広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成20年 〜2008年〜
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長崎機関区原爆殉難者之碑【JR長崎駅構内】
昭和20年(1945)原爆の犠牲者の中には国鉄職員として命を落としたものも多く、彼らは自らも傷つき、また、家族を失ったにもかかわらず救援列車を走らせ、けが人などを運ぶ重要な役割を持っていました。このうち長崎機関区では19名もの尊い命が失われていて、この碑は昭和56年(1981)に建立されました。




D-365:長崎電軌軌道線路跡
明治44年(1911)長崎電気軌道株式会社によって路面電車敷設の申請が行われますが、時代は不況の真っ只中で資金確保が難しく、申請路線の縮小や工費削減を行い賛同を得、大正4年(1915)5月、ようやく工事が始まります。路線の第一期線が同年11月16日に完成し、病院下-築町間が結ばれます。料金は1区間1銭で開業当初の電停は、築町-千馬町-末広町-大波止-浦五島町-長崎駅前-八千代町-稲佐橋通-井樋の口-浦上駅前-坂本町-病院下で、当時の駅前付近のコースは、現在のホテルニュー長崎裏から駅前交番付近を通り長崎本線と平行に走り銭座町公園付近から坂本町の大学病院方向に向かっていました。なお、現在の路線とは道路の形状や町の形が違うため同じ場所は出島付近にしかありませんが、旭大橋東口交差点横や幸町踏切横の河川護岸には当時の鉄橋の基礎石を見ることができます。D-36:2007/01/09




D-364:西部瓦斯ガスタンク跡(さいぶがす-がすたんく-あと)
八千代町3(旧 瀬崎町/八千代町)【長崎県営バス】
明治35年(1902)小曽根町に長崎で初となるガス会社「長崎瓦斯会社」が誕生。翌36年(1903)ガスタンクを設置し大浦地区、特に外国人居留地への家庭用ガスや商店などで電灯用に使用されます。しかし資本金が少なかったためガス管の延長が思うように進まず需要が見込めなくなり明治38年(1905)会社は解散。権利は豪商の山内善三郎(A-104:2003/09/04参照)に渡り、明治44年(1911)福岡の商社の資本が入り九州瓦斯会社が誕生します。ガス会社はさらに電力会社や鉄道会社などとの合併や統合が繰り返され名称も変え東邦電力樺キ崎支店となり、さらにガス部門が独立し昭和4年(1929)西部瓦斯株式会社が生まれ、長崎はその長崎支店となるのです。昭和20年(1945)原爆の影響で工場は崩壊してしまいますがのちに復興し、ガスタンクは八千代町のシンボルとして親しまれます。平成15年(2003)工場は時津に新工場に移転し、支店は御船蔵町に移ります。C-337:2006-10/22参照




長崎国際産業観光博覧会(長崎博覧会)
長崎国際産業観光博覧会は昭和9年(1934)開催された博覧会で、長崎市が38万円(今のお金だと約2億7千万円)の予算を投じ中の島埋立地を主会場とし長崎公園の商工奨励館や雲仙などをサブ会場として開催されました。博覧会は長崎市の産業の開発と不況打開を目的とし2ヶ月間にわたって行われ、期間中、約63万人の入場者を記録し盛況のうちに幕を閉じたといいます。このとき博覧会総裁には元首相の清浦奎吾が任命されました。




D-363:中ノ島(なかのしま)
尾上町(旧 高砂町)
明治37年(1904)に完了した長崎港港湾改良工事ですが、このうち現在の長崎駅ホーム付近から宝町の長崎県営バス敷地(旧ガスタンク)付近にかけての海側のエリアは当初、細長い短冊状の埋立地になっていて中ノ島と称していました。中ノ島では昭和9年(1934)に長崎博覧会をはじめサーカスなど様々な興行の場所になっていましたが、その後、周りの運河が埋め立てられ陸続きとなります。現在、幸町の運河には中之島橋という名称があり、クールファイブのヒット曲「中ノ島ブルース」の3番の歌詞にある中ノ島は時代的にこの島のことではないでしょうか。




