広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成24年 〜2012年〜
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C-595:高島教会(ぐらばーてい-あと)
高島町本町1138(旧高島村)
江戸時代中期、大村藩はキリシタンに対する取り締まりを強化。さらには財政難から子供の間引き制度を進めます。そのため弘化年間(1844-1848)外海など大村藩領に住むキリシタンは比較的禁制のゆるい五島や佐賀領である長崎港周辺の伊王島や神の島、善長谷などへ移住します。そして記録にはありませんがこのとき高島にも移住していたといわれています。当時、高島では本町の民家を借りて儀式を行っていたといわれており、明治6年(1873)にキリシタン禁制の高札が撤去されると明治9年(1876)本村字谷に木造の教会が建てられ、フランス人宣教師ボレーを迎え、島の信者358人の祈りの場が誕生します。明治24年(1891)フランス風教会が新築され、炭鉱の発展とともに信徒が増え、昭和29年(1954)新聖堂が完成します。現在の建物は昭和34年(1959)。




C-594:高島遠見番所跡(たかしまとおみばんしょあと)
高島町蛎瀬(高島村保木上)
江戸時代、遠見番は外国船来航をいち早く発見のために設けられた番所で、鍋島藩は自領である深堀、香焼、神の島、伊王島、高島、脇岬に陣を設け警戒していました。番所には石火矢台場として青銅製の大筒2丁が備えられ、近くには陣屋もあり、谷あいには使用の井戸跡もあります。鍋島藩支藩の小城藩から1年、川久保鍋島家から半年と交代で警備にあたっていました。




C-593:戦没者慰霊碑
高島町小島(旧高島村)【高島公園内】
碑文「明治の初めより大正昭和の代に至る数次の戦役別けても今次太平洋戦争に召されて惜しくも尊き生命を御国に捧げられたる高島出身戦争犠牲者の偉大なる御功績を敬仰追慕し町民挙げて感謝報恩の誠を捧げ以って英霊永遠の御冥福と四海の恒久平和を祈念して茲に勇士の偉功を顕彰し慰霊の碑を建立す。英霊希くば町民の捧ぐる哀情を嘉納せられんことを〜昭和37年6月9日建立〜高島町長・高島町遺族会長:福崎俊多/高島町議会議長:久米貞夫」
この慰霊碑は第二次大戦で犠牲となった高島町出身者175柱を慰霊するために建立されたものです。




C-592:トーマス・ブレーク・グラバー像
高島町小島(旧高島村)
碑文「この胸像は、わが国で初めての蒸気機関による採炭技術を導入し、高島炭鉱の開発に寄与したトーマス・ブレーク・グラバー(スコットランド出身)の功績を称え、製作したものである。」
この像は平成16年(2004)高島町によって建立され、銘板は当時の長崎市長:伊藤一長、像は高島町出身で日展会員の山崎和國によります。




C-591:グラバー邸跡(ぐらばーてい-あと)
高島町小島(旧高島村)
トーマス・ブレーク・グラバー(Thomas Blake Glover)は、安政6年(1859)5月。幕府は長崎、神奈川、函館が露、仏、英、蘭、米の各国との自由貿易を許可し、多くの外国人が来日。8月上海からイギリス(スコットランド出身)人のグラバーが来日します。グラバーはすぐに貿易商社のグラバー商会を立ち上げ営業を始め、水産加工物や工業製品そして製茶など幅広い商品を扱い、莫大な利益を得ます。一方で倒幕の志士の手助けをし、特に土佐藩の岩崎弥太郎との出会いは三菱の基礎につながるのです。慶応2年(1866)小菅修船場、明治元年(1868)高島炭鉱の設立は日本の近代化を導くものになるも、貿易の中心が神戸や横浜に移ると長崎の業績が悪化。グラバー商会は倒産。ついにグラバーは第一線を退くことになり東京で余生を送ります。墓所:坂本外国人墓地。
高島の北にある小島にはグラバーが高島滞在のために設けられた屋敷があって、洋館建ての母屋(5間半×4間)と付属屋(4間×2間半)からなり、グラバーが退去後は三菱高島工業所の迎賓館として使用されました。昭和23年(1948)解体。




C-590::後藤象二郎邸跡(ごとうしょうじろうてい-あと)
高島町小島(旧高島村)
後藤象二郎は(天保9:1838-明治30:1897)は土佐(高知)出身の武士で若い頃から開国進取論や蘭学、航海術を学びます。慶応2年(1865)藩の殖産機関の開成館や土佐商会(開成館長崎出張所)を任され土佐の産業を活発にし、長崎では土佐藩を脱藩した坂本龍馬と出会い意気投合し土佐藩へ協力を求めます。さらに後藤象二郎は龍馬の意見を受け入れ、土佐藩主山内容堂を説得し大政奉還を建白させるのです。新政府発足後は、政府の参与や大阪府知事、参議を歴任し、実業界にも乗り出し、明治7年(1874)には高島炭坑の払い下げを受け経営を始めますが失敗、岩崎弥太郎に譲渡します。その後の政治家としての活躍は黒田清隆内閣(明治21:1889)から松方正義内閣まで逓信大臣、伊藤博文内閣のとき農商務大臣を務めます(明治27:1894まで)。




