広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成15年 〜2003年〜
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長崎の語源ともいわれる森崎は、現在の市役所から県庁にかけての長い岬を指しますが、意外と井戸が多いことをご存知でしょうか。どれくらいあるのか数えたことはありませんが、今でも使われている井戸がたくさんあります。岬の先端近くには中央橋寄りの県庁坂に1ヶ所、グランドホテルの下、築町の石垣の下、長崎県警の石垣の下、数えるだけでもかなりの数です。現在、市役所から県庁にかけては長崎の官庁街になっていてたくさんのビルが建ち並んでいます。ビルの基礎工事で地面が掘削されているにもかかわらず水脈が残っていることはとても不思議に感じます。ほとんどの井戸が江戸時代から使われているもので、特に長崎県警の石垣下の井戸などはオランダ船などに飲料水として使っていた井戸なのです。




SLがある中央公園前に坂の上天満宮がありますが、その並びにたていわと鍋幸があります。そしてここの間に1本の路地があって、この路地は築町の方に続いています。この路地を以前まで袖町(そで-まち)と呼んでいました。当時は市役所別館裏手の方から流れる川(えご端)が、この路地(袖町)の横を流れていて、ちょうどこの付近で川が路地に寄り沿う形となり、町が台形の形をしていたため、を連想させたのでしょう。ここから袖町と呼ぶようになるのです。今では川が暗渠となりも、ただの端ぎれになりました。




4/16に戻って。当初、樺島町は長崎県警裏の石垣下の通りに開かれた町ですが、開港当時、樺島町は敷地が狭い海岸沿いの町でした。現在、石垣の下は植樹帯になっていますが、この植樹帯の幅が当時の町域と考えていいのではないでしょうか。その当時、俗称で樺島町三尺(さんじゃく)町と呼んでいたそうです。1尺は約30.3センチメートルですので3尺で約90.9センチメートルということになります。しかし本当にこんなに狭かった訳ではなく、狭いということを極端に表わしていたのでしょう。




本日、無事に天神さまウォーク/平成二十五社巡りを終えることができました。各寺院、早朝より出迎えやお接待など、多くの皆様のご協力、大変感謝しております。また、選挙投票日に関わらず多くの皆さんの参加、うれしく思います。今後ともどうぞよろしくお願い致します。




今月は中心部の町を紹介しましたが、次にいわゆる俗称の町名を紹介します。天満宮の紋というと梅鉢です。梅鉢は梅の花をデフォルメしたもので5つの花びらをイメージしたものになっています。そこで5つの道が交差しているところ、現在のKTN前交差点を梅鉢横町(うめばち-よこちょう)といっていました。坂本屋の角が3つの道、KTN下が2つの道の交差点となっています。この梅鉢横町のことを知っている人はほとんどいないと思いますが、五差路の交差点を見て梅鉢を連想する昔の人の想像力の豊かさに脱帽です。




毎月25日は天神さまの縁日です。以前より紹介しております天神さまウォーク/平成二十五社巡りの“みどころ”を紹介します。まず1番目の松の森天満宮には市指定文化財の職人尽くしがあります。本殿を囲むように飾られている彫り物は必見です。次に5番目の樺島町天満宮は今回の天満宮の中で唯一個人の庭園の中にある天満宮で普段は見つけることさえ難しい天満宮です。8番目の桶屋町天満宮はお社がどこかの屋敷の門を思わせるたたずまいが面白いところ。11番目の桜馬場天満宮には長崎でも珍しい天井絵があるお社です。12番目の水神神社は河童の伝説が笑わせてくれます。14番目の笠頭神社は今回の一番の難所で風頭山を登ります。15番目の古川町天満宮は中通りの近くで町家の雰囲気が懐かしい感じです。21番目の梅園天満宮では境内の梅の実がもう鈴なりです。22番目の本行寺天神さまウォークの中で唯一のお寺です。貴重な掛け軸が必見です。今回の天神さまウォークは長崎に住んでいてもなかなか立ち入らない場所ばかり、多くの皆さんの参加お待ちしております。




