広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成20年 〜2008年〜
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萬寿山遊園地跡(まんじゅやま-ゆうえんち-あと)
立山2-13-58付近(旧 上長崎村岩原郷)
筑後町にある萬寿山聖福寺の後山になる立山は以前まで萬寿山ともいい、江戸時代は市民の紙鳶揚げの場所になっていました。大正14年(1925)聖福寺第13代住持:村山霊苗の提唱で市民の有志らが主体となり、日清、日露および第一次大戦における戦没者の慰霊塔釈尊銅像建立を計画し、翌15年(1926)あわせて長崎市に遊園設備が少ないことから聖福寺所有地でもある立山の地に小遊園(公園)を建設する計画がおこります。そして聖福寺総代や在郷軍人会などの有志の援助5000余円を得、昭和4年(1929)釈尊銅像と遊園が完成し、東端に忠霊塔を建立します。当時は市民の憩いの場として開放されていましたが昭和20年(1945)の原爆などの影響で廃され現在は忠霊塔のみ残っています。
昭和41年(1966)に長崎三十三ヶ所霊場が開かれたとき、西国28番霊場「聖観世音菩薩」と西国29番霊場「馬頭観音菩薩」が置かれるようになり、あわせて昭和48年(1973)建立の弘法大師1200年回忌記念碑と、昭和50年(1975)建立の長崎三十三ヶ所霊場開創10周年記念碑が建てられ、付近には大神宮と稲荷社の祠などがあります。




D-385:イエズス会立山修道院(長崎黙想の家)
立山5-8-250(上長崎村岩原郷)
イエズス会立山修道院はカトリック教会の施設で、関係者や信徒などが静かに黙想を行う場所です。
幕末、宣教師プチジャンは二十六聖人のために大浦天主堂を建立するのですが、当時はまだ、殉教の地が判明しておらず、プチジャン自ら実地踏査を行った結果、萬寿山(望呉山)つまり黙想の家のある丘を殉教地と決めます。以降、この地へ多くの信徒が訪れることとなりますが、昭和初年、旧浦上神学校の浦川和三郎師の研究で西坂小学校付近と改められます。そのため当初の丘は2月5日の二十六聖人殉教の日に祭儀を行う場所となり、昭和6年(1931)から昭和12年(1937)まで執り行われました。このときグミの木とそばにあったを目印とし巡礼していたといいます。第二次大戦後、殉教地が西坂の丘と確認された後は祭儀は西坂で行われることになり、それまでの巡礼地はイエズス会立山修道院(長崎黙想の家)に変わります。




D-384:茶臼山(ちゃうすやま)/頂守岳(ちょうすだけ)/聖山(せいざん)
東高西側の小高い山(旧 日昇館が建つ山)を茶臼山または頂守岳といいます。山は北側を雌頂守(メチョウズ)、南側を雄頂守(オチョウズ)といい、雄頂守を俗に女風頭(オナゴカザガシラ)と称します。そして雄頂守の南端が望呉山(石穀山/萬寿山)といい、現在の立山バス停付近になります。
長崎開港後、茶臼山の下、本蓮寺があったところにはサン・ジョアン・バウチスタ教会が置かれていて、当時は教会の背後の山を聖なる山:デウス山と呼んでいたといいます。これはデウス(Deus)に神という意味があったことから教会の背後にふさわしい名前となったもので、のちに聖山、さらにデウスがなまって頂守または茶臼となったといわれています。




D-383:長崎県立東高等学校(-ひがし-こうとうがっこう)
立山5-13-1(上長崎村岩原郷)
長崎県立東高等学校「通称:東高(ひがしこう)」の前身は、明治17年(1884)立山に長崎県立長崎中学校として開校したのが始まりとなります。しかし長崎県立長崎中学校は昭和23年(1948)の教育改革により新制高校に変わり、明治35年(1902)開校の長崎県立長崎高等女学校、大正11年(1922)開校の長崎県立瓊浦中学校、長崎市立高等女学校とを合わせて統廃合され、東高と西高の2校に編成し直します。そして、改めて東高を西山町に開校します。昭和51年(1976)施設の老朽化と敷地の狭さから現在地に移転します。A-230:2004-2/25,A-150:2003/11/01




