広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成23年 〜2011年〜
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A-443:井樋之尾茶屋跡
諫早市多良見町化屋名1628【石崎重敏宅】
長崎街道の矢上宿と永昌宿の間、井樋之尾岳のふもとに茶店があって、当時は心太(トコロテン)を名物として提供していて、今でも心太を冷やす石鉢が残っています。地元ではこの茶屋を「旧茶屋」と呼びます。昭和57年(1982)の長崎水害以降河川が整備され当時の面影はありませんが、川の名を天川または戸樋の川といいます。




清正公大神祇記念碑【井樋之尾観世音境内】
井樋之尾観世音には清正公(加藤清正公)の木造も安置され観世音と共にお祀りされています。この記念碑は昭和16年(1941)に建立されたもので、おそらく戦意高揚のため戦いの神である加藤清正公をお祀りした記念の碑と考えられます。
日露戦没記念碑【井樋之尾観世音境内】
明治37年(1904)の日露戦争でこの地域から出征し殉国した人々の記念碑で、明治39年(1906)建立。




井樋之尾観世音の御手水【井樋之尾観世音境内】
井樋之尾観世音の境内にはいつも枯れることもなく湧き出でる湧水があります。これは井樋之尾観世音の創建の由来となった御手水で、背後にある井樋之尾岳よりの湧水です。

南無水子地蔵尊【井樋之尾観世音境内】
水子地蔵尊は不幸にしてこの世に生まれでることができなかった子供を供養する地蔵尊で松尾章平氏によって昭和61年(1986)に建立されました。
碑文「此の大悲の地蔵尊六道の辻に立ち給ひ御袖にすがる嬰児を抱き育みて彼の序に導き給いて有難き母はざんげの涙して供養の誠祈らなん」

湧水の碑【井樋之尾観世音境内】
碑文「湧き出ずる 霊水清く 観自在  宮浦一郎」昭和62年(1987)建立。




A-442:井樋之尾観世音(いびのお-かんぜおん)
諫早市多良見町化屋名1554付近
寛永14年(1637)島原の乱の報に際し古賀地方に潜伏していたキリシタンは神社仏閣を破却するのですが、その動きに有馬村の観巳寺の僧:永譽教含は原城三の丸に安置されていた聖観音像を救い出すべく奉持をし喜々津村の正法寺に運び出していたところ、ちょうど井樋の尾の御手水を通りかかったところで霊験を感じ、この地に庵を構えます。ここは庵は正法寺の末庵として建立され、以降、部落民の守護神として大切にお祀りされます。現在の建物は昭和62年(1987)創建350年を記念して建立されました。




A-441:領境石標(りょうきょうせきひょう)
長崎市中里町/諫早市多良見町(旧 古賀村/喜々津村)
領境石碑があるところは江戸時代、大村藩古賀村と諫早藩喜々津村の境界でこの碑は佐賀藩によって建立されました。このあたりが峠になっていて今でも長崎市と諫早市多良見町の境界となっています。この碑はもともと近くにある草野宅内の階段に使用されていたもので、昭和57年(1982)の長崎水害の復旧作業中に発見され現在地に移設されました。
碑には「従是東佐嘉領/彼杵郡之内井樋尾」と刻されています。
また、付近にトキワノススキ(常盤の芒)が多く生えていたところからここの坂を常盤坂といいます。




A-440:善宝水(ぜっぽうすい)
旧本田家住宅より山手に入り中里町と船石町の境界付近の峠には善宝水という泉があり、昔から水枯れがなく、たとえ枯れたとしても水田に水が必要なときだけは豊かになるという不思議な泉といわれています。その昔、平木場山を所有する本田家の先祖がある日、ヒノキの根元から水が湧き出る夢を見たため、すぐにそのヒノキのところに行って見ると勢いよく水が出ていたといい、この良きことに「良い宝の水」ということで善宝水と名付けます。しかし、その泉は地形的には船石町側に流れそうなものの、昔から中里町の領域であったため中里と船石の農民の紛争が絶えなかったといいます。この紛争から舌峰水とか譲歩水などとも呼ばれています。明治32年(1899)水神様を建立します。