長崎の旧町を紹介していますがほとんど網羅したようです。しかし大切な町が抜けていました。出島町です。古い書物は「出島」ではなく「出嶋」と書き「でじま」ではなく「でしま」と発音していたようです。もちろん出島は本当の島が存在していた訳ではなく人工の島で森崎(長崎)の先端、現在の県庁のところを削ったり中島川の土砂などを利用して造られました。当初ポルトガル人を隔離する目的で寛永13年(1636)作られたのですが、3年後の寛永16年(1639)にポルトガル人へ国外退去令が出された後は出島は一時、空地となります。その後、寛永18年(1641)平戸にあったオランダ商館を出島に移し、以降218年間、日本で唯一海外に開かれた窓となるのです。しかし、開国後、周辺部の埋立てで出島はその扇型の姿をなくし土地もほとんど私有地化してしまいます。現在、復元計画が進行、旧出島町は100%公有地となりました。今後周辺を塀で囲み誰もが自由に入ることが出来なくなるそうです(有料化)。旧出島町は寛永16年以来の無人島になる訳です。




開港当時の森崎(長崎)の先端、現在の県庁の裏門辺りは断崖で波が押し寄せていたといわれています。しかし県庁のところにはサン・パウロ教会があって断崖にせり出すように教会が作られていたともいわれています。その後この海岸沿いも埋立てられます。そして開かれた町が江戸町です。もちろん慶長8年(1603)の江戸開府後の町には間違いありません。長崎になぜ江戸の名前があるのかといえば、開府後の江戸は目まぐるしい発展を遂げました。この繁栄にあやかり江戸町と命名されるのです。




昨日のつづき。現在の長崎のメインストリートといえば県庁前から市役所へ延びる国道34号線ですが、開港当時はどうだったのでしょう?当時の地図を見ると、やはり現在と同じように岬の先から尾根伝いの通り(国道34号線)が存在していましたが、メインストリートではありませんでした。現在のように一本のまっすぐの通りがあると敵が攻めてきた場合、一機に攻め込まれる可能性があります。開港当時の戦国時代、尾根伝いの通りは敵の進入防ぐため堀で閉鎖していたのです。それではどの道を使っていたのかといえば、六町(島原町)から新町、豊後町、桜町を結ぶ通りで、もちろん堀のところは木橋が設けられ有事の時は撤去していたのです。この通りは現在のグランドホテルから法務局前-食糧庁前-消防局裏-商工会館前-市役所と今でいう裏通りでした。ちなみに諏訪神社の神事(くんち)の際、神輿の渡御(お下り-お上り)はこの通りを通るのが通例でした。




19日に戻って。実は長崎のは全部で3ヶ所ありました。一つ目の一の堀は六町と本博多町の間(4/19参照)、二つ目のニの堀は豊後町(4/12参照)のところ、三つ目の三の堀は桜町と勝山町の間、現在、電車が走っているところになります。三の堀は長崎を囲むように広がり、桜町の市議会のところから金屋町-樺島町-県庁にかけて石垣で囲み、反対側は市役所別館裏から興善町の食糧庁裏-グランドホテル-県庁にかけて続き、各通りの入口には門番を置き長崎を警備していました。この囲まれた地域を後に内町と称します。




4/13に戻って。崖の下の地域にも町が開かれ、本下町-今下町の続きで新たに町が作られます。これは堀町(4/19参照)同様、堀が必要としない時代に出来た町で、地面を引いて(堀を崩して)開いた町なので引地(ひきじ)町となります。ここは現在の食糧事務所の下から市役所別館水道局の裏に続く通りで、江戸時代には福砂屋うなぎの泉屋などが開業した町です。さらに昭和の初め頃までは「琴三味線(こと-しゃみせん)の引地町」といわれ、お稽古ごとの町として静かな町並みだったそうです。現在、この引地町はなくなり興善町ほか各町に吸収されてしまいました。




昨日のつづき。攻撃を防ぐものに堀があります。長崎でも堀は造られました。この堀ですが、大堀小堀に分かれていて大堀が六町のすぐ外側、六町と本博多町(4/7参照)の間に造られ(現在の万才町住友生命ビルと明治生命館の間に位置します)、小堀が本博多町と興善町の間に造られます。しかし、江戸時代になり戦乱の世から平和な時代になると必要性がなくなり埋立てられます。大堀は本博多町に組み込まれ、小堀は家が立ち堀町になるのです。現在の食糧庁-興善町交差点-社会保険事務所までの通りです。現在は興善町や万才町に組み込まれました。




