広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成21年 〜2009年〜
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E-63:九州電力竃Oの浦変電所
飽の浦町10-30
国道(バス通り)から約180メートル上ったところに九州電力竃Oの浦変電所があり、この変電所までの道が長崎一急勾配の坂(車両が通行可能の坂)といわれている変電所の坂です。ある一定勾配以上の坂は長崎市は移管を受けないこととなっているため、この坂道は私有地(九州電力所有地)で九州電力が管理しています。勾配は約35%で、つまり100メートル水平に進む毎に35メートル垂直に下がる(もしくは上がる)ことを意味します。




長崎四国八十八ヶ所霊場第39番霊場【峯巖寺境内】
昭和28年(1953)延命寺(寺町)第22世住職:堤祐演が再興した長崎四国八十八ヶ所霊場の中の三十九番霊場に当り弘法大師をお祀りされています。この長崎四国八十八ヶ所霊場とは、四国八十八ヶ所霊場に行くことが困難な人のために開かれたもので、長崎四国八十八ヶ所霊場を巡ると四国と同じご利益があるといわれています。




E-62:浄土宗妙照山峯巖寺(-みょうしょうざん-ほうがんじ)
飽の浦町10-30(浦上淵村飽ノ浦郷/飽ノ浦町1丁目)
明治35年(1902)銭座町聖徳寺の僧:井上達龍は飽の浦地区の信徒増加に伴い教会所を創建。当時は飽の浦教会所と称していました。その後、大正10年(1921)静岡県の宝台院の境内にあった峯巖院の寺号を移し峯巖院と公称し、のちに峯巖寺とします。本堂は木造入母屋造りの建物で正面には金龍院と書かれた大額が掛っています。堂内は内陣、外陣の区分けがあり、内陣中央には本尊阿弥陀如来像が安置されています。港を行き交う船の汽笛が整然として院内の隅々まで響き渡ります。




E-61:日蓮宗立正山昭徳寺(-りっしょうざん-しょうとくじ)
飽の浦町8-23(浦上淵村飽ノ浦郷/飽ノ浦町1丁目)
昭和4年(1929)筑後町本蓮寺の僧:森慈境は飽の浦地区の信徒増加に伴い、現 入船町に聖徳教会所を創建。その後、昭和14年(1939)本堂が増築され境内に祈祷所が建立されます。翌15年には昭徳寺と寺号を公称することになり、昭和29年(1954)現在地に移転します。堂内には日蓮上人像を始め、脇には鬼子母神、清正公がお祀りされています。
○関谷太郎吉翁之碑




E-60:飽の浦カトリック教会
飽の浦町8-50(浦上淵村飽ノ浦郷/飽ノ浦町1丁目)
飽の浦カトリック教会は大正8年(1919)中町教会の中町小教区から独立し飽の浦小教区として誕生した教会で、現在の聖堂は昭和34年(1959)に建てられたものです。飽の浦地区は三菱長崎造船所の開設により人口が増加し、そのため飽の浦カトリック教会の信徒は外海や五島、長崎近郊から三菱に入った信徒を中心とした教会といえます。また、ホームページによると信徒の約7割が三菱の従業員もしくは関連会社の人が多く「庶民・職工の教会」といわれているそうです。




E-58:飽浦小学校分教場跡(飽の浦しょうがっこう-ぶんきょうじょうあと)
【西日本菱重興産ビル】
大正2年(1913)に村役場が廃された跡は飽浦小学校(明治8年開校)の分教場として使用されていました。

E-59:三菱倶楽部跡【西日本菱重興産ビル】
大正11年(1922)三菱長崎造船所の娯楽施設として三菱倶楽部が現在の飽の浦小学校のグランドの地に開設され、大正14年(1925)分教場と交換され瀬ノ脇に移転します。




