広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成19年 〜2007年〜
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D-294:西中町地蔵(にしなかまち-じぞう)
立山2-15-12付近
明治10年(1877)頃、西中町に住む富永という人の夢枕に地蔵尊が現われ「自分は浦上川に捨てられている石地蔵である。救い上げて西中町に祀るならば町内に流行病(ハヤリヤマイ)は絶対におこらないであろう」と告げられたといいます。富永さんは不思議に思い浦上川に行ってみると石地蔵を発見し、早速、自宅でお祀りすることにします。それからというもの流行病が起こらなくなったといい、しだいに町内の人々も信仰を厚くし明治40年(1907)ごろには西中町民でお祀りすることになり、本河内の紺屋町の土地を借りて安置します。そうして毎年4月24日の地蔵尊の縁日には町の青年団が地蔵尊を町内にお連れし盛大にお祭がなされ、逆に信仰に反対したり信仰を怠ったりする家庭は病気が長引くなどの影響が出ていたそうです。第2次大戦後、町内の話し合いで幣振坂の突き当たりに移転し今に至ります。




ほほえみの十字架【中町天主堂】
ほほえみの十字架」とはスペインのザビエル城に伝わる特別な十字架のことで、日本にキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルが生涯、信仰の原点として大切にしていた十字架といわれています。一方、近年まで中町教会には大きな十字架がなかったため下川英利神父が模索していたところ、平成10年(1998)ごろ「ほほえみの十字架」の存在を知り、早速、スペインの工房でレプリカの製作を始めます。「ほほえみの十字架」はザビエルが信仰の原点としていた点と、ザビエルが日本におけるキリスト教の原点という共通項から中町教会に置くことを決意したといわれ、平成16年(2004)中町教会に奉納安置され記念ミサが行われました。




司祭館・信徒会館落成記念樹【中町天主堂】
平成11年(1999)中町天主堂内に新しく司祭館と信徒会館が落成したのを期にタイサンボク(泰山木)の木が植樹されました。
聖フランシスコ・ザビエル生誕500年記念・ほほえみの十字架祝福奉納記念植樹
平成18年(2006)聖フランシスコ・ザビエル(1506-1552)生誕500年と、ほほえみの十字架祝福奉納を記念してモミジが植樹されました。




聖人ロレンソ・ルイス像【中町天主堂】
聖人ロレンソ・ルイスは長崎十六聖殉教者の一人で、フィリピン人で初めて聖人の称号を受けた人物です。長崎十六聖殉教者は昭和56年(1981)マニラで列福し、昭和62年(1987)ローマにおいて列聖しますが、平成4年(1992)聖ロレンソ・ルイスはさらに、マニラ大司教区のハイメ・シン枢機卿や長崎大司教区のフランシスコ・ザビエル島本教区長から、彼の信仰がたたえられ銅像の建立となりました。建立は日本航空関係の団体の寄進によるものです。




D-293:長崎十六聖殉教者之碑【中町天主堂】
十六聖殉教者とは、日本人9名、スペイン人4名、フランス人1名、イタリア人1名、フィリピン人1名の計16名の殉教者を指し、日本人などは聖ドミニコ会に属し、司祭、修道士、修道女など寛永6年(1629)〜14年(1637)ごろに西坂の処刑場で殉教した人物です。当時、日本は禁教令によって教会がことごとく破却されていて、マニラにいた司祭などは殉教覚悟で日本へ向かい密かに活動を行っていました。なお、16人の殉教者は昭和56年(1981)マニラ列福され、昭和62年(1987)ローマにおいて列聖します。この長崎十六聖殉教者之碑はこれらを受け昭和63年(1988)に建立されたものです。
@聖トマス西(司祭)A聖ヤコボ朝永(司祭)B聖ビセンテ塩塚(司祭)C聖ドミンゴ・エルキシア(司祭)D聖ルカ・スピリト・サント(司祭)E聖アントニオ・ゴンザレス(司祭)F聖ミゲル・アオザラザ(司祭)G聖ヨルダノ・アンサロネ(司祭)H聖ギョーム・クルテ(司祭)I聖マテオ小兵衛(修道者)J聖フランシスコ正右衛門(修道者)K長崎の聖マグダレナ(修道者)L大村の聖マリナ(修道者)M聖ロレンソ・ルイス(在俗信徒)N聖ミゲル九郎兵衛(在俗信徒)O京都の聖ラザロ(在俗信徒)




