広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成20年 〜2008年〜
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D-315:世界平和の碑(せかいへいわの-ひ)【福済寺境内】
世界平和の碑は昭和58年(1983)修養団捧誠会長崎支部によって建立されたもので、碑には彫刻家の北村西望によって「悠久世界平和・百歳叟西望塑人」と書かれています。北村西望は平和祈念像を作った作者で、昭和33年(1958)に文化勲章受賞しました。




D-314:王翁W慊喜壽記念標【福済寺境内】
(おうおう-きけん-きじゅ-きねんひょう)
王W慊(弘化4:1847-?)は中国福建省同安県出身で16才で長崎に渡り新地で輸入雑貨業:徳豊号へ入ります。その後、熱心に働き出世し、世に認められ時中学校駐崎中華領事となり、福済寺の発展に寄与します。この碑は、王氏の喜寿(77歳)を記念し長崎貿易商組合によって大正12年(1923)に建立されました。?




重修もZ寺碑
重修もZ寺碑には開山の経緯が記され、また、明治に入り境内の整備が長崎、横浜、大阪、上海の華僑の手によって行われたことが刻されていて、中国元号(清):光緒元年:日本元号:明治8年(1875)に建立されています。
重修もZ寺僧置葬地碑
重修もZ寺僧置葬地碑は、中国元号(清):同治元年:日本元号:文久2年(1862)に建立されたもので、おそらく墓地整備の記録と考えられます。

※なお、現在、文殊般若の門のそばに原爆で倒壊した、または、風化した碑が建っています。上記のどちらかのものと考えられます。




D-313:文殊般若の門(もんじゅ-はんにゃのもん)【福済寺境内】
文殊般若の門」は福済寺復興事業によって昭和54年(1979)に完成した楼門のことで、門の上部には梵鐘、門の正面中央には如意棒をくわえた獅子の面が設置されています。この獅子ですが、知恵をつかさどる文殊菩薩がお乗りになっているのが獅子で、そこからこの門を知恵の門とも称し、くぐることによって知恵が増長するそうです。また、梵鐘は大きな鉄の輪につられていて、輪は原子雲と犠牲者が一団となって安楽する楽園を意味し、さらには楼門にある扁額「犍槌一打十方賢聖雲集/梵鐘七振三途八難脱苦」によると、梵鐘を7打打つことで原爆及び戦争犠牲者への慰霊供養になるといわれ、毎日原爆投下時間11時2分に7打撞かれているということです。




供養塔【福済寺入口】
福済寺入口付近には9体の三界萬霊塔六十六部塔などの供養塔が置かれています。
【入口左1番目】大乗妙典第六十六部塔:延享5年(1748)
【入口左2番目】経型塔:享保5年(1720)施主:大坂冨田三四郎ほか
【入口左3番目】
経型塔(洪水供養):享保6年(1721)施主:西中町佐藤庄助
【入口左4番目】
大乗妙典塔:延享2年(1745)施主:本古川町頴川四郎太母
【入口左5番目】
大乗妙典塔:宝暦9年(1759)施主:酒屋町村田伊左衛門母
【入口左6番目】南無大師遍照金剛塔
【入口左7番目】大乗妙典第六十六部塔:宝永8年(1711)
【入口左8番目】大乗妙典第六十六部塔:享保17年(1732)
【入口左9番目】三界萬霊塔
【忠魂碑横】
大乗妙典第六十六部塔:宝暦13年(1763)施主:mサ屋市右衛門

六十六部とはお経の一つである法華経(ホケキョウ)を66部、写経し、昔の日本国内にあるすべての国(66ヶ国)にある寺院を巡り、写経した経文を奉納する僧のことで、六部とか回国、廻国などと呼ばれていました。また、六十六部塔は奉納した証として建立されてものと考えられます。歴史は鎌倉時代から続いていますが、長崎のものはほとんどが江戸時期のものです。なお、これら供養塔は福済寺焼失後の境内整備で入口付近に集められています。




