広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成22年 〜2010年〜
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D-609:三ツ山(みつやま)
三ツ山町(旧西浦上村木場郷)
三つ山は三つの山から形成されているように思われがちですが実際は頂きが4つあり、ちょうど三菱のマークのように三方向に拡がっています。そのためどこから見ても三つ並んだ山に見えます。三つ山の主峰(中央)を帆場岳(ホバダケ)といい標高は506メートル。江戸時代、長崎港に来航するオランダ船や唐船はこの山を帆の目印とし、そこから帆場岳となったといわれています。
江戸時代後期に書かれた長崎名勝図会によると、三ツ山のことを黎峰(クロヤマ)、玄山(クロヤマ)または落猿峰(サルオトシヤマ)と呼び、かなり険しい山と紹介してあります。

天竺山(てんじくやま)
三つ山の西側の頂を天竺山といい、長崎名勝図会によると衡鹿峰(コウロヤマ)と紹介されています。※川平料金所の東




D-608:三ツ山教会(みつやまきょうかい)
三ツ山町775(旧西浦上村木場郷)
三ツ山教会のある三ツ山町は江戸時代、西浦上村木場郷といい大村領になっていました。さらに長崎開港後の天正8年(1580)浦上は長崎とともにイエズス会領として寄進された地域で木場郷もその範囲で、伊達政宗の遣欧使節団だった支倉六右衛門と同じ団員だった黒川市之丞らが移り住んでいたと伝えられています。こういった歴史を持つ地域に明治16年(1883)頃、創建され木場教会と称しました。その後、三ツ山教会と改称され、現在の建物は昭和37年(1962)のものです。

木場教会殉教者顕彰之碑【三ツ山教会】
江戸時代初め、大村藩家老のパウロ原田善左衛門は木場地区(現 三ツ山町)に潜伏し、地区の潜伏キリシタンのリーダーとして指導をしていました。しかし、幕府の弾圧によって夫婦ともども捕えられ火刑に処せられます。遺骨は川沿いの難河原というところに葬られ塚が築かれていましたが、のちに改葬されます。大正時代、遺骨の一部が発掘され、昭和53年(1978)殉教者顕彰之碑に納められました。




D-607:金鉱金湯跡(きんこう-きんゆ-あと)
川平町(旧西浦上村川平郷)
その昔、六枚板地区のほとんどと川平郷の一部では数種類の鉱物の鉱区がありました。しかし、いづれも収支が合わない量ということで廃されています。また、六枚板地区には皮膚病や切り傷、火傷、婦人病などに効能があるという冷泉があり、昭和20年(1945)には第11救護隊の救護所が設けられ負傷者の手当てにあてられました。




D-606:長崎市立川平小学校(-かわびらしょうがっこう)
川平町108(旧西浦上村川平郷)
明治6年(1876)西浦上村は西郷(現 西町)と滑石郷(平宗郷)にそれぞれ西小学校と平宗小学校を置きますが川平郷の設置は遅れ、明治10年(1877)地区の有志の上野亮一ら7名が資金を集め土地(現 力場坂付近)を借用し川平小学校を創立しました。一時期、川平簡易小学校と改称しますが、明治35年(1902)新校舎を建設し現在地に移転します。その後、川平尋常小学校、西浦上小学校川平分校となり、昭和30年(1955)西浦上小学校より独立して長崎市立川平小学校となります。




D-605:力場坂(りきばざか)
川平町(旧西浦上村川平郷)
川平町の中央を流れる浦上川とともに旧西山街道が走っています。バス停名にある力場坂は当時の食場(ジキバ)つまり食事の場所といわれ、それがなまって力場となったといわれています。なお、西山から三川町へと続いている旧西山街道は、川平小学校のところから、くるまき峠を越え長与本川内方面へ進みます。




D-604:川平有料道路(かわひらゆうりょうどうろ)
川平有料道路は長崎外環状線(〜川平〜西山〜本河内〜早坂〜上戸町〜土井首)の一部をなす道路で国道206号線時津町井手園交差点から長崎バイパス川平インターチェンジまでの約4.7キロメートルの自動車専用道路です。平成2年(1990)に完成し全路線片側1車線で、途中、長与インターチェンジと女の都インターチェンジで一般道と接続します。総工費約176億円。




D-603:長崎精道学園(ながさきせいどうがくえん)
三原2-23-33(旧 西浦上村本原郷/三原町)
長崎精道学園は昭和53年(1978)に設立されたカトリックのミッションスクールで、初めは長崎精道小学校が開かれ、昭和59年(1984)に中学校が誕生しました。昭和63年(1988)学園内に精道三原台小学校、精道三原台中学校を開学。ここを男子校、当初の学校を女子高とし、男女別の教育を進めています。このほか学園内には専修学校三川女子調理師学校もつくられ、特色のある学校として注目を集めています。