A-439:旧本田家住宅(きゅう-ほんだけじゅうたく)
中里町1536付近(旧 矢上村中里名)
旧本田家住宅は典型的な日本の農家の建物で築200年以上の明和年間(1764-72)に建てられたものと考えられ、長崎県最古の遺構といわれています。建物は茅葺(カヤブキ)大屋根で、かつ、庇(ヒサシ)部分も茅葺となっていて、小屋は叉首(サス)組で棟束がありません。内部の床は竹簀子(スノコ)床で、戸は竪舞良戸(タテマイラド)と船形梯子などが現存しています。以前まではこういった建物が付近に多く存在していましたが次第に姿を消し、この本田邸が最後となりました。国指定重要文化財。




A-438:上中野遺跡芝原遺跡
中里町1701付近(矢上村中里名字上中野/芝原)
国道34号線の長崎市と旧多良見町の境界付近を上中野遺跡、その長崎市寄りを芝原遺跡といいます。現在は開発されて道路や宅地となっていますが、ここは約3000年前の縄文時代の居住跡で、矢じりなどが多く出土しました。この付近がちょうど台地となっていて狩猟や採集に最適な場所だったといわれています。当時の平均寿命は33才ほどだったそうです。




A-437:古賀人形(こがにんぎょう)
古賀人形の製造を代々受け継いでいる小川家の初代は小川金右衛門といい、天文年間(1532-55)大村藩士から訳あって浪人となり島原藩古賀村に移住し農業を始めます。三代目小三郎は京都の土器師:常陸之介より土器の製造を学び、副業として儀式用の土器を作るようになります。文禄元年(1592)からは人型の人形制作を始め、六代目の孫で喜三左衛門は土器製造師範として肥後に招かれました。このころから大村藩に籍があったところから大村家の儀式用土器製作も命ぜられ、さらには小川家の屋敷は長崎入りなどで街道を利用する大村藩主をはじめとする諸大名の休憩所ともなります。現在は18代目と19代目が制作をつづけ、大正初期までは数件あった人形造りも今日では唯一1軒の伝承者となっています。




A-436:古賀の藤棚
中里町1536付近(旧 矢上村中里名)
古賀の藤棚は旧長崎街道に面し、江戸時代は松楓園という茶店が置かれ、茶店前にひろがる藤は花の時期になると近隣だけではなく遠方からも花見客が訪れ、長崎在住の唐人らもわざわざ出向いていたといいます。また、茶店を開いていた小川家は代々古賀人形の製造を行う家で、大村藩主をはじめとする諸大名の休息所にもあてられ、大半の大名が古賀の名産品として古賀人形をお買い上げになっていました。




A-435:大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)
中里町1536付近(旧 矢上村中里名)
大山祇神社創建は不明で、石祠には「大山積命」と刻され明治25年(1892)建立とあり、あわせて「神武天皇」と刻され昭和13年(1938)が合祀されています。
大山祗神社は大山祇命を祭神とする神社で本社は愛媛県今治市大三島町宮浦にあります。祭神は日本古来の神である大山積神で本来は山の神ですが、戦国時代に瀬戸内海を支配していた村上水軍が信仰したことから海上安全、海上守護の神ともなっています。
ちなみに神武天皇は初代天皇で昭和15年(1940)は紀元2600年に当たります。




大乗妙典六十六部日本廻国供養塔
地蔵橋横には天保8年(1837)建立の大乗妙典六十六部日本廻国供養塔があります。六十六部とはお経の一つである法華経(ホケキョウ)を66部、写経し、昔の日本国内にあるすべての国(66ヶ国)にある寺院を巡り、写経した経文を奉納する僧のことで六部とか回国、廻国などと呼ばれていました。また、六十六部塔は奉納した証として建立されてものと考えられます。歴史は鎌倉時代から続いていますが、長崎のものはほとんどが江戸時期のものです。




A-434:地蔵橋と地蔵川
中里町1399付近(旧 矢上村中里名)
長崎街道に架かる地蔵橋はその名の通り脇の地蔵菩薩からその橋名となりました。その昔、多くの軍勢が城山の敵陣を目指し進んでいるとき、この付近で一人の洗濯をしている女に出合います。大将が「敵陣は遠いか?」と尋ねたところ、女は「もうすぐ3,4町ばかり(1町=約109メートル)」と答え、大将は喜んで「そうか3,4里か」と独り言をいって立ち去ったそうです。そして軍勢が城山付近に差し掛かったとき、弓矢が盛んに飛んできて城山の兵が次々に現れ激しい戦いとなります。不意を突かれた軍勢は退散し、大将は逃げる途中、洗濯女を見つけ斬り殺し自らも山手で切腹します。以降、付近を刀腹(タチバラ)と呼ぶようになり、夜には火の玉が現れるようになります。これを見た住民はその女の霊を慰めるため地蔵尊を建て弔ったそうです。橋を地蔵橋、川を地蔵川といいます。




