広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成15年 〜2003年〜
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A-35:県庁ん坂(けんちょん-さか)
大波止交差点-県庁前-中央橋交差点間
県庁前の坂を県庁ん坂といいます。しかし現在のようなバス通りになったのは昭和19-20年(1944-5)建物強制疎開が実施されたときで、それまでは長久橋-県庁前-大波止間を県庁ん坂といっていました。それに、大波止寄りは昭和の初めまでは階段でした。旧県庁ん坂にあたる県庁前-長久橋側の道は当時のままの道幅です。

〇重罪場ん坂(じゅうざばん-さか)
江戸時代、長崎県庁のところは長崎奉行所が建ち、この坂をたびたび罪人が通っていたといい、市中引き回しの重罪者が通っていたところから、その昔、呼ばれていました。




A-34:下町(した-まち)
長崎開港後、森崎の先端(県庁付近)から北の方角へ町が拡がり、あわせて森崎の下、つまり崖の下の海岸地帯にも町が拡がります。「メルカつきまち」の裏通りで長崎グランドホテル下から中央公園にかけて町が開かれます。丘の上から見て崖の下にあるところから下町と呼ばれます。その後、市街地拡大で北側にも下町が開かれたので、内町の方が内下町(うちした-まち)、外町の方が外下町(ほかしたまち)と呼ばれます。また、内下町は町域は長いため江戸時代の寛文の改革により分割され、本下町今下町に分かれます。しかし昭和38年(1958)の町界町名変更で築町と賑町に吸収され姿を消します。




A-33:江戸町(えど-まち)
開港当時、森崎の先端つまり現在の県庁の裏門辺りは断崖で波が押し寄せていたといわれています。そして県庁のところにはサン・パウロ教会があって断崖にせり出すように教会が作られていました。その後、この海岸沿いも埋立てられ町が開かれ江戸町と命名されます。もちろん慶長8年(1603)の江戸開府後の町には間違いありません。長崎になぜ江戸の名前があるのかといえば、開府後の江戸は目まぐるしい発展を遂げました。この繁栄にあやかり江戸町と命名されるのです。




A-32:楢林鎭山宅跡(ならばやし-ちんざん-たくあと)
江戸町2-34付近(旧 江戸町)
楢林鎭山(慶安元:1648-宝永8:1711)は、名は時敏(後に新五兵衛)、号を鎭山といい、江戸町生まれで9才のとき出島のオランダ人から蘭学を学び18才でオランダ小通詞、39才で大通詞となります。普段から外科医に興味があって後に紅毛楢林流外科を家業とします。そして鎭山は蘭学を自らの研究で説き、多くの門下生を育てます。その鎭山の屋敷跡が県庁裏門前の道路付近です。




A-31:大波止(おおはと) 元船町17付近(旧椛嶋町)
大波止とは長崎港の主なる波止場のことで、長崎開港後しばらくして造られました(文禄時代1692頃)。当初の大波止は県庁坂の下、現在の「南蛮船来航の波止場跡の碑」付近にあって、近くに番所や、慶長元年(1596)頃には制札場が作られます。さらに寛文5年(1665)には灯篭(とうろう:灯台の役目)が設置され整備が進みます。その後、数度の埋立てにより現在の元船町にまで拡がるのです。また、大波止に対して長崎駅寄りの波止場を中波止(ちゅう-ばと)、新地付近に新波止(しん-ばと)という場所もありました。




A-30:玉江町(たまえ-まち)
大波止の電停を中心に西日本銀行から文明堂本店を通り中島川までの県庁寄りの地域を玉江町と呼んでいました。元船町と同じように明治後期に埋立てられ出来た町で、昭和48年(1973)には五島町、樺島町、江戸町、元船町に分割されてしまいます。その昔、長崎港のことを瓊の浦または、瓊江(たまえ)と呼んでいたので、そこから玉江町となるのですが、とは“美しい”という意味があり、瓊の浦または瓊江で“美しい港”になります。その後「」の字が難しいため「」に代わり玉江となるのですが、現在では大波止−出島間の橋(玉江橋)に名前が残るのみとなりました。




A-29:元船町(もとふなまち)
大波止から長崎駅までの海沿いの町を元船町といい、明治後期の第2期長崎港港湾改良工事の埋立てによって開かれた町です。ちょうど町域のところが開港当時からオランダ船唐船の碇泊地にあたり、“元々船が碇泊したところ”という意味で元船町と命名されます。