D-382:岩杉稲荷神社(いわすぎ-いなりじんじゃ)
立山5-19(旧 上長崎村岩原郷/西坂町)
創建は宝暦4年(1754)で上長崎村立山郷の鎮守神としてお祀りされたものです。神社後方の山を岩杉山といいます。例大祭は毎年4月最終日曜日

岩倉稲荷神社(いわくら-いなりじんじゃ)
創建は明和元年(1764)で上長崎村岩原郷の鎮守神としてお祀りされたものです。もともとは茶臼山付近に置かれていましたが第二次大戦後、旧ホテル日昇館の建設に際し岩杉神社境内に移転されました。社殿は石造りで正面には「正一位岩倉五社稲荷大明~」と刻されていいます。

茶臼山大神宮神社(ちゃうすやまだいじんぐう-じんじゃ)
創建は万治3年(1658)長崎奉行妻木彦衛門によって再興されたと伝えられ、また、宝永元年(1704)に勧請され、伊勢宮第5代神主:島長太夫重彦が祭事を執り行ったとも伝えられています。ともに当時から頂守岳神明社または茶臼岳大神宮と称し、当時は参詣者で賑わっていたといいます。寛文2年(1662)に自火で焼失し、のち荒廃。天明7年(1787)ごろ長崎奉行末吉摂津守が石祠を改築します。明治以降は岩倉稲荷神社の付属社扱いとなりますが、明治35年(1902)西道仙、鈴木天眼らによってこの山の一帯に桜1000本が植樹され桜の名所となります。第二次大戦後、旧ホテル日昇館の建設に際し岩杉神社境内に移転されました。




砲台跡/原爆戦死者之慰霊碑
第二次大戦中、狭戸山山頂には高射砲第4中隊が布陣していて長崎市街地の防衛を司っていました。そのためこの頂を砲台跡ともいいます。昭和20年(1945)8月9日。原子爆弾の直撃で第4中隊は壊滅状態となり、死者48名、負傷者は200名を超え、さらには助けを求める市民で山頂は地獄絵図のようだったといいます。昭和52年(1977)関係者で作る金比羅戦友会によって慰霊碑が建立されます。
碑文「ここに平和のいしずえとなり わが戦友たちよ 戦友らとともに 永遠に旅だたれた人々よ やすらかに ねむりたまえ




D-381:狭戸山(せばとやま)
立山公園から金比羅山に向かうと中腹の金刀比羅神社入口付近でいくつもの道が交差します。そのまままっすぐ進むと金比羅山。右が金星観測所跡。左に曲がり北側に下ると坂本方面です。そして右に進むと砲台跡と呼ばれる一つの頂(イタダキ)に進みますが、その山を狭戸山といいます。その昔、付近に水田もあったといわれ狭田(セバタ)山ともいいます。




D-380:金刀比羅神社上宮【金比羅山山頂】
金比羅山(瓊杵山)山頂には大巌(オオイワ)があって、その南側背面に神殿が設けられ上宮をなしています。建物は度重なる風雨の影響でモルタル造りになっていますが、大巌にはのちの京都萬福寺第2代住持:木庵戒瑫禅師による「無凡山/黄檗木庵書」の文字が刻されています。木庵禅師は万治3年(1660)にこの山に登りあまりの景色の美しさに「無凡山」と呼んだといわれています。2007/11/06参照
天狗山(てんぐやま)
天狗山は金比羅山の北側にある山で、その昔、妖怪が出没したという話が残っています。




D-379:金比羅山(こんぴらさん)
もともと金比羅山瓊杵山(ニギヤマ)といいその由来は神話の時代にさかのぼります。太陽を意味する天照大御神の子孫:邇邇芸命(ニニギノミコト)が葦原中国(アシハラノナカツノクニ:日本の古称)に降り立ち統治者となるのですが、これが世にいう天孫降臨で、邇邇芸命の子孫が天皇家となります。この邇邇芸命は瓊瓊杵尊とも称し降り立ったところが瓊杵山という訳です。一般に天孫降臨は宮崎県の高千穂が有名ですが九州には類似した話が多く長崎の金比羅山にも伝説が存在します。このほか金比羅山はその姿から祟嶽(タカダケ)と呼ばれたり、木庵禅師から無凡山(ムボンザン)と命名されるなど様々な名を持ち、のちに金毘羅大権現をお祀りされたことから金比羅山となります。昭和20年(1945)8月9日。原爆は浦上上空でさく裂し甚大な被害となりましたが、この金比羅山が盾となり旧市街地(中心市街地)の被害が比較的少なかったといわれています。今では長崎市民に最も親しまれている山の一つ、標高366メートルの山です。




