広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成19年 〜2007年〜
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立山町地蔵堂(たてやままち-じぞうどう)
立山1-5-3(旧 岩原郷)
立山町地蔵堂の創建は不明ですが、立山町に古くからお祀りされ、現在では長崎四国八十八ヶ所霊場第八十七番霊場にも指定されています。
金比羅山上り口(こんぴらさん-のぼりぐち)
ここでいう金比羅山とは山そのものを指す場合と、頂上と中腹にお祀りされている金比羅神社(金刀比羅神社)を意味し、その上り口とは登山道であって参道でもあります。現在、長崎歴史文化博物館の前から立山町地蔵堂前を通り上っていく小道が江戸時代からある本来の道で、道なりに登ると「金比羅山入口」バス停、金比羅神社一の鳥居に進みます。江戸時代から昭和40年代までこの登山道沿いには段々畑が続き長崎市民への野菜の供給地で、稲佐の稗田と共にオランダ屋敷や唐人屋敷への食用豚や野牛が飼われていたところでもありました。当時、登山道入口付近は立山・西山方面から下ってくる農家の作物の集積地となっいて、文字通り八百屋町は流通の重要地点である青果市場の町だったのです。




○萬寿山遊園地跡(まんじゅやま-ゆうえんち-あと)
立山2-13-58付近(旧 上長崎村岩原郷)
筑後町にある萬寿山聖福寺の後山になる立山は以前まで萬寿山ともいい、江戸時代は市民の紙鳶揚げの場所になっていました。大正14年(1925)聖福寺第13代住持:村山霊苗の提唱で市民の有志らが主体となり、日清、日露および第一次大戦における戦没者の慰霊塔と釈尊銅像建立を計画し、翌15年(1926)あわせて長崎市に遊園設備が少ないことから聖福寺所有地でもある立山の地に小遊園(公園)を建設する計画がおこります。そして聖福寺総代や在郷軍人会などの有志の援助5000余円を得、昭和4年(1929)釈尊銅像と遊園が完成し、東端に忠霊塔を建立します。当時は市民の憩いの場として開放されていましたが昭和20年(1945)の原爆などの影響で廃され現在は忠霊塔のみ残っています。
昭和41年(1966)に長崎三十三ヶ所霊場が開かれたとき、西国28番霊場「聖観世音菩薩」と西国29番霊場「馬頭観音菩薩」が置かれるようになり、あわせて昭和48年(1973)建立の弘法大師1200年回忌記念碑と、昭和50年(1975)建立の長崎三十三ヶ所霊場開創10周年記念碑が建てられ、付近には大神宮と稲荷社の祠などがあります。




石穀山/望呉山【聖福寺後山】
立山町2-16-5(旧 岩原郷)
立山バス停から聖福寺に下る道脇にはたくさんの岩が林立していて、頂上の大岩には普賢菩薩や不動明王の石仏が置かれています。そしてその岩の1つには大きく「望呉山」と彫られていて、江戸時代後期(文化文政期1804-1830)に書かれた長崎名勝図絵によると「木庵和尚の書いた石穀山の三字を彫ってあったが、今は摩滅して読めなくなっている。最近望呉山の三字を彫ってあるが誰の書なのか聞いていない」とあります。実際「望呉山」に続いて「己未二月皷缶子題」とあるところから、長崎名称図絵の発刊時期からさかのぼれば、己未(ツチノトヒツジ)つまり寛政11年(1799)に皷缶子が刻したものと考えられます。江戸時代はこの付近を石穀山または望呉山と呼んでいました。




立江地蔵堂(たちえ-じぞうどう)
立山2-16-16(旧 岩原郷字下笠頭)【聖福寺後山】
立江地蔵堂は聖福寺と立山バス停の中腹に位置し、創建は不明ですが弘法大師など民間信仰の場として誕生し、付近一帯には多くの石仏などを見ることができます。昭和13年(1938)には地区の大師講によって13体の仏像(十三佛)が建立され、当時の信仰の深さを示しています。現在では地区の田森照子氏の下で管理され長崎四国八十八ヶ所霊場第十九番霊場にも指定されています。
※十三佛とは虚空菩薩、大日如来、阿閦如来、阿弥陀如来、勢至菩薩、観世音菩薩、薬師如来、弥勒菩薩、地蔵菩薩、普賢菩薩、文殊菩薩、釈迦如来、不動明王をいいます。




