広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成22年 〜2010年〜
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長与町(ながよちょう)
長与は鎌倉時代より見える地名で初めは長与氏が領主となって治め、戦国時代に大村氏の支配下となります。そのため大村純忠がキリスト教の洗礼を受けると長与にも信者が現れます。江戸時代、長与村となり、村内は岡、斉藤、嬉里、丸田、高田(幸田)、吉無田、三根、平木場、本川内郷とがあり、一時期、高田郷は高田村に分村した時代もあります。明治4年(1871)大村県を経て長崎県に属し明治11年(1878)西彼杵郡に属します。明治22年(1889)市制町政による長与村となり、昭和44年(1969)より長与町、以降は長崎のベッドタウンとして発展します。

時津町(とぎつちょう)
時津は鎌倉時代より見える地名で、時津弥七郎入道、時津彦九郎、時津七郎太郎、時津九郎入道、時津六郎入道などがいたといわれていて、戦国時代に大村氏の支配下となります。そのため大村純忠がキリスト教の洗礼を受けると時津にも信者が現れます。江戸時代、時津村となり日並、久留里、左底、本村、野田、浦、浜田、西時津郷とがあり、長崎街道の裏ルートとして発展します。明治4年(1871)大村県を経て長崎県に属し、翌5年に日並村を合併。明治11年(1878)西彼杵郡に属します。明治22年(1889)市制町政による時津村となり、昭和26年(1951)より時津町となります。以降は長崎のベッドタウン、大村湾南部臨海工業都市として発展します。




長与(ながよ)
長与の地名の由来は言伝えによれば3〜4世紀、神功皇后が朝鮮出兵(三韓征伐)の帰路、この地に着き琴ノ尾岳で一夜を過ごされた際、大変寒く寝付かれなかったため神功皇后が一言「長い夜だなぁ」と言われたことが長与となったといわれています。このほか地形が「長い入江」となっているところから長与となったともいわれています。




琴ノ尾岳烽火台跡(ことのおだけ-ほうかだいあと)
琴ノ尾岳の中腹には烽火台があって、島原の乱後の寛永15年(1638)老中松平信綱が長崎巡視の際、長崎奉行に命じて烽火番所を置いた場所になります。これは異国船入港を知らせるために造らせたもので、このことより烽火山と呼ばれるようになります。伝達は野母崎の権現山→烽火山→琴ノ尾岳→多良岳→近隣諸藩へ伝えられました。文化6年(1809)に廃止され実際は2回ほどしか使用されませんでした。県指定史跡。




琴ノ尾岳(ことのおだけ)
琴ノ尾岳は標高451.4メートルの山で西側は西彼杵群長与町、東側は諫早市多良見町に属しています。たいへん眺めがよく長崎空港が眼下に見えるため飛行機の発着が手に取るように見え、また、大村湾や、多良山系、雲仙、長崎市街地などが一望でき、山頂付近は車が通り公園が整備されているため人々の憩いの場となっています。昔、大村湾のことを波穏やかな様子から琴の海と称し、その一番手前に控えている様子から琴ノ尾岳と呼ばれたものと考えることができます。




五輪の塔群
長与町丸田郷215
丸田郷にある五輪の塔群は、南北朝時代から室町時代のものといわれ五輪塔や供養塔群です。戒名に明徳2年(1391)から天文12年(1541)にかけてのものがあり、県内では2番目に古い年号記録を持つ五輪塔で、おそらく豪族の長与氏の先祖の墓ではないかと思われています。県指定史跡。
※年号は次の通り
明徳2年(1391)<3代足利義満時代>
永享12年(1440)<6代足利義教時代>
逆修寛正壬午(1462)
逆修明応3年(1494)
天文10年(1541)
▼刻名に見られる「逆修」とは生存中に自分の墓を建て追善を行うことで予修ともいう。善根たぐいなきものとして流行した。法名に朱を入れ死後黒字に変えるのを普通とする。