E-57:浦上淵村役場跡(うらかみふちむらやくば-あと)
飽の浦町5【西日本菱重興産ビル】
浦上淵村は江戸時代初めには浦上南村といい、のちに浦上淵村となります。村には竹ノ窪郷、稲佐郷、平戸小屋郷、水ノ浦郷、飽ノ浦郷、瀬ノ脇郷、岩瀬道郷、立神郷、西泊郷があって、明治以降に西彼杵郡浦上淵村となっています。明治31年(1898)旭町など沿岸部が先に長崎市へ編入され、大正2年(1913)第1次市域拡張により長崎市となり、郷が廃止され稲佐町1〜3丁目、竹の久保町、平戸小屋町、水ノ浦町、飽ノ浦町1〜4丁目、瀬ノ脇町、岩瀬道町、東立神町、西立神町、西泊町になります。当時、現在の西日本菱重興産ビルのところに村役場がありました。




恵美須波止場跡/瀬ノ脇波止場跡【恵美須神社境内】
恵美須神社境内に恵美須波止場という石碑がありますが、明治中期までは神社の全面は海で船着場(波止場)がありました。また、この地区を瀬ノ脇というところから瀬ノ脇波止場もおそらくここのことと考えられます。江戸時代、対岸の長崎へ小船による往来が頻繁に行われたものと考えられ、のちにそれは交通船に変わります。しかし、港湾改良工事や三菱造船所の建設で埋立てられ船着場は姿を消すのです。




○正一位五社稲荷神社【恵美須神社境内】
境内にある末社で祭神は保食大神(ウケモチノオオカミ)

○金刀比羅神社/柿本神社
境内にある末社で祭神は市杵島姫神(イチキシマヒメノカミ=弁財天)
柿本神社の祭神は詩歌の祖:柿本人麻呂(カキノモトノ-ヒトマロ:生没年不詳:奈良期)と考えられますが詳細不明。




金島/釛島(こがねじま)
神社の東南、ちょうど三菱の構内に当たるところに明治初年に埋め立てられるまで金島という島がありました。言伝えでは、島の下半分は黄金と信じられ神聖な場所とされていました。また、島には恵美須神も祀られていて、そこから恵美須神社を釛山恵美須神社といいます。島は別名を蜉蝣(カゲロウ)島とか躶(ハダカ)島、もしくは赤はげともいい、残念なことに延宝年間(1673-1681)には役人が神聖な場所と知らず磔刑に処した場所でもあり、のちに伝説を生むことになります。
※伝説は2009-5/4悟真寺の項参照




松平美濃守(福岡藩主長溥:ナガヒロ)陣屋跡【恵美須神社】
弘化元年(1844)オランダ使節コープスが国王ウイルヘルム2世の国書を携えて来航。それは中国のアヘン戦争の状況を日本に知らせ開国するよう勧告したもので、軍艦パレンバン号で来航したこともあり、時の奉行伊沢美作守は筑前、佐賀、平戸、唐津、大村の諸藩に総勢4300人の兵を出させ長崎港の警備につけます。その際、恵美須神社は筑前福岡藩松平美濃守の陣屋に指定されていて、毎年、米5俵の手当てを与え神社の維持管理に役立たせました。




稲佐神社(恵美須神社)の伝説
3〜4世紀、朝鮮出兵(三韓征伐)の際、神功皇后がこの地に立ち寄られ事代主命(恵美須神)を勧請し稲佐浦の守護にしたといわれ、それが稲佐神社の起源といわれています。また、元和年間(1615-1624)長崎氏によって恵美須神は木鉢浦に移され代官末次平蔵茂房によって厚く信仰されるのですが、寛永10年(1633)異国船追放を祈願し本紺屋町の小柳五郎左衛門らによって再び稲佐の地に戻し港内守護とします。なお、この言い伝えは神崎神社と酷似していますが、恵美須神社には木鉢浦と森崎にあった恵美須神が合祀されています。




E-56:釛山恵美須神社(こがねやま-えびすじんじゃ)
飽の浦町5(浦上淵村飽ノ浦郷/飽ノ浦町1丁目)
釛山恵美須神社は以前は稲佐神社または飽の浦神社と呼ばれていましたが、言い伝えによると江戸時代初め、長崎の町建てが始まったころ市街地北部に町が開かれ外下町あたりに住む住人が恵美須神をお祀りしたことに始まります。町の埋立てが進みその恵美須神にちなみ南側を恵美酒町、北側を大黒町とします。寛永10年(1633)小柳五郎左衛門道長というものが長崎代官末次氏に願い出て、浦上淵村瀬ノ脇郷に移され、以後、浦上淵村の氏神さまとして信仰されることになります。当時、神社は海に面していましたが、明治時代になり三菱造船所の発展とともに埋立てられ今に至ります。