D-266:八幡神社跡(はちまんじんじゃ-あと)
玉園町3(旧 上筑後町/岩原郷字下笠頭)
正保3年(1646)幕府の命を受け豊後府内(現 大分市)城主:日根野氏が来崎していました。日根野氏は同じ豊後西寒田(ササムタ)神社から八幡宮を長崎にもお祀りしようと適地を探しますが見つかりません。そこに日根野氏と関わりがあった皓臺寺開山:一庭禅師から賛同を得、皓臺寺の旧敷地だった岩原村笠頭山の地を譲り受け八幡宮を開くのです。その後、隣地の聖福寺の拡張のため移転を計画、寛政元年(1789)現在の中川町に移転し今に至ります。A-210:2004/02/01参照




D-265:笠頭山洪泰寺跡(りゅうとうざん-こうたいじ-あと)
玉園町3(旧 上筑後町/岩原郷字下笠頭)
長崎開港後の慶長年間(1596-1614)長崎はキリシタンの全盛期で仏教の布教は大変厳しい時でしたが、肥前松浦の洪徳寺の住持:亀翁(英鶴)は長崎入りし改宗に尽力します。あまり成果は挙がりませんでしたが時の第3代長崎奉行長谷川左兵衛藤広は亀翁の働きに同情し寺の建立を許可。慶長13年(1608)女風頭山麓に笠頭山洪泰寺を建立します。慶長18年(1613)の禁教令発布を受けると改宗が進み記録では48,600人もの人が帰依したといいます。亀翁は改宗が落ち着くと退き佐賀より一庭融頓を向え住持とし、元和5年(1619)長崎代官村山等安(A-63:2003-7/16)が処刑されると等安の建物が与えられ、境内に移築し本堂とします。寛永3年(1626)船本弥平次と梅野了安が自らの所有地を洪泰寺に寄進。そうして現在の寺町に移転となり晧台寺となります。なお、当時の洪泰寺は聖福寺と永昌寺の間付近と考えられます。B-66:2004/09/04参照




D-264:聖福寺墓域
聖福寺墓域には次の方々の墓碑を見ることができます。
【江戸時代初期】開基:鉄心禅師、鉄心の母方の家である唐通事の西村家、唐通事:呉家
【江戸時代中期】江芸閣の子である八太郎、ほか




D-263:山門【聖福寺境内】
聖福寺の山門は元禄16(1703)正月。開基:鉄心が堺の京屋宗休(通称:長左衛門)に山門建設を打診して建立となりました。京屋氏は職人:薮本次兵衛らを海路長崎に呼び寄せ、あわせて瓦なども持ち込ませ建設を着手し10月下旬に竣工します。左右に小門を備えた三段構えの山門は長崎には珍しく京都宇治の萬福寺にならったものといわれています。正面の大額「聖やW寺」は寛文12年(1672)に依頼して書いてもらった隠元禅師の書で、扁額「壽山翠靄C陰彌遠/jC波騰氣象轉新」は開基:鉄心によるものです。この建物はその後、大正10年(1921)に改修した後、昭和20年(1945)の原爆の影響も少なく今に至っています。県指定文化財。




D-262:惜字亭(せきじてい)【聖福寺境内】
惜字亭は地蔵堂横にある六角形の構造物で、本来は弔文、祭文、経文などを焚き上げたり、不要になった札などを焼却するためのもので、一般に唐寺などに設置されています。
聖福寺の惜字亭は慶応2年(1866)に建立されたものですが、当時としては珍しい赤煉瓦造で、それもオランダ人技師から伝えられたばかりの製法で初の国産煉瓦といわれています。建立は中国人の寄進で中国では煉瓦は一般的建材だったため、国産初の煉瓦を早速使用したものといわれています。市指定文化財。