長与町の城址
長与町内にはいくつかの城跡(砦跡)があり、吉無田郷には天文年間(1532-1555)に長与権之助が築いた中尾城、斉藤郷には同じく長与権之助が設けた浜城(唾飲城)、そして、高田郷には谷を挟んで対をなす東高田城と西高田城があり、この二城は共に敵の侵入を防ぐ出城的意味合いがあり、のろし台が設けられていました。




定助郷(じょうすけごう)
長与村は長崎と大村を結ぶ西山街道が通る地域で、特に定助郷として幕府時代の長崎奉行および隣国諸大名が長崎へ往還する際、その地区から人馬やわらじ、たいまつなどを提供する取り決めがある集落でした。江戸時代の宿駅では人馬が不足の際でも常時補給することが義務付けされていて、定助郷では宿駅を中心に4、5里以内の農村がこれを担当し、当初は高100石につき馬2頭、人足2人ぐらいで、諸役高、掛り物は免除されていました。特に長与村は宿駅、時津村では農業や商業が発達し、幕末の安政3年(1856)には、農家の数が大村藩で最高であったと長与村誌などにあります。




長与町内の温泉
長与には古くから道の尾、丸田、清水の3つの温泉があり、道の尾温泉は明治元年(1868)地元の農民の古田吉平によって開かれた温泉で、当初は冷泉(24℃)だったため沸かし湯として使用され、温泉を利用した旅館や料亭万衆園がありました。丸田郷の丸田温泉は明治初年に地元民によって開かれた温泉で、冷泉(18℃)で沸かし湯として昭和初期は三菱造船所の保養所として、第二次大戦後は料亭として利用され、現在は長与町の老人福祉施設となっています。三根郷の清水温泉は明治時代から利用されている冷泉で現在では公共温泉として利用されています。




D-623:水取場跡
長与町斉藤郷
明治25年(1892)九州鉄道会社は長崎-佐世保間の鉄道敷設を始めますが不況の影響で頓挫。明治28年(1895)再度、着工し、明治30年(1897)長崎-長与間、翌31年(1898)佐世保-早岐-大村-長与間を開通させます。この明治30年(1897)から翌31年(1898)の間は本川内-大草間の松の頭トンネル掘削に時間を取ったもので、このときは長与駅から海路大村にい向かっていました。その大村へは蒸気船が使われ、その使用水としてこの地の井戸を汲み上げ水取場を設けました。




D-622:金毘羅神社(こんぴらじんじゃ)
長与町斉藤郷
金毘羅神社は航海の神さまの市杵島姫(=弁財天)をお祭する神社で、明治23年(1890)長与村の吉岡政太郎、広瀬伝市、浜口与作らによって当初は長与川河口の海岸に建立されました。その後、金毘羅橋の架橋に伴い現在地に移されます。社殿正面にある石祠は長与村初代村長の川添又右衛門邸にあったもので後に金毘羅神社へ移されました。
○塩竃神社
塩竃神社は江戸時代、長与川河口付近に行われていた塩田の守り神で、その当時からお祀りされたものと考えられます。




D-621:頼山陽上陸の地
長与町斉藤郷
頼山陽(安永9:1780-天保3:1832)は江戸時代後期の儒学者で歴史家、書や絵などに大変長けていた人物でした。出身は大坂で、父は朱子学(儒学)者:頼春水、名前は久太郎で後に襄(ノボル)、字は子成、号を山陽三十六峯外史とします。寛政9年(1797)若くして江戸に遊学。儒学者:尾藤二洲を師事し、その後、脱藩したため蟄居を命ぜられた時もありました。文化8年(1811)京都に移り私塾を開き、田能村竹田など多くの文人墨客などと交流を持ちます。生涯にわたり多くの著書を出し、特に歴史書「日本外史」は広く愛読され、幕末の尊王攘夷運動に影響。一冊の本が一国の歴史を大きく左右した一例といえます。墓所:京都 長楽寺
文政元年(1818)頼山陽が長崎入りする際、大村より船で長与の浦に上陸し長崎に向かいます。おそらく長与からは西山街道を利用したものと考えれます。