I三菱長崎造船所
第二次大戦によって大打撃を受けた工場は小型漁船の建造を皮切りに仕事量を増やし始め、日本の経済成長とともに大きく発展、大型タンカーなど生産量を伸ばしていきます。昭和49年(1974)の石油危機以降、設備の削減が余儀なくされ新たな分野への開拓がはじまります。昭和58年(1983)液化ガス船の竣工から石油備蓄船、平成元年(1989)には豪華客船の分野への進出を成し、さらには艦船やイージス艦を竣工させます。そのような中、昭和50年(1975)の旭大橋を足がかりに生月大橋や女神大橋といった長大橋の架橋。火力発電所から風力発電所、太陽光発電まで様々な分野へ発展し平成20年(2008)創業150年を迎えました。




H三菱長崎造船所
世界経済が石油を中心とした社会となり年々タンカーの大型化が進み、昭和47年(1972)香焼に世界一の規模を誇る幅100メートル、長さ990メートルのドックが完成します。しかし翌48年(1973)から始まる石油ショックは造船受注の激減、さらには為替変動なども相まって経営が危機的状況に陥ります。しかし全社挙げての省エネルギー対策やコスト削減などが功を奏し危機を克服。時代は大型タンカーから中小型の少量でかつ様々な種類の船舶受注時代へと移り、貨物船や自動車運搬船、LPG船、そして豪華客船と、世界最先端の技術で日本を代表する企業として進化し続けています。




G三菱長崎造船所
昭和25年(1950)三菱重工業株式会社は企業再建整備法により三社に分割され、長崎造船所は西日本重工業株式会社長崎造船所となります。昭和25年(1950)朝鮮戦争や昭和30年(1955)第一次輸出船ブームなど世界情勢に景気は左右されるものの工場は復興し、船舶の大型化による溶接や建造技術、エンジン性能も世界最高水準にまで達します。昭和30年代始めは造船業界は不況の時代でしたが、後半から持ち直し石油輸送需要の増大からマンモスタンカーの時代を迎えます。また、施設の近代化も推し進められ、そして昭和39年(1964)解体された会社が再び合併し三菱重工業株式会社が発足。事業所の合理化も進められます。




F三菱長崎造船所
昭和20年(1945)飽の浦や立神にある工場群は空襲により全焼または半壊し、浦上地区は原爆の影響で壊滅します。終戦後、日本海軍は解体され、造船所は戦後復興のため家庭用品や農機具などの製作所に変わり、さらには復旧工事用の車両や炭鉱機械、そして漁船の大量建造へと移ります。並行して戦災工場の復旧もなされ、軍需施設とは打って変わり昭和21年(1946)には造船祭を催し広く市民に復興をアピールします。




E三菱長崎造船所
昭和6年(1931)の満州事変は日本が戦争の道へと進むきっかけとなりますが、軍需産業とりわけ造船業にとっては好景気をもたらし、やがてそれは日本の技術力を最高水準に引き上げるものになります。昭和9年(1934)名称を三菱重工業株式会社長崎造船所としすべての施設が稼働そして拡張となり、昭和12年(1937)には戦艦「武蔵」の建造がはじまります。また、このころ大阪商船の南米航路「あるぜんちな丸」や日本郵船の欧米航路「新田丸」などの貨客船の建造も多く、これら独自設計の技術は世界最高水準に達します。そんな中、昭和16年(1941)太平洋戦争が勃発。この戦争は海ではなく空が中心の戦争で長崎造船所では戦艦から空母への建造へシフトし、一方で昭和17年(1942)戦艦「武蔵」が引き渡されます。しかし昭和19年(1944)以降、工場は空襲のターゲットとなるのです。




