広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成19年 〜2007年〜
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〇出島の歴史11<出島の終焉
江戸後期になると欧米の国々が頻繁に日本近海に近づくようになり、嘉永6年(1853)アメリカのペリーの浦賀来航に続いて、ロシアのプチャーチンが長崎に入港。安政元年(1854)にはイギリスと日英和親条約を長崎で調印します。そして安政2年(1855)出島水門の鍵をオランダ商館長(カピタン)に渡し管理をゆだね、日蘭和親条約を締結。これが正式な国交樹立となります。安政5年(1858)オランダ商館は廃止され、オランダ領事館となり、安政6年(1859)の開国によって鎖国体制は崩壊。慶応2年(1866)からは出島も外国人居留地に編入されます。明治32年(1899)条約改正で治外法権が撤廃。居留地制度も廃止となり、居住権は永代借地権となり昭和17年(1942)まで続き、以降、一般の土地と同じように取引され私有化していきます。現在、すべてが公有地化され復元事業が進められています。




〇出島の歴史10<出島禁令

 禁制 出島町
   一、傾城之外女入事
   一、高野ひじり之外出家山伏入事
  一、諸勧進之者並乞食入事
  一、出島廻り榜示木杭之内船乗り廻る事 附り橋之下船乗り通事
  一、断なくして阿蘭陀人出島乃外え出る事 
 右之條々堅可相守もの也


オランダ屋敷の入口つまり出島橋の江戸町側には当時、制札場があって、一般市民などは入場が厳しく制限されていました。一番目の「傾城」とは遊女のことで、ここでは丸山遊女のオランダ行きを意味します。二番目の「高野ひじり」は高野聖と書き、山伏など全国を渡り歩く回国などを意味します。三番目の勧進は仏教徒の宣教の禁止を意味します。このように一般の日本人とオランダ人の接触はほとんど不可能だったのです。




〇出島の歴史9<長崎貿易株式会社
オランダ貿易および唐貿易は当初、南蛮貿易と同じように生糸(白糸)中心の貿易で糸割符制度(2003/06/07参照)が取られていて、この制度は日本側の一方的な価格設定ができる反面、唐船の入港操作で価格が高騰。そこで明暦元年(1655)幕府は相対貿易(自由貿易)に制度を変更します。しかし国内景気の好調や中国・オランダの価格つり上げによって輸入超過となり、寛文12年(1672)幕府は市法売買法(2006/02/26参照)に変更します。この方法は長崎奉行の管理の下、目利役が一方的に金額を決定する方法で中国・オランダは反発しますが、逆に輸入量を増やし輸入総額の増加につながり失敗するのです。次に取られた措置は貞享2年(1685)の定高貿易法で、輸入量の上限付きの糸割符制度でした(幕末まで続く)。さらに元禄11年(1698)長崎会所が貿易を取り仕切るようになると全市民参加型の制度となり、利益の一部が配分金として支給されました。これが俗に言う長崎貿易株式会社といわれるゆえんにもなるのです。




〇出島の歴史8<オランダ通詞
出島オランダ商館員と直接接触する日本側の役人は、長崎奉行を筆頭に町役人代表の長崎代官、市制担当の町年寄、出島管理者の出島乙名と、乙名補佐役の組頭、筆者、日行使、そして倉庫管理者の蔵荷役、支出決算担当の上筆者、書記の筆者と下筆者などで、これに対し商館員との調整役がオランダ通詞というものです。
もともとポルトガル船が来航していた頃は南蛮通詞なるものが存在していましたが、平戸からオランダ商館が長崎に移転するとオランダ通詞も長崎入りし業務を開始します。その後、オランダ貿易が盛んになるにつれ通詞も増加し、江戸時代中頃には200名近くになっていました。後に通詞も階級ができ、大通詞から始まり、大通詞助役、小通詞、小通詞助役、小通詞並、小通詞末席、小通詞末席見習、稽古通詞、稽古通詞見習と、通詞は組織化して通詞仲間を作っていました。これらは公務通詞(長崎奉行雇用)で、このほか民間通詞として夏の繁忙期だけ雇用する内通詞と内通詞小頭がいました。また、オランダ通詞は江戸時代中頃になるとオランダ語の語学力も磨かれ、さらには洋書の輸入によって蘭学に目覚める者もいて、後の医学や印刷、造船といった学問の礎となり、近代国家への道筋を作るのです。