D-378:烏帽子岩/烏帽子山(えぼしいわ/やま)
金刀比羅神社から金比羅山に向かう中間に烏帽子(=神主がかぶる帽子)の形をした巨大な岩がありますが、この岩を烏帽子岩そしてその付近を烏帽子山といいます。岩は別名:鉄砲岩ともいい、弾丸の飛ぶ勢いに見えます。岩すそはなだらかな草原で春には紙鳶揚げが行われ、金比羅山の紙鳶揚げといえばもっぱらここのことをいいます。民謡ぶらぶら節にも登場します。




大平山(星取山)金星観測隊:ジョージ・デビットソン隊
明治7年(1874)12月9日大平山(星取山)で金星観測を行ったアメリカのジョージ・デビットソン隊は、(仏)J.ジャンサン隊のように結果を出すことが出来ませんでしたが、金星観測と同時に経緯度の観測も行っていました。デビットソン隊は大平山の観測点を使ってデビットソン点という基準を作り、さらに観測技師のチットマンを東京に送りチットマン点を設け、金星観測と同じ通信を使いロンドンとワシントンと長崎(デビットソン点)の経度差を時間差計測により測定し、そして東京(チットマン点)の経度を導き出しました。そしてこのチットマン点が日本の経緯度の基点となるのです。後にこのチットマン点は日本経緯度原点と呼ばれ、現在、東京の旧東京天文台(現 国土地理院の所有地:東京都港区麻布台2-2-1)に今も残されています。なお、この功績を称えるため平成9年(1997)長崎測量設計業協会が星取山ではなく金比羅山に記念碑を建立しています。




D-377:長崎金星観測碑(ながさききんせいかんそくひ)
明治7年(1874)12月9日金星が太陽面を通過するという当時の天文界では大変重要な現象が起こります。これを観測することで太陽と地球の距離を正確に導き出すことができ、さらには太陽系解明の手がかりとなるのです。そして観測に適した場所が日本であり横浜、東京、神戸、長崎の4ヶ所で観測が行われます。長崎では大平山(のちの星取山)でアメリカのジョージ・デビットソン隊が観測を行い、金比羅山ではフランスのJ.ジャンサン隊6名が観測を行います。結果、アメリカ隊は天候不順で結果が出せませんでしたがフランス隊は成功し、ジャンサンは自らこの記念碑を建て成功を祝います。この実験は長崎県令(知事)宮川房之の支援の下、通信のための電線架設や勝山町や萬屋町(現 万屋町)に観測台を置くなどの準備が行われ、特に勝山町の観測台は、当時はまだ9月に行われていた諏訪神社のくんち神輿渡御で、コース上に観測台があったにも関わらず神輿が迂回する形で進められるという計らいがありました。なお、この観測の130年後の平成16年(2004)6月8日も同じ現象が起こりましたが、現代においてはあまり重要なニュースにはなりませんでした。次回は平成24年(2012)6月6日。2005/05/06参照




為唐船海上安全永代常夜燈碑【金刀比羅神社境内】
この碑は天保4年(1833)に唐船方や船蔵などの世話人によって建立された灯籠の記念碑です。祭神の金毘羅大権現は航海安全の神として信仰者が多かった表れです。
琴平神社鎮社百周年記念碑【金刀比羅神社境内】
三井物産会社によって明治22年(1889)に創建した三井琴平神社ですが、平成2年(1990)には100周年祭が行われ、この記念碑がたてられました。建立は三井物産会社の流れをくむゼネラル石油(現 東燃ゼネラル石油)によって建てられました。




D-376:旧 神宮寺石灯篭(-いしどうろう)【金刀比羅神社境内】
石灯籠は神宮寺遺構といえるもので、文化3年(1806)に建立され、特徴としては3本の竿石(足の部分)と三日月型の火袋(灯りを灯す部分)があって、3本の竿石は唐船維纜石(トウセン-イランセキ)を使用しています。この維纜とは船をつなぎ止める綱を意味し、纜石(=トモヅナイシ)はその綱をくくるための石を表し、ゆえに唐船維纜石とは中国船の綱を止めるための石ということになります。このような纜石を使った石灯篭は金刀比羅神社のほか清水寺、大徳公園の3ヶ所に存在しています。竿石には次のように刻されています。
照鍳金毘羅大権現永代常夜燈
発願主 杉浦嘉右衛門 松原小右衛門

