広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成16年 〜2004年〜
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B-21:風頭山(かざがしらやま)
風頭山は市内中心部の東に位置し標高150メートル程の長く連なった山です。江戸時代後期に書かれた長崎名勝図会によると「東からの風が吹き下るので風頭の名がある」とあります。ふもとにはたくさんの寺院が立ち並び寺町といい、中腹のほとんどはその寺町の寺院の墓所になっています。




坂本龍馬(さかもと-りょうま)
坂本龍馬(天保6:1835-慶応3:1867)は土佐藩(高知県)の郷士:坂本八平直足の次男として生まれ、幼少の頃から剣術を学び24才のとき江戸で北辰一刀流の免許を受けます。文久元年(1861)尊皇攘夷を掲げる土佐勤王党に加わるが意見が合わず脱退、脱藩します。その後、勝海舟と出会い勝海舟が進める海軍塾の塾頭となり、翌年(元治元:1864)神戸海軍操錬所へ進みます。慶応元年(1865)航海術を活かした亀山社中を設立し薩摩藩と長州藩の仲介のため尽力、薩長連合を成功させます。慶応3年(1867)後藤象二郎に提案した「船中八策」は、後の第15代将軍徳川慶喜に送られる建白書に取り入れられました。しかし同年、京都近江屋にて暗殺、享年32でした。墓所:京都東山霊山。




龍馬のぶーつ像【亀山社中跡前】
この像は坂本龍馬が当時、履いていたといわれる皮のブーツと、船の舵をデザインしたもので平成8年(1996)に「亀山社中ば活かす会」によって建立されました。このブーツの銅像は自由に足を入れることが出来、ここに来た龍馬ファンは必ず足を入れたくなる銅像です。




B-20:亀山社中跡(かめやましゃちゅう-あと)
伊良林2-7-24(長崎村伊良林郷)
土佐藩を脱藩した坂本龍馬や神戸で海防を学んだ同志らは、慶応元年(1865)海運や貿易さらに政治活動のため来崎。拠点を廃窯したばかりの亀山焼窯跡に置き、薩摩藩の援助のもと商社を立ち上げ、社中(亀山隊)と命名します。当初、交易の仲介や物資の運搬などで利益を得、さらには薩摩藩-長州藩の橋渡し役となり運営は順調でしたが、次第に難題が山積、慶応3年(1867)には後藤象二郎率いる開成館の長崎出張所(土佐商会)傘下となり土佐藩から資金援助を受けるようになります。このとき海援隊に改称、本部は小曽根邸へ移ります。しかし坂本龍馬の暗殺以降、求心力がなくなり慶応4年(明治元:1868)藩命により解散となります。亀山社中は3年間という短い活動とはいえ日本の開国を前進させる一因となるのです。




立山稲荷神社の伝説
その昔、時の長崎奉行は重要書類を江戸幕府に送るため飛脚に託し江戸へ向わせます。しばらくして奉行は重要書類と愛人に送るはずの恋文とを間違えて送ったことに気付き、あわてて書類を取り替えるよう後追いの飛脚を送ります。もしこのことが発覚すれば責任を取って切腹、お家断絶は避けられず、日頃から信仰していた立山稲荷に祈願するのです。すると不思議なことに先に発った飛脚が小倉を差し掛かった辺りで急に足が動かなくなり、後追いの飛脚が追い付き書類を取り替え事なきを得ます。そうしてこの追い付いた日の11月8日を祭事と決め、歴代の長崎奉行は鳥居や灯篭などを奉納するようになったといわれています。




B-19:立山稲荷神社(たてやま-いなり-)
立山稲荷神社は江戸時代、長崎奉行所立山役所内にお祀りしてあった稲荷社で、位置としては現在の県立図書館の辺りにありました。明治維新を受け奉行所が廃された後は豪商:小曽根家に受け継がれ自邸(小曽根郵便局付近)にお祀りされることになります。その後、昭和15年(1940)小曽根邸は軍の長崎要塞司令部に買収され、稲荷社を残し家の者は諫早に移ることになるのですが、引越しの後、要塞司令官の夢枕に稲荷神が「私も諫早に移してほしい」と現れて来たといいます。司令官はすぐに稲荷神を丁重に諫早の小曽根氏のところに移したそうです。現在、その分霊は小曽根町の小曽根氏の屋敷にお祀りされています。




