広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成16年 〜2004年〜
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A-264:焼山(八気山)(やけやま)
片淵3-鳴滝3境界(長崎村片淵郷字城ノ越-中川郷字焼山)
城の古趾から烽火山に延びる稜線には2つの頂きを持ち、城の古趾(標高約100m)の次に焼山(八気山:約190m)そして建山(約260m)、最後が烽火山(約425m)になります。その昔、焼山の山頂には城の古趾同様、山城(砦)があってやはり有事の際、集結していました。ここは長崎の領主長崎氏の山城で、当時、敵対していた深堀氏(深堀領主:現長崎市深堀)に対して築かれたものといわれ、地名が焼山ということで焼き討ちにあったとも考えられています。さらに焼山の片淵側の谷には現在、お城の谷または後の谷という地名が残っていて、焼山山頂付近に城塞や空掘りなどの形跡を見ることができます。ちなみに焼山の後の建山は、山城の盾ということで建山となったと考えられます。




A-263:瑠璃姫と獅子狛明神(るりひめと-ししこまみょうじん)
鳴滝3-10-2(長崎村中川郷字焼山)
その昔、焼山に長崎甚左衛門純景が陣を張っていたとき、敵対する深堀勢に攻め込まれ城が焼かれます。そして甚左衛門の娘の瑠璃姫と乳母とが逃げる途中、姉のえんじょう姫と出会います。しかしそのとき敵が押し寄せて来たため、瑠璃姫たちはその場で自害したといわれています。その自害した場所が明神さまがお祀りしてある場所といわれ、その後、その血痕のあった石に唐僧によって一対の狛犬を刻んだといわれ、それが今残っている獅子狛といわれています。




A-262:法界塔(ほうかいとう)
鳴滝2-17(長崎村中川郷)
由来碑「天正(1573-92)の昔、長崎の地が切支丹領であった頃、罒囲(モウイ)の反切支丹の人達が、この地にあった長崎氏の居城に再三にわたり攻め込み、多くの犠牲者があったという。その人々の慰霊のために、中川郷の村人が法界塔を建立したものである」
碑は平成12年(2000)片淵町の浦川大二郎氏によって建立されています。




○長崎市立片淵中学校
片淵3-22-22(長崎村片淵郷)
昭和22年(1947)新学制により長崎市立片淵中学校が開校。当初は上長崎小学校の川向こうにあたる場所(片渕2-5-1)にありました。昭和57年(1982)の長崎水害の際、グランドを囲む石垣約50メートルが崩壊し敷地の多くを失います。平成15年(2003)敷地の狭小や建物の老朽化のため現在地に移転します。新校舎は「城の古址」にちなみお城を模したデザインになっており地域のランドマークになっています。




A-261:矢島氏山林寄進の碑(自然石)
現在、「城の古址」一帯には弘法大師の石仏を多く見ることができますが、これは明治14年(1881)に弘法大師の四国八十八か所霊場を模した霊場で、八十八の弘法大師像をお参りすることで同じご利益があるものとされます。この新設の際、当時、「城の古址」一帯の所有者であった矢島庸光が山林1反6畝26歩(約300坪)を永久に貸与することで開設されました。以降、土地名義は春徳寺となり山腹にその記録の碑が建立されています。




A-260:城古趾観音堂(しろのこし-かんのんどう)
片淵2-20付近(長崎村片淵郷字城ノ越)
唐僧の隠元禅師は長崎滞在中(承応3〜4:1654-55)この城の古趾に登り、頂上の岩に「大圓通」の文字を刻し、さらにその高弟の即非禅師(崇福寺住持)は「南無観世音菩薩」と刻します(即非来日:明暦3:1657)。その後、承応年間(1655頃)この地に崇福寺末庵の慈眼院の開山でもある月窓が石室をもって観音堂を開らきます。現在では石室と、刻された岩のみとなっています。また、即非座禅石といわれる大きな岩もあります。「大圓通:黄檗隠元書 南無観世音菩薩:即非書 観音一抹月 圓通萬畳山 即非書」