開港後、長崎(ここでいう長崎は県庁から市役所の地域)は目まぐるしく発展、大村純忠に対して隣接の大名や豪族が反感を持つようになり、特に伊佐早氏(諫早)や西郷氏、それに深堀氏などはたびたび長崎に攻撃して来るようになります。そして開港から9年後の天正8年(1580)、長崎(茂木含む)は大村純忠によってイエズス会に寄進されます。これは大村純忠の軍事的戦略の一つでポルトガルを味方につけることにより大村藩の安定と貿易を有利に進める動きだったのです。これより天正15年(1587)の伴天連(ばてれん)追放令までの7年間、長崎は日本におけるキリスト教の中心地つまりキリスト教の持ちものになりました。




4/5,6に戻って。1平戸町2横瀬浦町3大村町4外浦町5嶋原町6分知(文知)町の六町の内、江戸時代初期に横瀬浦町は平戸町に、分知町は外浦町に組み込まれ、平戸町(長崎県警裏通り)と大村町(34号家裁前)、外浦町(県庁-県警前、グランドホテル付近)に島原町(検察庁前)の四町に再編されます。
ここで江戸から明治に変わり明治天皇が長崎に来られた時の話です。当時、グランドホテルから築町に下る坂はなく石垣で、明治天皇はその石垣の上の屋敷にお泊りになられました。そしてある朝、その屋敷から築町の方をごらんになったそうです。すると石垣の下では多くの市民が集まり「万歳!万歳!」の声が上っていたそうです。この明治天皇の長崎訪問を記念し(万歳を記念し?)島原町を明治5年(1872)萬歳(まんざい)町に改称します。
四町はその後、昭和38年の町界町名変更を向え突如として400年の歴史に終止符が打たれます。4つの町はすべて万才(まんざい)町になり長崎が創設された六町の名前は歴史書に書かれるだけになったのです。




昨日のつづき。本五島町の南側(県庁の方)、現在の長崎県警裏の石垣の下が海岸だった時代の話です。ここは六町の(平戸町4/5参照)下に位置し、当初この付近を船着場にしたかったのですが、この付近が岩場で船が着きにくく、そのため船津町が港になったのですが、すぐに埋立てられ町が作られます。ここには現在の野母崎町樺島のキリシタンが移住して来たといわれ、そこから樺島(椛島)町(かばしま-まち)となりました。また古い地名に県警裏の石垣の下を岸の下といっていました。これは石垣の下が海岸だったことを裏付けるものです。現在この付近の電柱には「岸の下」と記してあります。探してみて下さい。




昨日のつづき。船津町に続いて次々と海岸沿いに町が開かれます。現在のKTN〜坂本屋の下の通りが海岸だった時代の話です。天正4年(1576)五島で内乱がありました。その時キリシタンであるルイス五島玄雅(はるまさ)が女性や子供を連れ長崎に逃げてきます。その後、内乱は治まり多くは五島に返るのですが一部が海岸沿いに住み付きます。そしてその住み付いた所が五島町となります。しかし町域が狭いため埋立てられさらに外側に町が開かれます。これにより最初に開かれたKTN〜坂本屋の下の通りを本五島町、次に開かれたビジネスホテルいけだ〜トーカンマンションのある通りを海(浦)に面している所から浦五島(うら-ごとう)町と呼ぶようになるのです。ここで本五島町の読み方ですが当初「ほん-ごとうまち」といい、後に「もと-ごとうまち」に変わります。そして昭和13年に本五島町浦五島町は合併、五島町に変わります。




4/8の今町の欄より。今町の通りはKTN玄関前から五島町側と桜町側に二股に分かれていますが、この二股の場所が船着場の跡で、昭和の始めまではカーブではなく階段でした。長崎開港後から江戸時代はこの付近まで海で、多くの船が入っていたのです。その後、海岸沿いに(現 瓊の浦公園〜NBC前)町が開かれ船津(ふなつ)町が誕生します。船津町の津とは船着場の意味があり大波止が出来るまでは、ここが貿易品が入る重要な場所だったのです。そんな歴史の船津町は今、恵美須町や金屋町に吸収されました。




