広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成20年 〜2008年〜
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山王日吉神社(さんのう-ひよし-じんじゃ)
江戸時代、浦上皇太神宮の場所は山王権現を本尊とした真言宗の寺院:圓福寺があったところで、明治維新後、山王権現を大山昨神(オオヤマクイノカミ)とし日吉神社と改称した形となっていますが、信徒など地域では以降も「山王さん」と呼び、明治17年(1884)の合祀で浦上皇太神宮となるも、そのまま使用されています。なお、鳥居などには正式名称の「浦上皇太神宮」と刻されています。




D-431:浦上皇太神宮(うらかみ-こうたいじんぐう)【山王日吉神社】
明治初年、浦上地区はキリシタンへの弾圧(四番崩れ)が激しく、明治元年(1868)に長崎裁判所総督として長崎入りした澤宣嘉は神道を奨励する意味でも神社を建立することを決定します。そして賛同者であった豊後町の島谷安昌は自らの土地(現 山里小学校)を神社に献納し造営がはじまり明治2年(1869)太神宮の鎮座祭が行われました。しかし次第に衰退し明治7年(1874)の大風で社殿は倒壊。仮復旧するも禁教令が解かれた浦上では再開は難しく、明治17年(1884)日吉神社と合祀することになり、日吉神社は浦上皇太神宮と改称することになります。昭和20年(1945)8月9日。原爆の直撃で壊滅状態となりますが、早くも昭和24年(1949)から祭典を復活し再建が進められ今に至ります。




圓福寺の寺名の由来
圓福寺は初め、「白山の岡(現 平和公園)」にあって、そこから現在の坂本に移転したという説があります。その昔、「白山の岡」からは浦上川の橋口を望むことができ、そばを塔の尾と称していました。そしてそこに無凡山神宮寺(現 金刀比羅神社)の支院:圓福寺があったところから、新たに創建することになった山王権現を圓福寺と称したといいます。移転後は圓福寺、常福寺、白巖寺の三ヵ寺からなり、現在の穴弘法付近に常福寺、白巖寺がありました。




D-430:真言宗白巖山観音院圓福寺跡
(はくがんさん-かんのんいん-えんぷくじ-あと)
坂本2-6-56(旧 浦上山里村里郷字長尾)【山王日吉神社】
寛永15年(1638)島原の乱に参戦した松平伊豆守信綱が帰途中にこの地を通過。すると付近の風景が近江比叡山のふもとに酷似し、また地名も坂本と同じことから、ここに比叡山坂本に置かれている山王権現を勧請してはと、時の長崎代官:末次平蔵茂房に申し出ます。茂房は長崎奉行にとり計り慶安元年(1648)この地に廟宇を建て、寺町延命寺の龍宣を開基とし戦勝祈願行います。承応元年(1652)延命寺第2代住持:尊覚は廟宇が墳墓に近かったため現在の山王神社のところに移します。圓福寺は表面上、山里村の住民からの寄進を受けていましたが、山里村の住民は密かにキリスト教を信仰する者が多く、幕末の四番崩れにより住民の多くが流罪となり、また、明治政府の廃仏毀釈によって圓福寺は維持困難となり終焉となります。そして本尊:山王権現は日吉神社として祀り、僧侶は神職となります。




D-429:坂本山王観音堂(さかもと-さんのう-かんのんどう)
坂本1-3(旧 浦上山里村里郷)
観音堂の本尊は観世音菩薩で、あわせて地蔵菩薩が安置されています。創建は定かではありませんが観音菩薩台座に宝永5年(1708)とあります。お堂前面の道は浦上街道で、江戸時代の初めのころから多くの人々で賑わい、そのためか多くの信仰者を集めていたといいます。昭和20年(1945)の原爆の爆風で観音堂は大破し焼き尽くされますが、石像だった観音菩薩像と地蔵尊像は焼け残り、補修を施し今に至ります。さらにここは昭和28年(1953)延命寺(寺町)第22世住職:堤祐演が再興した長崎四国八十八ヶ所霊場の中の八十三番霊場に当ります。この長崎四国八十八ヶ所霊場とは、四国八十八ヶ所霊場に行くことが困難な人のために開かれたもので、長崎四国八十八ヶ所霊場を巡ると四国と同じご利益があるといわれています。