D-622:岩淵神社(いわぶちじんじゃ)
長与町斉藤郷77
岩淵神社は寛永13年(1636)に創建され、当初は両部神道として岩淵大権現と呼ばれ、祭神は八意思兼神(ヤゴコロオモイカネノカミ)で学問、知恵の神さまです。言い伝えでは神社の祭神は長与川の水底より龍が現れ、それが龍神となったといわれていて、川辺には岩淵がありました。末社に白髭神社、戸隠神社、天満宮があって、このほか御岳神、祐徳稲荷、草住御前、恵比須神などの祠があります。




D-621:長与の塩浜
長与町斉藤郷/岡郷
長与川が大村湾にそそぐあたり、左岸を毛屋、右岸を浜崎といい、昔はこの両地に塩田があり塩を作っていました。塩は昔から神秘的宗教的な意味合いを持ち、清浄なシンボルとして神聖視されていて、また、生きていく上にも欠かせないものということで、米とともに古くから商品化し大村藩でも塩を専売として取り扱い、長与では文化天保年間(1804-1844)に産物会所という藩の役所が設置され、藩が直接集荷する形態を取っていました。
塩浜は慶長の頃、筑前姪の浜の人 助右衛門が開いたもので、一時、畑地になりましたが、毛屋塩浜は文政5年(1822)、浜崎塩浜は文政10年(1827)に塩田として開かれ、双方合わせて9600坪、従事する者35軒でした。明治維新以降、民間に払い下げられ毛屋は浜口氏、浜崎は尾崎氏に引き継がれ、明治38年(1905)日露戦争で戦費調達のため塩の専売制が施行されたため大村藩時代に開かれた塩浜は完全に廃止となります。




D-620:日蓮宗長昌山法妙寺(ちょうしょうざん-ほうみょうじ)
長与町斉藤郷29
戦国時代から長与は大村藩の領地で、永禄6年(1563)に大村純忠がキリスト教の洗礼を受けてからは藩内にもキリスト教の信者が多数住んでいましたが、慶長10年(1605)の禁教令以降、幕府の意向に沿って大村藩は日蓮宗に帰依し、村民も転宗させるため領内に八つの寺院建立を行います。そのひとつが法妙寺で寛永4年(1627)に大村純信によってキリスト教棄教の証と領民の教化のために創建されます。開基は肥後熊本より招いた僧:日忠で、当初は長林山法妙寺といい、元禄年間(1688-1704)大村純長の巡見の際、長昌山に改称します。現在の建物は昭和57年(1982)に建立されたものです。




D-619:唾飲城(つのみじょう)
時津町西時津郷/長与町斉藤郷
法妙寺の後山の城山は戦国時代、この地域を治めていた長与氏の居城があった場所で本来は浜城と呼ばれていました。言い伝えによれば長与氏の祖は武蔵国長井村の出身の長井斉藤別当実盛で、戦国時代に長井家清が長与に移り住み、天文年間(1532-1555)に長与権之助が城を築きます。天正14年(1586)長与村の地頭:長与太郎左衛門純一は、兄弟の反対を押し切り長与村を押領したため領主:大村純忠に浜城を攻め立てますが、純一の抵抗も激しく急坂を登る大村勢はのどが渇いて苦しんでいました。そのとき誰かが「梅干し梅干し」と叫んだため兵たちの口の中に唾がたまり、これを飲み干し攻めたため純一はついに敗れ去って深堀に逃げていきます。以来、浜城唾飲城と呼ぶようになりました。




D-618:長与焼小窯跡(ながよやきこようせき)
長与町嬉里郷字田尾
寛文7年(1667)浅井角左衛門、尾道吉右衛門、尾道長左衛門、山田源右衛門の4人による築窯で、その後、途絶え、正徳2年(1712)波佐見稗木場の陶工の尾古太郎兵衛が来て、大村藩命によって築窯し磁器を焼き始めます。製品は長与の白土と天草土を使用した波佐見系白磁染付の日用品でした。江戸時代中期、一時期、伝世品として三彩焼が焼かれ、世に言う長与三彩というものです。この窯は採算が合わなくなり文政3年(1820)に廃窯し、弘化2年(1845)には渡辺作兵衛が雑記用窯を再開するも安政6年(1856)廃窯します。昭和43年(1968)県によって調査が行われ、白磁焼付類の破片が出土し波佐見焼に酷似することが確かめられますが三彩の破片は出土しませんでした。全長約115メートルの登り窯でした。