D-362:長崎港港湾改良工事について
明治30年(1897)以降7ヵ年の継続事業として長崎港湾改良工事が開始され、明治37年(1904)に完了します。工事は第1期と第2期に分かれ、第1期工事では港内の砂防工事や中島川の変流工事(これにより出島の前面が削られる)、第2期工事では現在の銭座町電停付近から長崎駅-大波止-市民病院付近と稲佐の海岸地帯が埋立てられこれにより24の新しい町が開かれます。以下にその24町を紹介します。
幸町-福富町-玉浪町-梁瀬町-宝町-寿町-船蔵町-井樋ノ口町-八千代町-尾ノ上町-高砂町-瀬崎町-台場町-元船町-玉江町-千馬町-羽衣町-要町-末広町-入江町-旭町-丸尾町-外浪町-大鳥町 
※ほとんどの町が昭和40年頃に町界町名変更で整理されます。




D-361:首置石跡(くびおきいし-あと)【天理教境内】
首置石とは西坂処刑場にあった岩のことで六角形をした巨石でした。首置石があったところは天理教旧神殿建設地にあたり、当初、作業員の石工らは祟りがあるとなかなか鉄斧を加えようとしなかったため、初代天理教肥長分教会会長の橋本梅太郎が自ら最初の一撃を加えようやく工事が始まったといいます。なお、首置石は細分化して神殿石垣の一部に利用されます。このほか建設地には処刑時に使う太刀荒い用の泉水がありましたが、埋立てられふさがれました。




D-360:天理教肥長分教会(てんりきょう-ひちょう-ぶんきょうかい)
御船蔵町1-11(旧 浦上山里村馬込郷)
明治32年(1899)奈良県出身の橋本梅太郎は天理教布教のため長崎入りし銅座町を拠点にし活動を開始します。しかし当時はまだ新興宗教ということもあって布教は困難を極めたといいいます。明治33年(1900)長崎県知事の許可が下り拠点を船大工町、金屋町(現 金屋町教会)と移転し、布教活動の功あって信徒が増加し新たな拠点が求められていました。その折、西坂の地が候補に上がり協議の結果、処刑場の近くということで反対されますが、橋本梅太郎が天理教教祖:中山みきの教えに「万物は皆神が人間に貸し与えし処(中略)廃物にても之を利用し以て国利民福を計るべし」とあり、刑場跡を利用することは教示に基づくと説き、反対を押し切り土地を購入、3年の歳月の後、大正4年(1915)神殿と事務所など竣工となります。当時は電車通りから88段の階段を登り神殿がありました。昭和20年(1945)原子爆弾の影響で焼失。戦後復興され今に至ります。




D-359:壷口洞(つぼのくちあな)/合慈洞(ごうしのあな)
二つの洞は北瀬崎に伝わる洞窟で、北側が壷口洞、南側が合慈洞と呼ばれる人が入られるくらいの洞がありました。洞は中で一つになっていたといい、言伝えによると物好きが犬1匹を穴の中に追い入れたところ別の穴から傷だらけで出て来たといわれ、さらには本河内の洞窟とつながっていたともいわれていました。また、慶安年間(1648-1652)大勢の見物の者がこの洞に遊びに来た折、一人の勇敢な者が探検に入ります。話によると洞はだんだんと狭くなり、5,600歩あまり進むと逆に高くなり水がたまり滑りやすく、コウモリや怪物がいて生臭い匂いが漂っていたといいます。不思議なことに朝に入った洞ですが、出てくる頃は夕方になっていたといいます。以降、この洞に入った者はいないとのことです。




D-358:長崎要塞司令部跡(ながさきようさいしれいぶ-あと)
西坂町1-1(旧 上長崎村舟津郷字舟津)【NHK長崎放送局】
要塞とは重要都市や拠点などの防御のために作られた軍事施設のことをいい、要塞区域内は測量、模写、撮影が全面禁止となり要塞司令部がその管理官庁となります。明治32年(1899)長崎は要塞地帯法によって長崎要塞地帯区域に指定。佐世保より佐世保要塞砲兵連帯の一個大隊が長崎入りし竹の久保(現 長崎西高)に駐屯します。翌33年(1900)竹の久保に司令部を置きますが、明治36年(1903)それまで大黒町(現 西坂町の一部)にあった長崎兵器支廠(シショウ)築城部長崎支部と合併しそこに長崎要塞司令部を移転します。しかし明治39年(1906)再び移転し平戸小屋町に変わります。B−75:2004/09/24