D-428:新坂本外国人(国際)墓地(しんさかもと-がいこくじん/こくさい-ぼち)
坂本1-2(旧 浦上山里村里郷)
明治21年(1888)4月。川上町の国際墓地が閉鎖され、同年7月以降は新たに開かれた浦上山里村(現 目覚町)と竹の久保(伝染病者用)の墓地が使用されます。明治36年(1903)には旧来の位置の北側(旧 坂本町)に新たに墓域61区画が設けら、新坂本外国人(国際)墓地が誕生します。この墓域にはトーマス・B・グラバーや倉場富三郎、ウィルソン・ウォーカーなどの墓所が見られます。ここも昭和20年(1945)の原爆の爆風で多くの墓石が破損しました。




D-427:坂本外国人(国際)墓地(さかもと-がいこくじん/こくさい-ぼち)
目覚町26(旧 浦上山里村馬込郷)
江戸鎖国時代、来日した外国人(唐人を除く)で長崎で死亡した外国人は、稲佐にある悟真寺後山に土地が割り当てられ埋葬されていましたが、幕末、居留地が大浦に開かれた後は大浦地区に墓地を開くようイギリス領事が幕府に要請。文久元年(1861)幕府はイギリス人に対し大浦郷の一区画を貸与します。その後、露、仏、蘭、米の各国にも許可が下り埋葬が始まり、明治17年(1884)には埋葬者の増加で墓域の拡大が行われ現在の範囲となります。しかし明治21年(1888)4月。付近住民の衛生面の問題から閉鎖されることになり、新たに開かれたのが浦上山里村(現 目覚町)と竹の久保(伝染病者用:大正9年閉鎖)で、のちに明治32年(1899)墓所は長崎市所管となります。一部、竹の久保より移葬された方もあります。敷地5,594平方メートル(約1,695坪)。昭和20年(1945)の原爆の爆風で多くの墓石が破損しました。参照C-264:2006/06/13




創立功労者詩碑【法正寺境内】
創立功労者詩碑は法生寺創建に尽力した法友会会員の山下三郎の自作の詩が記されたもので昭和47年(1972)初代住持:澤正念によって建立されています。碑文「死してよし 生きてなおよし このからだ 弥陀にまかせし わが身なりでば いつまでも ゆめの旅路を さまよいて 弥陀のみくにへ いつぞかえらん」 

山下三郎翁像【法正寺境内】
明治時代中期、山下三郎は若くして法生寺の前身となる法友会の会員となり信仰篤く活躍されていました。昭和26年(1951)偶然にも山下三郎と法生寺初代住持となる神崎正年との再会は、折しも浦上地区の真宗堂宇の建設が急がれていた時期で、山下三郎は宗教関係施設という条件のもと敷地を寄進し、法生寺の創建となりました。昭和58年(1983)建立。

建立整地記念碑【法正寺境内】
建立整地記念碑は昭和53年(1978)に建立された本堂のことと、昭和20年(1945)の原爆の影響で風化が激しくなった石垣の修復などについて記された記念碑で昭和57年(1982)に建立されています。




梅本仁四郎先生の碑【法正寺境内】
梅本仁四郎(明治13:1880-昭和20:1945)は明治時代中頃、仏教に帰依し広く教化活動を推し進め青少年の指導のため修養道場の建設に尽力します。そして明治42年(1909)真宗青年会館の開館となり(これが後の法生寺となる)以降も住民とのかかわりを持ち社会奉仕活動など幅広く活躍します。昭和29年(1954)建立。