○浦上新線(長崎本線)三川町点検坑口
長崎本線のJR浦上駅とJR現川駅の間にある長崎トンネルはちょうど三川町付近を通っていて、屏風岩下の薬師堂の前に点検坑の入口があります。厳重に施錠されている入口ですが、すぐに斜路になっていてトンネル内の信号場「肥前三河信号場」付近に向かっています。工事や緊急時の非常用通路として利用されます。




D-602:屏風岩(びょうぶいわ)
三川町(旧西浦上村三組川内郷)
三川町の入口にひときわそびえる大岩を屏風岩といいます。西山街道はこの岩のそばを通り交通の安全のため薬師如来堂があり、岩に直接、薬師如来が彫られていて元禄15年(1702)大井手町の原賀利兵衛によって奉納されたと記されています。このほか堂内には男性自身を表した陽石があり、精巧な形は見る人を驚かせます。




D-601:西山街道
西山街道は長崎市炉粕町の諏訪神社参道より始まり、西山〜三川町〜川平町〜三根郷〜野川内郷〜伊木力から海路大村へ向かう道です。西山街道は途中から3つに分かれ、右手は矢上、直進は多良見町伊木力、左は浦上へと向い、特に伊木力から海路大村へと続き大村藩が専用に使っていた街道でした。また、殿様道と呼ばれ川平町-長与町三根郷間には籠立場もありました。




D-600:二郷橋
二郷橋が架かる浦上川は以前まで西浦上村家野郷と浦上山里村本原郷を分けていて、橋は大正3年(1914)に家野郷と本原郷がそれぞれ協力して架橋しました。残念ながら大正12年(1923)の水害で流失するのですが、翌13年、再架橋がなされます。橋はその後、昭和20年(1945)の原爆の爆風や昭和57年(1982)の長崎水害にも耐えましたが、水害後の浦上川災害復旧工事によって撤去され再々架橋されました。橋のたもとにはその旧橋の親柱を残し記念碑を建て永年の恩恵に感謝するものです。なお、記念碑は大手町、文教町、昭和町の各自治体ほかによって建立され、記念碑石は浦上川から採取したものです。




○職員児童慰霊碑【西浦上小学校内】
昭和20年(1945)8月9日の原爆で西浦上小学校では教師5名、生徒170名の尊い命が奪われました。この碑はその犠牲者を弔うため昭和38年(1963)創立90周年を記念して学校と育友会、同窓会によって建立されました。

○創立百周年記念碑【西浦上小学校内】
この碑は西浦上小学校創立100周年を記念して建てられたもので、建立年月日はありませんが、西浦上村に小学校が初めて誕生した明治6年(1876)を期に昭和51年(1976)頃に建立されたものと考えられます。碑文書は北里大涛による。




D-599:長崎市立西浦上小学校
大手1-14-3(旧 西浦上村家野郷/本原郷)
明治6年(1876)西浦上村は西郷(現 西町)と滑石郷(平宗郷)にそれぞれ西小学校と平宗小学校を置きます。それぞれ神社社殿や個人邸宅などを利用したもので、明治8年(1875)平宗小学校は新築移転し、明治19年(1886)西小学校と平宗小学校は合併して岩屋小学校となります。明治40年(1907)岩屋小学校は廃され西浦上高等小学校に移転。現在の西浦上中学校の地に西浦上小学校として尋常科と高等科を併置します。昭和12年(1937)尋常科は長崎県師範学校の代用付属小学校となり、昭和16年(1941)西浦上国民学校に改称。昭和22年(1947)新学制になり長崎市立西浦上小学校となります。昭和23年(1948)現在地に移転し今に至ります。




○長崎大水害浦上川災害復興記念碑
昭和3-1-1(旧 西浦上村家野郷/家野町)
昭和57年(1982)長崎大水害では浦上川が氾濫し流域に甚大な被害が出ます。この記念碑は昭和63年(1988)浦上川の河川改修をはじめとする災害復旧工事の完成を記念したもので西浦上東部自治連合会によって建立されました。

○長崎大水害慰霊供養塔

○長崎市編入五十周年記念碑
西彼杵郡西浦上村は昭和13年(1938)長崎市に編入。それまであった滑石郷、岩屋郷、東北郷、西北郷、西郷、家野郷、三組川内郷、川平郷、木場郷は、それぞれ滑石町、岩屋町、住吉町、西北町、西町、家野町、三川町、川平町、三ツ山町となります。この記念碑は編入後、度重なる困難を乗り越え発展してきたことを記念して西浦上東部自治連合会によって建立されました。