D-312:福済寺地蔵堂【福済寺境内】
福済寺の地蔵堂は以前まで青蓮堂の東側(現 東側駐車場の東端)にあって、地蔵菩薩石像のほか観音菩薩石像など数体が安置されていました。地蔵尊は元禄12年(1699)に建立され、以降、上筑後町の住民によってお世話を受けますが、当時は信仰者が多くたくさんの供物が上がっていました。そのため盗むものがあったため柵を設けるほどでした。昭和20年(1945)の原爆による火災はこの地蔵尊の付近で火事が止まり、以降「火除け地蔵」として大切にされています。現在は福済寺入口付近に安置されています。




D-311:福済寺末寺・末庵【福済寺境内】
江戸時代、福済寺にはたくさんの末寺があって、桑蓮居(旧夫婦川郷)、永聖院(福済寺後山)、興徳庵(後山)、紫雲庵(聖無動寺石段左側)、光明庵(現 稲佐教専寺)、水月居(稲佐)、大慈庵(西山神社下)、松林庵(中川)、法源斎(旧浦上村山里)、慈眼庵(稲佐)、東光寺(滋賀県)、霊鷲院(旧上筑後町)などがありました。ほとんどが明治維新によって廃寺となり売却され、霊鷲院だけが寺格を確立し大正9年(1920)再び独立し黄檗宗唯一の庵として進みます。その後、福済寺に再び合併し現在は福済寺墓域となっています。D-271:2007/12/05参照




D-310:萬国霊廟長崎観音
(ばんこくれいびょう-ながさきかんのん)【福済寺境内】
昭和27年(1952)から第29代住持:三浦実道によって始められた福済寺復興事業は昭和54年(1979)に27年の歳月をかけて完成します。事業は華僑墓地改葬、墓地霊園開設、境内地/参道改修、萬国霊廟長崎観音創建、鐘楼再建などで総事業費は4億円に上ります。
このうち長崎観音は、当時、アルミ合金製としては世界最大といわれ(霊亀頭:F.R.P=繊維強化プラスチック)、地上35メートル、観音像の重さ35トンを誇り、建立には戦争犠牲者及び原爆殉職者への慰霊の意味が込められています。なお、観音像が置かれている亀は縁起物で仏さまのつかいである霊亀を意味し、観音像の左手は慈悲心、右手は布施の心を表し、これらは原爆殉難者への水の施しと鎮魂を意味します。また、像の足元には「過去・現在・未来」を示す3人の童子像がひざまずいて合掌しています。
創建三百五十周年記念戦災復興事業完遂記念碑
昭和54年(1979)福済寺戦災復興事業の完成と創建350周年記念をして建立されました。




〇国宝福済寺焼失のようす
昭和20年(1945)8月9日午前11時2分。浦上に投下された原子爆弾によって発火した炎はしだいに勢いを強め、大黒町、西上町をなめつくし下筑後町の一角に燃え移ったのは日暮れに近くになっていました。その頃になると火の手は見る見る全町に回り、誰一人消火に務める者はなくただただ避難に夢中になっていました。そして爆心地から南東へ2.6キロメートルの国宝福済寺に燃え広がり、ついに大雄宝殿、護法堂、青蓮堂、大観門、回廊の国宝建造物、宝物を始めとする書院の沈南蘋筆の板戸牡丹図、小原慶山筆壁画などの一切が次々に炎上し、境内は一夜にして瓦礫の山と化すのです。
昭和27年(1952)第29代住持:三浦実道は再建を決意し檀家や地名士を訪ね寄附を求めさらには托鉢によって浄財集めを開始するのです。