昨日のつづき。六町(県庁付近)から北の方角へ広がり始めて町ですが、あわせて森崎(長崎:六町付近)の下、つまり崖の下の海岸地帯にも町が広がります。メルカつきまちの裏通りで長崎グランドホテル下から中央公園にかけて町が開かれます。六町から見て崖の下にあるところから下町と呼ばれました。その後の市街地拡大でNBC前にも下町が開かれたので、内町の方が内下町(うちした-まち)、外町の方が外下町(H15.3/17.3/22参照)に変わります。その後、内下町は町域は長いため江戸時代の寛文の改革により分割されます。現在の宮城外科付近からメルカつきまちの先(三叉路)までを本下町(もとした-まち)、そこから中央公園の横のバス通りまでを今下町(いました-まち)に改称、しかし昭和38年に築町と賑町に吸収されてなくなりました。今ではちゃんぽん屋さんと餅屋さんに下町の文字を見ることが出来ます。




昨日のつづき。現在、残っていない町名の一つに豊後(ぶんご)町があります。これはNBC前交差点から国道34号線を横切り長崎女子商業までの通りのことをいい、博多町が博多商人の町であるようにこの豊後町豊後地方(大分県)の人々が移住して来たところからそう名付けられました。しかし博多商人とは違い豊後の人々は豊後でのキリスト教が徐々に厳しくなった時代で、安住の地を求めてやって来たと考えられます。このほかこの通りのほとんどが坂道で、長崎相撲甚句の一節に♪上りー下りーの豊後町。と唄われるほどで、この豊後町の坂はその名の通り豊後坂といいます。




昨日のつづき。新興善町(九電ながさき荘-NTT金屋ビル)と今町(KTNの通り)の間に二つの通りがありますが、ここを金屋町といいました。金屋町の由来は諸説ありますが、船着場に向う賑やかな今町(4/8参照)がお隣りということもあり、この金屋町も商人の町で日常使う雑貨(金物)を取り扱う商店が多かったものと考えらます。特に金屋というくらいですから鍛冶屋があったとも考えられます。また、さかなや町の“さ”の字が取れて金屋町という考え方もあります。これはすぐ横の船着場から揚がった魚を扱う店があって、当時魚屋町といっていたのかもしれません。今町より後発の町ですが今では金屋町が町名として残っています。




昨日のつづき。六町の後、博多商人が集まって博多町が開かれましたが、さらなる流入でその外側にも町が開かれます。位置は現在の消防局前の通り(現在の国道34号西側車線)で、3代代官末次平蔵の父の末次興善が開いたところから興善町と命名されます。その後、末次平蔵の時代に興善町の西側にさらに町が開かれ、興善町の後(あと)に開かれたところから後興善(うしろ-こうぜん)町と命名されます。合わせて最初の興善町本興善(もと-こうぜん)町に変わります。それから約80年後の寛文の改革で後興善町は東側(旧新興善小裏-西海建設側)を後興善町、西側(九電ながさき荘-NTT金屋ビル)を新興善町に二分されます。さらに明治期の合併と昭和38年の整理で現在の興善町に落ち着くのです。※ちなみに興善小学校と新町小学校が合併して新興善小学校です。




昨日のつづき。六町から船着場に向う今町の通りのほかに六町から郊外への陸路の道沿いにも町が開かれます。博多町の外側、今の食糧事務所前から消防局裏-商工会館の通りです。新たに開かれたという意味で新町と命名されます。後に、この新町には長崎代官の村山等安の屋敷や、江戸時代では長州藩屋敷(現 自治会館)に小倉藩屋敷(現 食糧事務所)などが建ち並ぶ町になります。※ちなみに、長州藩屋敷と小倉藩屋敷の間の坂を関門海峡になぞって巌流坂と呼びます。




昨日のつづき。貿易が盛んになるに連れ多くの商人が続々と長崎入りし、博多町の外側にも新たに町が開かれます。一番新しいという意味の“今”をつけ今町(いま-まち)と命名されます。これは現在の万才町のNTT裏から坂本屋-小林医院-KTNの通りになります。当時、KTN前の坂を下ったところが岸壁で船着場となっていたと考えられ、この今町こそが六町と船着場とを結ぶメインストリートということになります。今町には船から運ばれた食料品や日用品が並び、後に遊廓などの遊び場などが発生するようになるのですが、今町は、いわば長崎で最初の繁華街ということになります。現在、今町は万才町と金屋町に編入され町名は存在しませんが、電柱などには「今町」の文字を見ることができます。