D-357:北瀬崎御米蔵跡(きたせざき-おこめぐら-あと)
西坂町1-1(旧 上長崎村舟津郷字舟津)【NHK長崎放送局】
江戸時代初め、長崎では米作が行われなかったため、そのほとんどが海路(回漕)によって天草から持ち込まれ、その管理を行うため延宝元年(1673)天草代官は小島郷南瀬崎に米蔵と詰所を建設します。一方、延宝3年(1675)には江戸町船番屋敷(現 川添硝子)にも浜蔵を設けられ町年寄が管理し、その米蔵は享保4年(1719)北瀬崎に移転します。翌5年(1720)から米を長崎代官に支配することになり、享保9年(1724)北を北瀬崎御米蔵、南を南瀬崎御米蔵と称し、米の回漕も九州各地からとなります。当時、南瀬崎北瀬崎の米蔵には年間、豊後米1万石、天草米6〜8000石、肥前米800石の米が持ち込まれていたといい、使い道として寛保元年(1741)からは5000石を備蓄米、5000石を支出用、8000石を役人給与、残りは備蓄とし、備蓄米は毎年新米に代えていました。C-186:2006/03/14参照




D-356:南瀬崎北瀬崎(みなみせざき-きたせざき)
江戸時代初めの長崎港は、南は梅ヶ崎(市民病院裏)から始まり、北は西坂(NHK長崎放送局付近)までの岬で囲まれた範囲でした。そして瀬崎とは岬の近くの海岸という意味を持つため、梅ヶ崎近くの海岸を南瀬崎、西坂の海岸を北瀬崎と呼んでいました。ちなみに南瀬崎は市民病院裏から広馬場付近までを指し、北瀬崎はNHK長崎放送局から県営バスターミナル付近を指します。C-185:2006/03/13参照
○瀬崎泉(せざきのいずみ)
北瀬崎には瀬崎泉といって5つの井川があったといいます。水は岩穴から湧き出し住民は潮が引くのを待って争って汲みに行ったといいます。




潜伏キリシタン墓碑(平山家)【西坂公園】
日本二十六聖人記念館入口にあるキリシタン墓碑は、以前まで坂本3丁目の「経の峰墓地」にあった平山家墓碑で、明和年間(1764−1771)に建てられたものといわれています。時代が江戸時代ということもあり隠れキリシタン(潜伏キリシタン)の墓碑といわれています。なお、墓所の整理の関係でこの場所に移設されたものといわれています。
○「愛は死よりも強し」の碑【西坂公園】
この碑は昭和56年(1981)ローマ法王ヨハネ・パウロ二世が来崎されたのを記念して日本二十六聖人記念館によって建立されました。
碑文「愛は死よりも強し
台座「至福の丘




昭和天皇お手植の樹(クス) 【西坂公園】
第二次大戦直後の昭和21年(1946)から始まった昭和天皇のご巡幸でしたが、長崎県へは昭和24年(1949)5月24日、北松から佐世保、雲仙を視察。5月27日から長崎市へお入りになられます。長崎市では尾上町の魚市場、西坂公園、長崎医科大学、三菱長崎造船所などを視察され、西坂公園ではクスノキの植樹が行われました。ちなみにこの日は三菱造船所内の占勝閣にご宿泊され、翌28日、完成したばかりの長崎駅新駅舎(いわゆる三角屋根:5月25日完工)よりご帰京となります。




ルイス・フロイスの碑(Luis Frois) 【西坂公園】
イエズス会宣教師のルイス・フロイス(1532:天文元−1597:慶長2)はポルトガルのリスボンの生まれで1563年(永禄6)31才の時に来日し、平戸で日本の習慣などを学び京都に上り足利義輝の保護のもと布教活動を行ないます。さらに織田信長の保護も受け活躍するのですが、1587年(天正15)大阪城で豊臣秀吉と会見後はキリシタン追放令などで拠点を地方へ移し1590(天正18)長崎に入ります。その後、マカオに一時離れますが、長崎での1597年(慶長元)の二十六聖人の殉教に遭遇、その記録をまとめます。しかし1597年(慶長2)サンパウロ教会付属のコレジオ(現 長崎県庁)で昇天します。
この碑は1993年(平成5)日ポ友好450周年を記念して長崎日ポ協会が建立しました。
なお、旧長崎グランドホテルから法務局に向かう通り(旧島原町の通り)をフロイス通りといいます。参照:A−55:2003/07/07