小原慶山(おはら-けいざん)
小原慶山(?-享保18:1733)は、本名を雅俊、字を霞光、渓山といい、後に慶山と号します。丹波(兵庫県中部)の出身で京で雪舟の流れを汲む曽我蛇足に学び、江戸に出て狩野洞雲につき、その後、長崎入りして逸然の弟子である河村若芝を師事します。和漢を融合した画風は一派をなし、また、多くの黄檗僧の頂相を描きます。享保16年(1731)に沈南蘋に贈った墨龍が絶賛されたことは有名で、松森天満宮の職人尽の下絵を手がけたともいわれています。
沈南蘋(しん-なんぴん)
沈南蘋は中国浙江省呉興県雙林鎮(ソウリンチン)出身で、名を銓(セン)、号を南蘋、字を衡斎といい、享保16年(1731)から3年間。長崎奉行の招きによって渡来したと考えられています。彼の画法は中国院体画の流れを汲むもので、絵の中の動物に霊気を含ませるものでした。長崎では内通事小頭であった神代彦之進(熊斐:ユウヒ)に伝えられ、のちの画界に影響を与えます。




D-309:書院/方丈/庫裏/斎堂
(しょいん/ほうじょう/くり/さいどう-あと)【福済寺境内】
書院/方丈/庫裏/斎堂の各施設は棟続きの建物で、住職ほか僧侶の住居兼接客室などを兼ね備えたもので、大雄宝殿と同時期の明暦元年(1655)に建てられました。特に南西側に面した書院はたいへん豪華で、当時は長崎港が一望でき、また、室内の壁から襖(フスマ)には画人の小原慶山によって山水画や松竹梅などが描かれたり、沈南蘋(シン-ナンピン)による花草童子の絵などが描かれていました。位置は現在の大雄宝殿(本堂)付近一帯で、昭和20年(1945)の原爆投下後の火災によって焼失します。




D-308:鐘鼓楼跡(しょうころう-あと)【福済寺境内】
鐘鼓楼は青蓮堂の東側(現 東側駐車場の東端)にあって正保4年(1647)の梵鐘建立の際に建築されたものと考えられ、当初はたいへん珍しい六角形の建物でした。梵鐘は明治維新後に寺勢衰退のため売却され六角形の建物も解体されますが、しばらくして古鐘を購入。鐘楼も再建されます。第二次大戦中、梵鐘は供出。建物は昭和20年(1945)に原爆投下後の火災によって焼失します。現在は昭和54年(1979)に「鎮魂の鐘」として再建され、毎日、7万人原爆被害者の慰霊のために投下時刻の午前11時2分に7打、撞(ツ)かれています。




〇青蓮堂の関帝像の伝説【福済寺境内】
福済寺青蓮堂にあった関帝像には次のような言伝えが残っています。その昔、堂内に安置されていた関帝像には、関帝の愛馬であった石兎馬(セキトバ)の像も一緒に置かれていましたが、一方で夜遅くなると町を走り回る馬の(クツワ=馬の口につける金具)の音が聞こえるという噂(ウワサ)が立ちだします。この噂を耳にした福済寺にいた木庵禅師は、噂は市民を惑わすものとして仏具である如意を持って石兎馬の像を一撃。石兎馬の像は竹のように割れて裂けてしまいます。以降、夜になってもの音は聞こえることはなくなったといいます。関帝像は現存せず。




大観門跡(だいかんもん-あと)【福済寺境内】
福済寺の青蓮堂には大雄宝殿のように前面に大観門という門と回廊があって、形状は上部は福建会館門、下部は祟福寺第一峰門に比較的似ていて、建立は青蓮堂と同時の明暦元年(1655)に建てられました。昭和20年(1945)に原爆投下後の火災によって焼失します。
当時、門正面に鰲江林千垓(ゴウコウリン-センガイ)による書で「山海大観」という額が掲げられているところから大観門と称されるようになり、また、門の両側に石敢当(セッカントウ)という草花などの彫刻が施されている円形の石がありました。現在、石敢当は観音像正面入口に復元されています。




