず鍵をよく調べて見ると柄のところに「長崎山」と彫られていました。慶順はすぐに観音さまがお授けになったものと喜び、清水寺の山号を「長崎山」としたのです。




B-203:長崎山清水寺興成院
(ちょうきざん-きよみずでら-こうじょういん)
鍛冶屋町8-43(旧長崎村高野平郷/八坂町)
山城国(現 京都府南部)八幡出身の僧:慶順は京都清水寺に入っていましたが、後に諸国巡礼を始め元和年間(1615-1623)長崎入りし、小島の民家に滞在し真言宗を説いていました。当時、キリシタンの勢力が強かったが慶順に帰依する者が多く、時の長崎奉行長谷川権六はその努力に対し寺院建立を許可します。慶順は早速、建立場所を探していましたが、ある夜、小島の民家から見て東の方に何か光を見たので、翌朝、その場に向うと大きな石から光が発していました。慶順はすぐにこの地に寺院を建立。京都清水寺から持参してきた観音菩薩像を安置します。観音菩薩像は運慶作とも延鎮僧都ともいわれ、延鎮が京都清水寺のために作った8尺(約240cm)の仏像の試作品といわれています。慶順はこの寺を清水寺興成院とし、光を放った石を瑞光石と名付けます。この時、元和9年(1623)でした。寛永4年(1627)境内改修、寛文8年(1668)祟福寺の大壇越:何高材と何兆晋が本堂の改修、以降も度々改修され平成22年(2010)平成の大修理が行われています。国重要文化財。




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