顕彰碑【法正寺境内】
顕彰碑は法生寺の創建の歴史や創建に尽力した法友会会員の山下三郎を顕彰したもので、昭和47年(1972)初代住持:澤正念によって建立されています。




D-426:浄土真宗真正山法生寺(-しんせいざん-ほっしょうじ)
緑町4-28(旧 浦上町)
明治34年(1901)浦上町の青年有志は深く仏教に帰依し説法所の必要性を説き、18名の会員によって法友会を組織し明治42年(1909)土地を購入し施設建立が実現しますが、昭和20年(1945)の原爆の影響ですべてを失うことになります。第二次大戦後、法友会の生存者:山下三郎夫妻が法生寺初代住持となる神崎正年と再会した際、山下氏が復興のためにと敷地を提供し、昭和29年(1954)本願寺より許可を得て法生寺が創建します。現在の本堂は昭和53年(1978)に建立されました。




D-425:緑町(みどりまち)
昭和39年(1964)町界町名変更が行われ、それまでの浦上町、銭座町、茂里町、目覚町の各一部が合併し緑町となります。町名の由来は、当時、付近住民に使われていたことによります。

船江(ふなえ)
江戸時代、聖徳寺の北側、ちょうど緑町と目覚町付近は船着場つまり船だまりがあって船江と呼んでいました。長崎甚左衛門の時代、甚左衛門の軍船:阿竹丸(アダカマル)がつながれていた場所で、のちに間違って豊臣秀吉の船がつながれていた場所となっていました。




D-424:目覚町(めざめまち)
明治時代まで聖徳寺付近は海に突き出た岬にで、その様子が尾っぽに似ているところからその岬を尾上(オノウエ)と呼び、そこに姿形の良い老木の松もあって松ヶ崎とも呼んでいました。その昔、あまりの松の美しさに長崎奉行牛込忠左衛門は松を見て興(キョウ)ざめ見醒松(ミザメノマツ)と名づけ、のちに転じて目覚めとなったといわれています。
江戸時代、付近は馬込村に属し、のちに浦上村馬籠郷となり、浦上山里村馬込郷字目覚と称し、大正2年(1913)から馬込郷字目覚、字中目覚、字新目覚、字松ヶ崎などが合併し目覚町となります。昭和39年(1964)町界変更などによって現在の町域となります。




長崎駅址の碑【JR浦上駅】
碑文「七十周年記念建立/長崎駅は明治三十年七月二十二日当地に開設され八年後路線延長に伴い浦上駅と改稱された」
この碑は昭和42年(1967)吉田竹市によって建立され、題字は当時の長崎市長:諸谷義武によるものです。

国鉄原爆死没者慰霊之碑【JR浦上駅】
この碑は昭和20年(1945)8月9日に国鉄職員として原爆の犠牲となった方々への慰霊の碑で、昭和48年(1973)8月9日に建立されました。
碑文「天を撃つな 戦雲を射て 人を撃つな 戦禍を射て / 原爆長崎に眠る 無名の霊よ 国鉄の魂よ 霊の目はみつめ 魂の手はつかむ 平和と未来とを」
碑文作詞は板谷政英、文字は湯浅奇峯。




D-423:浦上駅(うらかみ-えき)
川口町1-50(旧 岩川町)【JR浦上駅】
明治25年(1892)九州鉄道会社は長崎-佐世保間の鉄道敷設を始めますが不況の影響で頓挫。明治28年(1895)再度、着工し、明治30年(1897)長崎-長与間、翌31年(1898)佐世保-早岐-大村-長与間を開通させます。このときの長崎駅は現在の浦上駅で、明治38年(1905)の路線延長によって現在の位置に長崎駅が置かれ、それまでの長崎駅だったところを浦上駅と改称します。昭和20年(1945)8月9日。原爆によって駅舎をはじめ線路など壊滅状態になりますが、国鉄は鳥栖以南の保線区などの応援を得て8月11日には仮復旧を行い、同日午後10時15分には長崎発の列車運行が始まっています。C-211:2006/04/11参照,A-1:2003/05/01