D-307:青蓮堂跡(せいれんどう-あと)【福済寺境内】
青蓮堂とは観音堂のことで福済寺では大雄宝殿の次に大きな建物で、大雄宝殿と同時の明暦元年(1655)に建立されました。規模は興福寺の媽姐堂に似た入母屋造で興福寺のそれより大型の建物で、昭和20年(1945)に原爆投下後の火災によって焼失。場所は現在の東側駐車場付近にありました。
堂内の柱や梁、扉、欄間には草花の彫刻に彩色がなされたいへん豪華で、正面に観世音菩薩、韋駄天、毘沙門天などが、左段に天后聖母(媽姐)と侍女、右段に関帝などの木像が安置され、左側には祟福寺や興福寺のように媽姐棚が設けられていました。




大雄宝殿中門【福済寺境内】
福済寺の大雄宝殿には聖福寺のように前面に門(中門)があって大雄宝殿と門は回廊で結ばれ、門の正面が弥勒殿、裏面が天王殿となっていました。弥勒殿には弥勒像と6体の唐子像が安置され、特に弥勒像はたいへん親しみのある像で「福済寺の布袋さん」として広く市民に知られていたといいます。一方、天王殿には韋駄天像が安置され、江戸時代後期の長崎名称図絵によれば、その昔、陳道隆(日本名:頴川藤左衛門)が五島近海を航行中、嵐に遭って船が傾きかけたとき、船首に中国の武将が現われ鎧でもって嵐をかざし船員らを助けたといい、それが福済寺の韋駄天像をだったといわれています。現存せず。




大雄宝殿の堂内【福済寺境内】
大雄宝殿の本尊は釈迦如来像、両脇には文殊菩薩像と普賢菩薩像が安置されていて、ほかにも大権修理菩薩、達磨大師の木像がありました。特に本尊の釈迦如来像は明暦2年(1656)中国福建省南海普陀山から寄贈されたもので、楊貴妃の念持仏(身につけていた仏像)という伝説を持っていたり、大権修理菩薩と達磨大師像は寛永10年(1633)福建省漳州府龍渓県の仏師:高龍と呉眞が渡来し恵美須町に滞在中に彫刻したものと伝えられていました。このほか大雄宝殿堂内には隠元禅師木庵禅師ほか多数の唐僧の聯額が掲げられていました。原爆によりすべて焼失します。




D-306:大雄宝殿跡(だいゆうほうでん-あと)【福済寺境内】
大雄宝殿とは仏殿つまり本堂のことでお寺の中心となるお堂をいい、福済寺の大雄宝殿は昭和20年(1945)に原爆投下後の火災によって焼失しました。場所は現在の観音像付近でにあって建築は明暦元年(1655)。祟福寺や聖福寺の大雄宝殿に似た入母屋造で祟福寺や聖福寺のそれより大型の建物でした。堂内は聖福寺のように土間で、天井は張っておらず、また、折り扉になっていて、柱はすべて朱塗りの円柱で、梁間には魚型彫刻の肱木が施されていました。屋根の中央に唐人屋敷福建会館のように約1.8メートルほどの五重の塔(銅製)があって両端に銅製のシャチホコが載っていました。




D-305:グラント将軍歓迎の宴【福済寺境内】
グラント(1822:文政5-1885:明治18)はアメリカ軍人でアメリカ南北戦争(1861:文久元-1865:慶応元)時、北軍の総司令官として指揮を執り、後に第18代アメリカ大統領(任期:1869:明治2-1877:明治10)となった人物です。グラントは退任後、世界漫遊の旅に出かけ明治12年(1879)国賓として来日します。6月21〜26日長崎歴訪。22日は長崎公園にて植樹、23,24日は県や民間の歓迎会、25日三菱造船所を視察というスケジュールでした。また、22日は福済寺において長崎県令:内海忠勝主催による歓迎の宴が行われ、アメリカ公使:ビンハムほか在日アメリカ人や、日本政府から伊達宗城らが参列、長崎市民代表として松田源五郎や青木休七郎らが出席します。2004/05/17参照




