広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成21年 〜2009年〜
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E-89:西泊(にしどまり)
江戸時代、西泊は浦上淵村に属し集落を西泊郷と称していました。明治31年(1898)から長崎市に編入、大正2年(1913)から西泊町となり今に至ります。地名の由来は長崎港口の船溜りの意味で、戸町浦の東泊に対し西泊となりました。




E-88:西泊番所(にしどまりばんしょ)
西泊町1,2(浦上淵村西泊郷)
寛永12年(1639)江戸幕府は海外への渡航および帰国を禁止し、合わせて長崎港への異国船の警備を強化。寛永15年(1638)には野母遠見番所が置かれ、翌16年(1639)御用船を細川藩などに配置させます。寛永18年(1641)になると海防施設として番所を設置することになり、筑前黒田藩:黒田右衛門佐忠之の江戸参府を中止させ長崎警備に当て、港口に当たる西泊に番所を設けます。翌19年(1642)には肥前鍋島藩も加わって戸町に番所を置き、常時500人づつを駐屯させ警備に当たらせました。この二つの番所を俗に沖の両番所または千人番所、海手番所といい、幕末の元治元年(1864)までわが国の異国船防備の第一線を飾ります。
参照C-352:2006/11/21




E-87:西泊トンネル(にしどまりとんねる)
以前まで西泊地区へは陸路では行くことができず交通船を利用した海路のみで陸の孤島と呼ばれていました。昭和44年(1969)悲願だった立神との道路が完成。これにより西泊地区へはバスが走るようになりたいへん便利になりました。トンネルの西泊側には道路の開通を記念して「西泊道路開通記念碑」が建っています。




E-86:あぶない亭跡
岩瀬道町(浦上淵村岩瀬道郷)
その昔、塩浜町バス停と岩瀬道町バス停の中間に井手さんというおばさんが営む「あぶない亭」という店がありました。店は煙草、ラムネ、ソーダ水、駄菓子などを売るまさに「峠の茶屋」で、夜ともなると辺りは真っ暗になり、注意しないと真下にある三菱の第2ドックへと落ちそうな場所でもありました。また、夜に稲佐や丸山の遊郭帰りの酔っぱらいがこの店の前を通ると、土産の折詰の中身が不思議と空になっていたとのことで、は稲佐山に棲むキツネの仕業といわれていました。




E-85:立神波止場跡(たてがみはとば-あと)
東立神町7(浦上淵村立神郷)【立神バス停前】
以前まで立神地区への陸路で行く場合、山あいの狭小な険しい道を歩けなければならず、もっぱら交通船を利用した海路が一般的で、立神から旭町へ向かう場合は立神-大波止-旭町と乗り継いでいました。昭和33年(1958)悲願だった飽の浦との道路が完成。これにより立神地区へはバスが走るようになりたいへん便利になりました。そして立神の桟橋(立神波止場)のある立神港そのものは埋立てられ30万トンドックと生まれ変わります。記念碑は平成2年(1990)立神自治会によって建立されました。




立神道路開通記念碑【立神公園内】
東立神町17(浦上淵村立神郷)
以前まで立神地区への陸路で行く場合、山あいの狭小な険しい道を歩けなければならず、もっぱら交通船を利用した海路が一般的で、立神から旭町へ向かう場合は立神-大波止-旭町と乗り継いでいました。昭和33年(1958)悲願だった飽の浦との道路が完成。これにより立神地区へはバスが走るようになりたいへん便利になりました。

立神町立立神公会堂
東立神町8-16(浦上淵村立神郷)
立神公会堂は昭和10年(1935)地元東西の立神町によって建てられました。碑には寄付者の名前が刻され、表題字は長崎市長:笹井幸一郎、文は松田佐によるものです。

○公民館建設記念碑
碑文より、自治会では長年、集会場や健康維持を目的とした公民館建設を望んでいて、昭和51年(1976)長崎市および三菱長崎造船所の援助と、さらには地元住民の寄付および西日本菱重興産鰍フ協力によって鉄筋コンクリート3階建の公民館が完成します。この記念碑はそれらの功績を刻し長く人々に伝えるものになっています。