〇出島の歴史7<出島オランダ商館員
ポルトガルとの南蛮貿易時代、日本人は商館長をポルトガル語でカピタン(甲比丹)、次席商館員ヘトルと呼んでいたため、オランダと交易を始めても同じようにポルトガル語で呼んでいました。出島オランダ商館員はこのほか、倉庫管理者の倉庫長(パクフィスメステル)、会計の支出役(ディスペンシール)、貿易事務の決算役(ネコシ・ブーグハウデル)、帳簿書記(ブーグハウデル)などの事務職と、外科兼内科医(シリュルハイン)、理髪師(バベルト)などの医務職員、下級雇員に料理人、釜焚き、バター製造人、大工、鍛冶工、帆役、旗縫工などがいて、このほかに東南アジア人の召使(日本人は黒坊、黒奴と呼ぶ)が数人がいて、出島オランダ商館内の駐在員は12,3人ほどといわれています。




〇出島の歴史6<オランダ連合東インド会社
15世紀中ごろから始まった大航海時代はスペイン、ポルトガルによる海外進出に始まり、遅れること1世紀、イギリスとフランスそしてオランダが参加します。当時、スペイン、ポルトガルが中心となった重商主義(商業を中心とした政策)が隆盛を極めていた時代で、後発国がいかにして大国に入り込めるかが焦点になっていました。17世紀初頭(1600〜)、イギリスとオランダは本格的に東洋進出するためそれぞれ「東インド会社」を設立し、オランダなどは大商館(支店)をジャワ島のバタビア(現 インドネシア首都ジャカルタ)に置き、オランダ連合東インド会社(V・O・C:Vereenigde Oostindische Compagnie)とし、日本進出の拠点とします。この東インド会社は株式会社の商社でありながら、貿易の特許権、独占権などと植民地経営を行い、一種の軍政府のようなもので階級制度を持ち、商館長は領事的役割を持っていました。つまり、日本はオランダと直接、交易を行っていたのではなく、東インド会社を通して交易を行っていたことになります。




〇出島の歴史5<オランダ商館開設
寛永16年(1639)の鎖国令でポルトガル人が国外退去すると出島は3年足らずで役目を終え、空き家となってしまいます。これに困ったのは糸割符貿易で栄えていた長崎市民で、すぐに平戸オランダ商館の移転を幕府に要望します。当時、オランダは慶長5年(1600)のデ・リーフデ号の来航以来、家康への謁見などしたたかで、その後、平戸の松浦鎮信の支持の下、貿易が行われていました。幕府は寛永17年(1640)オランダ商館のキリシタン点検という名目でオランダ商館の倉庫を検索。そして西暦年号の入った倉庫を見つけ半ば強引に長崎移転の理由付けるのです。寛永18年(1641)オランダ商館一行は海路長崎の出島入りし、出島オランダ商館が開設。これには幕府の貿易の管理・統制という目的がありました。




〇出島の歴史4<島原の乱
元和2年(1616)に有馬藩領主となった松倉重政は島原城建設や江戸城普請などのために領民に重税をかけ厳しい取立てを行います。一方、松倉はキリシタンを黙認したこともあって島原には宣教師が多く潜伏していて、このことを知った将軍家光は激怒。寛永2年(1625)以降、厳しいキリシタン弾圧が始まります。寛永14年(1637)重税と弾圧そして飢饉が重なり一揆が勃発(島原の乱)、幕府はこの一揆をキリシタンの反乱とみなして徹底的な攻撃し鎮圧させます。そして、寛永16年(1639)幕府はポルトガル船の入港を禁じ、あわせて出島に住むポルトガル人を国外退去させ鎖国体制を進めます。