D-422:長崎新聞社(ながさきしんぶんしゃ)
茂里町3-1(旧 目覚町)
本木昌造が活版伝習所を開き(A-98:2003-8/30参照)、明治6年(1873)長崎新聞が創刊され、休刊や経営の引継ぎなどが行なわれながら明治43年(1910)まで続きます。一方、現在の長崎新聞は明治22年(1889)の長崎新報が起源となり、明治44年(1911)長崎日日新聞と改称し、第2次世界大戦の言論統制では他の3社と共に長崎日報として発足させられますが、昭和21年(1946)すぐに4社に分離します。長崎日日新聞は船津町(現 恵美須町)に社屋を設け、昭和34年(1959)長崎民友新聞と合併し出島町に移転。長崎新聞と改名します。さらに昭和43年(1968)長崎時事新聞と合併。昭和55年(1980)出島復元事業のため茂里町に移転し現在に至ります。参照2003/09/10,D-78:2007/03/18




○「三菱製鋼所発祥の地」の碑
茂里町3-2(旧 目覚町)【NCC長崎文化放送】
三菱製鋼(株)は昭和17年(1942)に誕生し白亜の本館ビルが茂里町に建てられます。昭和20年(1945)8月9日。浦上の地で炸裂した原子爆弾は数千度の熱戦とともに爆風を放つもこの本館ビルは立ち尽くし、数千人の犠牲者及び設備の被害は出たものの被爆ビルとして戦後復興のシンボルとなります。しかし本館ビルは平成元年(1989)に解体され、平成2年(1990)犠牲者への鎮魂と平和を祈念し三菱製鋼と三菱製鋼の後を継いだ三菱長崎機工鰍ノよって建立されています。




D-422:三菱長崎製綱所跡(みつびし-ながさき-せいこうしょ-あと)
茂里町2-34,38,41(旧 目覚町)
【長崎ブリックホール、もりまちハートセンターほか】
三菱合資会社(C-334:2006/10/19)は、第一次世界大戦による軍備拡張に対応するため製鋼所を茂里町に新設し大正8年(1919)三菱長崎製鋼所を誕生させます。しかし大戦の終結から経営が困難になり一旦は閉鎖されるも、昭和12年(1937)に再開し陸軍管理の下、戦車や航空機などの鋼板などの生産を行います。昭和20年(1945)8月9日。原爆によって工場は破壊状態となり工場機能は失われ、職員、工員ほか動員学徒など1406名の死者を出します。同年9月。人員整理が行われ12月から新体制によって復興が進められます。その後、工場は整理され平成4年(1992)には市制100周年事業として原爆被爆者や障害福祉施設の「もりまちハートセンター」、平成10年(1998)にはイベントホール「長崎ブリックホール」が誕生し今に至ります。




D-421:福岡俘虜収容所第14分所跡
(ふくおか-ふりょしゅうようしょ-だい14ぶんしょ-あと)
【三菱重工業轄K町工場】
長崎紡績株式会社の跡地に第2次大戦中、三菱兵器製作所が拡張され、その後、昭和18年(1943)には戦争で捕虜(俘虜)となった外国人の収容所が置かれます。捕虜はインドネシア、オランダ、イギリス、オーストラリア、アメリカなど約400名に上り、昭和20年(1945)8月1日の空襲では爆撃を受け、さらに8月9日。原爆によって工場もろとも破壊、焼失し、多数の死傷者を出します。