仰願唐船海上往来安全 敬白 施主 唐船方 日雇頭 日雇中
文化三年歳在丙寅六月吉辰建
世話人 惣兵衛 庄蔵 熊次郎 惣吉 辰右衛門 石工 喜八




D-375:三井琴平神社(みついことひらじんじゃ)【金刀比羅神社境内】
明治初期、長崎に支店を置き石炭販売や外国貿易などを始めた三井物産会社(現 三井物産)は、かねてより金刀比羅神社への信仰が篤く、明治18年(1885)には金刀比羅神社よりご分霊をうけ明治22年(1889)三井琴平神社を創建します。以降、三井物産会社長崎支店の守護神として大切にし、例大祭には多くの社員ほか関係者を集め、さらには丸山の芸者衆を迎え盛大に祝宴を催していました。しかし、昭和22年(1947)GHQの財閥解体命令により同社は解体。その後は関係のあったゼネラル物産(現 東燃ゼネラル石油)に受け継がれ管理されていました。




D-374:上宮を拝む象頭山の鳥居と敷石【金刀比羅神社境内】
金刀比羅神社は金比羅山山頂に上宮、中腹に拝殿が置かれた神社ですが、拝殿の後ろには上宮をお参りする遥拝場があって、そこには敷石に鳥居と灯籠が置かれています。現在は樹木におおわれ山頂を拝むことができませんが、以前までは神事などが行われていたと考えられます。
鳥居は文化4年(1807)に奉納されたものですが、刻された文字からおそらく地役人が何らかの功績で帯刀を許され、その記念に奉納されたものと考えられます。なお、鳥居額面「象頭山」は金刀比羅神社総本社がある香川県琴平町の琴平山(象頭山)にちなんだものです。




D-373:柊花会句碑(ひいらぎばなかい-くひ)【金刀比羅神社境内】
柊花会は昭和9年(1934)に長崎市の教職員によって結成された俳句の会で、当時は指導者に小島小学校教諭で長崎を代表する俳人:田中田士英(B-168:2005/01/01)を向かえ熱心な活動を行っていました。また、発足以来行われている経句会は昭和47年(1972)に900回を迎え、それを記念して昭和55年(1980)にこの句碑が建てられました。
碑には田士英の「勝凧を下す廣言ほざきつつ」のほか、36人の句が刻まれています。




修路碑(しゅうじひ)【金刀比羅神社境内】
修路碑はいわゆる道路改修碑のことで金刀比羅神社参道が整備されたことを記念して明治16年(1883)建立されています。建立者はすべて唐船主または華僑の方々で、碑文には古い屋号などを見ることができます。
献木記念碑(けんぼくきねんひ)【金刀比羅神社境内】
献木記念碑は昭和15年(1940)の皇紀二千六百年に黄心樹(オガタマ)が植樹されたのを記念するもので、当時の長崎県知事:川西実三(のちの京都府知事)が献木し、長崎観光会が碑を建立します。
皇紀とは日本書紀に記された日本独自の紀元のことで第1代神武天皇が即位した年(西暦紀元前660年)を元年とします。皇紀二千六百年は昭和15年(1940)に当り、当時の日本は日中戦争から太平洋戦争へと戦況が激化する頃で、全国で皇紀二千六百年記念行事が行われました。これは国威高揚の政治的意味合いが大変強い行事だったのです。




D-372:瓊杵尊古蹟碑(にぎのみこと-こせきひ)【金刀比羅神社境内】
もともと金比羅山は瓊杵山(ニギヤマ)といいその由来は神話の時代にさかのぼります。太陽を意味する天照大御神の子孫:邇邇芸命(ニニギノミコト)が葦原中国(アシハラノナカツノクニ:日本の古称)に降り立ち統治者となるのですが、これが世にいう天孫降臨で、邇邇芸命の子孫が天皇家となります。この邇邇芸命は瓊瓊杵尊とも称し降り立ったところが瓊杵山という訳です。一般に天孫降臨は宮崎県の高千穂が有名ですが九州には類似した話が多く、この碑はその歴史を刻むものです。碑は寛政8年(1796)長崎奉行手付出役:近藤重蔵によって建立。書は中国杭州:劉雲台によります。