〇出島の歴史3<出島完成
天正15年(1587)豊臣秀吉は突如として伴天連追放令を発し、長崎は幕府直轄の公領地として取り上げられ重税が課せられることになります。しかし、南蛮(ポルトガル)貿易は事実上、イエズス会の神父の仲介で成り立っていたのに加え、長崎ではポルトガル人神父は大変な尊敬を持っていたため、幕府(秀吉)は完全な禁教政策に踏み込むことができませんでした。慶長5年(1600)関が原の戦いが終わり徳川幕府の時代となると、幕府は再びキリシタン禁令を出し、長崎にある教会は破壊され厳しい取締りが始まります。一方、ヨーロッパではイギリスやオランダの勢力が中心となり両国の船が頻繁に平戸へ入港。さらには大坂夏の陣では徳川方にオランダ人が援助を行うようになると、幕府は次第にポルトガルと距離を置くようになります。元和年間(1615-1624)、長崎奉行は徐々に長崎の教会の破壊や長崎代官:村山等安の処刑、神父などの処刑を進め、どうにか長崎市民とポルトガル人の接触を最小限におさえるようにし、ついには貿易に関係する有力町人25人を選び出し特権を与えて隔離施設の建設を始めます。そして寛永13年(1636)人工の島:出島が完成するとポルトガル人を収容させ、そこで商取引を行わせるのです。




〇出島の歴史2<南蛮船入港
南蛮(ポルトガル)船の入港後、長崎では生糸と銀の取引を中心とした南蛮貿易が始まり、あわせて市街地の拡大が進みます。そして岬の先端の森崎(現 県庁)には被昇天のサンタ・マリア教会が置かれ、学校や病院など文化施設なども充実しキリシタン文化が花開くのです。一方、この時代は戦国時代の不安定な時代、貿易で潤っていた長崎の地を、佐賀の竜造寺氏や島原の有馬氏、薩摩の島津氏などが注目するようになると勢力が劣っている領主:大村純忠は、長崎は教会の手で保護するのが得策と考え長崎の内町(六町とその周辺)と茂木を天正8年(1580)イエズス会に寄進します。このことは一時期とはいえ、長崎が外国領(イエズス会領)になったことを意味します。しかしそうした中でも大村純忠は南蛮(ポルトガル)船から船舶税を徴収し勢力拡大に備えていました。




〇出島の歴史1<長崎開港
宣教師フランシスコ・ザビエルから日本布教活動を託されたトーレス神父は、永禄10年(1567)修道士のルイス・デ・アルメイダを長崎に派遣。土地の領主:大村純忠はすでにキリシタンであったためアルメイダの布教活動は順調に進み、長崎でも領主の長崎甚左衛門純景(純忠は義理の父)に迎え入れられ、永禄12年(1569)には長崎にトードス・オス・サントス教会の建てられます。当時、長崎には1500人以上のキリシタンがいたといいます。そして元亀元年(1570)長崎浦に南蛮(ポルトガル)船が入港できるかどうかの測量が行われ、直ちに桟橋など港湾整備が進められると、森崎(現 県庁付近)付近に島原方面からの人たちが移住し始め、翌元亀2年(1571)春、六町(現 万才町一帯)が開かれます。同年7月、いよいよポルトガル定期貿易船が入港し、博多など全国各地からの商人団が入り急速に町が発展します。天正16年(1588)長崎の人口は5000人に達します。
※一般に南蛮(ポルトガル)船入港の前年:元亀元年(1570)を長崎開港と位置付けられています。




出島の現況
出島が完成した寛永13年(1636)当時の面積は3,924坪1歩(約12,950平方メートル)、外周が286間2尺9寸(約515メートル)で、扇の内側(江戸町寄り)が96間4尺9寸(約175メートル)、扇の外側(NIB側)118間2尺7寸(約213メートル)、扇の西側(出島電停側)35間3尺8寸(約64メートル)、扇の東側(十八銀行側)35間4尺5寸(約64メートル)の扇型をしていました。しかし明治20年(1887)の中島川変流工事で、扇の内側部分すべてが約15メートル近く削り取られ、さらには明治37年(1904)の長崎港埋立工事において、残る東側、西側、南側が埋立てられ原形を失います。近年、復元工事の結果、ようやく南側および東側の姿がよみがえって来ています。