D-598:長崎バイパス
昭和30年代に入り経済の成長とともに自動車中心の生活となり長崎市に入る幹線道路の国道34号線は慢性的な渋滞が始まります。そして昭和44年(1969)開催予定の長崎国体を前に長崎県は政府に対し道路建設を陳情し昭和39年(1964)日本道路公団によって建設が始まります。この道路は日見峠〜矢上を経由する国道34号線の迂回路(バイパス)として長崎市昭和町から旧多良見町市布までの約11キロメートル、片側1車線の自動車専用道路で、総工費約24億円で昭和42年(1967)完成します。さらに昭和63年(1988)長崎旅博覧会を控え市布川平間を片側2車線に拡幅、延伸線として川平から西山までのルートも造られました。




D-595:川平町(かわひらまち)
江戸時代は西浦上村川平郷に属し、昭和24年(1949)長崎市川平町となりました。町名の由来は平とは斜面を意味し、川に面した斜面地という意味です。

D-596:三ツ山町(みつやままち)
江戸時代は西浦上村木場郷に属し、昭和24年(1949)長崎市三ツ山町となりました。町名の由来は地区の南側にそびえる三ツ山にちなむものです。

D-597:三川町(みかわまち)
江戸時代は西浦上村三組川内郷に属し、昭和24年(1949)長崎市三川町となりました。町名の由来は郷名の三組川内から「三」と「川」を取り三川町となりました。




D-594:女の都(めのと)
江戸時代は西浦上村川平郷に属し、昭和24年(1949)長崎市川平町となり、昭和58年(1983)町界町名変更によって川平町の一部が女の都になりました。そしてそれぞれ1〜4丁目に分けられます。もともとは現在の1丁目付近を中心に集落があったところに長崎市土地開発公社によって造成が行われ新興住宅地が完成しています。町名の由来は地区に女の都という字名があったところから女の都団地と命名されていたもので、「めのと」を「免」の「外」と解釈すると、「○○免」というう集落の外れたところとか、「免」が年貢などが免除されるくらい山あいの集落だったとか解釈ができます。




D-593:浦上水源地(うらかみすいげんち)
長与町高田郷/長崎市泉2/昭和3丁目
昭和16年(1941)長崎市は第3次拡張事業として人口増加に伴う生活用水の確保と軍事工場への工業用水の確保のため浦上水源地の着手に入ります。しかし、第二次大戦中ということもあり資材難と人手不足に陥り、ようやく昭和20年(1945)1月に部分完成として給水を始めます。当初は1日あたり約5000立方メートルを給水するも、8月の原爆によって浄水施設は焼失してしまいます(その後、復興)。昭和33年(1958)住吉滑石地区の人口増加で給水量増加したためかさ上げ工事を実施、1メートルのかさ上げで本河内高部水源地の3分の2に当たる約24万立方メートルが増加します。




D-592:道ノ尾温泉(みちのおおんせん)
長与町高田郷284(旧 長与村高田郷字道の尾)
道の尾温泉は明治元年(1868)地元の農民の古田吉平によって開かれた温泉で、当初は冷泉(24℃)だったため沸かし湯として使用され、温泉を利用した旅館や料亭万衆園がありました。そして温泉の周りには道の尾公園が整備され長崎に一番近い温泉、娯楽施設として人気を博します。さらに古田氏は道の尾駅の設置にも尽力し地域発展に寄与します。現在はボーリングがし直され25度以上の温泉が湧き出し温泉として営業が続けられています。




D-591:JR道ノ尾駅(JRみちのおえき)
明治25年(1892)九州鉄道会社は長崎-佐世保間の鉄道敷設を始めますが不況の影響で頓挫。明治28年(1895)再度、着工し、明治30年(1897)長崎-長与間、翌31年(1898)佐世保-早岐-大村-長与間を開通させます。JR道ノ尾駅は明治30年(1897)に作られたもので、昭和47年(1972)長崎新線(市布経由)の完成まで長崎東京間などの特急や急行はすべて道の尾を通過し、その際の退避線としてのホームが現存しています。




D-590:平宗寺跡(ひらむねでら-あと)
滑石1-4-12(旧 西浦上村滑石郷字平宗/滑石町)【吉川宅】
滑石1〜2丁目付近はその昔、平宗村という集落があって、村の中央に時津街道が走り、現在でも大井手川に架かる橋を平宗橋といいます。これは橋の正面付近に平宗寺があってそれが村の由来で、寺は弘治年間(1555-58)島原の有馬氏によって焼き打ちされ、再建後もキリシタンによって破却され姿を消します。また、平家の落ち武者もしくは平宗寺の関係者のものといわれる無縁塔や供養塔が周辺に多数残っています。