七代目市川海老蔵(父)と八代目市川團十郎(子)
市川家は江戸歌舞伎を代々受け継ぐ家柄で、基本的には團十郎が海老蔵に名前を譲り受け継がれて行きます。七代目市川團十郎(1791:寛政3-1859:安政6)は、天保3年(1832)42才のとき息子(六代目海老蔵)に八代目團十郎を譲り、自らは七代目市川海老蔵を名乗ります。そして天保5年(1834)から6年にかけて九州に入りし、天保6年(1835)聖福寺に供養塔の建立します。長崎滞在では町年寄高木家に優遇され豪華な唐服を贈られ、その衣装は江戸で行われた狂言で使用され観客を魅了するのです。また、町年寄の高島作兵衛は海老蔵をたいそう可愛がり筑後町の迎陽亭に招き宴を張らせ舞を踊らせたこともありました。




D-261:聖福寺供養塔【聖福寺境内】
@三界萬霊塔:東上町の傳左衛門と上筑後町の九八郎によって享保14年(1729)に建立されました。
A供養塔:金剛杖の形状をした供養塔は歌舞伎役者:七代目市川海老蔵と八代目市川團十郎によって天保6年(1835)に建立されたもので、表面に5文字の梵字と「供養先祖祈子孫蕃育」、左面「天保乙未二月十九日」、右面「七代目市川海老蔵 八代目市川團十郎」と刻されています。なお、第9代聖福寺住持:璞岩桁曜(ハクガン-ギョウヨウ)は後に京都の萬福寺第29代住持となりますが、この璞岩が江戸で将軍と謁見した際、七代目市川團十郎と面識ができ、聖福寺に供養塔を建立したものではないかと考えられています。




D-260:地蔵堂【聖福寺境内】
元禄3年(1690)聖福寺山門の左右に石地蔵が建立されます。その後、お堂が建立され子安観音や不動明王、弘法大師などが安置されるようになり、後に上筑後町(現 玉園町)の人々によって奉仕がなされるようになります。また、地蔵尊は子供たちの守護神ともいわれ、特に子孫繁栄のご利益があるといわれています。大正7年(1918)地域の江口喜太郎がお堂の改修をした際、地蔵尊などに彩色を施したという記録があって、現在も一部の地蔵尊にその様子を見ることができます。
長崎四国八十八ヶ所第14番霊場
聖福寺の地蔵堂は大正15年(1926)から長崎四国八十八ヶ所霊場の札所となっています。




D-259:「中国西国巡幸長崎入港」の図、写生の位置【聖福寺境内】
中国西国巡幸長崎入港」の図というのは明治大正時代、長崎を代表する日本画家として活躍した山本森之助(明治10:1877-昭和3:1928)が描いた絵画で、現在は東京神宮外苑にある聖徳記念絵画館に収められています。この作品は明治5年(1872)に明治天皇が長崎に巡幸された模様を紹介した絵画で山本森之助の晩年の作品といわれています。そしてその絵画を写生した場所が聖福寺の境内で鐘鼓楼を手前に長崎港が描かれています。B-97:2004/10/21参照




龍泉/龍鬚泉(りゅうせん/りゅうしゅせん)【聖福寺境内】
貞享4年(1687)鉄心が境内整備のため土工に作業をさせていたとき、突然、亀の形をした1丈(約3メートル)ほどの紫色の岩が現われ、端を削ってみるとたちまち水が噴き出したといいます。ただちに長崎奉行に報告すると奉行は龍泉と名付けたといいます。場所は鉄心墓所(旧開山堂)西側付近で、別名を龍鬚泉といい深井戸といわれています。




玉英裁縫女学校跡
(ぎょくえいさいほうじょがっこう-あと)【聖福寺下駐車場】
学校の創立は明治27年(1894)で、本科変則科2ヵ年、速成科1ヵ年、補習科4ヶ月と今でいうところの専門学校といえるでしょう。当時はこういった専門学校が市内には多く設立され明治25年(1892)創立の玉木女子学園(B-228:2005/03/04)を始め、私立瓊浪裁縫女学校(本石灰町)、私立玉園裁縫女学校(新町)、私立長崎裁縫女学校(本紺屋町)、私立長崎シンガー裁縫学校(鍛冶屋町)がありました。
玉ぞの幼稚園跡【聖福寺下駐車場】
江戸時代、聖福寺末庵:四休庵があったところは明治中期玉英裁縫女学校となり、第二次大戦後に玉ぞの幼稚園が移転してきます。玉ぞの幼稚園は地区の市会議員でもあった荒木嘉弘によって旧 立山町に設立され、また、荒木氏夫人が長崎女子師範学校の同窓生(同窓会名:玉園)ということもあって玉ぞの幼稚園と名付けられたそうです。当時は幼稚園が少ないこともあり多くの園児が通っていましたが平成初年頃閉園。その後は聖福寺壇信徒会館として使用され平成19年(2007)駐車場になります。