A-433:上床神社(うわとこじんじゃ)
松原町2370(旧 古賀村松原名上床)
上床神社は古賀の山間部にある神社で上床部落の氏神さまです。神社には三つの祠があって、向かって左側に「山神社(建立不明)」、正面「虚空蔵菩薩:天保10年(1839)建立」、右側「十六善神:明治26年(1893)建立」があります。
虚空蔵菩薩は地区にある津屋岳の山頂に祀られたもので、大正10年(1921)ごろに上床神社に合祀。津屋岳はその昔、この地区の豪族の城跡といわれているところから豪族の守り神と考えられます。
十六善神は肥前古賀駅の上手(松原公民館)に祀られたものを後に合祀。十六善神とは大般若経を守護したり読経する人を守る神で16体の神の総称です。
山神社はもともと下林地区に祀られたものを後に合祀。詳細は不明ですが、野母半島などでは大山祇神社を指すことが多いようです。




A-432:恵美須神社(えびすじんじゃ)
松原町2370(旧 古賀村松原名西山)
恵美須神社はもともと同じ古賀村の向名札元(現 中里町)あって明治6年(1873)松原名の植木仲間によって移されいつしか植木造園の守護神として松原名の氏神さまとなりました。祠には天明七年(1787)とあります。

古賀植木創業記念碑【恵美須神社境内】
この記念碑は古賀の植木の創業を記念して昭和9年(1934)に建立されたもので、古賀植木の創建の歴史やその後の発展の様子が刻されています。文字と文は当時の古賀村町長:峰次之です。




A-431:JR肥前古賀駅(JRひぜんこがえき)
松原町2307-1付近(旧 矢上村松原名)
JR肥前古賀駅は昭和47年(1972)に開通した長崎新線(市布経由)にある駅で、片側に1本のホームだけの持つ無人駅です。乗降客は古賀地区の住民がほとんどですが現川や市布に比べ利用客が多い駅で、古賀植木市や滝の観音へはこの駅を利用するのがお勧めです。




A-430:羅漢槇(らかんまき)
松原町2509(旧 古賀村松原名)【赤瀬宅】
古賀の赤瀬家にある羅漢槇は元禄2年(1689)中国浙江省より移植されたもので樹齢は600年ともいわれています。おそらく唐船によって長崎港に入り、海路にて矢上から古賀に持ち込まれたものではないでしょうか。
羅漢槇は中国原産で別名を本槇といいます。常緑低高木で庭木に好まれていますが、赤瀬宅にある羅漢槇は日本でも最大級のものといえるでしょう。




A-429:子安観音(こやすかんのん)
松原町2484付近(旧 古賀村松原名)【松確橋付近】
元亀元年(1570)頃から古賀村の多くの住民がキリスト教を信仰しますが、寛永3年(1626)頃より島原藩主松倉重政によって神仏の再興がうたわれ出した頃よりキリシタンは潜伏し、子安観音を聖母マリアとして崇敬します。当初は古賀の山間の俗称「タブの木のガネの観音」というところに置かれ、あわせて石地蔵をマリア像に見立て、自然石に十字を彫り崇めていました。しかし江戸時代初めに大雨によって流失。のちに下流部で見つかり風土手(フドテ)という場所で祀られます。現在は松確橋横でお祀りされ、自然石と一緒に子供の守り神として親しまれています。




高濱虚子句碑
高濱虚子(明治7:1874-昭和34:1959)は愛媛県松山市出身で、本名を高浜清といいます。若い頃から正岡子規の指導を受け明治30年(1897)俳誌「ほとほぎす」に参加、後に主宰となります。その後も多くの俳句、和歌、散文などを手掛け、季題と定形をもつ伝統芸術を大切にした俳句を作り続け生涯に数万もの句を残します。高濱虚子と長崎の関係では昭和28年(1953)長崎を代表する俳人:向井去来の250年忌を期に高濱虚子を招致、2年後に実現します。その際、この史跡旧跡の保存を呼びかける句を詠みます。昭和31年(1956)井上米一郎によって建立。
碑文「芒塚程遠からじ守るべし 虚子