A-259:城古趾不動堂(しろのこし-ふどうどう)
片淵2-20付近(長崎村片淵郷字城ノ越)
ここの不動堂には不動明王がお祀りされ、その昔、末次氏が末次平蔵政直の墓所を設置するため刻み込んだという文字を見ることができます。
寛永七年 雲證院殿華獄浄皎居士 五月二十五日
なお、この戒名の中の「華獄」の文字が春徳寺の山号となっています。




A-258:タンタン竹女(-たけじょ)
その昔、この付近に上手にを吹く竹という若い娘がいて、いつも決まって龍頭巌に登りを吹いていました。実はこの娘には片想いの青年がいたのですが、青年にはほかに想いをよせる娘がいたことを知ります。竹は落胆しての音も寂しくなっていくのです。ある日のこと、竹がいつものように龍頭巌の上でを吹いていると、山手の方から美しいの音が聞こえてきます。竹はその音にひかれ山奥に入ってしまいます。その日がら竹は家に帰って来なくなり家族は心配してあちらこちら捜していると、数日後、竹は気が抜けたように龍頭巌の上に座っていたそうです。あわてて家に連れて帰ると竹は原因不明の病にかかり寝込んでしまいます。さらに不思議なことに指の間から蛇のうろこが落ちてきます。家族は修験者を呼び祈祷をすると、娘はたちまち気を取り戻したそうです。しばらくして修験者が龍頭巌に登ると一人の好青年の武士に出会います。あやしいと思い修験者が一喝すると武士は蛇と変わり、どこかへ消えて行ったそうです。それからこの龍頭巌を竹で叩くと底の方で「タンタン-タケジョ」と音がするようになったということですが、これはその時の武士(蛇)の魂といわれています。




A-257:龍頭巌(りゅうとう-がん)
片淵2-20付近(長崎村片淵郷字城ノ越)
龍頭巌は城の古趾(唐渡山)頂上にあって、岩の形が龍の二つの角のように見えるところからこの名がついたといわれています。言い伝えによると長崎氏がこの岩を防備として城(砦)を築き、敵が攻めてくると雲霧がたちまち四辺を包んだ上、高々と城がそびえて見えるので敵はどうにも手だてがなくなったといわれています。これは巌の霊気がなす技で、寛永年間(1624-1643)第2代末次平蔵茂房が父政直の墓を作ろうと斧を入れたところ、鮮血が噴き出したため中止したとあり、それと共に従来の霊気は消えてしまい、さらに時折その傷跡が鳴動するようになったとのこと。当時、末次氏が数代で滅んだのは、この巌が長崎への風水の源であったにもかかわらず、権力を振るって削り取ったためといわれていました。




A-256:城の古趾/唐渡山(しろのこし/とうど-さん)
片淵2-20付近(長崎村片淵郷字城ノ越)
城の古趾は文字通り古い城址(跡)を意味しますが、城といっても一種の(とりで)のことで、有事の際、この地に集結していたのでした。また、別名を唐渡山といい語源は、かつて春徳寺のところにあったトードス・オス・サントス教会が訛ったという説や、この地から唐(中国)へ渡る船を見ていたなど定かではありません。そしてこの「城の古趾」の領主が長崎氏、長崎小太郎重綱ほか歴代の領主となり(貞応2:1222〜)、第14代目が長崎開港の頃(元亀2年:1571)の長崎甚左衛門純景ということになります。ちなみに領主は平時、現在の桜馬場中学校のところに屋敷を構え住んでいました。