B-18:方型鳥居(ほうけい-とりい)【若宮稲荷神社境内】
伊良林2-15(長崎村伊良林郷字次石)
若宮神社の川を挟んで反対側にもう一つ別の稲荷神社があって、参道には柱が角ばった大変珍しい方形鳥居が建っています。柱には「文政五年長崎奉行土方出雲守」という文字が刻され、このことより文政5年(1822)に第89代長崎奉行土方出雲守勝政がこの方形鳥居を奉納したことが分かります。実はこの方形鳥居は当初、長崎奉行所立山役所内の庭園にあった立山稲荷神社のもので明治維新後の明治8年(1875)方形鳥居だけがこの場所に移されました。
※第89代長崎奉行土方出雲守勝政(安永2:1773-天保7:1836)は、文政4年から文政10年まで長崎奉行に着任。墓所:東京文京区大円寺。




鞴祭り(ふいご-まつり)<その2>
旧暦11月8日のある日、鍛冶屋の主人は仕事を休みにして客人と酒を飲んでいました。突然、一人の男が飛込んで来て助けを求めます。主人はとっさにの中に男を入れ、その上にしめ縄を張り灯明を上げ拝んでいるふりをします。そこに大勢の追手がやって来て男を出せといい、家中を捜し最後にが目に付きます。すると主人は「今日が鞴祭りのため明日改めて来てほしい」とお願いすると追手は出て行きます。追手が帰った後、主人がの蓋を取って見ると男の姿がなく主人は不思議に思っていましたが、まもなくこの鍛冶屋は商売が繁盛し大いに発展したといいます。こうして毎年11月8日にはにお供えを上げ、客を呼んで酒を交わすようになり鞴祭りが始まったといいます。




鞴祭り(ふいご-まつり)<その1>
とは鍛冶屋などで火を起こすため風を吹き込む道具のことで、鞴祭りは旧暦の11月8日に鍛治屋鋳物屋などで商売繁盛を祈願する行事が江戸時代に始まり、明治期以降は商売繁盛ということで稲荷社を祀る料理屋などでもを始められるようになります。旧暦11月8日(冬至の前日など)の祭の日には三味線を鳴らし子供客や大人達を呼び宴席を開き賑やかな行事になって行きます。しかし第二次大戦後は、ほとんど行われなくなりました。




稲荷施行(いなりしぎょう)
稲荷施行とは寒中(1月中旬)に稲荷社を祈願して廻る行事のことで昭和40年代(〜1970頃)まで長崎でも盛んに行われていました。そして稲荷神が商売繁盛の神ということもあって主に料理屋の店主などが中心となって夕方から集団を作り開運を祈願して巡ります。その時、小豆御飯(赤飯)や金頭(かながしら=ガッツ)、油揚げを持参、「ヨッシンヨイサ」「ヨッシリヨイサ」の掛け声のもと、お供えして回ります。もともとこの行事は穴施行ともいい、寒中は寒さのため稲荷神の使いのキツネが食糧不足で困っているだろうとキツネの棲む洞穴(狐塚や狐穴)にえさを置いていく習慣が始まりで、いつしか商売繁盛の信仰に変わります。長崎では若宮稲荷や松嶋稲荷などのほか傳八稲荷や玉園稲荷など地域の稲荷講などと盛んに行われていました。




竹ん芸(たけん-げいorたけんげ)【若宮稲荷神社】
竹ん芸は男性2人が稲荷神の使いのキツネにふんし約10メートルの2本の青竹の上で繰り広げられる曲芸で独特な囃子が人々を魅了します。現在、若宮稲荷神社の秋の大祭の恒例行事として行われていますが、起源は文政3年(1820)頃、諏訪神社の大祭:くんちの奉納踊りとして八百屋町が初めて奉納したという説が一般化しています。その後、明治29年(1896)より若宮稲荷神社の例祭(10月中旬)に引き継がれています。市無形文化財。