D-258:四休庵跡(しきゅうあん-あと)【聖福寺下駐車場】
四休庵は現在の聖福寺下にある駐車場のところにあって、以前までは玉ぞの幼稚園、聖福寺壇信徒会館があった場所です。四休庵は元禄元年(1688)鉄心によって創建され、鉄心が示寂した後は第3代住持:岳宗が再建し隠居所とします。その後、岳宗は唐船の航海安全祈願などを行い多くの寄進を受けるようになります。そして以降も唐人など多くの参詣者が訪れ定例の寄進が始まります。天保7年(1836)四休庵佐賀藩独自の遠見台としてあてられ異国船の監視が行われます。なお、廃庵時期は不明ですが明治維新を受け廃されたものと考えられます。




D-257:松月院/開山堂跡(しょうげついん/かいざんどう-あと)【聖福寺境内】
松月院/開山堂は大雄宝殿の後方、石段を登って右折したところにありました。延宝6年(1678)に創建され、後に鉄心の隠居所となります。その後、奉行所や唐船から寄進などを受けるようになり、長崎奉行所の年始の儀式などを取り持つ立場にもなります。宝永7年(1710)鉄心が示寂した際はここに安置され、以降、開山堂として堂内に鉄心の墓所がありました。安政6年(1859)ロシア人が来崎した際、一行のうちの病人などの療養所としても利用されるのですが、出発のとき宿泊料として銀貨72枚を寄附されたといいます。しかし寺側は外国通貨ということで価値がわからず逆にたいへん迷惑したそうです。明治に入り建物の老朽化が進み、明治43年(1910)に普門院などを売却して修復費にあてます。昭和20年(1945)原爆の爆風などの影響で崩壊、姿を消します。




D-256:聖福寺末寺・末庵【聖福寺境内】
江戸時代、聖福寺にはたくさんの末寺があって、大阪河内に長楽寺(現在は神戸に移転)、摂津に普門寺、長崎の日見に観音寺(明治初年廃寺:所在不明)があって、このほか松月院、普門院(旧 玉園幼稚園の地)、清浄庵(現 玉園町2-5〜9)、静操庵(旧 迎陽亭の一部)、四休庵(旧 玉園幼稚園の地)、功徳院(京都)、十妙庵(京都伏見)、大壽庵(江戸・芝)、観音院(現 西山2-26-13)、大悲堂(現 小瀬戸:大悲寺)などがありました。
このうち松月院は開山堂のことで昭和初期まで大雄宝殿裏手にありましたが、ほかのほとんどは明治初めに廃寺となります。現在、境内の廃寺の瓦屋根や鬼瓦などが鬼塀/瓦塀として再利用されています。




D-255:江芸閣遊女袖扇の子:八太郎の墓【聖福寺境内】
文化文政時代(1804-1830)、唐船主で文化人でもあった江芸閣(コウウンカク)は寄合町引田屋に数多く足を運び、遊女:袖咲(袖笑)や袖扇を寵愛していて、特に姉遊女袖咲が引田屋を去った後は袖扇を迎え入れるようになります。文政13年(1830)遊女袖扇は男児をもうけ八太郎と名付けられるのですが、1才もならないうちに死亡し聖福寺後山に埋葬されます。現在、この墓所は「じゃがたらお春の碑」の横に移設されています。