出島の呼称
出島という呼称は、島そのものを指す場合と出島に建つ家屋の総称をいいますが、オランダ人が居住していたということで阿蘭陀屋敷、和蘭屋敷、出島屋敷とも呼びます。一方、文献などには蘭館、紅毛館、賀蘭館、紅毛庫などと表現され、詩文には蠻楼(バンロウ)、蠻邸楼(バンテイロウ)などと表している書物もあります。しかし、オランダ医のシーボルトは著書で「外人を留置する国立の監獄」と述べ、居住する者にとってはかなり窮屈な場所であることが伺えます。そして開国して半世紀経った大正時代の長崎市史には「紅毛碧眼鴃舌(コウモウ-ヘキガン-ゲキゼツ)の西欧人が在留する日本唯一にして無二の地区」という表現が見えます。
※「鴃舌」は、各自意味をお調べ下さい




出島の名称
当初、出島は長崎港に埋立てられ築き出した島ということで築島(ツキシマ)と呼ばれていましたが、その扇型の地形から扇島(オウギシマ/センショ)、さらには江戸町(森崎)から張り出ている様子から出島になったと考えられています。読み方も今は“でじま”が一般的ですが、現存する出島橋(明治32年架橋)の橋名プレートには“出嶋橋(DESHIMA−BASI)”とあるところから“でしま”と呼んでいたと思われ、出島乙名などが通行手形として使用した出島門鑑には“出嶋門鑑”と刻印が打たれていたことから、“出島”ではなく“出嶋”と使用するのが正しい表示と考えられます。




D-44:出島/出嶋(でじま/でしま)
出島町(旧 出島)
出島は寛永13年(1636)、当時、盛んだったポルトガル人によるキリスト教の布教活動を阻止するため幕府によって造られた人工の島(施設)で、完成後は長崎市内に雑居していたポルトガル人が収容されます。しかし寛永16年(1639)ポルトガル人が国外に追放されると無人の島となり、寛永18年(1641)平戸にあったオランダ商館が出島に移転させられ、以降、オランダ人を収容する島(施設)となります。そして江戸時代末期の安政の開国によって役目を終え、その後は周囲が埋立てられたり削られたりと姿を変え市街地化していきます。大正11年(1922)国の指定史跡となり、昭和29年(1954)から出島復元計画が始まり、そしてようやく平成18年(2006)全公有地化を完了させ施設化し、長崎を代表する観光地として今に至っています。




D-43:出島貝層(でじまかいそう)
出島町(旧 出島)
出島貝層は長崎市中心部の地下3〜5メートルの海成沖積層で多く見られる貝殻を含む泥層のことをいい、長崎港が長い間に順じ埋立てによって形成された地域ということもあって貝殻の混じった地層が多く見られます。この出島貝層ですが、昭和30年(1955)の銅座川付替工事で「おらんだ橋」下で最初に見つかったため、この海成沖積層を出島貝層と呼びます。出島貝層には二枚貝が55種類、角貝が1種類、巻貝が40種類の96種類が含まれ、イセシラガイ(伊勢白貝)、シラオガイ(白尾貝)、カガミガイ(鏡貝)などが多数見つかり、さらには九州北部沿岸しか生息しないビョウブガイ(屏風貝)も見つかっています。出島貝層は長崎市中心部の建設工事でよく見られ、このほかにも協和銀行長崎支店建設工事(銅座町)や茂里町竹の久保通りなどでも発見されています。




D-42:長崎電話交換局跡(ながさきでんわこうかんきょく-あと)
出島町16および銅座川域(旧 築町)
明治3年(1870)長崎に長崎伝信局(のちの長崎電信局)が設けられ、明治6年(1873)長崎-東京間の電信回線が開通します。すぐにベルビューホテル内の大北電信会社長崎支局に移転し、電報の受付けを開始。明治8年(1875)梅香崎町に移転し、明治10年(1877)長崎電信分局と改称。明治19年(1886)には長崎郵便局と合併して長崎郵便電信局となります。明治29年(1896)築町に電話交換業務のための長崎電話交換局を開設され、明治32年(1899)九州で初となる交換業務が開始されます。これにより長崎市内に電話が開通。当時の業務は昼が女性、夜が男性という勤務体制で、明治36年(1903)から女性のみの体制となります。このとき女性の服装が和服に袴姿ということもあって、交換手を「紫式部」と呼び親しまれていました。なお、当時の加入者数はわずかに191人で、昭和2年(1927)長崎電話交換局が千馬町(現 出島町)へ移転した際には加入者数は2784人でした。C-205:2006/04/04、C-292:2006/07/30