A-28:大波止の大砲(鉄砲)ん玉
(おおはとの-たいほう-んたま)元船町10
このは寛永14年(1637)島原の乱の際、幕府が原城を攻撃するために唐通事:頴川官兵衛(エガワ-カンベエ)によって長崎で作ったものといわれ、原城に地下坑道を掘り砲撃の準備をしていたところ約50メートル掘り進んだところで城側に気付かれ、上から大小便を流し込まれたため使用されなかったといわれています。それ以来このは長崎へ入港する異国船などを威嚇(イカク)したり、我が国の防備の固さを誇示するために大波止に備え付けられたといわれています。
なお、の周囲は約170センチメートル、これを撃ち出す砲塔は長さが約16メートル、口径約91センチメートル、このを発射させるには約900キログラムの火薬が必要といわれていました(砲塔は行方不明)。そこで以前、県の工業試験場が超音波検査や化学分析を行なった結果、直径56センチメートル、重さ56キログラムの鉄球で、内部には火薬類は詰まってなく空洞だったことが判明しました。
は当初、文明堂本店横付近にあり、その後、大波止橋付近に移設され、さらに道路の整備で今の場所に移されました

○「長崎開港400周年開港記念碑」(現在、行方不明)。




A-27:御旅所(おたびしょ)
江戸町1付近(旧 樺島町/玉江町)
御旅所とは諏訪神社の神輿が渡御(トギョ)する場所のことをいい、寛永11年(1634)諏方(諏訪)神社の神輿が初めて大波止仮殿に渡御されます。当時の長崎村(本河内、中川、伊良林、高野平、小島、十善寺、西山、岩原、木場、片淵、夫婦川、馬場の各郷)の住民は神輿を担ぎ、市街地の住民は笠鉾を作って行列をなし御旅所に向います。そして、丸山の遊女「高尾」と「音羽」が神前に小舞(コメイ)を納めたそうです。その当時の御旅所の場所は現在の文明堂付近でした。




A-26:長崎警察署跡(ながさき-けいさつしょ-あと)【長崎県庁第三別館】
江戸時代末期に長崎を警護する目的で結成された遊撃隊(のち振遠隊)は、明治5年(1872)兵制が整ったため解散され邏卒(ラソツ=巡査)制度となり、羅卒屯集所を外浦町、西濱町鐡橋際、下り松町に置きます。明治7年(1874)に本署として長崎警察局を本大工町(現 魚の町)に設け、明治8年(1875)長崎警察局は外浦町に移転。翌9年(1876)長崎警察局長崎警察署となり、東濱町の土地を購入。明治11年(1878)東濱町に長崎警察本署を置き移転します。大正12年(1923)外浦町に新庁舎を建て移転し、昭和23年(1948)長崎市警察署に改称。昭和29年(1954)現在の体制である長崎警察署となり、昭和43年(1968)現在地の桶屋町に移ります。




A-25:南蛮船来航の波止場跡(なんばんせん-らいこうの-はとば-あと)
江戸町2-1【長崎県庁第三別館】
元亀2年(1571)夏ごろに長崎に初めて南蛮船(ポルトガル船)が入港します。その南蛮船が入港した波止場がこの付近ということですが、当初はこの付近、断崖のため瓊の浦公園付近(旧船津町)と考えるのが普通で、その後、この地に移ったものと思います。ちなみに、長崎へはマカオ(旧ポルトガル領)からの入港で、季節風を利用し2,3週間で長崎に来ていたそうです。また出港は10月頃から翌3月頃でした。




A-24:崖の下の井戸
樺島町10(旧 樺島町)
樺島町と万才町の境目にあたる崖(石垣)の下、現在、樺島町自治会事務所がある植樹帯は、開港当時、ここが波打ち際で、この並びには多くの井戸があります。これらの井戸はポルトガル船やオランダ船、唐船などの飲料水に使われていました。

纜石(ともづな-いし)
樺島町8-9前
とは船をつなぎ止める綱のことで、纜石はその綱をくくるための石を意味します。ここに現存する纜石はかつて南蛮船、紅毛船、唐船に船積みされて来た七珍八宝を、陸揚げするために使った小舟(艀:はしけ)をつないだ石だといわれています。




三角馬場(さんかく-ばば):現 樺島町公園
広場の形が三角形をしていて以前まで運送会社の馬車馬が待機していたところからこう呼ばれるともいわれています。ところで樺島町といえばくんちの奉納踊り「太鼓山(コッコデショ)」有名ですが、この公園ではその練習が行なわれます。太鼓山は寛政11年(1799)から始まったといわれ、大阪堺の壇尻(だんじり)が起源になっています。江戸時代、樺島町は堺方面の船乗りが多く滞在していて、その関係から奉納踊りに太鼓山を採用したといわれています。