吉井勇歌碑(よしいいさむ-かひ)【迎仙閣庭園内】
吉井勇(明治19:1886-昭和35:1960)は東京高輪南町生まれで鹿児島藩士吉井友実の孫で伯爵家の家柄です。与謝野鉄幹主宰の新詩社に入り「明星」に短歌を発表し頭角を現します。その後、早稲田大学政治経済科に進みますが中退し、北原白秋らと「パンの会」を結成。ここは耽美派という生活の中に美を求める考え方で、さらには「スバル」にも入り石川啄木らと編集を担当します。後年は京都祇園を好み都をどりに尽力しました。
吉井勇は昭和29年(1954)にここを訪れ次の歌を詠い迎仙閣と名付けました。昭和31年(1956)井上米一郎によって建立。
碑文「うつし世に やわらぎあれと 今日もまた 迎仙嶽を 見つゝ祈りぬ




A-428:迎仙閣(ぎょうせんかく)
松原町2520(旧 古賀村松原名上床)
迎仙閣は第二次大戦前、戦中に隆盛を極めていた紙業種の井上米一郎によって昭和21年(1946)に造られた庭園で、古賀の植木職人の粋を集めた贅沢な造りとなっています。庭園からは行仙岳を望むことができ、昭和29年(1954)にここを訪れた歌人:吉井勇はその庭園と景色から迎仙閣と名づけました。昭和47年(1972)井上氏の没後に親和銀行が譲り受け、以降、銀行の保養施設としてゲストハウスとして利用され、近年では映画やドラマのロケなどにも利用されています。




A-427:毘沙門天神社(びしゃもんてんじんじゃ)
松原町2472(旧 古賀村松原名)
毘沙門天は七福神の中の一つで、別名を多聞天といいます。仏法守護の神で甲冑(カッチュウ)を付け右手に宝塔を捧げ、左手に矛を持っています。財宝を施す神と信じられています。
古賀にある毘沙門神社は国道34号線沿いにあって昭和40年(1965)信仰者の松本泰徳氏によって建立されたものです。




殉国慰霊塔(じゅんこくいれいとう)【八幡神社境内】
八幡神社境内にある殉国慰霊塔は、日露戦争から第二次大戦にかけて殉国した古賀出身者の慰霊塔で、昭和30年(1955)地元園芸組合の協力で建設され、題字は靖国神社宮司:筑波藤磨によるものです。

大正三四年戦没記念碑【八幡神社境内】
この記念碑は大正9年(1920)現在で出征した古賀村の参加者が刻まれていて、陸軍軍曹大佐の高比良忠正らの名や村長:田口八十治と刻されています。なお、題字は陸軍中将で日本スキーの草分けの人物といわれている堀内信水(文治郎)によるものです。




A-426:八幡神社(はちまんじんじゃ)
古賀町1066付近(旧 古賀村向名)
八幡神社は古賀村の村社(氏神)で、祭神は応神天皇、仲哀天皇、神功皇后。ここは古くから古賀の地でお祀りされていましたが、キリシタンによって慶長年間(1596〜)に破却されます。寛永3年(1626)島原藩主松倉重政によって再建され、以降歴代領主により保護されます。また、明治中期から大正にかけて祭礼の際、長崎や時津、北松から南高より好角家が集まり奉納相撲が行われていて大変な賑わいだったといいます。




A-425:古賀炭鉱跡(こがたんこうあと)
東長崎地区の地質は古第三紀層の分布をなしていますが一部に古炭を含む層があって一般に矢上炭田と呼ばれています。この層は矢上から諫早、大村、長与まで認められていて、特に古賀川の下流の沖積層には極めて薄い炭層が見られます。昭和12年(1937)現在の古賀バス停の北側の地域で手掘りでの石炭採掘がはじめられ、周辺には炭住なども立ちます。しかし量産にはならず昭和19年(1944)閉鎖されました。