D-41:扇橋(おおぎばし)
出島町-銅座町間( -旧築町)
扇橋は昭和30年(1955)の銅座川付替工事によって分断された出島地区と十八銀行本店との間に架けられた橋で、十八銀行本店へ向かうためだけの橋です。そのため一般の通行は出来ません。橋の由来は定かではありませんが、近くにある出島が扇形をしていたところから、その名が付いたものと考えられます。平成6年(1994)再架橋。C-197:2006-3-26




D-40:オランダ橋
新地町-銅座町間(旧 新地-西濱町間)
明治37年(1904)第2期港湾改良工事が完成し、現在の茂里町付近から元船町、出島岸壁、市民病院前に至る広範囲の地域が埋立てにより誕生し、そのため銅座川は思案橋方向から新地と銅座の間を流れ、築町電停付近で直角に折れ、市民病院の前で長崎港に流れ出していました。昭和30年(1955)の銅座川付替工事では銅座川が出島付近で中島川につながるようになると、それまで銅座川だったところ(築町電停〜市民病院前間)は道路となり電車が走るようになり、オランダ橋が誕生します。橋の装飾には南蛮時計がデザインされています。C-196:2006-3-27




D-39:新波止野菜公設市場跡(しんばと-やさいこうせついちば-あと)
銅座町1,2(旧 西濱町)
明治37年(1904)第2期港湾改良工事によって銅座川の河口が整備され、築町(現 銅座町:築町電停付近)に新波止が誕生すると、波止場は野母方面からの行商の船が入るようになり、大正10年(1921)には野菜公設市場が置かれます。市場には指定商人47人を収容。野菜や果物など早朝からお昼にかけて大変な賑わいを見せていました。昭和34年(1959)出島地区の区画整備事業のため市場が尾上町(現 長崎駅裏)に移転すると、市場の西側を道路と路面電車、東側を店舗(商工中金やイリス)とし現在の形体になります。なお、野菜公設市場はその後、昭和50年(1975)に田中町の東望の浜埋立地に移転します。




D-38:新波止(しんばと)
銅座町1,2(旧 西濱町)
新波止とは現在の築町電停付近にあった波止場のことで、大波止や中波止(チュウバト:元船町)の後に作られた新しい波止場という意味で新波止と名付けられました。明治37年(1904)第2期港湾改良工事が完成し、現在の茂里町付近から元船町、出島岸壁、市民病院前に至る広範囲の地域が埋立てにより誕生し、思案橋方向から新地に注いでいた小島川は、新地と銅座の間を流れ、築町電停付近で直角に折れ、市民病院の前で長崎港に流れ出し銅座川が生まれます。これにより小型船などは銅座川河口から築町電停付近に参集するようになり波止場が誕生し、新波止は野母方面からの行商の船で栄え、市が立つようになります。現在、築町電停裏通り付近にある商店などは当時の名残りともいえます。しかし、昭和30年(1955)の銅座川付替え工事によって銅座川が中島川につながるようになると新波止は消滅。それまで銅座川の河口だった市民病院前は道路となり電車が走るようになります。




D-37:新大橋跡(しんおおはし-あと)
新地町-銅座町間(旧 新地-西濱町間)
江戸時代、新地蔵所と橋によって結ばれていた場所は本籠町側と西濱町(現 銅座町)側の2ヶ所で、明治維新を受け新地蔵所が廃され外国人居留地になった後、利便性を考え築町側に橋が設けられます。それは現在のワシントンホテル角から十八銀行本店へ渡すもので、明治2年(1889)に木造の橋:新大橋が架橋されます。しかし、明治34年(1901)の地図を見ると同じ新地から西浜町(ワシントンホテル角から商工中金角)に橋があり、おそらく橋は架け替えられたものと考えられます。埋立が進み数年間しか使用されなかった橋でした。C-195:2006-3-25参照