五島町と樺島町の境界の川
五島町8-10付近〜樺島町2-11付近
この地域に残る数少ない江戸時代の遺跡です。江戸時代も現在もこの川(長崎では溝でも川といいます)が境界の役割を持っていて、長崎特有の石張り式の川になっています。これは明治初期にこれらの大流行を受けての整備で明治19年(1886)に完成しました。





A-23:樺島町天満宮(かばしままち-てんまんぐう)
樺島町3-3(旧 樺島町)【築城クリニック内】
樺島町天満宮の創建は神社の鳥居に「天保ニ年百年祭記念」とあるところから、天保2年(1831)の100年前である享保16年(1731)が創建と考えられます。当初は築城クリニック北隣にあって、おそらくここが秋月藩蔵屋敷があった場所と推定され、天満宮は屋敷内の鎮守神だったと考えられます。




A-22:樺島町(椛嶋町:かばしま-まち)
長崎半島(野母半島)の先にある樺島は長崎開港4年前の永禄10年(1567)、イエズス会のサンチエズ神父が天草から布教に最初に渡ったとき、樺島の領主はすでにキリシタンであったといわれ、このことから樺島は熱心なキリシタンの島だったといえます。そしてその当時の樺島の人々が移り住んだところが樺島町となるのです。江戸時代には諏訪神社の道具蔵や制札場、秋月藩蔵屋敷(所在不明)などがありました。当初、大波止(波止場)は樺島町内にあって、明治期の埋立てにより現在の元船町になるのです。




A-20:諫早家屋敷跡(いさはやけ-やしきあと)
五島町9(旧 浦五島町)【宮島商亊】
諫早鍋島家は佐賀鍋島藩の支藩で諫早を拠点とした勢力でした。

A-21:致遠館跡(ちおんかん-あと)
慶応2年(1865)諫早藩屋敷内に英学校の致遠館大隈重信によって開かれます。ここはアメリカ人宣教師のフルベッキを校長に迎え、英語、天文学、土木建築学などを教えた学校でした。大隈重信もここで教壇に立ったところから早稲田大学の原点ともいわれています。




本五島町深堀ペーロン喧嘩(けんか)
ペーロン(競渡船)は、江戸時代に中国から日本に伝わったボートレースのようなもので、当時、長崎では端午の節句と水神祭を兼ねた行事として行なわれていました。最近でも長崎近郊では地域毎に競争を行ない大変白熱した春のイベントとなっていますが、寛政12年(1800)5月5日あまりの白熱ぶりで喧嘩が起こります。これは本五島町深堀との間で始まったもので死傷者まで出る騒ぎとなります。この翌年の享和元年(1801)4月奉行所はペーロン禁止令を出します。




A-19:深堀騒動/深堀義士伝(−ぎしでん)
元禄13年(1700)12月19日夕刻、天満坂(現 法務局横)において深堀藩士2名が、当時財力と権勢を誇った町年寄高木彦右衛門の一行とすれ違った際、誤って泥はねをして着物を汚したことに始まります。その夜、高木家の武士が深堀家屋敷に仕返しに行き、武士の魂といわれる刀を奪い屋敷を荒らして帰ります。一方、今度は翌朝、深堀から多勢を引き連れ高木邸(現 きのくにやビル)に屈辱を晴らしに向います。これは町年寄という立場であったが町人である高木彦右衛門に対し、武士である深堀藩士が面目を晴らす意味がありました。高木彦右衛門を始め多くの者は討たれ討ち入りが終わります。当事者の2名(深堀三右衛門、志波原武右衛門)は高木邸と大橋(現 鉄橋)の上で切腹、討ち入りに参加した他の藩士は切腹や島流しになりました。この1年後、赤穂浪士の討ち入りがありましたが、深堀藩士の討ち入りを参考にしたともいわれています。なお、この深堀義士の墓が深堀の菩提寺に「十人義士の墓碑」として残っています。




A-15:柳川立花藩蔵屋敷跡(やながわ-たちばなはん-くらやしきあと)
五島町2-27付近(旧 浦五島町)【長崎漁連会館・五島町公園】
立花藩といえば柳川城を拠点とした立花氏の領地で10万9千石の藩でした。

A-16:福岡黒田藩蔵屋敷跡(ふくおか-くろだはん-くらやしきあと)
五島町5-7(旧 浦五島町)
筑前黒田藩といえは福岡城を拠点とした黒田氏の領地で52万石の大きな勢力でした。