○山王神社
古賀町1549付近(旧 古賀村向名九重里)
九重里部落の氏神で明治24年(1891)創建。九重部落は正念部落や坂口部落と共に坂中権現を崇敬していましたが、その昔にいさかいがあって袂を分け山王権現を祭祀するようになったといわれています。




A-424:古賀地区市民センター
古賀地区市民センターは平成19年(2007)長崎県立西陵高等学校東長崎分校の廃校に伴い、跡地に建てられた長崎市支所的役割を持つ行政センターです。明治8年(1875)古賀小学校が創立し、のちに古賀尋常小学校と改称。大正13年(1925)篤志者:松本藤吉の寄付で現在の古賀地区市民センターの地に新校舎が建てられ、翌15年に完成しました。また、明治41年(1908)には古賀青年学校が併設されました。第二次大戦後、新学制によりそれまでの学校は廃止され、昭和22年(1947)古賀村立古賀小学校と、古賀中学校が誕生します。昭和24年(1949)には諫早農業高校古賀分校を置かれ、小中高と三つの学校が軒を並べます。昭和32年(1957)古賀小学校が松原町に移転。翌年、古賀中学校が東長崎中学校と統合。平成8年(1996)諫早農業高等学校東長崎分校が閉校し、以降、西陵高等学校東長崎分校普通科として開設。平成19年(2007)東長崎分校は閉校します。

○松本藤吉氏彰善碑【古賀地区市民センター】大正13年(1925)建立




A-423:長崎県立諫早農業高等学校東長崎分校跡
古賀町949(旧 矢上村古賀名向名)【古賀地区市民センター】
長崎県立諫早農学校は明治40年(1907)諫早市立石町に創立。昭和23年(1948)学制改革により新制高校となり長崎県立諫早農業高等学校となります。昭和24年(1949)には古賀村に古賀分校を置かれ、のちに東長崎分校に改称。幅広い人材育成に努めます。平成6年(1994)東長崎分校の生徒募集が停止され、同時に長崎県立西陵高等学校東長崎分校として生徒募集が開始されます。平成8年(1996)諫早農業高等学校東長崎分校が閉校し、以降、西陵高等学校東長崎分校普通科として開設されます。平成19年(2007)東長崎分校は閉校します。




A-422:萬年社(まんねんしゃ)【福瑞寺】
萬年社は福瑞寺内にある互助会的組織で、明治18年(1885)古賀村の田嶋倉治によって創立しました。田嶋倉治は仏法による教育の推進を唱え広く寄付を呼びかけ、毎年2月に萬年社法要を営み資金を集めます。また、積み立てを行うことによって運営や教育資金とし、さらには低利融資も行います。昭和59年(1984)には100周年を迎え記念碑が建立されました。このほか福瑞寺境内には萬年社の功績に対し「萬年社創立記念碑」「田嶋倉治之碑」が建立されています。

葉山成章師之碑【福瑞寺】
葉山成章は第4代古賀小学校校長:松尾豊太郎の門弟で、明治42年(1909)には古賀小学校に頌徳園として95坪の土地と頌徳碑1基のを寄贈します。




A-421:キリシタン墓碑【福瑞寺境内】
福瑞寺境内には長十字入り蒲鉾型キリシタン墓碑があります。秀吉の禁教令後、マタ神父と修道士一人がこの古賀村に潜伏し、多くの住民がキリスト教を信仰します。天正17年(1589)マタ神父は古賀、日見、長与の司牧を担当し、天正文禄年間(1590〜)には古賀に司祭館が置かれました。このキリシタン墓碑は当時を裏付ける貴重な遺構で付近で出土しこの境内に移されました。




A-420:浄土真宗放光山福瑞寺(-ほうこうざん-ふくずいじ)
古賀町(旧 古賀村向名)
古賀村は慶長16年(1611)より松倉豊後守重政が治めていて、寛永3年(1626)飯盛村にある西明寺の僧:正哲に対しキリシタン撲滅のため一寺建立を命じます。そしてその功あって福瑞寺の住職にあて寺録を与えようとしましたが正哲は固辞、そのため一村一寺の禄を定め村民に寺納を命じます。また、住持は世襲として今に至ります。梵鐘は宝永5年(1708)に寄進されたもので、明治維新に長崎代官より上納を命じられますが村民の申し出によって免除、しかし昭和18年(1943)供出されます。現在のものは昭和27年(1952)檀家によって建立されました。




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