D-292:中町教会創建90周年記念碑【中町天主堂】
この記念碑は昭和61年(1986)中町天主堂の創建90周年を記念して建てられたもので、碑には3人の少年の立像が立っています。中町天主堂の創建は26聖人殉教300年を記念して献堂を行うなど殉教者の功を称える意味があることから立像の3人は26聖人の中の少年殉教者(ルビドコ茨木、アントニオ、トマス小崎)が選ばれています。なお、記念碑の礎石は原爆の影響で倒壊した旧聖堂の礎石が用いられています。




天主堂(聖堂)【中町天主堂】
天主堂は正式には「致命の聖マリア堂」といい、明治24年(1891)から工事が始まり明治29年(1896)に完成します。設計はフランス人宣教師:バビノーによるもので、煉瓦壁にセメント塗、瓦葺のロマネスク様式の建物で尖塔と会堂とに分かれていました。また、尖塔の外側四角4面に大時計、内側に大鐘1箇と小鐘3箇があって鐘は報時を行っていました。報時は毎時15分は大鐘1打小鐘3打、30分45分は大鐘1打小鐘6打、60分は大鐘と小鐘で、第二次大戦ごろまで報時していました。昭和20年(1945)8月9日。原爆の爆風は天主堂の窓や内部は破壊し、その後の火災で天主堂は焼失します。現在のものは昭和26年(1951)大浦天主堂のフレーザー師の協力のもと再建されたもので、工費は1600万円でした。




D-291:中町天主堂(西中町天主堂)
中町1-13(旧 西中町)
明治20年(1887)頃、当時の長崎には外国人設立による大浦天主堂が置かれていましたが、大浦天主堂が外国人中心であることや、増加する日本人信徒への対応が困難になってきたこと、長崎が日本の布教活動の根拠地ということで多くの伝道者が集まってくることなど、長崎に新たな天主堂の建設が持ち上がります。そういった中、金屋町公教会(現 金屋町9-38,9付近)の司祭:島内要助は、新天主堂実現のため奔走していましたが、ようやく明治22年(1889)フランス人有志からの資金協力によって事業が前進し、その資金で大村藩邸跡を購入します。しかし今度は会堂建設の資金が足らず事業が停滞することになります。数年後、フランスリオンの司教:マルナスが来日した際、岐路の途中で長崎に立ち寄り島内を訪ねます。マルナス島内の天主堂建設の願いを聞き入れ帰国し、帰国後しばらくして8万フランという大金の金策が出来たと連絡が入るのです。このお金はフランス人富豪の未亡人(写真のみ伝わる)で名前を出さないという条件で寄進されたもので、島内は早速、会堂建設を再開し、明治29年(1896)中町天主堂が完成を見ます。翌30年(1897)9月8日、天主堂献堂式が行われ、この日は聖母マリアの誕生日であることと26聖人殉教300年祭を記念して挙行されました。




D-290:大村藩蔵屋敷跡(おおむらはん-くらやしきあと)
中町1-13(旧 西中町)【中町天主堂】
九州各藩は長崎警備の目的で多くの軍勢を長崎に派遣しなければならず、そのため市内には10数箇所の藩屋敷が置かれていました。藩屋敷は長崎奉行所との連絡業務のほか、長崎に入る世界情勢などを収集するに大変重要な拠点でした。大村藩といえば玖島城を拠点とした大村氏の領地で2万7千石を誇っていました。藩屋敷などは正保4年(1647)長崎港の軍備のために九州各地の藩に動員したもので、当時、国交を断絶したポルトガル船の来航の際の対応のためといわれています。A-6:2003/05/09参照




D-289:長崎県長崎復興工事事務所跡
中町3【中町公園】
昭和21年9月。長崎市は政府の戦災復興計画に基づき戦災復興土地区画整理区域を決定し長崎県の協力の下事業に着手します。そして復興のための長崎県長崎復興工事事務所を第2次大戦中、建物疎開で空き地になっていた場所に設け復興が始まります。工事事務所は昭和30年(1955)まで、事業はさらに昭和50年(1975)まで続き復興が進められました。なお、区画整理区域は浦上地区のほとんどで約430ヘクタール(430万平方メートル=ビッグNスタジアム170個分)にも及びました。
戦災復興の記念碑
長崎県長崎復興工事事務所跡である中町公園には、戦災復興の記念碑(表)と記銘碑(裏)があって、戦災復興の記念碑(表)には土地区画整理事業を記念し、記銘碑(裏)には長崎県長崎復興工事事務所で活躍した職員の名前が記され、それぞれ表は昭和59年(1984)、裏は平成7年(1995)に建立されました。
戦災復興記念樹の碑
昭和60年(1985)長崎県長崎復興工事事務所で勤務した職員によって植樹が行われました。樹木の記載がありませんがヒマラヤスギと考えられます。