D-355:水原秋桜子/下村ひろし句碑【西坂公園】
この句碑は昭和60年(1985)棕梠俳句会によって建立されたもので、設計者は元長崎市建築課技丁で郷土史家の丹羽漢吉によるものです。
碑文「天国(パライソ)の夕焼け見ずや 地は枯れても」水原秋桜子
碑文「たびの足はだしの足の 垂れて冷ゆる」下村ひろし

水原秋桜子(ミズハラ-シュウオウシ:明治25:1892-昭和56:1981)は本名を水原豊といい東京出身の医師で、若い頃から俳句を好くし東京大学医学部に在学中の20代で高浜虚子に入門します。昭和9年(1954)自らが主宰となる「馬酔木(アシビ)」を立ち上げ独特な世界を作り上げ、様々な作品を残します。その一方で医師としても活躍し昭和天皇や皇后の侍医となり厚い信頼を得ています。
下村ひろし(明治37:1904-昭和61:1986)は本名を下村宏といい長崎市磨屋町出身で水原秋桜子を師事。昭和22年(1947)に句会「棕梠(シュロ)」を立ち上げ、主宰となります。昭和55年(1980)には機関誌「棕梠」300号を発行するなど長崎の俳句会をリードした人物です。




D-353:日本二十六聖人記念館【西坂公園】
昭和37年(1962)26聖人列聖100周年記念祭が執り行われますが、その記念事業の一環として日本二十六聖人記念館が建立されました。記念館はキリシタンの歴史と26聖人にまつわる歴史など禁教令下から現代までを詳しく展示解説されていて、設計は建築家の今井兼次(明治28:1895-昭和62:1987)によるものです。また、記念館の外壁には26聖人がたどったといわれる京都から長崎までの各地の焼き物がはめ込まれていて、窓枠の一部には処刑場を表す柵を模しているところもあります。
聖フィリッポ教会
26聖人列聖100周年記念事業では聖フィリップ教会も建てられ、教会名は26聖人の一人であるメキシコ人:フェリペ・デ・ヘススに捧げる意味があります。さらに建築様式もスペインの彫刻家ガウディの影響を受けた今井兼次によるもので西坂のシンボルともなる双塔はガウディスタイルと呼ばれます。




D-353:二十六聖人記念碑【西坂公園】
昭和37年(1962)26聖人列聖100周年記念祭が執り行われますが、その記念事業の一環として二十六聖人記念碑が建立されました。製作は東京芸術大学教授で彫刻家の舟越保武(大正元:1912-平成14:2002)で、台座は建築家の今井兼次(明治28:1895-昭和62:1987)によるものです。記念碑は十字架に26聖人が表されています。
碑文「人若し我に従はんと欲せば己を捨て十字架をとりて我に従ふべし:マルコ第8章」




D-352:県指定史跡:日本二十六聖人殉教地
江戸幕府の政策や昭和20年(1945)の原爆投下の影響などで、長年、26聖人殉教地は謎とされていました。第二次大戦後、ローマにおいて26聖人の殉教の様子を記録したルイス・フロイスの「殉教記」などが解読されたり、また、長崎においては片岡弥吉氏と浜口庄八神父らの調査によって西坂公園一帯が殉教地であると認められ昭和31年(1956)県指定史跡に指定されます。そして昭和37年(1962)西坂の丘で26聖人列聖100周年記念祭が執り行われ、記念事業として二十六聖人記念碑、記念館、神父館、記念聖堂が建てられます。当日の式典にはローマ教皇の公使をはじめ、メキシコ、スペインなどから300人を超す関係者が集まりました。




D-351:日本二十六聖人殉教跡の碑【西坂公園】
慶長元年12月19日<西暦1597年2月5日>に26人のキリシタンが処刑されましたが、寛永4年(1627)ローマ教皇であったウルバノ8世は26人のうちフランシスコ会系の23名を福者(死者に贈る称号)に列し、続いて寛永6年(1629)イエズス会系の3名を福者に列します。その後、26人の霊は日本に潜伏し続けて信仰を守り続けているという伝説が生まれ、やがてヨーロッパにまで伝わり、多くの司祭が日本に潜入しようとしますがことごとく失敗し、やがて慶応元年(1865)大浦天主堂が献堂式を迎えるのです。そして世に言う信徒発見が宣教師プチジャンによって確認され、すぐにキリスト教の本部であるバチカンに報告されると、文久2年(1862)ローマ教皇ピラス9世は26人の福者聖人の位に列します。以降、26人は26聖人と称されるようになるのです。