D-617:長崎甚左衛門の墓
時津町浜田郷小島田(時津村浜田郷)
鎌倉時代の貞応年間(1222頃)神奈川県鎌倉の長崎?というところから長崎小太郎重綱という御家人が長崎に入ります。建山に城(砦)を置き有事の際に集結、平時は現在の桜馬場中学校のところの屋敷に構え長崎村を治めます。この長崎小太郎重綱が初代長崎村の豪族で、第14代目が長崎開港時(元亀2:1571)の領主:長崎甚左衛門純景(天文16:1547〜元和7:1621)となるのです。また、純景は大村の領主:大村純忠より妻をもらい大村氏と協力関係にあり、キリスト教の洗礼も受けます。当時、長崎は諫早西郷氏や深堀氏に度々襲撃に遭い、そのたび大村純忠の援護を受けていましたが、大村純忠純景は軍事的にも有利と考え天正8年(1580)イエズス会に長崎を寄進します。しかし7年後の秀吉の宣教師追放令によって長崎は公領化、純景は長崎を追放を余儀なくされます。純景は筑後久留米、横瀬浦と転々とした後、時津の甥のところに移り住み、ここでその生涯を終えるのです。享年74?。県指定史跡。




D-616:真宗大谷派亀水山萬行寺(-きすいざん-まんぎょうじ)
時津町浜田郷141(時津村浜田郷)
江戸時代初期、東彼川棚の僧:道夢は大村藩内にキリシタン禁制の命が出ると聞き、時津の町への布教活動を開始、正保4年(1647)に時津の小島に庵を建て真宗の教化に努めます。寛文6年(1666)には川棚の福淨寺二世了閑が退隠して萬行寺に入り萬行寺の三世となり、小島から現在地の六屋敷に移転し本堂を建立。天和3年(1683)西本願寺より「亀水山萬行寺」の号を許されます。元禄10年(1697)大村藩命により東本願寺大谷派に転派されます。明治5年(1872)長崎に国賓として来遊されたロシアのアレクセイ・アレキサンドロウィチ親王は、このとき時津まで遠乗りをされ萬行寺で休憩。時の風物を愛で帰還されたとあります。




D-615:恵比須神(えびす-しん)
時津町浦郷(時津村浦郷)
恵比須神は恵比須、恵比寿、恵美須、恵美酒などとも書き、恵比須神とは民間信仰では七福神の一人で大国主神(オオクニヌシノカミ)の御子神「事代主神(コトシロヌシノカミ)」をいいます。神徳としては五穀豊穣、海上安全、大漁満足、商売繁盛などで、釣り竿に鯛を抱いているところから漁業関係者の信仰が厚く、時津の港周辺でもよく出会います。時津港岸壁には4体が並んでいて、北泊の清風館からの2体を加え、埋立て工事などで4度の移設がなされました。




D-614:日本二十六聖人上陸の地
時津町浦郷(時津村浦郷)
天正15年(1587)秀吉は伴天連追放令を発しキリスト教を禁止しますがポルトガルとの交易は許すという内容だったため、フランシスコ会の宣教師は公然と京都など布教活動を行っていました。一方、西暦1596年、高知の浦戸海岸に漂着したサン・フェリペ号がスペイン船であったところから秀吉は植民地化を警戒し、直ちに京都の石田三成にキリシタン捕縛・処刑を命じ、京都大坂から24名の宣教師や修道士らを捕らえます。そして見せしめのため京都や大坂・堺を引き回した上、長崎を最期の地と決め西に向かわせるのです。西暦1596年1月9日に堺を出発。約1ヶ月かけて長崎に向かいますが、途中、2人のキリシタンも加わり、2月4日に彼杵に到着。小舟で大村湾を渡り、夜の11時ごろ時津の港に到着します。そして明るくなるまでの間、飢えと寒さの中、小舟で過ごし、翌2月5日の早朝、長崎に向け出発。午前10時に西坂の丘で処刑が開始され正午頃にすべてが終わりました。