D-36:長崎電軌軌道築町電停(ながさきでんききどう-つきまちでんてい)
銅座町(旧 東築町)
明治44年(1911)長崎電気軌道株式会社によって路面電車敷設の申請が行われますが、時代は不況の真っ只中で資金確保が難しく、申請路線の縮小や工費削減を行い賛同を得、大正4年(1915)5月、ようやく工事が始まります。路線の第一期線が同年11月16日に完成し、病院下-築町間が結ばれます。当初は1区1銭で、基点の築町電停は現在の築町電停より東側、長久橋付近にあって、桐の木が1本立っていて目印になっていました。開業当初の電停は、築町-千馬町-末広町-大波止-浦五島町-長崎駅前-八千代町-稲佐橋通-井樋の口-浦上駅前-坂本町-病院下で、現在の路線とは道路の形状や町の形が違うため同じ場所はなく、唯一、現在の築町-出島間のNIB横の直線部分が大正時代のままということです。




松田源五郎(まつだ-げんごろう)
松田源五郎(天保11:1840-明治34:1901)は長崎市酒屋町の鶴野家に生れ、そして叔父の貿易業:松田勝五郎の家で育ちます。若くして日本各地や中国を視察、貿易を学び、万延元年(1860)松田家に養子に入ります。明治3年(1870)十八銀行の前身となる永見松田商社を同じく貿易業:永見伝三郎と立ち上げ、これが後に第十八国立銀行となるのです。さらに明治12年(1879)長崎商工会議所の前身である長崎商法会議所を立ち上げ(A-85:2003-8/8参照)、それからも市議会議員、県議会議員、衆議院議員に進み長崎の政財界の発展に寄与します。現在、松田源五郎の銅像が長崎公園に建立されています。墓所:光源寺。2004/05/14参照




D-35:「長崎商工会議所発祥の地」の碑
銅座町1-11(旧 東築町)【十八銀行本店】
碑文より「長崎商工会議所の前身長崎商法会議所は明治十二年十月一日この地松田商行内に創設された。設立の目的は開国後の自由通商制に沿う旧来の長崎制限貿易の改組と通商近代化にあり、旧長崎本商人等の議員五十人は松田源五郎を初代会頭に推し、その卓抜な指導と議員の戮力はよく苦難経営に耐え世紀の道の第一歩を印した。今日、草創百年に方り碑を建立し先蹤(センショウ)を頌える。昭和五十四年十月 商工会議所
※なお、碑文内に「この地松田商行内に」とありますが、当初、松田商行(永見松田商会:明治5年設立)は東濱町にあって、この地に移転したのは明治22年のことで、さらに、商工会議所は明治16年から桜町に移転しています。




十八希望の鐘(じゅうはちきぼうのかね)【十八銀行本店】
十八希望の鐘は昭和63年(1988)十八銀行110周年を記念して建立されたもので、三菱重工業株式会社長崎造船所によって製作されました。鐘はオブジェではなく毎日定時になると時を告げ、碑文には「長崎の四季にひびきわたり ふるさとの限りなき繁栄と 幸福を希望しこの鐘を建てる」とあります。
※鐘を設置した柱が鉄製のため近年では錆が目立つようになりました。




なんばんえびす【十八銀行本店】
なんばんえびす」は、世界的彫刻家の流政之(大正12:1923〜)の作品によるものです。流政之は長崎出身で第2次大戦時、零線パイロットを経験。終戦後は彫刻家の道を進みます。今は無きニューヨーク貿易センタービルのシンボル:巨大彫刻の「雲の砦」は彼の代表作で、平成13年(2001)のテロ事件の際でも奇跡的に残りました(復旧作業のため撤去)。
この「なんばんえびす」は十八銀行の創立100周年を記念して昭和52年(1977)建立されたもので、碑文には「長崎開港の由来にちなみよろず繁盛のシンボルとしてこのえびす像を世におくる」とあります。※えびす像の袖部分に当時の頭取:清島氏の名が刻されています。