D-288:西新橋跡(にししんばし-あと)
桜町-恵美須町(旧 小川町)/岩原川
当初、長崎の石橋には正式な名前はなく通称や俗称などで呼ばれていたため大変不便で、そのため明治15年(1882)頃、橋名をつける機運となり漢学者で初の長崎市議会議長となった西道仙(ニシ-ドウセン)によって命名されます。
寛文13年(1673)中島川の本大工町に新しく石橋が架けられますが、一説には同年に岩原川にも石橋が架けられていて、ともに新しい橋ということで新橋と呼ばれ、市民は西側を西新橋、東側を東新橋と呼んだといわれています。西新橋は寛政8年(1796)の寛政第2次大水害で流出し官命によって享和2年(1802)再架されます。しかしその後の記録が全くなくいつしか姿を消してしまいました。西新橋の位置は現在のNBC前交差点横トイレ付近。
D-153:2007/06/30参照




D-287:唐津藩蔵屋敷跡(からつはん-くらやしき-あと)
上町6(旧 東中町)
九州各藩は長崎警備の目的で多くの軍勢を長崎に派遣しなければならず、そのため市内には10数箇所の藩屋敷が置かれていました。藩屋敷は長崎奉行所との連絡業務のほか、長崎に入る世界情勢などを収集するに大変重要な拠点でした。唐津藩といえば唐津城を拠点とした寺沢氏ほかの領地で12万石を誇っていました。藩屋敷などは正保4年(1647)長崎港の軍備のために九州各地の藩に動員したもので、当時、国交を断絶したポルトガル船の来航の際の対応のためといわれています。A-6:2003/05/09参照




D-286:斎藤茂吉寓居の地(さいとうもきち-ぐうきょのち)
上町6-27(旧 東中町)
斉藤茂吉(明治15:1882-昭和28:1953)は精神科医で大正6年(1917)長崎の長崎医学専門学校の教授として赴任します(大正10:1921まで)。また、茂吉は短歌に長け、この茂吉の来崎は長崎の短歌界の基礎となりました。
大正6年(1917)年末、茂吉が長崎到着後、まずは今町(現 金屋町)の旅館みどり屋に入り、大正6年(1917)12月に旧金屋町21番地(現KTN前付近)の屋敷に移ります。そして大正7年(1918)4月以降、東中町54番地に借家を借り、大正10年(1921)3月の帰京まで住していました。A-103:2003/09/02参照




D-285:長崎孤児院跡(ながさきこじいん-あと)
上町1-19(旧 東中町)
明治34年(1901)西勝寺第10代住持:長井大幢(ダイドウ)は孤児院の必要性を説き、西勝寺と壇信徒の共同事業として祟福寺内に長崎初となる長崎孤児院を開設します。長井大幢はその後、孤児院院長となり、明治39年(1906)東中町に移転し法人組織となります。孤児院は4才から10才までの児童を収容し相当の教育と職業指導などを行い、一定の年齢に達すると小学校へ入学させ高等教育を受けさせていました。そして最終的には職業訓練まで行い自立まで指導していました。なお、これら経費はすべて慈善家によって賄われていました。大正11年(1922)現在、男児18名、女児3名が在籍していました。なお、長崎孤児院は第二次大戦前後に廃されたと考えられます。




D-284:東中町地蔵堂/大師堂
上町3-7(旧 東中町)
このお堂はもともと同じ町内にあった長崎会所内(D-209:2007/09/15)にお祀りされていたお堂で、天明2年(1782)に東中町に移転されました。お堂には地蔵尊と弘法大師、不動明王がお祀りされていて、以降、東中町の住民の手によって守られています。昭和初年、お堂内の某師如来さまが大浦町に住む人に持ち去られたことがあったのですが、毎晩のように夢枕に立ち責められたため、いつの間にか元の場所に戻されたという逸話が残っています。