A-17:鹿島藩蔵屋敷跡(かしまはん-くらやしきあと)
五島町5-40付近(旧 浦五島町)
鹿島藩は石高は2万石でしたが、佐賀鍋島藩の支藩で同じく鍋島氏の領地でした。

A-18:深堀家屋敷跡(ふかほりけ-やしきあと)
五島町5-40付近(旧 浦五島町)
深堀鍋島家は佐賀鍋島藩の支藩で長崎市深堀を拠点とした勢力でした。




A-14:五島町(五嶋町:ごとうまち)
五島は長崎の開港より早くキリスト教の布教が開始されたところで、天正5年(1577)にルイス・五島玄雅(ハルマサ)が五島の内乱のため女性と子供、合わせて300人を連れて長崎に逃れて来ます。そして2年後に島津義久の調停により半数が五島に帰るのですが、残る半数は海岸の地域にそのまま住みつき五島町(五嶋町)となるのです。現在のKTNの下の通りが最初に開かれた海岸沿いの地域です。その後、五島町は海沿いを埋立て浦五島町を開き、当初の五島町本五島町(ホンゴトウマチ/モトゴトウマチ)となります。

泉屋長崎店跡(いずみや-ながさきてん-あと)
五島町4or3(旧浦五島町)
泉屋とは住友財閥の前身で泉屋政友が京都で薬種商を始めたのが始まりといわれています。その後、泉屋は銀との精錬工「南蛮吹」を迎えの生産に力を入れ、中国などへの輸出用棹銅を手掛けるようになり財を蓄えます。長崎店は元和元年(1681)頃出店、大坂の堂島(堂島はが由来)で精製されたは海路長崎入りし、この地(当時は海沿い)で一旦陸揚げされ、海沿いの銅蔵に保管します。検査後、海外に輸出されて行きました。輸出量は年間約500〜900万斤(約3000〜5400t)だったそうです。




A-13:西新橋跡(にししんばし-あと)
五島町-恵美須町/岩原川
寛文13年(1673)中島川の本大工町に新しく石橋が架けられますが、一説には同年に岩原川にも石橋が架けられていて、ともに新しい橋ということで新橋と呼ばれ、市民は西側を西新橋、東側を東新橋と呼んだといわれています。西新橋は寛政8年(1796)の寛政第2次大水害で流出し官命によって享和2年(1802)再架されます。しかしその後の記録が全くなくいつしか姿を消してしまいました。西新橋の位置は現在のたばこ産業横。




A-12:岩原川(いわはら-がわ)
岩原川は旧長崎村岩原郷に水源があるところから岩原川といいます。その岩原郷は現在の立山と西坂の一部の地域をいい、川は立山から桜町電停付近を流れ旧恵美須市場、大黒市場の下を通り、旧魚市のところで長崎港に流れます。江戸時代初期、岩原川の河口は今の桜町電停のところにあり、港に向かって広がっていました。そしてこの河口は開港当初、ポルトガル船や唐船よりの荷物をを堺、江戸へ運ぶ国内船の船津つまり港でした。




A-9:熊本細川藩蔵屋敷跡(くまもと-ほそかわはん-くらやしきあと)
大黒町1地先(旧 恵美酒町)【長崎駅前東口交差点付近】
肥後細川藩といえば熊本城を拠点とした細川氏の領地で54万石の大きな勢力でした。外様大名。

A-10:平戸松浦藩蔵屋敷跡(ひらど-まつらはん-くらやしきあと)
大黒町10-4付近(旧 大黒町)【国民金融公庫長崎支店】
松浦藩は平戸城を拠点とした松浦氏の領地で6万1千石の藩でしたが、実際は密貿易などで20万石以上の規模を誇っていたといいます。

A-11:嶋原松平藩蔵屋敷跡(しまばら-まつだいらはん-くらやしきあと)
恵美須町1-1付近(旧 大黒町)【長崎中央郵便局】
嶋原藩といえば嶋原城を拠点とした松平藩の領地で7万石の藩でした。このほか江戸時代は田上や茂木などは嶋原藩の領地でした。