D三菱長崎造船所
明治12年(1879)に完成した立神第一ドックですが船の大型化に伴い明治27年(1894)船台の拡張やドックの延長、あわせて周辺施設の拡充が進められ、各施設のほか発電所や研究施設の建設が進められ、さらには第2、第3ドックの完成を見ます。明治42年(1909)ごろから日本海軍の軍備拡張に伴い艦船受注も増大し、また、外国との技術提携なども進み技術水準も世界トップレベルに達します。そんな中、大正11年(1922)のワシントン軍縮会議は世界最大最強とうたわれた戦艦「土佐」の廃船を決め、やがてそれは世界恐慌へとつながります。




D三菱長崎造船所
明治12年(1879)立神第一ドックを完成させた明治政府ですが、翌13年(1880)政府は財政難や民間企業育成を理由に官営工場を民間に払い下げることとし、明治17年(1884)三菱は長崎造船局を25年間で借り受けることになり、三菱は本格的に造船事業を推し進めます。そして明治20年(1887)払い下げ願いを出し条件として50年間で45万9000円を支払うというものでした(今のお金で約5億4000万円)。すぐに一時金を払い所有権は三菱社となります。以降、次々に商船を受注し技術力も向上し、さらには日清日露戦争による好景気にも支えられ戦艦受注は東洋一を誇るようになります。第一次大戦を経て日本船依存が増え、大正6年(1917)には三菱の造船部門は独立。三菱造船株式会社長崎造船所と改称します。




C三菱長崎造船所
土佐藩出身の岩崎弥太郎は慶応3年(1867)開成館長崎出張所の主任として赴任し外国商人と船舶や武器の取引にあたり、明治3年(1870)には土佐藩と合弁により土佐開成商社を立ち上げ(のち→九十九商会→三ツ川商会と改称)、明治5年(1872)三菱商会とします。岩崎は事業を手広く始め海運の発達や明治初期に勃発した台湾の役や西南戦争などで軍需輸送で莫大な利益を上げるとともに政府への援助も惜しみなく協力し、その結果、政府は三菱に対し資金の貸し付けや保有船舶の貸下げを行います。明治8年(1875)横浜で建設中の民間の造船所を譲り受け三菱製鐵所を設立。保有船舶の修理を中心に造船業の本格経営が始まります。




B三菱長崎造船所
明治維新を受け、長崎製鐵所は明治政府管理となり長崎裁判所長崎製鐵所となります。ちょうどこのころは艦船工事が少なく本木昌造らのもと活版や我が国初の鉄橋である鐵橋が西浜町−築町間の架橋されています。明治4年(1871)工部省所管となり長崎造船所と改称、翌年には長崎製作所となります。当時、日本の海外進出や海運業の発達などで船舶の需要性が増し大型船建造に対応するドックの建設が叫ばれます。そして工事がストップしていた立神第一ドックの工事が再開され明治12年(1879)長さ139メートル、幅27メートル、水深8メートル、総トン数7000トンを入渠できるドックが完成。当時としては東洋一の規模を誇ります。




A三菱長崎造船所
文久元年(1861)幕府は長崎奉行岡部駿河守に艦船建造の要請をしますが修船設備はあっても造船設備がないため、岡部駿河守はオランダに対し機材一式と技術者の派遣を依頼します。文久4年(1864)技師C・レーマンらが来日し立神に建設を始めますが、幕府が横浜や横須賀に重きを置くようになり、さらには対岸の小菅にも建設計画があることから建設は中止となります。そんな中、外国から多くの艦船を購入していた薩摩藩は自藩に船底修理用のドックを持たなかったため艦船の出入りが多い長崎に着目。あわせて長崎製鐵所の利用も視野に入れ、薩摩藩家老:小松帯刀(タテワキ)、藩士:五代友厚、貿易商トーマス・B・グラバーらが出資し小菅浦に修船所の建設を始め、明治元年(1868)小菅修船所(そろばんドック)が完成します(のちに明治政府が買収)。