D-589:庵寺供養塔墓碑群(あんでら-くようとう-ぼひぐん)
滑石4-7-7(旧 西浦上村滑石郷字木下/滑石町)
庵寺供養塔群は通称:屋敷の神様と呼ばれる墓碑群で、室町時代のものといわれ五輪塔や供養塔群の残欠群です。また、この地域に庵寺といい、その昔、庵寺という寺院があったと伝えられています。地区の住民によって毎月14日に供養が行われ11月14日には屋敷まつりと称したくさんの供物と、夜には宴会が行われる習わしがあります。




D-587:寺川内稲荷明神(てらごうち-いなりみょうじん)
滑石3-31(旧 西浦上村滑石郷字寺川内/滑石町)
寺川内稲荷明神は寺川内供養塔群の上手にある神社で創建は不明。寺川内地区の氏神として親しまれています。祭礼は2月の初午の日。

D-588:山ん神様(やまんかみさま)
北栄町28(旧 西浦上村滑石郷字藤平/滑石町)
山ん神様は藤の平墓地の上手にある石柱で、地区の人々は「山ん神さま」と呼び親しまれています。地域民は農林の神として崇めていて祭礼は毎年1月16日に行われています。




D-586:寺川内供養塔群(てらこういち-くようとうぐん)
滑石3-31(旧 西浦上村滑石郷字寺川内/滑石町)
寺川内供養塔群は通称:観音様と呼ばれる墓碑群で、室町時代後期のものといわれ五輪塔や供養塔群の残欠群です。また、この地域を「しょうぎし」といい、その昔、しょうげん寺という寺院があったと伝えられ、寺川内の「寺」はこのしょうげん寺を意味しています。なお、ここにも造成時に移転集約された墓所があり、しょうげん寺墓地といいます。




D-585:藤の平墓地(とうのひら-ぼち)
北栄町28(旧 西浦上村滑石郷字藤平/滑石町)
昭和39年(1964)滑石団地の造成に伴い地区の墓地の移転集約が行われます。当時、滑石地区には瀬戸墓地(字下揚)、田中墓地(字中川内)、防の谷墓地(字中川内)、木下川内墓地、西開墓地(字蔭平)の5か所があって、それを北栄町の高台に移設しました。なお、墓地内には釈迦堂と納骨堂もあわせてつくられ、このうち釈迦堂は防屋敷と呼ばれ現在の滑石ショッピングセンター付近にあった釈迦堂屋敷でした。




D-584:横尾(よこお)
江戸時代は時津村本村郷と野田郷に属し、昭和48年(1973)地域が造成され町が拓かれたのを期に長崎市に編入し長崎市横尾町になります。昭和51年(1976)一部が滑石1〜6丁目に編入。昭和55年(1980)横尾町は横尾1〜5丁目と滑石1〜6丁目に分割され今に至ります。




D-583:虹が丘町(にじがおかまち)
江戸時代は西浦上村滑石郷に属し、昭和13年(1938)長崎市滑石郷となり、昭和24年(1949)郷名が廃され長崎市滑石町になります。昭和51年(1976)町界町名変更によって滑石町の一部が虹が丘町になりました。町名の由来は夕立の後に見える虹がたいへん美しく縁起がいいところから虹が丘町となりました。




D-582:大園町(おおぞのまち)
江戸時代は西浦上村滑石郷に属し、昭和13年(1938)長崎市滑石郷となり、昭和24年(1949)郷名が廃され長崎市滑石町になります。昭和51年(1976)町界町名変更によって滑石町の一部が大園町になりました。町名の由来は町域に大園小学校があり、すでに自治会名に大園の名称が使われていたため大園町となりました。




D-581:大宮町(おおみやまち)
江戸時代は西浦上村滑石郷に属し、昭和13年(1938)長崎市滑石郷となり、昭和24年(1949)郷名が廃され長崎市滑石町になります。昭和51年(1976)町界町名変更によって滑石町の一部が大宮町になりました。町名の由来は町域に滑石太神宮があり、門前町として大宮町となりました。




D-580:北栄町(ほくえいまち)
江戸時代は西浦上村滑石郷に属し、昭和13年(1938)長崎市滑石郷となり、昭和24年(1949)郷名が廃され長崎市滑石町になります。昭和51年(1976)町界町名変更によって滑石町の一部が北栄町になりました。町名の由来は町域に北陽小学校があり、町がますます発展するようにと北栄町となりました。




滑石大神宮救護所跡【滑石太神宮】
昭和20年(1945)8月9日の原爆投下後、浦上地区は壊滅状態となり滑石太神宮はその救護所として多くの負傷者を受け入れました。ここでは長崎医科大学病院の調先生が幸いにもけがを負っていなかったため負傷者の治療にあたることになり、長崎医科大学の角尾学長や山根教授なども収容しますが、同月22日の学長の死によって閉鎖となります。なお、長崎医科大学では教員42名、学生535名、事務員206名、看護婦109名の合計892名が犠牲となっています。




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