D-420:三菱長崎兵器製作所跡
(みつびし-ながさき-へいき-せいさくしょ-あと)
茂里町2-2,幸町6-12(旧 目覚町)
【長崎市中部下水処理場/三菱重工業轄K町工場】
三菱合資会社は、日本初となる民間魚雷製作所を茂里町に新設し大正6年(1917)三菱長崎兵器製作所を誕生させます。そして翌7年(1918)第1号魚雷発射実験を長與村堂崎(現 長与町)の発射場で行い、以降、茂里町の工場では量産に入ります。昭和14年(1939)第2次大戦時にはさらなる拡張が進められ、幸町や大橋町に新工場を建て最盛期には18,000人もの工員が働きます。昭和20年(1945)8月9日。原爆によって全工場は破壊状態となり工場機能は失われ、職員、工員ほか動員学徒など約2300名の死者を出します。昭和21年(1946)工場は平和産業に衣替えし長崎精機製作所となり戦後復興へ走り出すのです。




D-419:長崎紡績株式会社跡(ながさきぼうせきかぶしきがいしゃ-あと)
幸町6-12(旧 幸町,福富町,玉浪町,梁瀬町)【三菱重工業轄K町工場】
明治17年(1884)山口孫四郎は馬込新開に長崎紡績所(山口紡績所)を建て英国製の機械を置いて操業を始めます。当時としては近代的な設備による工場でしたが明治23年(1890)の恐慌により倒産します。大正元年(1912)肥塚源次郎の提唱により長崎紡績株式会社が誕生(資本金100万円)。中国向けの綿糸製造を始めます。大正12年(1923)には第二長崎紡績会社と合併し国光紡績株式会社となります。昭和5年(1930)には従業員1064名を数え大会社となりますが、第2次大戦中の昭和16年(1941)倉敷紡績に吸収され、目印だった赤レンガ塀は三菱兵器製作所に変わります。




D-418:茂里町(もり-まち)
明治維新後、唐人屋敷が廃され、そしてその敷地の大部分を豪商:森伊三次が購入し整備を行います。しかし廃されたばかりの唐人屋敷は江戸時代の名残で塀と堀に囲まれ、出入りは広馬場の表門しかありませんでした。そこで氏は明治25年(1892)に旧唐館内と周辺地域を結ぶ3つの橋を架け住民の往来を便利にします。このほか氏は浦上川埋立てに尽力し広大な土地を拓き、自らの名前から里が茂る(栄える)ようにという意味を込め(旧)茂里町が生まれます。当初は浦上山里村に属していましたが、明治31年(1898)長崎市に編入。大正2年(1913)周辺部と合併し(旧)茂里町になります。そして昭和39年(1964)新たに岩川町や浜口町など町界町名変更によって現在の町域になります。参照C-171:2006/02/12




D-417:幸町/宝町/尾上町/八千代町
昭和39年(1964)に町界町名変更によって浦上川河口部の12の町が整理統合され、旧 幸町、福富町、玉浪町、梁瀬町が現在の幸町になり、井樋ノ口町、寿町、旧 宝町、船蔵町などが現在の宝町、旧 尾ノ上町、高砂町が尾上町、旧 八千代町、瀬崎町などが八千代町になります。




D-416:尾ノ上町(おのうえ-まち)
明治37年(1904)に完了した長崎港湾改良工事によって現在の銭座町電停付近から長崎駅-大波止-市民病院付近と稲佐の海岸地帯が埋立てられこれにより24の新しい町が開かれます。その一つが尾ノ上町で、現在の長崎駅付近にあたります。尾ノ上の名称も祝意によるものですが、江戸時代、浦上川の河口に尾上という岬があって(現 聖徳寺付近)、そこにちなんだものと考えられます。昭和39年(1964)に町界町名変更によって文字を変え尾上町(オノウエマチ)に変わります。




D-415:梁瀬町(やなせ-まち)
明治37年(1904)に完了した長崎港湾改良工事によって現在の銭座町電停付近から長崎駅-大波止-市民病院付近と稲佐の海岸地帯が埋立てられこれにより24の新しい町が開かれます。その一つが梁瀬町で、稲佐橋付近に当たります。その昔、浦上川の河口付近では水中に網を置いて白魚漁が行われていて、その白魚を取る道具を(ヤナ)と呼び、いつしか地名になったといいます。そのと海岸線を意味する梁瀬町となりました。昭和39年(1964)に町界町名変更によって幸町に変わります。