D-283:西勝寺文書キリシタンころび証文【西勝寺所蔵】
慶長17年(1612)幕府はキリシタン禁教令を発し、慶長19年(1914)には長崎の教会施設は破却が始まります。キリシタンは仏教徒に転宗する(ころぶ)ようせまられ、ころび証文である誓詞(セイシ=起請文)を書き神仏に誓い、さらにそむいた場合に罰を受けるという神文(罰則文)を書かされるのです。また、証文は具体的なキリストの神や聖者などの名前があるところが特徴で、西勝寺のものは正保2年(1645)の年号があり県指定文化財に指定されています。
なお、西勝寺の証文は奉行所提出のために書いた証文でしたが書き損じたため提出されておらず、さらに伴天連:沢野忠庵(クリストファー・フェレイラ)のサインがあるところが特徴です。
具体的な名前:きりしたん(christao)、ゑすこむにあん(excommunion)、いんへる野(inferno)、伴天連(padre)、てうす(Deus)、ひいりよ(fillo)、すひりつさんと(Espiritu Santo)、さんたまりあ(Santa Maria)、あんしょ(anjo)、へあと(beato)、からさ(graca)、しゅうたす(Judas)、かとうりか(catholoca)、ゑけれしや(igreja)、しゅらめんと(juramento)
※クリストファー・フェレイラはポルトガル人神父でしたが、拷問を受けた末に神を憎むようになり、キリシタンを辞めた人物でした(転び切支丹伴天連)。その後、日本名:沢野忠庵に改称します。2007/07/28参照




D-282:真宗瑞雲山西勝寺(-ずいうんざん-さいしょうじ)
上町5-19(旧 東中町/東上町)
筑前黒田藩(現福岡県西北部)の家臣:長井八郎右衛門の弟:長井源蔵は多くの戦で活躍するも思うところあって仏門に入り、守讃と名乗ります。そして寛永時代初期(1624〜)キリシタン全盛の長崎の地に入り市内各戸を真宗の教義を説いてまわります。そして数千人の信者を獲得し、このことに時の長崎奉行竹中采女正は喜び、寛永9年(1632)東中町の地を与えて一寺建立となりました。寛永17年(1640)には京都西本願寺より瑞雲山西勝寺の号を受けます。さらに延宝年間(1673-81)第4代住持:了玄は長崎奉行に願い出て第4代将軍家綱公の位牌を安置するよう要望。これは特別な地にしか許可されないものでしたが布教活動に尽力した証として許されます。このように幕府にも近いこともあり長崎奉行らは大額などの寄進を行います。




D-281:真言宗大生山寳正院威福寺跡
(-たいせいざん-ほうせいいん-いふくじ-あと)
玉園町2,上町4(旧 東中町)
江戸時代初め、佐賀県唐津から多年にわたり天満宮を信仰していた威福院高順という僧が長崎に入りします。高順は寺院を創建したい望みを持っていましたが、当時の長崎はキリシタンの全盛期でそれまであった長崎の寺院はすべて破却されている状態でした。慶長12年(1607)高順は東中町の筋違い橋辺りの小屋に密かに天満宮(天神像)を安置します。しかしキリシタンからの妨害があったため、慶長15年(1610)八幡町に移ります。慶長18年(1613)禁教令後は落ちつき、元和9年(1623)時の長崎奉行長谷川権六は馬場郷の場所を寄付し再興が始まります。これが長崎における寺院再興の始まりとなります。現在の桜馬場天満宮の前身です。A-174:2003/12/06




D-280:日蓮正宗広布山正霑寺
(にちれんしょうしゅう-こうふざん-しょうでんじ)
玉園町1-30(旧 東上町)
日蓮正宗とは日蓮を宗祖とし、その弟子である日興を開祖する宗派で、日蓮宗とは一線を画し、総本山は静岡県富士宮市の大石寺です。そして正霑寺はその流れを汲む寺院です。




D-279:東上町の延命地蔵
上町4-12(旧 東上町)
明治時代初め、東上町の鋳物師:西利三郎(和三郎)はある夜、不思議な夢を見ます。夢枕に地蔵尊が現われ「余は矢上現川の川底に沈む地蔵であるが、汝の助けで汝の町内に祀るならば町内安全間違いなし」と告げられたといいます。再三にわたって夢枕に立つので現川に探しに出ると地蔵尊を発見。ひき上げようとすると綿のように軽く不思議に思いながらも隣町の永昌寺境内に安置することになりました。時は流れ昭和20年(1945)3月。時の町内会長や数名の者の夢枕に地蔵尊が立たれます。そして「余は永昌寺に祀られている地蔵尊であるが、近いうちに長崎市には天光り地裂ける大惨事が起こるべし。余を東上町に移せば東上町は安全間違いなし」と告げられたといいます。早速、遷座式を行って現在地に移します。そうしてその年の8月9日。長崎に原子爆弾が投下され市内は大火災となります。その夜11時まで燃え続いた火災は西上町で止まり東上町は事なきを得るのです。のちにこれは地蔵尊のご加護によるものと信じられ町の守り神となるのです。