A-8:佐賀鍋島藩蔵屋敷跡(さが-なべしまはん-くらやしきあと)
大黒町14地先(旧 大黒町/台場町)【長崎駅前南口交差点付近】
佐賀鍋島藩蔵屋敷は、当時、海に面していて江戸時代の長崎港図などに屋敷の塀がたびたび描かれています。佐賀鍋島藩は佐賀城を拠点とした鍋島氏の領地で35万7千石の藩でした。外様大名。そして11代鍋島閑叟(カンソウ)は幕末に西洋文化を積極的に取り入れ、この長崎の屋敷に砲台や反射炉などを設置し富国強兵に一役を担いました。明治期に港湾改良工事でこの佐賀藩蔵屋敷の北側が埋立てられ町が作られるのですが、この鍋島藩蔵屋敷に台場があったところから後に台場町となります。




〇諸藩蔵屋敷(しょはんくらやしき)について
九州各藩は長崎警備の目的で多くの軍勢を長崎に派遣しなければならず、そのため市内には14ヶ所の藩屋敷が置かれていました。藩屋敷は長崎奉行所との連絡業務のほか長崎に入る世界情勢などを収集する大変重要な拠点で、現在の領事館的役割を持っていました。これは正保4年(1647)長崎港の軍備のために九州各地の藩に動員したもので、当時、国交を断絶したポルトガル船の来航の際の対応のためといわれています。




A-7:大黒町(だいこくまち)
大黒町は寛文12年(1672)の町政改革により恵美酒町から分かれて誕生した町で、恵美酒町に合わせ大黒町と命名されました。また、大黒町恵美酒町と同様に海岸部の蔵屋敷の建ち並ぶ賑やかな町になります。昭和38年(1963)現在の町域となります。




A-4:築出町(つきだしまち) 現 中町教会下〜桜町電停付近
江戸時代初期、外下町の海岸を埋立築き増ししてできた町が築出町です。

A-5:浦築出町(うらつきだしまち) 現 桜町裏通り(岩原川沿い)
築出町の海岸を埋立築き増ししてできた町が浦築出町です。

A-6:恵美須町/恵美酒町(えびすまち)
寛永時代末期(1640頃)外下町、築出町、浦築出町の3町は合併して恵美酒町が誕生。恵美酒町とは当時、町内にお祀りされていた恵美酒神社(現 飽ノ浦恵美須神社)の名前から命名されました。寛文12年(1672)の町政改革により恵美酒町恵美酒町大黒町とに分けられ、海岸部の蔵屋敷の建ち並ぶ賑やかな町になります。幕末、恵美酒町恵美須町に改称。昭和38年(1963)現在の町域になります。




A-3:外下町(ほかしたまち) 現 中町教会下〜桜町電停付近)
長崎開港後、博多などから多くの商人たちが続々と長崎に入りし、船は入江のある船津町(現 瓊の浦公園付近)に入港します。商人の多くの筑後方面の人々は対岸の海岸に定住するようになり町を形成。町はしだいに山手まで拡がり海岸沿いを下町、その上に中町、そして上町、最後に筑後町と命名されます。このうち下町は、内町に下町が存在していたため区別する意味で外下町(ホカシタマチ)となります。




A-2長崎港港湾改良工事について
明治30年(1897)以降7ヵ年の継続事業として長崎港湾改良工事が開始され、明治37年(1904)に完了します。工事は第1期と第2期に分かれ、第1期工事では港内の砂防工事や中島川の変流工事(これにより出島の前面が削られる)、第2期工事では現在の銭座町電停付近から長崎駅-大波止-市民病院付近と稲佐の海岸地帯が埋立てられこれにより24の新しい町が開かれます。以下はその24町。
幸町-福富町-玉浪町-梁瀬町-宝町-寿町-船蔵町-井樋ノ口町-八千代町-尾ノ上町-高砂町-瀬崎町-台場町-元船町-玉江町-千馬町-羽衣町-要町-末広町-入江町-旭町-丸尾町-外浪町-大鳥町 
※ほとんどの町が昭和40年頃に町界町名変更で整理されます。




A-1:長崎駅(ながさき-えき)
尾上町1-89(旧 大黒町)【JR長崎駅】
明治25年(1892)九州鉄道会社は長崎-佐世保間の鉄道敷設を始めますが不況の影響で頓挫。明治28年(1895)再度、着工し、明治30年(1897)長崎-長与間、翌31年(1898)佐世保-早岐-大村-長与間を開通させます。このときの長崎駅は現在の浦上駅で、明治38年(1905)の路線延長によって現在の位置に長崎駅が置かれ、それまでの長崎駅だったところを浦上駅と改称します。なお、長崎駅のシンボルだった三角屋根の駅舎は昭和24年(1949)に作られた3代目で平成11年(1999)まで使用され、現在の駅舎は新幹線計画のため仮設駅舎となっています。




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