D-414:玉浪町(たまなみ-まち)
明治37年(1904)に完了した長崎港湾改良工事によって現在の銭座町電停付近から長崎駅-大波止-市民病院付近と稲佐の海岸地帯が埋立てられこれにより24の新しい町が開かれます。その一つが玉浪町で、稲佐橋とJR長崎線の中間付近に当たります。町名は江戸時代、対岸の淵町に宝珠山萬福寺(現 淵神社)があって宝珠山から珠(=玉)をとり、海岸線から浪の字を使って玉浪町となりました。昭和39年(1964)に町界町名変更によって幸町に変わります。




D-413:旧 宝町/寿町/旧 幸町/福富町/八千代町/高砂町
明治37年(1904)に完了した長崎港湾改良工事によって現在の銭座町電停付近から長崎駅-大波止-市民病院付近と稲佐の海岸地帯が埋立てられこれにより24の新しい町が開かれます。その際、町名の命名は付近に由来したものが採用されますが、それ以外は祝意つまり、おめでたい言葉、今後の発展を希望した言葉が選ばれます。
旧 宝町は現在の国道202号線沿い(ベストウェスタンプレミアホテル付近)。
寿町は旧 宝町の裏通りで現在はその名残りとして付近を流れる川に寿橋が架かっています。
旧 幸町は現在の稲佐立体交差付近。
福富町は旧 幸町の一つ稲佐橋側の通り。
八千代町は瀬崎町の一つ海側で現在の県営バス駐車場裏手です。
高砂町は旧中の島のことで現在の長崎駅操車場北側にあたります。




D-412:瀬崎町(せざき-まち)
明治37年(1904)に完了した長崎港湾改良工事によって現在の銭座町電停付近から長崎駅-大波止-市民病院付近と稲佐の海岸地帯が埋立てられこれにより24の新しい町が開かれます。その一つが瀬崎町で、現在の国道206号線沿い(県営バス駐車場付近)に当たります。町名は江戸時代、NHK付近が北瀬崎と呼ばれたことに由来します。昭和39年(1964)に町界町名変更によって御船蔵町、八千代町、西坂町に変わります。




D-411:御船町(みふね-まち)
明治37年(1904)に完了した長崎港湾改良工事によって現在の銭座町電停付近から長崎駅-大波止-市民病院付近と稲佐の海岸地帯が埋立てられこれにより24の新しい町が開かれます。その一つが御船町で、現在の国道206号線沿い(天理教前〜西部ガス)に当たります。町名の由来は江戸時代、この付近にあった御船蔵にちなんだものです。昭和39年(1964)に町界町名変更によって西坂町と御船蔵町に変わります。




D-410:船蔵町(ふなぐら-まち)
明治37年(1904)に完了した長崎港湾改良工事によって現在の銭座町電停付近から長崎駅-大波止-市民病院付近と稲佐の海岸地帯が埋立てられこれにより24の新しい町が開かれます。その一つが船蔵町で、現在の国道206号線沿い(井上病院〜宝町バス停)に当たります。町名の由来は江戸時代、この付近にあった御船蔵にちなんだものです。昭和39年(1964)に町界町名変更によって宝町に変わります。




D-409:井樋ノ口町(いびのくち-まち)
享保年間(1716-36)この付近から浜口付近まで埋立てが行われ浦上新田か誕生。その際、潮水の出入りを調整していた堰堤つまり井樋(水溜の水門の意)が聖徳寺下付近に設けられていたところから井樋ノ口と呼ばれるようになりました。また、明治37年(1904)に完了した長崎港湾改良工事によって現在の銭座町電停付近から長崎駅-大波止-市民病院付近と稲佐の海岸地帯が埋立てられこれにより24の新しい町が開かれます。その一つが井樋ノ口町で、現在の銭座町公園付近でした。なお、昭和39年(1964)に町界町名変更で宝町に変わります。D-362:2008/03/26




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