D-350:千人塚跡(せんにんづかあと)
寛永14年(1637)飢饉や凶作などの影響から島原や天草の領民らが藩政に反発し各地で一揆が勃発(世に言う島原の乱)。キリシタン信仰と相まって次第に勢力を結集し3万7000人もの軍勢となり原城に立てこもります。幕府軍はそれに対抗すべく12万もの兵を動員。総攻撃の末、寛永15年2月28日<西暦1638年4月12日>ついに原城は陥落するのです。一揆軍の指導者である益田四郎時貞(天草四郎)をはじめとする3000人の首は原城前と長崎出島の前にそれぞれ7日間さらし首にされ、西坂の丘に葬られたとされます。千人塚の跡は不明。




D-349:十六聖殉教者の地
十六聖殉教者とは、日本人9名(金鍔次兵衛を含む)、スペイン人4名、フランス人1名、イタリア人1名、フィリピン人1名の計16名の殉教者を指し、日本人などは聖ドミニコ会に属し、司祭、修道士、修道女など寛永6年(1629)〜14年(1637)ごろに西坂の処刑場で殉教した人物です。当時、日本は禁教令によって教会がことごとく破却されていて、マニラにいた司祭などは殉教覚悟で日本へ向かい密かに活動を行っていました。彼らは過酷な拷問によって命を落とします。なお、16人の殉教者は昭和56年(1981)マニラで列福され、昭和62年(1987)ローマにおいて列聖します。D-293:2007-12/27参照




D-348:元和の大殉教の地
江戸時代に入り、江戸幕府は引き続きポルトガルとの貿易を最優先にした政策をとったため、比較的キリシタンへの弾圧はゆるく、まして長崎の町は代官をキリシタンであった村山等安が治めるなどキリシタンにとっては安定した状態が続きます。そうした中、オランダの策略でポルトガルの侵略のうわさやマードレ・デ・デウス号事件岡本大八事件など、キリシタンに関係する事件が相次ぎ、ついに慶長17年(1612)キリシタン禁教令が発布され、慶長19年(1614)には教会の破却など、幕府は一転、キリシタンの一掃がはかられます。
元和8年(1622)再び西坂でキリシタンの処刑が執行され、このときは大村と長崎で捕らえられた55人が火あぶりや斬首で命を落とし、この中にはイタリア人宣教師のスビノラ神父や幼い子供もいました。この事件を元和の大殉教と呼び、以降、弾圧がますます強化され激しい拷問が始まります。




D-347:二十六聖人殉教の地
天正15年(1587)秀吉は伴天連追放令を発しキリスト教を禁止しますがポルトガルとの交易は許すという内容だったため、フランシスコ会の宣教師は公然と京都など布教活動を行っていました。一方、西暦1596年、高知の浦戸海岸に漂着したサン・フェリペ号がスペイン船であったところから秀吉は植民地化を警戒し、直ちに京都の石田三成にキリシタン捕縛・処刑を命じ、京都大坂から24名の宣教師や修道士らを捕らえます。そして見せしめのため京都や大坂・堺を引き回した上、長崎を最期の地と決め西に向かわせるのです。約1ヶ月かけて長崎に向かいますが、途中、2人のキリシタンも加わり、慶長元年12月19日<西暦1597年2月5日>早朝、長崎に到着。午前10時に処刑が開始され正午頃にすべてが終わります。処刑場所は西坂付近でしたが、のちの江戸幕府の禁教政策の一環としてキリスト教関係の資料などすべてが抹殺されたため近年までその場所が判らず、昭和に入って片岡弥吉氏と浜口庄八氏などの研究で推定がなされ西坂に決められました(他説あり)。




D-346:ポンペ解剖実習地(ぽんぺかいぼうじっしゅうち)
安政4年(1857)海軍伝習所が行った第二次海軍伝習の際、長崎奉行所西役所内に医学伝習所が開設され(A-50:2003-6/30)、このときオランダ軍医ポンペが教授を務めます。安政6年(1859)には3日間という条件の下、実習生を伴い西坂刑場に向かい日本初となる解剖実験が行われました。このときは外国人による解剖ということで尊皇攘夷派の志士たちが敏感に反応したため、刑場の周りには約150人の役人と番卒が警備に当たったといわれています。なお、この様子をオランダ海軍のカッテン・ダイケ艦長は日記で、実験中一人の女性が見学していたとあり、古賀十二郎先生によると楠本イネではないかといわれています。C-149:2006/01/07参照