若宮神社細井因幡守(ほそい-いなばのかみ)の伝説(その2)
【若宮稲荷神社】
享保17年(1732)この年は西日本でイナゴが大発生、各地で大飢饉となり1万2千人もの人々が餓死したといわれています。しかしこの長崎では餓死者は1人もなく、信仰の厚かった長崎奉行細井因幡守若宮稲荷神社のご加護によるものと、参道の整備や大祭などの発展に寄与したといわれています。
第46代長崎奉行細井因幡守安明(寛文10:1670-元文元:1736)は享保14年(1729)から没する元文元年まで在勤。墓所は本蓮寺後山。




若宮神社細井因幡守(ほそい-いなばのかみ)の伝説【若宮稲荷神社】
ある時、長崎で緊急の事態が起き、因幡守は至急江戸幕府に一通の書状を急使(特急便)に託すことになります。数日後、因幡守は送ったはずの書状が手元に残り、不要の書類がないことに気付きます。しかし急使に託したため最速の飛脚を出したとしても間に合うはずがなく因幡守は責を負う覚悟をし、さらに日頃から信仰していた若宮稲荷に祈願するのです。しばらくして急使が江戸に着いた頃、因幡守の机に不要の書類が置いてあり、残っていた書類が行方不明となり因幡守は頭を抱えます。数日後、任務を終えた急使が帰崎。因幡守は事情を話すと、急使は中身を知ることなく大切に幕府に届け無事任務を果たしたといいます。因幡守は一連のことは若宮稲荷のおかげと大変感激し、それからは若宮神社の参道の整備や大祭などの発展に寄与。以降、多くの崇敬者で賑わうようになったといいます。




B-17:伊良林(若宮)稲荷神社(いらばやし-いなりじんじゃ)
伊良林2-10-2(長崎村伊良林郷字次石)
その昔、河内国(大阪府南部)に住んでいた若杉氏は邸内に若宮稲荷を大切にお祀りしていましたが、寛永元年(1624)若杉八左衛門浄祐の代になり長崎に移住、稲荷社も一緒に長崎に移転します。延宝元年(1673)若杉喜三太浄宣(出来大工町乙名)のとき稲荷社を伊良林郷にある次石のそばに移し社殿を建てお祀りします。当時この地域に大きな神社がなかったため伊良林郷の氏神様としても崇敬を集め、次石社として親しまれます。また、江戸時代は唐人の崇敬が厚く多くの寄進がありました。明治維新後は亀山社中の関係で薩摩長州土佐肥後の各藩の志士の往来が増え彼らの崇敬も厚く勤王稲荷と呼ばれた時代もありました。明治元年(1868)九州鎮撫総督の沢宣嘉により伊良林稲荷神社と改称、しかし市民からは若宮稲荷として親しまれています。




B-16:良林亭/自由亭跡(りょうりんてい/じゆうてい-あと)
伊良林2-9(長崎村伊良林郷字次石)
安政6年(1859)草野丈吉は大浦の居留地に行き外国人の使用人として使えます。その後オランダ軍艦のコックとなり西洋料理を学び、文久3年(1863)伊良林の自宅を改造し西洋料理店:良林亭を開業します。自遊亭自由亭と改称し、しばらくして本大工町(現 魚の町)移転。明治11年(1878)馬町に洋館を建て営業を続けます。明治12年(1879)にはグランド将軍来日時ここでパーティーが開かれました。明治21年(1888)地方裁判所に買収され廃業、検事正官舎として使われます。洋館は昭和41年(1967)グラバー園に移築され現存します。




B-15:料亭藤屋跡(ふじや-あと)
伊良林1-8(長崎村伊良林郷字次石)
嘉永3年(1850)松尾長之助が若宮神社門前に料亭を開業。慶応元年(1865)そこの松尾清兵衛が中国に渡りフランス料理を習得、帰国後、藤屋西洋料理店となります。明治6年(1873)再び料亭となりますが、その後、廃業となります。




B-14:馬喰町(ばくろちょう)/伊良林郷宿/伊良林郷字宿
若宮神社(伊良林稲荷神社)の門前を江戸時代、馬喰町と呼んでいました。ここは諏訪神社の門前に広がる馬町で使われる馬が飼われていた場所で、通常、馬町の馬は長崎街道における公用の荷物を運ぶ役目を持ちいつも待機していました。
また、若宮神社の門前の道は市街地から長崎街道へ抜ける近道で、新大工町を通らない脇街道の役目を持ち、さらにこの付近には数件の宿があったとも考えられ、それで以前まで伊良林郷字宿と呼んでいました。