A-255:長崎氏一族之供養塔【春徳寺墓域】
鎌倉時代の貞応年間(1222頃)神奈川県鎌倉の長崎?というところから長崎小太郎重綱という御家人が長崎に入ります。建山に城(砦)を置き有事の際に集結、当時、鶴の城と呼ばれていました。また、平時は現在の桜馬場中学校のところ(字館)に屋敷に構え長崎村を治めます。この長崎小太郎重綱が初代長崎村の領主で、第14代目が長崎開港時(元亀2:1571)の領主:長崎甚左衛門(純景)となるのです。
この供養塔は長崎一族追悼のため昭和63年(1988)春徳寺第23代住持の上野真田によって建立されています。




A-254:吉雄圭斎の墓所(よしお-けいさい-)【春徳寺墓域】
吉雄圭斎(文政6:1859-明治27:1894)は、江戸中期に活躍したオランダ通詞吉雄耕牛の二代目幸載の次男にあたり、軍医ポンペや小島療養所教官ボートウィンなどに教えを受け新しい医学を学びます。特に一般人に種痘がなかなか理解されなかった当時、身内を実験台として人々の誤解を説き普及に努めます。明治維新後は陸軍軍医として活躍しました。吉雄圭斎邸は現在の興善町




A-253:東海家墓所(とうかいけぼしょ)【春徳寺墓域】
東海は中国蕭山(しょうざん)県出身で来日唐人の徐敬雲の子にあたり、日本名を東海徳左衛門といいます。東海徳左衛門は寛文元年(1661)唐小通事に任命され、延宝年間(1673〜80)、先祖を弔うため春徳寺後山に墓所の建設を始めます。これが東海さんの墓です。しかし造った墓が東海徳左衛門の意にそぐわないと何度も造り替えさせられ、完成には数年の年月を要したといわれています。このことから“物事のはかどらないさま”を長崎の古い諺では「東海さんの墓普請(はか-ぶしん)のごたる」というようになります。その後、東海徳左衛門は元禄12年(1699)大通事に任命されます。市有形文化財




A-252:吉村迂斎の墓所(よしむら-うさい-ぼしょ)【春徳寺墓域】
吉村迂斎(寛延2:1749-文化2:1805)は、名を正隆、通称を久右衛門といい、新町(現 興善町)の長州藩御用達の家(長州藩屋敷唐交易責任者)の家に生まれました。早い頃より填詞、古詩、新詩を学び、門弟には石崎融思、友人には松浦東渓田能村竹田などがいました。代表作に「瓊江舟行」があります。




○唐苑・呉先祖累代の墓【春徳寺墓域】
下級唐通事の墓所です。

○鉄翁父母の墓(佐藤家の墓の中右真中)
寛政10年正月22日卒。心覚普念居士。
文政12年7月17日卒。真庵知常禅尼。 当山14世鉄翁敬立




A-251:頴川入徳醫翁碑(えがわ-にっとく-いおうひ)【春徳寺墓域】
陳明徳(万暦35/慶長12:1607-延宝2:1674)は明国の浙江省出身の医者で、寛永4年(1627)に来日し、明が清に代わったのを機に日本名「頴川入徳」として帰化します。その後、頴川入徳小浜温泉の効能を認め、療養の地として広めます。碑文は儒者の安東省庵によるものです。墓所は小浜。




池田正誠先生寓居之地【春徳寺境内】
碑文「池田先生は熊本県の人である先生は長崎県控訴院判事として来崎明治三十五年長崎游泳協会設立当初より同四十四年長崎を去られるまで協会師範としてその任に当たり子弟より慈父の如く慕われ学深く徳高く詩文に長じらる」
平成元年(1989)長崎游泳協会によって建立されています。




A-249:末次家墓所【春徳寺境内】
第2代末次平左衛門茂貞は父である末次平蔵政直の墓所を龍頭巌(城の古趾)に設置するため岩を開削します。そして「雲證院殿」と刻んだところ鮮血が岩より噴き出し墓所設置を中止したという伝説があります。末次家は第6代末次平蔵茂朝のとき(延宝4:1676)密貿易が発覚、一族は死罪や流罪となり末次家は滅亡します。春徳寺境内には第2代末次平蔵茂貞とその妻、第3代末次平蔵茂房の前妻の墓所があります。
(大)永安院殿通玄宗徹居士 正保4年9月12日 2代茂貞
(中)瑞光院殿寿岩浄永大姉 寛文9年10月19日  妻
(小)香林院殿月桂永昌大姉 寛永3年5月2日  3代茂房の前妻