D-345:西坂処刑場跡(にしざかしょけいじょう-あと)
西坂町4(旧 上長崎村舟津郷字西坂)
西坂公園より北側一帯は長崎開港後から明治時代までキリシタンから一般の囚人などここで刑が執行されていました。刑は斬罪(ザンザイ:打ち首の刑)、磔刑(タッケイ:はりつけの刑)、火刑(カケイ:火あぶりの刑)などすべてが死刑で、キリシタンに関しては26聖人のほか約600名の日本人や外国人が殉教したといわれています。このほか処刑場は南部の小田の原がありました。C-160:2006/01/25




D-344:西坂(にしざか)
長崎開港以前、西坂長崎甚左衛門の居城であった桜馬場地区から見て西にあったことと、浦上に抜ける坂道があったところから西坂という地名が生まれたといわれていて、江戸時代は上長崎村舟津郷字西坂といい、明治22年(1889)長崎市に編入し、大正2年(1913)舟津郷字西坂と字舟津、岩原郷字浜平が合併して西坂町が誕生します。昭和39年(1964)には町界町名変更が実施され現在の町域となります。町域には日本二十六聖人記念館や西坂公園、NHK長崎放送局など有名な施設が多く建ち並んでいます。




D-343:コンプラドール高瀬家墓所【本蓮寺後山】
コンプラドールとは諸色買受人や買人、買弁などといい、のちに諸色売込人と呼ばれ日用品などを売り込む商人をいいます。特に出島オランダ商館に出入を許された者を出島コンプラ仲間と呼び17名で構成され、毎月2名ずつが出入していました。高瀬家もここに属します。幕末、コンプラドールは居留地にできた外国商館に雇われていた中国人を指す言葉となり、それはしだいに新しく来日してくる欧米人にとって水先案内人的役割を果たすようになります。しかし中国人の経験豊かな活動はやがて主従関係の逆転をも生むのです。




D-342:長崎学研究の祖:古賀十二郎先生墓所【本蓮寺後山】
古賀十二郎(明治12:1879-昭和29:1954)は長崎市五島町の黒田藩御用達の商家:萬屋に生れ、十二郎が12代目で明治12年生まれということもあって十二郎と命名されたともいいます。長崎市立商業学校から東京外国語学校へ、広島で3年間英語教師となりますが帰崎。長崎では長崎史談会を創設、長崎における歴史の基礎を築きます。大正8年(1919)長崎市史編さんの参与編纂主任として招かれ、いわゆる「長崎学」の基礎を引くのです。また、明治45年(1912)の長崎県立図書館創設に尽力、特に洋書収集ではオランダとの交渉役となり、その功績から大正9年(1920)オランダからナツソウ勲章が贈られます。




D-341:歌人:安中半三郎墓所【本蓮寺後山】
安中半三郎(嘉永6:1853-大正10:1921)は号を東来、斑山などといい東京神田の生まれで6才のとき父と長崎入りします。長川東洲や池原日南などに付き漢学を学び、多芸多能な人物といわれています。明治17-18年(1884-85)頃、東京で彼の時事風刺や俳句などが人気を博し崎陽文芸の珍と称されるほどで、そのほか教育にも熱心で明治の初め新橋町に長崎文庫(B-59:2004-8/23)を創設したり、明治26年(1893)に長崎慈善会を創設し明治31年(1898)に長崎盲亜学校を設立します(2003-12/25)。長崎公園内の東来和歌之碑は有名。




D-340:三浦悟門墓所【本蓮寺後山】
三浦悟門(文化5:1808-万延元年:1860)は名を惟純、通称を惣助、号を悟門といいます。三浦家は宝永6年(1709)より代々興善町の乙名の家で、悟門は三浦惣之丞の長男として生まれ、その後、乙名職や長崎会所目付役に進みます。悟門は同時に唐絵目利きであった渡辺鶴州や石崎融思などから南画を学び、後に長崎南画三筆と呼ばれるようになるのです(三筆は三浦悟門、木下逸雲、日高鉄翁)。悟門は屋敷を秋声館や香雨樓と称し、庭園に青桐(異名:碧梧)が植わっていたところから梧門と号したといわれています。A−90:2003/08/13




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