B-13:新十人町(しんじゅうにんまち)
伊良林小学校の前、中島川に架かる中之橋と中島橋の間は、学校ができる以前の明治の初めころまで大変さびしいところで、人家も2、3軒ほどしかなく、俗に新十人町と呼ばれていました。

○中島橋
昭和59年(1984)竣功

○紅葉橋(もみじばし)
明治時代、紅葉橋のある中島川左岸沿いは貿易商:杉山徳三郎の屋敷があって、紅葉橋はその屋敷から架けられたもので私費によって架けられました。現在の橋は長崎市によって昭和53年(1978)に架けられたものです。




B-12:長崎市立伊良林小学校
伊良林1-10西側(長崎村伊良林郷)
明治35年(1902)伊良林尋常高等小学校として開校。大正13年(1924)長崎市で3番目となる鉄筋コンクリートの校舎が作られます。昭和16年(1941)伊良林国民学校に改称。昭和22年(1947)新学制により長崎市立伊良林小学校となります。昭和32年(1957)には児童数増加のため二部授業を実施し、伊良林小は10クラス560人となりました。




B-11:市立長崎商業学校跡
伊良林1-10東側(長崎村伊良林郷)【伊良林小学校東側】
明治17年(1884)商業学校通則の交付で神戸、横浜、大坂などに商業学校が開校。当時の長崎県令の石田英吉は嘆き、急いで松田源五郎などの有力者に強力を求め、創立委員会を設立し、翌年市民からの寄附や貿易五厘金などを利用し明治18年(1885)大村町に長崎区立長崎商業学校が開校します。翌年には夜間学校である長崎商業徒弟学校も誕生し充実が図られます(20年袋町に移転/26年廃止)
明治19年(1886)県立長崎外国語学校と合併し県立長崎商業学校と改称。立山に移転します。
明治22年(1889)県会によって県立学校を廃止し市に移管。長崎商業学校となります。
明治32年(1899)長崎村馬場郷伊良林に移転。
明治34年(1901)市立長崎商業学校と改称。
大正14年(1925)長崎市立商業学校と改称。
昭和8年(1933)敷地拡大のため油木谷(現 油木町)に移転します。
昭和20年(1945)原爆の被害を受け一時、上長崎小学校を仮校舎として使用。
昭和23年(1948)学制改革により長崎市立長崎商業高等学校に改称。
昭和62年(1987)敷地拡大のため現在の泉町/長与町高田郷に移転、現在に至ります。




B-10:カルルス温泉跡/カルルスの桜
中川1-4,5、新中川町4,6,7(長崎村伊良林郷)【料亭橋本付近】
明治20年(1887)当時の県令(知事)日下義雄は伊良林から日見にかけて数千本の桜を植樹し沿道を整備。そして明治33年(1900)安田伊太郎と上長崎村の有志が伊良林付近(一ノ瀬渓流)に浴場を設けます。そしてこの浴場ではチェコスロバキアのカールス・バード(カローラ・ヴェリー)の湯の花(鉱泉の結晶)を水に溶かしカルルス温泉として営業、市民の憩いの場となります。その後も安田伊太郎は敷地内を整備し料亭なども建て皆花園と命名。人々はここを中川カルルスと呼び長崎名所の一つに数えられます。しかし第二次大戦のあおりで廃業。その後、敷地は切り売りされてしまいます。現在、料亭橋本庭園内にある桜はカルルス時代の桜といわれれています。

○カールス・バード
14世紀カルルス四世の時代から世に知られた王の名に因んで名付けられた温泉地である。プラーグの北西110キロメートル、海抜350メートル、アルカリ塩類泉で多量のラジウムを含んでいる。湯花を輸出する。