D-304:慈岳施粥(じがくの-せがき)【福済寺境内】
延宝8年(1680)秋。日本各地で飢饉が発生。長崎への廻米も少なくなり飢餓に苦しむ市民が増加し始めます。天和元年(1681)正月。福済寺第2代住持:慈岳禅師は率先して托鉢を行い施粥(お粥の施し)を始め、多くの市民を救うのですが、飢饉は厳しくなるばかりでついには米不足を起こします。そのため長崎奉行牛込忠左衛門は官米500俵を下付し、6月まで施粥が続けられます。当初は一日に500〜700人の施粥も6月ごろには2000〜3000人に及び、その後もまだ飢饉が続いたため長崎奉行はさらなる援助を行います。飢饉はこの年の6月にようやく落ち着きをつき慈岳施粥は終わりますが、その年の秋に再び飢饉が起こり、このときは祟福寺の千呆が施粥を行います。千呆は翌年の春に世にいう「祟福寺の大釜」を使用するのです。




〇福済寺の山号:分紫山
開基:覚悔は寛永5年(1628)から示寂する寛永14年(1637)までの10年間、住持を務め、その後は覚悔とともに渡来した了然と覚意が看坊(後見人)を務めます。慶安元年(1648)大壇越であった頴川藤左衛門は、泉州に住する父と協議して木庵禅師と親交の深い福建省の紫雲山開元寺の僧:薀謙戒琬(ウンケンカイエン)を福済寺に招くことを決めます。薀謙は在留唐人らからの招きに感激し、翌慶安2年(1649)福済寺に入ります。このとき紫雲山開元寺のことを忘れないためにと福済寺の山号を分紫山と称するのです。




D-303:黄檗宗分紫山もZ寺(-ぶんしざん-ふくさいじ)
筑後町2-56(旧 下筑後町)
江戸時代初め、長崎市内には多くの南蛮人の商人などが雑居し、また、長崎の大多数が内面はキリシタンで、唐人においても一部信仰していた者もいました。そのため幕府は厳しいキリシタン弾圧政策を推し進め、南蛮人や日本人のほか唐人に対しても取締りを強化して行くようになります。このため唐人の来日目的が貿易であるのに対し宗教上のことで支障を来たす恐れをかいてきます。一方、中国南京地方の唐人は率先して元和元年(1615)興福寺(南京寺)の建立を行い、それ以外の唐人は稲佐の悟眞寺を菩提寺としていました。しかし寛永3年(1626)第5代長崎奉行に就任した水野河内守守信の弾圧は厳しく、早急な出身地毎の寺院建立の必要性が生まれ、寛永5年(1628)中国福建省泉州府出身の唐僧:覚悔が弟子の了然と覚意の両僧を伴って長崎に来舶し、岩原郷の村主宅跡に庵を建て天后聖母を祀り福済寺を創建するのです。当初、福済寺の壇越は泉州出身だったことから泉州寺と称していましたが、のちに漳州(チャクシュウ)出身の頴川藤左衛門などが大壇越になったので福済寺漳州寺とも呼ばれるようになります。以降、多くの寄進で隆盛を極め、境内が整備され長崎でも有数の唐寺となり、明治32年(1899)黄檗宗寺班別格地の資格が与えられ、明治43年(1910)内務省より特別保護建造物(国宝)に指定されます。昭和20年(1945)8月9日。原爆の爆風は福済寺を破壊し、その後の火災で福済寺は焼失します。その後、堂宇が再建され昭和51年(1976)世界平和を願い万国霊廟長崎観音が建立されます。