D-278:上筑後町/下筑後町(かみちくごまち/しもちくごまち)
長崎開港後に発展し、中町や上町そして筑後町(4段目:福済寺下〜永昌寺前)と呼ばれていた通りは、町域が広いこともあって寛文12年(1672)の町政改革で分割され、筑後町は中央(NBC横の坂)より東側つまり奉行所側を上筑後町、反対側の西側を下筑後町と改称します。昭和38年(1963)上筑後町下筑後町は町界町名変更によって、現在の玉園町や筑後町などに改称され今に至っています。
玉園町(たまぞのまち)
玉園町は昭和38年(1963)の町界町名変更によって誕生した町で、町域が立山の諏訪公園(長崎公園)に接し、以前まで諏訪神社のある山を玉園山と称していたところから玉園町と命名されました。




D-277:西中町/東中町/西上町/東上町
長崎開港後に発展し、中町(2段目:NBC裏〜中町教会)や上町(3段目:旧市長公舎〜本蓮寺前)と呼ばれていた通りは、町域が広いこともあって寛文12年(1672)の町政改革で分割され、中央(NBC横の坂)より西側を西中町(ニシナカ-マチ)、西上町(ニシウワ-マチ)、東側を東中町(ヒガシナカ-マチ)、東上町(ヒガシウワ-マチ)と改称します。旧海岸通り(現 電車通り)から順番に付けられ意味をなしていた名称でしたが、昭和38年(1963)町界町名変更によって、現在の恵美須町、中町、上町、玉園町、筑後町などに改称され今に至っています。そのため上町が中町に変更されたり、中町が上町に変更されるなど歴史的事実と一致しない地区が存在します。




D-276:大黒町(だいこくまち)
大黒町は寛文12年(1672)の町政改革により恵美酒町から分かれて誕生した町で、恵美酒町に合わせ大黒町と命名されました。また、大黒町恵美酒町と同様に海岸部の蔵屋敷の建ち並ぶ賑やかな町になります。昭和38年(1963)現在の町域となります。A-2C:2003-5/5参照




D-275:恵美須町/恵美酒町(えびすまち)
寛永時代末期(1640頃)外下町、築出町、浦築出町の3町は合併して恵美酒町が誕生。恵美酒町とは当時、町内にお祀りされていた恵美酒神社(現 飽ノ浦恵美須神社)の名前から命名されました。寛文12年(1672)の町制改革により恵美酒町恵美酒町と大黒町とに分けられ、海岸部の蔵屋敷の建ち並ぶ賑やかな町になります。幕末、恵美酒町恵美須町に改称。昭和38年(1963)現在の町域になります。A-2B:2003-5/4参照




D-273:築出町(つきだしまち) 
江戸時代初期、外下町の海岸を埋立築き増ししてできた町が築出町です。現在の中町教会下〜NBC付近までの電車通り付近です。寛永時代末期(1640頃)に外下町、築出町、浦築出町の3町が合併して恵美酒町となりました。
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D-274:浦築出町(うらつきだしまち)
築出町の海岸をさらに埋立築き増ししてできた町が浦築出町です。現在の中町教会下〜NBC付近までの電車通りの裏:岩原川沿いの地域です。寛永時代末期(1640頃)に外下町、築出町、浦築出町の3町が合併して恵美酒町となりました。
A-2AB:2003-5/3参照




D-272:旧 下町旧 中町旧 上町旧 筑後町
長崎開港後、博多などから多くの商人たちが続々と長崎に入りし、船は入江のある船津町(現 瓊の浦公園付近)に入港します。商人の多くは筑後出身者で、彼らは船津町の対岸に定住するようになり町を形成。町はしだいに山手まで拡がります。そして海岸沿いを下町、2段目を中町、3段目を上町、そして最後の4段目を筑後町と命名します。この地域は内町の次に発展した地域で寺院なども集まっていました。これら4町は寛文12年(1672)の寛文の改革まで使用されます。
外下町(ホカシタマチ)と内中町(ウチナカマチ)
下町と中町が誕生した当時、長崎は行政区域として内町(A-109:2003/09/12)と外町が存在していたため、中町下町は二町づつ誕生してしまいます。そのためその二町を区別する意味で外町の下町を外下町(ホカシタマチ)、内町の中町を内中町(ウチナカマチ)と称していました。A-2@:2003-5/3参照