B-9:無銘の碑(むめいのひ)
新中川町4付近(長崎村伊良林郷)
無銘の碑は今まで「中国革命の父」といわれる孫文に関係があるといわれていましたが、実際は孫文の同士:柏文蔚(はく-ぶんうつ)の顕彰碑だと最近の調査で分かりました(長崎新聞14-7/3)。
柏文蔚(1876:明治9-1947:昭和22)は中国安徽省(あんきしょう:上海の西)出身の国民党の幹部でした。明治44年(1911)中国(清国)では辛亥革命によって清朝が倒れ、大正元年(1912)中華民国が成立すると孫文が臨時大総統に就任。すぐに孫文は袁世凱(えんせいがい)にその地位を譲ります。しかし袁世凱の独裁的な政治に柏文蔚孫文などと共に抵抗しますが失敗。大正2年(1913)日本に亡命します。
柏文蔚は長崎滞在中は中川にあった料亭カルルスによく出入りしたといわれ、大正3年(1914)料亭の主人:安田伊太郎がこの碑を建立し、柏文蔚が大人物になったら碑に名を刻すと約束をしたといわれています。しかし第二次大戦が始まるとその約束も守られることななく料亭は廃業。碑はそれからも中島川のそばに残ったままでしたが昭和57年(1982)長崎水害後の河川改修で現在地に移されました。




矢の平稲荷神社の鳥居と灯篭(-とりい-とうろう)
境内にある鳥居(天明6:1786)と灯篭(文化3:1806)の一つは、長崎奉行所立山役所内にお祀りしてあった立山稲荷神社のもので、明治5年(1872)にこの地に移されました。長崎奉行所立山役所は明治維新を受け廃され、明治6年(1873)跡地に広運学校が置かれます。その際、役所内の稲荷社4社は希望者に分けられ銀屋町稲荷神社小曽根邸内などに移され、残った稲荷社は奉行所内に埋められたといいます。その内の鳥居と灯篭の一基づつがこの矢の平稲荷神社の境内に置かれます。なお、廃された稲荷社の御霊もこの矢の平稲荷神社に合祀されたともいわれています。




B-8:矢の平稲荷神社(やのひら-いなり-)
矢の平1〜4(長崎村伊良林郷字真久保)
伊良林稲荷神社の起源は、河内国(大阪府南部)の若杉氏が寛永元年(1624)長崎に移住した際、自邸の若宮稲荷も一緒に長崎に移転し、延宝元年(1673)若杉喜三太浄宣(出来大工町乙名)の代の時、若宮稲荷を伊良林郷にある次石のそばに移し社殿を建てお祀りしたことに始まりますが、その時、若杉喜三太浄宣は伊良林稲荷神社そばの別荘にも同じ若宮稲荷をお祀りしていました。その後、若杉家が新大工町に移転することになり若宮稲荷も移転することになります。しかしこの若宮稲荷には地元に信仰者が多かったため、享保10年(1725)若杉氏は元の地に社殿を立て矢の平稲荷神社としてお祀りをします。




B-7:瓊浦高等学校(けいほこうとうがっこう)
伊良林2-13-4(長崎村伊良林郷)
大正14年(1925)元長崎県立長崎中学校校長の中村安太郎によって桜馬場に瓊浦高等女学校が設立されます。昭和3年(1928)瓊浦高等女学校に改称。昭和22年(1947)新学制により中学校を併設し、翌年、瓊浦女子高等学校と瓊浦中等学校となります。昭和24年(1949)男女共学として瓊浦高等学校に改称。その後、伊良林キャンパスが設けられ、昭和39年(1964)桜馬場の校舎を廃しすべてが現在の伊良林の地に移転します。瓊浦高校は長崎を代表する私立高校として親しまれ、特にクラブ活動では全国レベルの成績を上げています。




B-6:横向き地蔵(矢の平地蔵堂)
矢の平2-3(長崎村伊良林郷)
矢の平地蔵堂の創建は定かではありませんがお堂の祠には寛政3年(1791)と刻されています。
昔々、一人の泥棒が町で盗みを犯し長崎の外れのこの地まで逃げて来ます。ふと横を見るとお地蔵さまが泥棒を見ていて泥棒は「この事は誰にも言わないで下さい」とお願いをします。するとお地蔵さまは泥棒に「誰にも言わないから私のことも言わないように」と言い“ぷいっと”横を向かれます。泥棒はびっくりしますがそのままどこかに逃げて行きます。数年後、泥棒は長崎にまた舞い戻って来てお地蔵さまの前を通りかかります。泥棒は横を向いたお地蔵さまの姿に驚き、たまたま通りかかった男の人に今までのことを一部始終を話すと、男は「さてはお前はあの時の泥棒か」と怒り奉行所に突き出したといわれています。今でもこのお地蔵さまは横を向いたまま通行の人々を守っています。