○桜谷神社とピエール・ロチ
ピエール・ロチ(1850:嘉永3年-1923:大正12年)はフランス出身の小説家で士官学校卒業後、海軍士官となり生涯を海軍として過ごし、また、海軍として海外を歴訪しながら多くの知識を得、多くの異国趣味小説を発表します。明治18年(1885)長崎に艦船とともに来航し立神のドックに入渠。長崎では十人町の民家に仮寓しお菊という女性と結婚します。明治20年(1887)自らの結婚生活を描いた「マダム・クリザンテーム(お菊さん):明治20:1887発表」を発表。このときの彼の日記に嵐が過ぎ去った日に出かけた散歩の様子について「椿と竹藪の間の険しい小径」「樹齢数百年の大木の林にある」「石の階段伝いにケルトの巨石みたいに腐蝕した鳥居をくぐる」「見慣れない格好をした御影石の老怪物が隅の方で顰めっ面をしている」などとありこの場所が「桜谷神社」であると判ります。
※一部、さるくガイドマニュアル参照いたしました。




E-84:桜谷神社(さくらたにじんじゃ)
東立神町16-12(浦上淵村立神郷字桜谷)
桜谷神社は立神の町から約500メートル、標高も約150メートルほどもある山あいの神社で樹齢約300年以上の杉の古木に囲まれた霊験あらたかな場所です。創建は定かではなく、江戸時代は摩利支天、不動明王を安置して桜谷権現として両部神道(神仏混淆)という位置づけで始まった神社でした。明治維新によって祭神(本尊)を天照大神とし桜谷神社と改称し、旧本尊は社殿横にお堂を設け分離してお祀りされます。以降、社殿の改修や石段の整備が進められ今に至ります。




三界萬霊供養塔【長寿院境内】
筑国(福岡県)久留米西岸寺信徒:池尻倫海:明治15年(1882)建立

立神郷民所有地記念碑【長寿院境内】
碑文によると、立神は造船所建設に最適な場所だったことから、文久2年(1862)長崎奉行服部長門守によって計画が進められ、明治7年(1874)飽の浦に洋式機械工場、立神に造船所が起工され、明治12年(1879)井上工部卿をお呼びし竣工しました。明治17年(1884)政府の委託を受け岩崎氏の三菱会社が業務を行うようになると、明治32年(1899)以降、立神郷への道路や波止場などが開かれることになり、三菱側と立神郷民らが協議し郷有地204坪(約670平方メートル)の無償譲渡や、立神を流れる河川の浚渫等の管理などを取り決めたことなどが記されています。
額面文字は長崎県知事:荒川義太郎、碑文は高松出身:松原熊によるものです

長寿院建設記念碑【長寿院境内】




E-83:浄土宗立神山長寿院善光寺
(-りっしんざん-ちょうじゅいん-ぜんこうじ)
西立神町10-24(浦上淵村立神郷善光寺谷/西立神町42番地
その昔、立神に小さな地蔵堂があって観音菩薩と地蔵菩薩が安置されていました。特に地蔵菩薩は眼病や天然痘平癒のご利益があって地元民に大変親しまれていました。明治維新を受け地蔵堂は廃され浦上の聖徳寺に移されますが、立神の長老の夢枕に元の場所に戻すようお告げがあり早速、地蔵堂を建て移すことになります。当時、立神地区に浄土宗寺院がないことなどから聖徳寺の住持:田中達禅は立神に説教所を開くことを計画し明治13年(1880)長崎県の許可を得、地蔵堂を鎮西派説教出張所とし阿弥陀如来(島原沿岸に漂着した霊験あらたかな像)を安置し本尊とします。さらに大正6年(1917)には寺号の準備が整い本山の許しを得、静岡市の長寿院より寺号を移し現在の長寿院となります。




E-82:浄土真宗大谷派浄正寺(-じょうしょうじ)
東立神町16-12(浦上淵村立神郷/東立神町211番地)
浄正寺は明治34年(1901)旧式見村浄満寺の住持:観山傳證が立神地区の説教所として東立神町217番地に創設したのが始まりで、大正9年(1920)現在地に移転し今に至ります。本尊は阿弥陀如来。




E-81:立神(たてがみ)
江戸時代、立神は浦上淵村に属し集落を立神郷または立上郷と称していました。明治31年(1898)から長崎市に編入、大正2年(1913)から地区の西側を西立神町、東側を東立神町とし今に至ります。
町名の由来は長崎港の入り口の東側を女神、西側を男神といい、男神には天門峰という切り立った岩山が連なり、その男神の立ち上がった岩山から立神となったといわれています。