大素軒跡(だいそけんあと)【春徳寺境内】
碑文「姓は日高 名を祖門 鉄翁と号す。寛政3年(1791)30才当山十四世住職となる。禅宗南画をし及当大素軒に居住し明治4年遷化された。

○伊良林上長崎救護所跡【春徳寺境内】
昭和6年(1931)から昭和21年(1946)まで救護所が置かれていました




A-248:キリシタン井戸/外道井【春徳寺境内】
春徳寺庭園内にはキリシタン井戸または外道井と呼ばれる井戸があって、トードス・オス・サントス教会時代に使用されていた井戸で、昔は外道井と呼ばれていました。また、井戸の横には大理石の板石があり、昭和13年(1938)頃に本堂の床下より掘り出されたもので、加工されているところから教会時代に使用された祭壇などの石と考えられていて、井戸と並びポルトガル時代の遺構:トードス・オス・サントス教会のものと考えられています。




A-247:高原道琢碑(たかはらどうたくひ)【春徳寺境内】
高原道琢(?-宝暦12年1762)はカスパル流の紅毛医術を学び長崎で外科の医療に携わった人物で、長崎聖堂の学頭で唐通事の盧草拙(ロ-ソウセツ)も師事します。人となりは倹約を旨とし人に対しても謙遜な人物でした。この碑は門下生によって宝暦12年(1762)に建立されました。




A-246:長崎奉行土屋駿河守守直墓所【春徳寺境内】
(-つちや-するがのかみ-もりなお)
土屋駿河守守直(享保19年:1734-天明4年:1784)は第66代長崎奉行で石高は1000石、天明3年(1783)9月1日着任で翌4年5月18日に長崎で死去。享年51。知行地は下野(シモツケ)国(現在の栃木県)の都賀や那須地域でした。時代背景として着任時期の天明3年(1783)天候不順で飢饉が始まる年でのちに天明の大飢饉となります。

日置甚太夫墓所(ひおきじんだゆう-)
日置甚太夫は長崎奉行土屋駿河守の家臣(家老)で土屋駿河守が逝去後の8月6日に長崎をたち小倉で病死。同僚によって土屋駿河守の隣に葬られました。禅龍院機岳宗頓居士。天明4年8月13日没。




A-245:長崎奉行山崎権八郎正信墓所【春徳寺境内】
(-やまさき-ごんぱちろう-まさのぶ)
山崎権八郎正信(文禄2年:1593-慶安3年:1650)は第15代長崎奉行で石高は1000石、寛永19年(1642)12月26日着任で慶安3年(1650)10月17日に長崎で死去。享年58。知行地は甲斐国(現在の山梨県)。在任中の天保4年(1647)通商を目的としたポルトガル船が来航。奉行は烽火山より狼煙を上げ近隣諸大名に出兵を要請し、兵5万、兵船1500隻が集結し女神男神間を封鎖し警備にあたります。1カ月半の後、江戸より大目付も駆けつけ通商の不許可と来航を通告しポルトガル船は帰帆します。