二十六聖人殉教の地(法泉寺跡説)
二十六聖人殉教の地が西坂の地であることが一般的ですが、これは確定したものではなく郷土史家の故渡辺庫輔先生によると法泉寺跡付近(旧 下筑後町)だったとする説が存在します。
昭和26年(1951)7月21日。長崎県戦災復興委員会文化厚生専門委員会が行われ、確定しかけた浜口庄八神父が唱える西坂説に対し、渡辺庫輔委員が法泉寺跡説を提案。長崎日日新聞社社長渡貫良治氏が議長となり、古賀十二郎氏の審判によって話し合われますが結論が出ず、法泉寺跡に一説として碑を建立することで決着を得ます(しかし建立実現せず)。
確かにフロイスの「殉教記※」の一節に26聖人が殉教した場所は「時津街道と海の間に挟まれた小高い所。26本の十字架を一列に並べるのに十分な広さ。町や港に浮かんだ船からも十字架が見えた。十字架の左手にサン・ラザロ病院(現 本蓮寺)があり、受刑地の裏側の谷間には刑場が広がっていた」とあるところから、処刑場が西坂公園であれば海から十字架(処刑地)を見るとサン・ラザロ病院(現 本蓮寺)が右手になり、法泉寺跡付近(現 筑後町)であれば左手になります。
※フロイス「殉教記」は長崎文献社発行の「旅する長崎3」を参考にしました。




D-302:感化院跡(かんかいん-あと)
明治41年(1908)法泉寺住持:大塚惠暢は非行少年や少女を収容保護し、教育および矯正を行う感化事業を独力で始めます。開設直後、感化院の功績は高く評価され、同年、長崎県代用感化院に指定され、その必要性が広く一般にも認められることになります。その後、長崎開成学園と改称し、大正2年(1913)施設が手狭に成ったことから長崎県によって坂本町(現 長崎大学医学部保険学科付近)に新築移転します。昭和20年(1945)原爆の影響で建物は破壊。昭和23年(1948)新制発布により長崎県立開成学園となり、現在は長崎市平山台に置かれています。




D-301:浄土宗三佛山渓林院法泉寺跡
筑後町3-22(旧 下筑後町)
元和2年(1616)開山した大音寺開基:傳譽は、元和7年(1621)長崎奉行の許しを得て下筑後町に一寺を建立。大音寺の末寺とし弟子で護衛もしていた信譽順同を住持とします。当時は雲海山瑞巖寺といい、宝暦明和年間(1751-1772)に三佛山渓林院法泉寺と改称します。本堂、鐘楼、観音堂、地蔵堂、山門と備え、また、梵鐘は鍛冶屋町の鋳物師:阿山弥五左衛門国久によるものでしたが第2次大戦で供出。さらには昭和20年(1945)8月9日。原爆の爆風で建物は破壊され、その後の火災で焼失します。その後、再建されますが老朽化と手狭な環境から第28世住持:玉連社栄誉の33回忌を記念して昭和57年(1982)現在地に移転し今に至ります。




D-300:原子爆弾災死者収骨所【真宗大谷派長崎教務所】
昭和20年(1945)8月9日。浦上に投下された原子爆弾によって多くの長崎市民が犠牲となり、特に爆心地周辺には多くの遺体が横たわっていました。直後、アメリカ軍は浦上川周辺に飛行場建設を計画したため援助に集まった人たちによって遺体の収容作業が始まり、翌年3月、当時の東本願寺長崎教務所の婦人会も加わり、長崎駅付近から住吉方面まで作業を進めます。遺体は大浦の妙行寺に収容するも施設が不備のため西坂の教務所に収容されることになり、そして教務所はこうした身元の分からない遺体に対し丁重に荼毘に付し、以降、毎月9日に法要を営むこととします。現在、教務所の一部は原子爆弾災死者収骨所とされ今なお管理がなされています。また、平成11年(1999)こういった惨状を今に伝えるため戦後50年を期に「非核非戦」の碑が建立されました。