E-80:正八幡宮(しょうはちまんぐう)
岩瀬道町11-1付近(浦上淵村岩瀬道郷)
正八幡宮は岩瀬道町の高台に位置し三菱造船所を望む位置にあり、八軒屋バス停横より長い階段により進みます。創建は元和元年(1681)で祭神は応神天皇です。以前まで三菱の工員さんたちの花見の名所として親しまれていました。
八幡宮の総本社は大分県の宇佐神宮で誉田別尊(ホンダワケノミコト=応神天皇)を祭神としますが、江戸時代までは神仏習合で八幡大菩薩でもあり、ご神徳は農業神のほか源氏の神として戦の神でもあります。




E-79:八軒屋(はちけんや)
岩瀬道町(浦上淵村岩瀬道郷)
明治16年(1883)松尾孫八は稲佐に機関工場として松尾鉄工所を創設。明治25年(1892)には造船も手掛けるようになり、明治35年(1902)には香焼島に敷地面積約26,000平方メートル(約8000坪)の本格的造船所を竣工させます。香焼工場は3000トン級以下の船舶の建造ができ、最盛期には約1千超人の従業員を誇りました。その後、造船所は昭和に入り川南工業に買収されます。
八軒屋とはその松尾孫八の出身である田中一族の屋敷八軒が建っていたところからこう呼ばれていて、現在はバス停名に見ることができます。




E-78:三菱造船所・占勝閣(せんしょうかく)【三菱長崎造船所本館南側】
占勝閣は明治37年(1904)に建てられた木造2階建洋館で、当初は社長宅として建設され総面積約125坪、総工費33,700円(今のお金で約4,700万円)を要しました。現在は三菱造船所の迎賓館としてたくさんの宝物が保管され来賓などをお迎えする場となっています。

下記は高田泰雄氏資料「長崎史蹟名勝案内」より引用
占勝閣
本館は三菱長崎造船所第3船渠北方、身投岬の丘上に位置し、元郷社、八幡神社境内の老松古木を庭園に取り入れ、明治36年7月起工、翌37年7月落成した。本館は洋風木造2階建で、階上に寝室、ホール、小室を設け、階下に食堂、応接室、書斎等に区分し、また厨房を備える地下室がある。総建坪約123坪、もっぱら迎賓館として使用されている。調度品は当時としては最高のイギリス製品で、壁布地もイギリスから輸入したものである。明治38年1月、戦艦千代田入渠の節、同艦長伏見宮依仁親王殿下は本官に上泊せられたが、御帰京後、当閣が風光景勝を占めるとの意から、とくに占勝の2字を選び「占勝閣」と命名された。その後、多数の皇族が上泊されているが、特に大正9年4月、東宮裕仁親王殿下には、当初にて建造の船艦土佐の竜骨第1鋲を親しくお打ちになり、御休憩の上九州御巡幸の旅をつづけられている。また、昭和24年5月、ようやく国情恢復の緒につくとき、昭和天皇九州御巡幸のことあり、その途次当所施設など叡覧、占勝閣に御宿泊されている。




E-77:岩瀬道/石背洞(いわせどう)
岩瀬道町(浦上淵村岩瀬道郷)【三菱長崎造船所本館南側】
長崎三菱造船所本館の南側、いわゆる第3ドックは江戸時代、奥が大変広く深い洞で石背洞と呼ばれていました。名前は北側の三投石に対しその背になるところから石背洞といいます。
江戸時代、石背洞は岩瀬道に字が変わり、浦上淵村に属し集落を岩瀬道郷と称していました。明治31年(1898)から長崎市に編入、大正2年(1913)から岩瀬道町となり今に至ります。

向島(むこうじま)
三菱造船所の本館下付近を向島といいます。これは丸尾町付近から見てこのあたりが島のように見え、向こう側の島から向島と呼ばれます。




E-76:三投石(みなげいし/-いわ)
岩瀬道町(浦上淵村岩瀬道郷)【三菱長崎造船所本館北側】
長崎三菱造船所本館の北側の崖を江戸時代は三投石といい、大小さまざまな岩が覆い重なり深い洞になっていました。その昔、一人の女性が身を投げたと伝えられている場所で、始めは身投石、のちに三投石と変わり別名を剣戟(ツルギホコ)または折石といいます。江戸時代後期ともなると港内の景勝地にも数えられ夏ともなると屋形船が集まり納涼の者で賑わったといいます。言い伝えによると、岩の下に大亀が棲んでいて時折出す首が馬の頭のようであったといいます。