@三菱長崎造船所
安政2年(1855)幕府は長崎奉行所西役所内に海軍伝習所を設け軍事技術の習得に努め、のちにオランダよりスンビン号の献上を受け本格的伝習が始まります。安政4年(1857)長崎奉行は艦船の修復目的で製鐵所建設を上申し、目付の永井玄蕃頭尚志に工場建設の準備を始めさせます。そしてオランダより技師のハルデスらにより水深のある飽の浦が選ばれ工場建設が着工され、文久元年(1861)3月。長崎製鐵所が完成します。工場は鍛冶場、鋳物場、轆轤盤(ロクロバン)細工所などからなり長さ60メートル、水深7メートルの係留用岸壁を持つ本格的洋式修船場が誕生します。




E-56:飽の浦町(あくのうら)
江戸時代、飽の浦は浦上淵村に属し集落を飽ノ浦郷と称していました。その昔、この地が月見の名所で秋に中秋の名月を多くの人々が鑑賞していたところから秋ノ浦と呼ばれ、それが転化して飽ノ浦と呼ばれたといいます。明治31年(1898)から長崎市に編入、大正2年(1913)から飽の浦町1〜4丁目が作られ、昭和40年(1965)町界町名変更によって現在の飽の浦町、入船町、秋月町、塩浜町にそれぞれ分割されます。




E-55:瀬ノ脇町(せのわきまち)
江戸時代、瀬ノ脇は浦上淵村に属し集落を瀬ノ脇郷と称していました。昔は岩礁や岩瀬が多く船の往来が危険な場所でしたが、明治時代になって埋め立てられました。現在の恵美須神社から水の浦交差点付近です。大正2年(1913)瀬ノ脇町となり、昭和40年(1965)町界町名変更によって現在の飽の浦町の一部となります。




E-54:水浦天満宮(みずのうらてんまんぐう)
水の浦町8(旧 浦上淵村水ノ浦郷)
寛永18年(1641)筑前黒田藩は幕府の命を受け長崎警備のため西泊に番所を設け、あわせて水の浦に兵の宿舎を設けます。その際、地元の安楽寺天満宮(現 大宰府天満宮)を祀っていた武士が分霊を水の浦に移しお祀りしたのが水浦天満宮の創建といわれ、江戸時代初期の建立と考えられています。狭い境内ですが井戸などもあり、水ノ浦で有数の豊富な水量を誇っていました。




E-53:湊大明神(みなとだいみょうじん)
水の浦町(旧 浦上淵村水ノ浦郷字丸尾)
湊大明神は水の浦の鎮守神で、保食大神(ウケモチノオオカミ)を祀る稲荷神社です。天正3年(1575)の創建と伝えられていますがその後の沿革は判っていません。社殿は岩壁の間にあり霊験あらたかな様相を呈しています。




E-52:筑前屋敷跡(ちくぜんやしきあと)
水の浦町2,3,6,7,8番地(旧 浦上淵村水ノ浦郷)
寛永12年(1639)江戸幕府は海外への渡航および帰国を禁止し、合わせて長崎港への異国船の警備を強化。寛永15年(1638)には野母遠見番所が置かれ、翌16年(1639)御用船を細川藩などに配置させます。寛永18年(1641)になると海防施設として番所を設置することになり、筑前黒田藩:黒田右衛門佐忠之の江戸参府を中止させ長崎警備に当て、港口に当たる西泊に番所を設けます。その際、藩屋敷は五島町にありましたが数百人ともいわれる兵の宿舎が幕末の元治元年(1864)まで水の浦にありました。その後、吉田某氏の所有となり俗に吉田屋敷、長屋の様子から九軒屋敷などと呼ばれていました。現在、当時の敷地を示す境界石「筑州建山」が数か所残っています。




E-51:浄土真宗浄真寺(じょうしんじ)
水の浦町24番地(旧 浦上淵村水ノ浦郷)
明治期以降、浄土真宗の壇信徒のうち水の浦地区の住む者にとって檀家寺への参詣が不便を期していたため説教場の建設が求められ、明治36年(1903)ごろ、水の浦長崎説教場支場としてとして水の浦町の海岸地区に創建します。そして明治40年(1907)ごろ現在の高台の地に移転。その後、浄真寺を号し今に至ります。




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