じゃがたらお春
寛永13年(1636)第3代将軍徳川家光は前年の鎖国令を強化し海外への渡航及び帰国を全面的に禁止するお触れを出し、長崎では出島が完成し市内に雑居していたポルトガル商人らを出島に隔離します。そして混血児287人をマカオに放流させるのです。
寛永16年(1639)ジャガタラ(現 インドネシア・ジャカルタ)に放流された者の中にお春という少女がいて、実際、筑後町乙名:久保十右衛門が奉行所に提出した文書に「いぎりす女房年三十七、娘まん年十九、娘はる年十五」というものがあって、このはるがいわゆる“じゃがたらお春”を指します。お春は21才のとき、平戸出身の混血児でオランダ人のシモン・シモンセンと結婚。しかし早く他界しお春は一人身で生涯を送ります。そしてそのお春が後に長崎の友人に送ったといわれる手紙が「じゃがたら文」で、西川如見が「長崎夜話草」の中で紹介しています。しかしこの手紙の現物がないこととあまりにも名文であるため西川如見の創作であろうともいわれています。




D-254:じゃがたらお春の碑【聖福寺境内】
じゃがたらお春の碑」は玉園町(旧 上筑後町)に住む水産貿易商で、若山牧水の「創作」に籍を置く歌人:上野初太郎によって昭和27年(1952)に建立されました。たまたま買い求めた宝くじで30万円当たったので、当時亡くなった息子のためとあわせての建立となったものです。そのため裏面に息子の戒名である「為 紫雲院膵森隆光信士追善」と刻されています。なお、正面の書は言語学者で南蛮文学の権威であった新村出(シンムラ-イズル)、裏面の歌「長崎の鶯は鳴くいまもなほ じゃがたら文のお春あわれと」は吉井勇によるものです。




D-253:茶筅塚(ちゃせんづか)【聖福寺境内】
茶筅とは抹茶を点てるときに用いる道具で、茶筅塚の碑は茶筅の形をしています。この茶筅塚は昭和40年(1965)聖福寺に茶室「徹心軒」が造られた際に建立されたもので、建立後はしばしばこの茶筅塚で茶道の各流派が集まり茶筅供養が行われています。また、茶室「徹心軒」は江戸時代初期の茶人(宗和流の祖)金森宗和が好む茶室といわれ、長崎の各流派は茶会などでよく利用しています。




D-252:重建広東会所碑記
(じゅうけん-かんとんかいしょ-ひき)【聖福寺境内】
重建広東会所碑記広東会所について記した碑で、広東会所の経緯や改修などのことが刻されていて大正4年(民国紀元4年/1915)に建立されたものです。広東会所は文久2年(清同治元年/1862)に中国広東省出身者らが同郷の交流の場として建設したもので、当初は嶺南会所といい、現在の唐人屋敷の入口付近にありました。その後、名称を広東会所に改称。大正4年(民国紀元4年/1915)広馬場町、現在の十善会病院のところへ移転します。しかし、日中戦争が始まった昭和13年(1938)頃に閉鎖され、当時から広東省の人々と交流のあった十善会病院の木氏に譲渡されます。そして重建広東会所碑記は広東出身者の帰依者が特に多かった聖福寺が選ばれ移設されたものと考えられます。C-175:2006/02/17参照




即非如一(そくひ-にょいち)
即非如一(1614:慶長19-1671:寛文11)は中国福建省福清県出身で、性を林、名を應鳳、如一といいます。7才にして道徳や詩を修め、13才で両親を失い寂しく過ごします。17才で感じるところあって出家し隠元禅師らに学び、後に隠元禅師の弟子となります。その後、隠元禅師の勧めで明暦3年(1657)日本に渡来し祟福寺に入り住持に付き、つづいて寛文3年(1663)京都宇治の萬福寺に入ります。寛文4年(1664)萬福寺住持を辞し、小倉藩小笠原公に招かれの福聚寺(フクジャクジ)を開創。寛文8年(1668)再び長崎入りします。即非禅師はたくさんの詩や書を残し、特に祟福寺大雄宝殿にかかる「世尊」の文字は長崎一美しい楷書と称されています。なお、示寂後は遺言によって後山で火葬され、その場所は現在、即老和尚闍維処として大切に残されています。