E-75:宮地嶽神社(みやじだけじんじゃ)
塩浜町18番地付近(浦上淵村飽ノ浦郷)
宮地嶽神社は塩浜町の高台に位置し三菱造船所を望む位置にあり、バス通りより長い階段により進みます。創建は不明で参道の鳥居の建立年には大正3年(1914)とあります。
宮地嶽神社の本社は福岡県福津市にあって神功皇后を主祭神、勝村大神(カツムラノオオカミ)・勝頼大神(カツヨリノオオカミ)を配し、宮地嶽三柱大神(-ミハシラオオカミ)してお祀りされている神社です。




E-74:三菱(長崎)病院(みつびしながさきびょういん)
飽の浦町1-73【三菱長崎造船所内】
三菱造船所の前身である長崎製鐵所が開業した当時、工場での負傷や治療は大徳寺跡にあった長崎県立病院へ赴いていて、明治28年(1895)に筑後町の中村菊水堂病院に変わるも工場からの利便性が悪く、そのため明治30年(1897)飽の浦の工場内に従業員専用病院が開設されます。その後、増築され従業員家族も利用することができるようになり、大正3年(1914)興善町(のち船津町:2003/09/11参照)に分院も設けられ従業員の福利厚生が充実します。大正7年(1918)総面積約400坪のレンガ造2階建の関西随一の最新式近代病院が造られ三菱病院が誕生します。第二次大戦に入り、茂里町に昭和16年(1941)分院が設けられるも昭和20年(1945)原爆に影響で茂里町、船津町の両院は焼失。本館も被害に遭うも被災者の治療が行われました。レンガ造の建物は老朽化のため取り壊され昭和50年(1975)現在の建物に変わります。昭和52年(1977)からは従業員だけでなく地域医療にも貢献する総合病院となっています。




E-73:三菱史料館(みつびししりょうかん)
飽の浦町【三菱長崎造船所内・三菱病院側】
三菱史料館は長崎造船所の歴史と資料、文献、写真など約1300点を展示する展示館として昭和60年(1985)に開館しました。館内には日本最古の工作機機の竪削盤(ジュサクバン)<国重要文化財>をはじめ、昭和45年(1970)のタービン破裂事故で破損した機械など、後世に伝え残すべく資料が数多く展示され三菱長崎造船所を知ることができます。なお、史料館の建物は明治31年(1898)に建てられた木型工場の跡で施設内最古の建物でもあります。




E-72:飽の浦トンネル(あくのうら-とんねる)
塩浜町〜大浜町間
飽の浦トンネルは全長1559メートル、上下合わせて2車線のトンネルで国道202号(起点福岡市〜終点長崎市)の一部をなし平成11年(1999)に完成しました。以前まで国道202号は峠越えの急カーブの多い狭小の道路でしたが、福田地区の宅地化などの影響で交通量が増加し、さらに峠道の拡張が困難なことからトンネル建設となりました。開通後、ほとんどの車はトンネルを通っていますが路線バスは旧来通り旧国道を走っています。なお、福田方面から飽の浦方面に向かう場合、入り口から出口まですべて片勾配の下り坂のためスピードの出しすぎに注意が必要です。




E-71:伊勢宮神社(いせのみや-じんじゃ)
塩浜町(浦上淵村飽ノ浦郷字谷ノ山)
元禄11年(1698)両部神道(神仏混淆)という位置づけで始まった神社で、祭神(本尊)を大日如来とし当初は大日社と称していました。真言宗の考え方では大日如来天照大神の化身ともいわれ、ともに太陽を表す神であり仏でした。それが明治維新を受け廃仏毀釈のため大日如来は天照大神なり伊勢神宮として伊勢宮神社となります。平成9年(1997)境内地が飽の浦トンネル建設にかかり現在地に遷宮されました。また、参道石段は長坂と呼ばれ、諏訪神社の長坂と同じように73段です。




○「アニオーさんの行列のごたる
当時、荒木宗太郎の嫁である王加久戸売(ワウカクトメ)は荒木家や長崎の町民の間からはアニオーさんと呼ばれていました。これは安南語の王女または王后の意である阿娘(アニヨン)が、長崎では訛ってアニオーと呼ばれたもので、アニオーさんの長崎入りの際、大波止から浜町あたりまで大変豪華で派手な行列をなしたといわれ、いつしか賑やかな行列のことを長崎の方言として「アニオーさんの行列のごたる(ようだ)」というようになります。現在、長崎くんちの本石灰町の奉納踊りでは宗太郎さんとアニオーさんを乗せた御朱印船が披露されています。