D-371:乙二の句碑(おつにのくひ)【金刀比羅神社境内】
この碑は乙二の句碑、別名を初夢塚といい江戸時代後期に活躍した松窓乙二(ショウソウオツニ:宝暦5:1755-文政6:1823)の句碑です。乙二は本名を岩間清雄、奥州白石(宮城県白石市)の千手院の住職で、小林一茶や与謝野蕪村らと交流があって奥州俳諧四天王に数えられていました。乙二は日本各地を旅し多くの句を残しますが、長崎への旅は実現することなく他界。そのため門人の「さきを尼」がその遺志を継ぎ5年後に長崎を訪ねます。当時の長崎の俳人らはその師弟愛に感激し「さきを尼」に協力して句碑の建立となったといわれています。
碑文「 (前文不明) 初ゆ免や 追れて歩行 すまの波 乙二




○天台宗神宮寺についてA
神宮寺には薬師堂、毘沙門堂、観音堂、妙見祠、斎道寺、鎮道寺などのお堂や坊を構えた一大伽藍の寺院だったと伝えられていますが、すべてが焼き払われたためその姿は想像の域を脱していません。
範囲は今の諏訪神社から長崎歴史博物館、馬町から玉園町付近一帯に及び、薬師堂は長崎公園付近、毘沙門堂は諏訪神社参道付近、観音堂、妙見祠、斎道寺、鎮道寺などは神宮寺境内地にあったといわれています。
こうした中、宝永2年(1705)に金比羅山金毘羅大権現が勧請され、のちに本社が建ち、享保10年(1725)には神宮寺の名称となるのですが、これは古来長崎にあった神宮寺の再興という位置づけでした。




○天台宗神宮寺について@
江戸時代後期に書かれた長崎図志には、古来長崎には神宮寺という寺院が今の諏訪神社付近に立っていたと記されていますが、始まりは聖徳太子が活躍していた推古天皇5年(597)朝鮮半島の百済より渡って来た琳聖太子が建てた道場で、のちの弘仁年間(810-824)に嵯峨天皇の許しを得て寺院とし、その後、代々長崎氏がお祀りをしていたといいます。
一方、室町時代の嘉吉元年(1441)大名:赤松満祐(ミツスケ)は将軍足利義教(ヨシノリ)を暗殺(世にいう嘉吉の乱)。これにより足利義勝が兵を出すよう大宰(府)の少弐嘉頼(ヨウニヨシヨリ)に命令するも応じなかったため、大名:大内教弘(ノリヒロ)が兵を出すと少弐軍は肥前に逃げ、その際、大内軍は神宮寺に立ち寄り参拝したといわれています。これは大内氏が琳聖太子の末裔ということと、神宮寺の神を信仰していたからだといい、しかし駐留するなどして寺は荒廃し、さらには※慶長時代(1596-1615)キリシタンによって跡形もなく焼き払われ、神宮寺跡地には教会が建ったと伝えられています。なお、教会はセント・ルカス教会といい、そのルカスが「ろかす」に変わり炉粕町になったという説があります。※天正9年(1581)の説あり。




D-370:金刀比羅神社(ことひらじんじゃ)
金刀比羅神社の総本社である金刀比羅(コトヒラ)は香川県琴平(コトヒラ)町の琴平山(象頭山)の中腹にあって、主祭神は大物主神で昔から海の守り神として信仰の対象となっていました。本来はインド:ガンジス川の守護神クンピーラから始まったもので、クンピーラ→金毘羅(金比羅:こんぴら)→琴平(金刀比羅:ことひら)と変化します。
長崎では明治維新を受け、無凡山神宮寺の祭神が金毘羅大権現だったことから金刀比羅神社と改称し、山の名前を金比羅山(コンピラサン)と呼ぶのです。今でも航海安全の神として親しまれ毎月10日の縁日には多くの参詣者で賑わいます。
なお、長崎では以前まで耳の遠い人のことを「金比羅さん」と呼び、これは10日が長崎弁のW遠い”と同じ発音ということからそう呼ばれていました。