昨日のつづき。六町が造られた頃、合わせて今の県庁のところにサン・パウロ教会やイエズス会本部(いわゆるキリスト教の一派)に教育施設のコレジオ(英college)、セミナリオ(英seminar)が造られます。そして開港(元亀2:1571)から毎年、ゴア(インド西部)やマカオ(中国南部)からの南蛮船(ポルトガル船)の定期船が来るようになると長崎は貿易港として確立、そしてその貿易のために多くの商人が博多からやって来ます。博多商人は六町の外側に住み付き、博多町が誕生するのです。現在のNTT-住友生命ビル-法務局付近です。博多町は後に今博多町が開かれたため本博多町となりますが、昭和38年万才町に編入されます。




昨日のつづき。最後に通りの東側北寄り(現 検察庁前)には島原の人々が移住し嶋原(島原)町が造られます。1平戸町2横瀬浦町3大村町4外浦町5嶋原町と来て、残る一つは6分知(文知)町(ぶんち-まち)です。場所はグランドホテル付近で、分知町は今でいうところの役所的存在といわれ統括していたものと考えられています。現在、これら六町は一つも残っていませんが、万才町の農林中央金庫前には「旧外浦町由来の碑」、県警裏通りの電柱には「大村」の文字を見ることができます。近くに行かれた際は探してみて下さい。




昨日のつづき。長崎の6つの町には大村純忠の領地から続々と領民が移住して来ます。3つの通りの西側北寄り(現在の樺島町の崖の上の通り)に平戸の人々が移住し平戸町が造られ、西側南寄り(長崎県警の裏通り)に西彼西海町横瀬浦(よこせうら)の人々が移住し横瀬浦町が造られます。次に真ん中の通り(現在の国道34号線西側車線)の北側には大村の人々が移住し大村町が造られ、南側には外海大瀬戸地方の住人が移住し外浦(ほかうら)町となります。
ここで外浦町のことですが、西彼杵半島の東側は湾の内側ということで内海(うちうみ)、反対に西側は外海(そとうみ)に面し外海の浦(港のこと)の地域で外浦(ほかうら)になります。




昨日のつづき。大村純忠は開かれた岬(森崎)に人々を移住させ“長崎”を形づけていきます。町は3本の通りからなり1本目は現在のグランドホテルから法務局に延びる通り、2本目は国道34号線の海側の車線、そして3本目が長崎県警の裏通りとなります。3本の通りは現在の県庁のところから法務局-住友生命ビル-NTTの手前までの同じ長さの平行な通りでした。そしてその通りを2等分にして計6つの町が造られます。




昨日のつづき。当時の深江浦に延びる岬(森崎)には麦畑が続き、ちょうど今の県庁辺りに松林があって小さな祠(ほこら)に恵美須神がお祭してあったともいわれています。そして今から約430年前の元亀2年(1571)3月15日に町が開かれた後、その年の夏ごろに南蛮船(ポルトガル船)が入港します。入港の場所は今の県庁坂の下、文明堂本店辺りでしょうか。これが長崎港に入った最初の船ということになります。




16世紀中期の戦国時代(織田信長の時代)、軍事的また経済的に優位になるよう大村純忠(おおむら-すみただ)は積極的にキリスト教を信仰し、彼らが乗ってくる南蛮船(ポルトガル船)を誘致しようとしていました。そして、フランシスコ・ザビエルの後任にあたるトーレス神父は安全で利便性のいい深江浦(ふかえ-うら)を見つけ大村純忠に打診します。大村純忠は早速、深江浦に延びる岬の先端(森崎)に町を開きます。この岬が後に“長崎”といわれる市役所から県庁までの丘陵のことです。




ずっと、長崎のいわゆる旧市街地の町の紹介をしてきましたが、いよいよ残りわずかとなりました。しかし、ここからが一番重要地点の長崎の内町、現在の県庁から万才町-興善町界隈です。道路が広くなって当時の面影がないため紹介の方法も複雑になると思いますが、判りやすく説明したいと思います。どうぞお付き合い下さい。




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