E-70:荒木宗太郎宅跡(あらきそうたろう-たくあと)
入船町1〜7,10〜13付近(浦上淵村飽ノ浦郷)
荒木宗太郎( -寛永13:1636)は16世紀末期の朱印貿易商で、元は熊本の人で藤原一清といい、のちに荒木惣右衛門を名乗ります。天正16年(1588)長崎入りし飽の浦に屋敷を構えます。文禄元年(1592)秀吉より朱印状を受けアンナン(ベトナム)、シャム(タイ)方面との交易を進め、安南国(ベトナム)の国王との信頼も得、元和5年(1619)には国王の外戚(母方の親戚)の娘の王加久戸売(ワウカクトメ)を妻にもらいます。荒木船の旗印はオランダ東印度会社章VOCマークを逆さにしたような図柄で有名でした。なお、13代目からは西築町の乙名となり築町を本家とし飽の浦を別荘(梅屋敷)として使用していました。墓地は大音寺後山




浄土真宗本願寺派真正寺(しんしょうじ)
入船町7-7(浦上淵村飽ノ浦郷)

浄土真宗大谷派慈光寺(じこうじ)
入船町12-3(浦上淵村飽ノ浦郷)
大正13年(1924)式見町の浄満寺にいた僧:後藤直が飽の浦説教所として創建。始めは飽の浦公園の地にあって昭和12年(1937)本堂と庫裡を建設し、現在地に移ったのは戦後間もなくしてからのことで昭和23年(1948)慈光寺と寺号を公称し、昭和43年(1968)近代的な建物で一見しただけでは寺とは思えないほどのモダンな鉄筋コンクリートの三階建てに再建。三階は本堂、納骨堂、二階は庫裏になっています。




E-69:飽之浦地蔵尊(あくのうらじぞうそん)
入船町11-1(浦上淵村飽ノ浦郷)
飽の浦地蔵尊は飽の浦公園前バス停横にあって3体の地蔵尊が安置されています。建立は元禄10年(1697)ごろで深見作右衛門宗保によって奉納されています。当時、お堂の場所は海岸沿いで、地蔵尊は付近の平安や町内守護として今なお地域の人々に親しまれています。




E-68:長崎市立飽浦小学校(-あくのうらしょうがっこう)
飽の浦町17(浦上淵村飽ノ浦郷)
明治8年(1875)飽の浦郷の氏神さまの大日神社を校舎として飽浦小学校が開校します。明治15年(1878)淵小学校と合併し、明治28年(1895)再び分離し新校舎(翌年)を建て飽浦尋常小学校となります。明治31年(1898)浦上淵村が長崎市に編入したため長崎市立飽浦小学校となります。第二次大戦時の昭和16年(1941)には飽ノ浦国民学校に改称。昭和22年(1947)新学制により長崎市立飽浦小学校となり、現在の建物は平成6年(1994)に完成したものです。




E-67:日本基督教団・長崎飽の浦教会
飽の浦町17-1(浦上淵村飽ノ浦郷)
長崎飽の浦教会はプロテスタントのキリスト教会で、明治36年(1906)飽の浦地区の信徒増加に伴い長崎銀屋町教会の当時の牧師:中山忠怨によって開設された教会です。




E-66:塩浜町(しおはままち)
江戸時代は浦上淵村飽ノ浦郷に属し、大正2年(1913)飽ノ浦町4丁目となり、昭和40年(1965)町界町名変更によって現在の町域の塩浜町になります。町名の由来は享保16年(1731)に塩田が作られたことに始まります。塩田の広さは4軒前で、1軒前が塩田の単位で約2ヘクタール(=約2万平方メートル)といわれ、4軒前で約8ヘクタール(8万平方メートル)です。




E-65:秋月町(あきづきまち)
江戸時代は浦上淵村飽ノ浦郷に属し、大正2年(1913)飽ノ浦町2,3丁目などとなり、昭和40年(1965)町界町名変更によって現在の町域の秋月町になります。町名の由来は飽の浦が月見の名所で秋に中秋の名月を多くの人々が鑑賞していたところから秋月町と命名されました。




E-64:入船町(いりふねまち)
江戸時代は浦上淵村飽ノ浦郷に属し、大正2年(1913)飽ノ浦町1〜4丁目などとなり、昭和40年(1965)町界町名変更によって現在の町域の入船町になります。町名の由来は、地区が長崎港を望み入津する船の姿を見ることができるところから縁起を担ぎ入船町と命名されました。




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