D-299:真宗大谷派長崎教務所/東本願寺長崎教会
(-ひがしほんがんじ-ながさききょうかい/-きょうむしょ)
筑後町9-23(旧 下筑後町)
真宗大谷派(本山:東本願寺)は全国を30の教区に分け、本山からの連絡事務所的役割を持つ教務所が置かれています。長崎教区は長崎県下を統括しその中心が長崎教務所です。
唐人屋敷は明治維新を受け廃されると多くの移住者が入り、その移住者の大半が真宗信徒で、当時、付近に真宗寺院がなかったため大谷派の僧:荒木圓陵が明治9年(1876)館内町の観音堂横に説教場を設けます。明治27年(1894)大谷派教務所となり、昭和初期、西坂町(現 西坂公園)に移転。しかし昭和20年(1945)原爆による火災によって焼失し、後に現在地に移ります。このほか境内地にある東本願寺長崎教会は京都:東本願寺の長崎における説教(布教)所です。




D-298:真言宗施無畏山寶王院法界體性寺跡
(-せむいざん-ほうおういん-ほうかい-たいせいじ-あと)
筑後町9-23(旧 下筑後町)【東本願寺長崎教会】
寛永3年(1626)長崎入りしていた高野山(現 和歌山県)の僧:宥道(ユウドウ)は、時の第5代長崎奉行水野河内守守信の願いであった一寺建立実現のため、京都仁和寺の許しを得、下筑後町に體性寺(タイセイジ=体性寺/躰性寺)を建立し、不動明王と菅原道真公を祭神とします。寛永14年(1637)「島原の乱」が起こった際、奉行の命で調伏(=呪い殺す意)の祈祷がなされたり、正保4年(1647)のポルトガル船入津の際は退散祈祷がなされたりと重要な役割をもち、以降、長崎奉行所の寄進で境内整備がなされます。その後、唐船の航海安全祈願などが行われていましたが、明治維新後に廃寺となり天満宮として神社と変わります。その後、維持が困難となり信者の伝(ツテ)で現在の出雲町に明治29年(1896)移転し、現在では出雲神社として出雲地区の鎮守神としてお祀りされています。C-269:2006/06/21




D-297:幣振坂(へいふりざか)
筑後町7〜6、寺町-鍛冶屋町、寺町2〜3
江戸時代、風頭山(立山)は良質な安山岩が豊富に切り出され長崎市内の階段や鳥居などに広く利用されていました。現在、石切り場は風頭公園(およびホテル長崎下付近)になっていますが石材はそこから人力にて坂を下り市街地まで下ろしていました。寛永15年(1638)諏訪神社の一の鳥居(現在の二の鳥居)建立の際、郷民2000人が石材をひいたがうまくいかず、1人がを振って音頭をとったところようやく動いたといいます。このことからこの坂を幣振坂と呼ぶのです。幣振坂は晧台寺横の坂と延命寺-長照寺境の坂、さらには女風頭の旧體性寺横の坂をいいます。なお、女風頭の幣振坂は五社神社参道でもあります。B−74:2004/09/23




D-296:長崎奉行所普請方役宅跡
(ながさきぶぎょうしょ-ふしんかたやく-たくあと)
中町or筑後町(旧 西上町)
江戸時代、旧西上町の通りには長崎奉行所普請方役の屋敷がありました。普請方役は長崎奉行所やその関係の建物について、建築および土木工事を管轄する役職でした。なお、所在地は不明。




D-295:佐賀藩馬小屋跡
筑後町3-24(旧 西上町)【長崎財務事務所】
江戸時代、この地に佐賀鍋島藩の馬小屋があったといわれています。明治時代になり明治政府所有地となり、その後、大蔵省(現 財務省)福岡財務支局長崎財務事務所となります。なお、佐賀藩の蔵屋敷は大黒町の海岸沿い(現 ニュー長崎付近)にありました。A-3:2003/05/06




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