D-271:黄檗宗霊鷲庵跡(-りょうじゅあん-あと)
玉園町3(旧 上長崎村岩原郷/上筑後町)
霊鷲庵は元禄7年(1694)福済寺第三代住持:東瀾宗澤(トウラン-ソウタク)が隠居所として建てたのが始まりで、当時、東瀾に対し唐船主らから多くの寄進が行われていました。宝永4年(1707)東瀾の没後は寄進が中止されるのですが、唐船主らに寄進再開を願い出て定例の寄進が再開されるのです。しかし明治維新後は再び寄進が皆無となり福済寺に合併することになりますが、寺格を確立し大正9年(1920)再び独立し黄檗宗唯一の庵として進みます。その後、福済寺に再び合併し現在は福済寺墓域となっています。




D-270:頴川(陳)家邸宅跡/鏜山跡(えがわけ-ていたくあと)
玉園町3-82〜85(旧 上筑後町)
江戸時代中期、観善寺南下には唐通事:頴川(陳)家の邸宅と庭園があって、庭園は陳厳正(日本名:頴川藤左衛門)によって造られ、岩や樹木のたたずまいが美しい鏜山(ドウザン)という築山があったといいます。庭園にはこのほか、築山完成時に夢枕に現われた老人が名付けたという仁静堂という建物や、西行法師の歌「我にことたる山の井の水」から名付けた足井(タルイ)という底なしの井戸もあったといいます。この陳厳正ですが、数万巻という書籍収集を行っていて書庫には立習閣と名付け、儒学者:高玄岱によって遊鏜山記という文が作られたといいます。




D-269:観善寺の大楠【観善寺境内】
観善寺の大楠は長崎市内でも最大級のクスノキで、高さが約20メートル、幹周りが8メートルで、大楠自体が高台にあることもあって樹高や樹相がたいへん美しく、観善寺のクスノキは市内でも有数のクスノキといわれています。市指定天然記念物。




D-268:観善寺遠見番所(かんぜんじ-とおみばんしょ-あと)【観善寺境内】
遠見番は外国船来航をいち早く発見のために設けられた番所で、寛永15年(1638)に松平信綱によって野母の権現山に置かれたのが最初となります。その後、万治2年(1659)梅香崎、小瀬戸、下筑後町(現 筑後町)の観善寺境内にも置かれ、権現山の番所で外国船を発見すると番所の水主によって長崎奉行所に報告することになっていましたが、後に時間短縮のため各番所間で鏡などを使った合図が決められ、小瀬戸→梅香崎→観善寺→長崎奉行所という流れで報告されていました。なお、観善寺番所は下筑後町にあったときのもので、そこから元禄元年(1688)に上筑後町の永昌寺に移転し永昌寺番所となります。C-179:2006/03/04参照D-231:2007-10/11




D-267:浄土真宗向南山観善寺(-こうなんざん-かんぜんじ)
玉園町3-81,27(旧 上筑後町)
筑後(福岡県南部)出身の高光甚左衛門信宗は浄土真宗に帰依していましたが、元和末期(1620頃)に長崎入りした際、キリシタン全盛の長崎の町を見て仏教の再興を思いたち、寛永初年(1624頃)剃髪して浄念と称し布教活動を始めます。その結果、寛永3年(1626)には多くの信者を得ることができ、時の長崎奉行の許可を得て下筑後町(現 筑後町)に一寺を構え、観善寺の創立となるのです。寛文11年(1671)には第4代住持:浄秀によって現在地に移転がなされ、その後、文化元年(1804)に鐘楼が再建。あわせて本堂などの修復などが行われます。天保11年(1840)にも山門や本堂の修復が行われ、昭和20年(1945)原爆の火災の延焼も免れました。平成初年、本堂の再建や境内整備が行われ今に至っています。なお、第13代住持:超玄は春徳寺住持で長崎三筆の一人である鉄翁祖門に南画を学び鉄ー(テツガン)と号していました。




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