ともづな石【八幡神社境内】
“ともづな”とは漢字で「纜」と書き、船をつなぎ止める綱のことで、纜石はその綱をくくるための石を意味します。ここに現存する纜石は現在の時津の商店街(中通り)付近にあったもので、文政年間(1818-1830)頃まで海岸線で多くの船がつなぎ止められていたそうです。そしてこのともづな石はいつしか不思議な力を持つ奇石と信じられお祀りされていました。昭和61年(1986)中央地区区画整理事業によって境内に移設されました。




D-614:八幡神社(はちまんじんじゃ)
時津町浦郷297(時津村浦郷)
言伝えによれば3〜4世紀、神功皇后が朝鮮出兵(三韓征伐)の際、占いによってこの浜に立ち寄られ、出発の時を待ったといい、そこから時津という名称がついたといわれています。
八幡神社は寛永17年(1640)小島田八幡山に海田次郎兵衛が勧請し、井手太郎兵衛が神殿と拝殿を建立しました。17世紀後半、時津村で疱瘡が流行したため疫病退散のため現在地に移します。天明8年(1788)神殿と拝殿が再建され、当時は両部神道で八幡大菩薩(八幡宮)としてお祀りされ、明治維新を受け八幡神社に改称されます。なお、八幡神社は時津町の氏神さまで、これは神功皇后にも関係があり祭神は神功皇后の子である第15代応神天皇(武神の神)です。




○祐徳稲荷神社末社
祐徳稲荷神社境内には三社殿として三体の神が祀られてあり、菅原道真公を祀る天満社、伏見稲荷の分霊を祀る稲荷社、漁業の神である大国主命を祀る恵比須社があります。また、稲荷神の遣いとして崇められている狐を祀る狐塚もありたくさんの狐の置物が納められています。
桃太郎神社
桃太郎神社は愛知県犬山市にある桃太郎神社より勧請したもので、当初、長崎市「道の尾」在住の素封家が自邸にお祀りしていました。昭和42年(1967)旧長崎水族館(長崎市宿町)に安置され、そして、現在の祐徳社に移されました。桃太郎神社は子供の守護神で人間形成の神といわれています。




D-613:祐徳稲荷神社(ゆうとくいなりじんじゃ)
時津町本村郷11(時津村本村郷)
祐徳稲荷神社は明治13年(1880)佐賀県鹿島市にあるの祐徳稲荷神社の分霊を勧請し官許を得て創立されました。祭神は倉稲魂神(ウガノミタマノカミ)、猿田彦神(サルタヒコノカミ)、天鈿女命(アメノウズメノミコト)の三神で、商売繁盛の神として時津町内ほか周辺各地からの参詣者が多い神社です。毎年3月初めの午の日に大祭が行われます。




D-612:お茶屋跡(おちゃや-あと)
時津町本村郷1(時津村本村郷)
浦上街道(時津街道)長崎から道の尾を通り鯖くさらかし岩の横を経て時津港に向かいます。そして、昔から時津の町は大村藩が治め、時津港は大村や彼杵港への船待ちなどの拠点として栄えます。
文化14年(1817)高谷正蔵は大村藩の命を受け、時津街道を通る諸大名や幕府の役人のための休憩、宿泊地として屋敷(お茶屋)を設けました。現在残るお茶屋跡の建物は嘉永元年(1848)に改築され、のちも度々修復が行われています。




○三界萬霊塔/継石観音大明神
時津町本村郷849附近(時津村本村郷)
爛鯖巌(鯖くさらかせ岩)の下は旧時津街道にあたり、街道沿いに立つ三界萬霊塔は往時からの無縁仏を供養する塔となります。建立は平成11年(1999)
祠には観音菩薩や地蔵菩薩があり街道の交通安全などを祈願するものです。