D-34:十八銀行(じゅうはちぎんこう)
銅座町1-11(旧 東築町)【十八銀行本店】
明治3年(1870)長崎物産会所の貸付金銭業務を委託された協力社が設立(のち六海商社)。一方、明治5年(1872)明治政府は混乱した金融政策を整え近代化を進めるため国立銀行条例を公布し、それによって各都市に国立銀行が生まれます。同年、協力社の松田源五郎、永見伝三郎は意見の対立で新たな金融機関:永見松田商社を設立します。すぐに増資を行い立誠会社となり、明治10年(1877)立誠会社を発展させた第十八国立銀行が東濱町に誕生します。当時は資本金16万円、一株100円でした。明治22年(1889)俵物役所跡に新社屋を設け東築町(現在地)に移転し、明治30年(1897)株式会社十八銀行となります。その後、県内の小銀行などを合併や吸収して確立して行き、現在に至ります。なお、明治22年(1889)に造られた社屋は2階建で洋館で町のシンボルでしたが、昭和44年(1969)の新社屋完成で姿を消しました。




D-33:湊会所跡(みなとかいしょ-あと)
銅座町1-11(旧 東築町)【十八銀行本店東側】
安政6年(1859)5月。幕府は長崎、神奈川、函館が露、仏、英、蘭、米の各国との自由貿易を許可し、6月には外交や貿易に関する事務取扱いの役所として長崎会所の一機関の湊会所を、東築町の俵物役所内に設置します。その後、空き家となった大浦番所跡に移転しますが、万延元年(1860)大浦海岸の造成のため再び俵物役所内に戻り、文久3年(1863)運上所と改称し、慶応2年(1866)梅ヶ崎町(現 市民病院)に移転、明治元年(1868)外国管事役所、翌明治2年(1869)外務局と改称し、昭和3年(1929)出島町に移ります。さらに昭和18年(1943)九州海運局長崎支局に併合。昭和21年(1946)門司税関長崎支署、昭和28年(1953)長崎税関と改称し現在に至ります。C-208:2006-4/8、C-223:2006/04/26参照




D-32:俵物役所跡(ひょうもつ-やくしょ-あと)
銅座町1-11(旧 東築町)【十八銀行本店東側】
俵物の読み方は「ひょうもの」「たわらもの」「ひょうもつ」と様々ですが、実際どのように発音していたかははっきりしていません。俵物は乾物(カンブツ)を俵に詰めたもののことをいい、諸色とも呼ばれていました。主に中国への輸出用品で干し海鼠(ナマコ)、干し鮑(アワビ)、干し鱶鰭(フカヒレ)、昆布(コンブ)、スルメ、鰹節(カツオブシ)、干し海老、寒天(カンテン)などが扱われ、このほかにも椎茸や樟脳(ショウノウ)、漬物、陶磁器、漆器、工芸品などもありました。
江戸時代、日本からの輸出品は金や銀、その後、銅などが扱われていましたが、国外流失に歯止めがかからず、幕府はそのその代替品として中国の食材などに重宝がられた乾物へと移ります。俵物会所はその乾物を扱っていた役所で延享2年(1745)に俵物請負方によって西濱町に設立されます。すぐに長崎奉行所と長崎会所によって管理が行われ、寛政10年(1798)東築町に移転。幕末になると中国貿易の不振で一時衰退し、文久元年(1861)産物会所に改称。慶応元年(1865)には大坂の会所と合併してすべての取引を管理するようになります。慶応3年(1867)長崎商会と改称。維新後、長崎県物産会所となりますが、明治2年(1869)に廃止されます。




D-31:対馬藩蔵屋敷跡(つしまはん-くらやしき-あと)
江戸町9,銅座町1-11(旧 西築町)【十八銀行本店西側】
九州各藩は長崎警備の目的で多くの軍勢を長崎に派遣しなければならず、そのため市内には10数箇所の藩屋敷が置かれていました。藩屋敷は長崎奉行所との連絡業務のほか、長崎に入る世界情勢などを収集するに大変重要な拠点でした。
対馬藩は正式には対馬府中藩といい、別名を厳原藩といいます。金石城を拠点とした宗氏の領地で10万石格の藩でした。
対馬藩蔵屋敷があった場所は江戸時代、西築町に属していましたが、明治時代後期に行われた中島川変流工事によって分断され、敷地のほとんどは長久橋-出島橋間の中島川になっています。




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