A-244:去来之塔【春徳寺境内】
向井去来(慶安4:1651-宝永元:1704)は後興善町(ウシロコウゼンマチ)生まれで、8才のとき父と共に京都に移住、父の後を継ぎ医業を開業していた長男:元成を支えます。35才頃、俳諧の道に進み松尾芭蕉の門下となり、やがて蕉門十哲(ショウモンジッテツ:松尾芭蕉の10人の優れた門下)の一人となります。元禄2年(1689)に一旦帰郷。これは長崎に蕉風俳諧を伝えることになります。
去来之塔は向井去来(落柿舎)の100年忌にあたる享和3年(1803)に建立されたもので、門弟10人により建立されています。この塔の下には追悼のため1000句集を焚き上げ灰を埋めてあります。
※以上、芭蕉、去来翁塔など5基は安政年間(1854〜60)までは桜馬場の雲龍寺にありましたが、廃寺後一旦、蛍茶屋一ノ瀬橋付近に移り、明治14年(1881)の旧国道改修のため春徳寺に移りました。




A-243:百華井宇鹿先生碑【春徳寺境内】
西田宇鹿(寛文9:1669-享保17:1732)は名を安澄、字を太郎助、自称を百華井、本姓を郡氏で豊州竹田城主中川氏より食客として招かれます。若い頃から俳諧を学び、京に出向き向井去来を師とします。その後も蕉門の流れを引き継ぎます。この碑は西田宇鹿の13回忌を記念して子である西田紗鹿によって延享元年(1744)に建立されたものです。




A-242:時雨塚(しぐれづか)【春徳寺境内】
時雨塚の碑は全国各地に見ることができ、春徳寺のものは宝暦14年(1764)に建立されています。碑には松尾芭蕉と門弟の西田宇鹿(寛文9:1669-享保17:1732)の俳句が刻されていて、西田宇鹿の7回忌を記念して子の百華井紗戒(紗鹿)によって建立されています。
正面「宿かして 名をなのらする しくれかな:翁(松尾芭蕉)」
左面「山裏は 迷ひ子かへせ 郭公:宇鹿」
右面「名月や にしやひかしに 行く烏:紗鹿」
※この碑は雲龍寺(現桜馬場観音堂)脇にありましたが嘉永安政年間(1848-60)ごろ春徳寺境内に移っています。




A-241:芭蕉翁之塔(二基)【春徳寺境内】
春徳寺には芭蕉翁之塔が二つあって、一つは元禄12年(1699)に翁の功績を称え東武(江戸の異名)と崎陽(長崎の異名)の門人らが建立したもの。もう一つは松尾芭蕉の50回忌に当たる寛保3年(1743)に長崎の俳人らによって建立されたものがあります。また、元禄12年(1699)建立の塔の礎石には松尾芭蕉(正保元:1644-元禄7:1694)の門人の俳句が刻されていて、撰文は松尾芭蕉の高弟(蕉門十哲)の一人の志太野坡(シダヤバ)によってなされています。しかし長年の風雨によって文字が読めなくなったため芭蕉の没後200年にあたる明治26年(1893)再度掘り直しが行われました。




A-240:宝篋印塔(ほうきょういんとう)【春徳寺境内】
宝筐印塔は文化10年(1813)篠崎兵三正信が造塔施主となり、肥後(熊本県)の僧:豪潮が建てた供養塔です。豪潮は文化4年(1807)に伊勢町(現在は禅林寺境内)、文化8年(1811)に本河内と相次いで宝篋印塔を建立していますが、時代背景として文化元年(1804)大雨洪水、文化5年(1808)フェートン号事件、文化7年(1810)文化の大洪水、文化9年(1812)大雨と大火と不安定な時期で、この供養塔はまさにそれらの犠牲者の追悼と安全祈願によるものと考えられます。




A-239:春徳寺梵鐘【春徳寺境内】
梵鐘は、大檀越:末次家2代-末次平蔵茂貞の家臣である枝村八郎兵衛重勝の寄進によるもので、慶安3年(1650)長崎生まれの鋳物師:御花入屋閑入(おはないりや-かんにゅう)によって鋳造されます。この御花入屋閑入は徳川家の御用鋳物師といわれています。銘文は開山泰室清安の師で京都建仁寺住職から南禅寺住職となった三江紹益です。梵鐘は堂内に保存。市有形文化財。




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