D-612:爛鯖巌(さばくさらかしいわ/らんせいがん)
時津町本村郷849附近(時津村本村郷)
国道206号線沿いにあるこの岩は地元では継石(ツギイシ)と呼ばれ、直立した岩の上にさらに岩石が重なって立っている姿は町のシンボルとなっています。
その昔、一人の愚かな魚売りがぎっしり詰まった鯖を担いで長崎へ売りに行くとき、この岩の下を通りかかります。きっと落ちるものと思い立ち止まり、いっそ岩が落ちるところを見てやろうと日がな立ち止まって見ているうちに籠の鯖が腐ってしまったというもの。これが爛鯖巌の名前の由来となりました。
文化元年(1804)長崎奉行所勘定方として着任した大田直次郎(蜀山人/南畝/覃:寛延2:1749-文政6:1823)がこの地を訪れたとき「岩かどに立ちぬる石をみつつおれば 担える魚も さはくちぬべし」と詠っています。




辻田白菜発祥の地(つじたはくさいはっしょうのち)
長与町高田郷百合野(長与村高田郷)
長与町高田郷百合野は昔から畑作が行われていて、大正年間、辻田長次郎亀市親子によって中国産のチーフー白菜を改良し独自の品種を誕生させ出荷を始めます。それまで長崎では唐人菜などの品種が栽培に適さなかったため中華料理に合う白菜が求められていました。この品種改良の成功は好評を博し栽培面積が広げられ、この地域の特産となります。のちに地域では採種組合を発足させ、この白菜を「辻田白菜」と命名します。また、組合利益によって百合野地区から幹線道路の時津街道へ直線道路「百合野道路」が造られました。




D-611:長崎外国語大学(ながさきがいこくごだいがく)
時津町本村郷1010-1/長崎市横尾3-15-1
昭和22年(1947)長崎外国語学校が長崎県知事の認可を受け馬町の仮校舎で開設。翌23年(1948)本大工町に校舎を設け移転します。翌24年(1949)には長崎外国語短期大学の認可が下り、以降、米英語科ほか様々な専門課程の認可を受け、長崎を代表する外国語専門学校として成長します。昭和34年(1959)住吉町(現 泉2丁目)に移転。平成8年(1996)現在の時津町本村郷(一部横尾3丁目)に移転し施設の充実が図られ、平成13年(2001)には長崎外国語大学を開学させます。その後も国際交流センターの設置などと国際化に合わせた人材育成に貢献しています。




D-610:打坂地蔵尊(うちざか-じぞうそん)
時津町本村郷1191附近(時津村本村郷)
浦上街道は道の尾から葉山、横道と進むと浦上街道の難所である打坂に差しかかります。
昭和22年(1947)打坂を走っていた長崎自動車の木炭バスが故障し、見る見るうちに道路わきの崖に近寄ります。当時、22才だった若手の車掌:鬼塚道男氏は間に合わないと思い、自ら車体の下に身を投げバスを止めるのです。難を逃れたバスの乗客でしたが、残念ながら車掌さんは運ばれた病院で息を引き取ります。
この地蔵尊は鬼塚道男氏をたたえるため昭和49年(1974)長崎自動車鰍ノよって建立されました。碑文文字は小曽根星堂。




浦上街道/時津街道
江戸時代、長崎から市外へ出るには6ヶ所のコースがあって、@東泊口(戸町-深堀-野母へ)A茂木口(小島街道)B馬籠口(浦上街道)C西山口(西山-川平-本川内-伊木力-大村へ)D日見嶺口(長崎街道)E頴林口(伊良林-飯香浦-小浜へ)のうち、時津に至るコースを馬籠口(浦上街道)または時津街道と呼んでいました。この街道は西坂を基点に浦上から時津と進むコースで、海路、東彼杵に渡り長崎街道へ合流していました。もともとこちらのコースの方が古く、慶長元年に二十六聖人が長崎に連れてこられた際も浦上街道が利用しています。明治20年(1887)ごろ浦上川の埋立が進むと茂里町〜浜口といった海岸沿いの道が造られ、昭和40年代、滑石など北部地区の開発により長崎-時津間の道路整備が進めらます。




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