B-5:矢の平(やのひら)
長崎甚左衛門(16世紀中期)が治めていた時代、矢の平は武士の騎馬や騎射の練習場でした。ある日、練習場の馬一頭が急に彦山の方へ走り出し逃げ込もうとしたので武士が捕らえようと矢を放ちます。このことが矢の平の由来といわれていますが、このほかこの付近の地形が矢の形のように入り口は狭く上に登るに連れ広がっているところから矢の平となったともいわれています。




B-4:伊良林(いらばやし)
伊良林はもともと大村氏の所領の長崎村に属し、長崎開港後の慶長10年(1605)天領とし長崎代官管轄の長崎村伊良林郷とします。明治22年(1889)長崎市に編入し長崎市伊良林郷、大正2年(1913)伊良林郷は伊良林町と矢ノ平町、寺町になります。昭和52年(1977)伊良林町は1〜3丁目、矢の平町1〜4丁目に分けられます。伊良林はその昔、穎林とも書き、彦山のふもとに広がる広大な草原が続いていて、そのことから伊良林の語源は刺草/蕁麻(イラクサ)から来ているといわれています。ちなみにこのイラクサはいわゆる雑草の一種で別名をマムシグサまたはイタイタグサともいいます。

椎の木山
彦山山頂から蛍茶屋へ下る尾根のうち蛍茶屋の裏手に当たる山を椎の木山といいます。現在、蛍茶屋から矢の平に向う道沿いに墓地が広がっていますが、ここを椎の木山墓地といいます。




B-3:穎林口(伊良林口)(いらばやし-ぐち)
江戸時代、長崎の町から貨物の陸路輸送などの街道は、長崎街道を使って日見峠を越え諫早へ、海路で筑後へ渡りそして再び長崎街道に合流する道(東目通り)と、浦上街道を使って時津へ、海路彼杵へ渡り長崎街道に合流する道(東目通り)を使っていました。
人が出入りする道は長崎市内からは6ヶ所のコースがあって@東泊口(戸町-深堀-野母へ)A茂木口(田上-茂木-天草-熊本・鹿児島へ)B馬籠口(浦上街道)C西山口(西山-川平-本川内-伊木力-大村へ)D日見嶺口(長崎街道)E頴林口(伊良林-飯香浦-小浜へ)を使っていました。
ここの穎林口は伊良林を出た後、矢の平に上り甑岩、飯香浦へ続く道で大変険しい道で、飯香浦からは海路小浜へ渡り島原方面に向うコースでした。




B-2:中川菊人形跡
中川1(長崎村中川郷)
年代がはっきりしませんが昭和の初期頃から第二次大戦前まで、中川には菊人形の展示場があって多くの市民に親しまれていたといいます。昭和の初め頃まで中川付近は長崎の別荘地で今のように車が多く走る場所ではなく、中島川の静かな流れと彦山の風光明媚な場所でした。中川菊人形は今でいうところのテーマパークのようなもので大変な賑わいでした。当時の長崎の歌に次のような歌がありました。
長崎名所 三菱ドックに お諏訪の月見 花はカルルス 中川菊人形 夜は丸山 寺もないのに大徳寺




B-1:長崎県農事試験場跡
中川1(長崎村中川郷)
明治10年(1877)桜馬場の庄屋森田家屋敷跡に長崎県植物試験所が農家に栽培方法などを教育する機関として置かれましたが、明治31年(1898)本格的農業研究の場として長崎県農事試験場が中川郷に置かれます。当時は松の並木があって広大な畑が広がっていたといいます。大正9年(1920)には諫早市永昌町に移転。昭和46年(1971)からは長崎県総合農林試験場に改称し長崎県の農業の発展に貢献しています。




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