木庵戒瑫(もくあん-かいとう)
木庵戒瑫(1609:慶長14-1684:貞享元)は中国福建省泉州市晋江出身で、性を呉といいます。幼いときから真面目で頭脳明晰で達磨の子といわれていて、13才で出家し永覚大師の下、鼓山で修行し、その後、黄檗山萬福寺で隠元禅師に師事します。明暦元年(1655)に渡来(隠元禅師来日の翌年)すると長崎の福済寺に入り、そして隠元禅師と同じように大坂の普門寺に招かれ、その後、京都宇治の萬福寺に入ります。寛文4年(1664)には隠元禅師の後を継ぎ第2代住持となり萬福寺発展に寄与します。明治14年(1881)わが国仏教への功績から慧明国史の号を賜り、このほか詩や書なども長けているところから隠元禅師、即非禅師とあわせ唐三高僧と称されています。




D-251:黄檗三禅師次韻(おおばく-さんぜんじ-じいん)【聖福寺所有】
黄檗三禅師とは黄檗宗の高僧である隠元隆g禅師(2004/08/18)、木庵戒瑫(カイトウ)禅師、即非如一禅師の三人をいい、次韻とは中国の詩の一種で、他の漢詩の韻にあわせ自らも同じ韻字を使って詩を作ることをいいます。
聖福寺にある次韻は鉄心禅師が所有していたもので、三禅師の次韻はたいへん珍しく宝物として保管されています。市指定文化財。




刹竿(せっかん)
刹竿は寺院の門前や本堂の前などに立てる長い棒のことで、説法や法要などを知らせるために立てられます。そしてこの刹竿を立てるために細長い2本の石柱が備えられています。
手水鉢(ちょうずばち)
聖福寺大雄宝殿前にある手水鉢は、延宝8年(1680)に奉納されてもので「聖やW寺泉州内通事中」と刻されています。




D-250:聖福寺の桃【聖福寺境内】
聖福寺を参詣するとよく目に付くものの1つにの彫刻があります。大雄宝殿や鐘鼓楼などの扉などに彫られたは聖福寺のシンボル的存在ですが、このは中国では邪気払いをする果実といわれ、特に長寿を保つおめでたい果物と信じられていました。そのため彫刻や絵画に仙人とともにたびたび登場する訳ですが、長崎へは直接、中国からその思想がもたらされました。は長崎では桃饅頭(長崎弁:モーマンジュー)として親しまれ、神事や慶事に欠かせないものとなります。また、聖福寺のの彫刻は真ん中が割れたものとそうでないものとがあり、古い時代のは真ん中が大きく裂けていたといわれています。




D-249:魚板(ぎょばん)【聖福寺境内】
聖福寺庫裏の入口に魚板があります。名称を飯梆(ハンホウ)といい、これは修行僧などに食事の時間を告げるときに叩かれるもので江戸時代から使われていました。この叩いて伝えるという方法は、逆に言えば修行僧たちには一切声による指示は無くすべて音による告知で進められるということです。修行僧へは魚板のほか鐘などでも行われていました。なお、この魚板のモデルは揚子江に棲んでいるといわれていた幻の魚:鱖魚(ケツギョ)といわれています。B-48:2004/08/09




D-248:聖福寺庭園【聖福寺境内】
庫裏(書院)前面(東側)には庭園があって、以前までは総芝生敷きで、江戸時代には假山(カリヤマ)が設けられたいへん優雅な造りになっていました。そして鉄心はその庭園で「聖福假山」という漢詩を作っています。また、天和2年(1682)この庭園に突然、数十茎の霊芝(レイシ)が発生したという逸話も残っています。このほか、ご本尊のお釈迦様にちなみボダイジュ(菩提樹)なども植えられています。
鉄心の椿
聖福寺庭園には紅い花をつける「鉄心の椿」と呼ばれる椿があります。これは第二次大戦前、郷土史家の林源吉が奈良:文華館より依頼を受けこの聖福寺に移植したもので、鉄心が聖福寺建立の際に中国から贈られたものと同種のものといわれています。しかし、当初植えられたものは原爆の影響で枯死。そのため現在のものは当時の住職が若芽を育てていたため植え替えて育てたものといわれています。




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