D-369:真言宗無凡山神宮寺跡(-むぼんざん-じんぐうじ-あと)
西山1-938(旧 浦上山里村)【金比羅山】
寛永元年(1624)島原出身の修験者:常樂院快晴は八幡町に修験道場を開き、のちの第3代住持:長慶の代になって八幡町乙名:木下潤蔵の保護の下、宝永2年(1705)讃岐国象頭山より金毘羅大権現を勧請し、瓊杵山(現 金比羅山)山頂の岩窟に納められます。元文元年(1736)には中腹に拝殿が作られ、また、祭神が航海安全の神ということもあって唐人や唐船主などからの銀や石灯籠などの寄進を受けるようになります。しかし、明治維新を受け神仏混淆が禁じられ金刀比羅神社に変わると寺院施設は廃され、鐘楼ほか仏具は長崎裁判所に納めることになり、入口にあった半円形の石門は聖福寺に売却されます(現存:市指定文化財)。




長崎原爆被爆者療養センター「立山荘」
昭和51年(1976)長崎原子爆弾対策協議会(原対協)は被爆30周年記念事業として、原爆被爆者専用の保養施設「立山荘」を建設。宿泊施設や大浴場などを完備した一大レクリエーション施設が完成します。総工費は約3億9千万円で日本自転車振興会、長崎市、長崎県などからの助成を受け作られたもので、多くの被爆者や市民に利用され親しまれています。




D-368:金刀比羅神社一の鳥居
(ことひらじんじゃ-いちのとりい)【立山公園内】
金刀比羅神社は金比羅山山頂に上宮、中腹に本社を置く創建寛永元年(1624)の神社で、ここの鳥居はその入り口となる一の鳥居になります。鳥居は昭和5年(1930)の郷社昇格を記念して建立されたもので、地元立山の住民や長崎の有力者などからの寄進を受け立てられました。また、額面「金刀比羅神社」の文字は第3次伊藤内閣農商務大臣であった伊藤巳代治によるものです。




供養塔(題目塔/一字一石塔)【立山公園展望台下】
一字一石塔は一人一人の信者が一つの石に一文字ずつ文字を書き、その塔の下に埋め願いを掛けるというもので、塔には日蓮宗のお題目である「南無妙法蓮華経」と彫られています。
立山公園には3つの塔があって、碑より大正14年(1925)に建立されたものとわかりますが、正面「眼病日朝大上人」とは、日蓮宗の総本山である身延山久遠寺の第11世貫首:行学院日朝上人(1422-1500)のことで、日朝は衰退した日蓮宗の再興のほか書物等の編集に努められ、その結果、眼病になったともいわれています。しかし日朝は眼病をも克服したという故事から、眼病回復のご利益があると伝えられる人物です。




○慰霊碑【立山公園内】
昭和59年(1984)8月24日。立山公園内で長崎県立東高校の女子生徒(当時17才)が男に襲われ命を奪われるという事件が発生。5日後、男は佐世保市内で殺人の容疑で逮捕されました。犯人は長崎市内に住む(当時23才)男で、昭和51年(1976)にも幼児を殺すという事件を起こしており、長崎県民は大きなショックを受けました。
この碑は立山公園内で起こった犠牲者の慰霊として建立されました。なお、長崎東高校では毎年8月。慰霊祭が行われています。
碑文「空のように 花のように」




D-367:立山千本桜(たてやま-せんぼんざくら)【立山公園内】
昭和32年(1957)立山千本桜は、のちに長崎市保健環境自治連合会の会長として活躍された井村学(明治40:1907-平成2:1990)の尽力により植樹された桜で、1000本もの桜は当時の各分野からの寄進によるものでした。
また、平成4年(1992)には井村氏の功績をのちに伝えるため長崎市長:本島等氏らによって記念碑が建立されます。さらに、昭和60年(1985)3月。地元自治会である立山連合自治会は千本桜植樹30周年記念行事として第1回桜まつりを開催、以降毎年続けられています。




D-366:立山公園(たてやまこうえん)
立山5-1(旧 長崎村岩原郷)
昭和47年(1972)長崎市はモデル事業の一環として立山に長崎市立モデル児童遊園を開園します。これは「チビッ子の楽園」と銘打ち、東大助教授などの専門家を集め研究開発されたもので最新の遊具などがそろえられました。当時としては九州で2番目の施設で、このほか展望台や小鳥園(のちに閉園)なども設けられ市民の憩いの場として人気を集めます。




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