C-589:三角溝(さんかくみぞ)
高島町本町(旧高島村)
碑文「この三角溝はオランダと交易があった長崎市や平戸市に散見され、二枚の石板を鋭角に組み合わせた大変珍しい溝である」
三角溝は全長約90メートルほど続き、さらに高島教会付近にも数メートル存在する大変貴重なものです。




C-588:百間崎(ひゃくまざき)
高島町百間崎(旧高島村)
高島の東側海岸地区を百間崎といいます。明治4年(1871)より島の東に位置する南洋井坑が開坑され、のちに斜坑も開坑されます。そうした中、炭鉱施設用地確保のために島の東側海岸が埋め立てられますが、その際、百間にも上る長い防波堤が築かれたため、その用地を百間崎と名付けられました。百閧ヘ約180メートルで、当時の防波堤は約50メートルほど残されています。なお、百間崎坑の開発の際、道路が建設されますが、その道路擁壁には当時用いられたレンガ(通称:コンニャク煉瓦)が使用され一部現存しています。




C-587:高島節の歌碑(たかしまぶしのかひ)
高島町光町(旧高島村)
高島節は明治初年に作られ高島の民謡として島民に親しまれている歌です。碑文字は三菱マテリアル鰍フ藤村正哉によります。
碑文「高島節/島と名がつきゃ どの島も可愛い まして まして 高島 なお 可愛い/わたしゃ高島の 埋れ木娘 いつか いつか 世に出て 炭となる」




C-586:岩崎弥太郎像(いわさきやたろうぞう)
高島町光町(旧高島村)
岩崎弥太郎(天保5:1834-明治18:1885)土佐国井ノ口村(現高知県安芸市)出身で、幼少のころから勉学に励み19歳のとき江戸の儒学者:安積艮斎(アサカゴンザイ)の門を叩きます。帰郷後、土佐藩に取り立てられ長崎で海外事情調査を命じられ、32歳のとき土佐藩の開成館長崎出張所のに赴任、土佐藩の産物の販売や武器、艦船などの購入に携わり、海援隊の援助も行いました。明治維新後、九十九商会を立ち上げ海運業を推し進め三菱の基礎を築きます。そして明治14年(1881)三菱は高島炭鉱を買収。本格的な採炭が始まります。
碑文「この銅像は、近代日本の礎となった「炭鉱」の町高島町の誇るべき歴史と、高島炭鉱を開発し日本の発展の原動力となった三菱の創業者岩崎彌太郎の功績を、末永く後世に伝えるために製作したものである。」
この像は平成16年(2004)高島町によって建立され、銘板は三菱マテリアル椛纒\取締役社長:井手明彦、像は高島町出身の山崎和國によります。




高島炭鉱についてL
昭和61年(1896)11月27日の閉山を受け撤収作業が行われ、あわせて進出企業の受け入れも開始し12月には菱高開発梶A翌年1月には高島興産鰍ェそれぞれ設立されます。前者はコンクリート二次製品の販売、後者はヒラメの養殖で、島の産業の維持のため三菱をはじめとする各企業が下支えします。しかし島の人口が激減しアパート群の荒廃。そのため町では昭和63年(1988)よりアパート取り壊し作業を開始します。平成2年(1990)三菱石炭鉱業鰍ヘ解散し工場群などほぼすべてが撤去されます。




高島炭鉱についてK
昭和46年(1971)二子坑はバラ色の飛島坑区といわれる区域に着炭。一時閉鎖されていた二子斜坑第二斜坑が再開し飛島坑区の揚炭が再開します。その中で昭和48年(1973)会社の合理化も進み三菱高島社と三菱大夕張社が合併し三菱石炭工業鰍ェ発足します。昭和50年(1975)坑内で死傷者27名を出す大事故が発生。昭和52年(1977)には出炭量2,500トン/日となります。さらに昭和60年(1985)坑内で死者11人の大災害が起こり炭鉱は存続の危機に直面します。会社、組合、県や町がたびたび国や関係機関に陳情がなされますが昭和61年(1896)11月27日閉山。以降、撤収作業が始まります。




高島炭鉱についてJ
昭和25年(1950)島の西の蛎瀬立坑が完成し、あわせて蛎瀬仲山間に通勤電車が運航し始めます(34年に廃止)。昭和32年(1957)二子立坑の開削工事が始まり深部開発の増強、通気の改善がなされます。この年、日本初となる海底送水管が完成し水問題の解決に一役買うことになります。昭和40年(1965)第10回国勢調査で人口は19,825人、世帯数は5,062世帯でした。翌41年、出炭数が13万3400トン/月で過去最高を記録。しかしエネルギー政策は石炭から石油へと舵を切るようになります。




高島炭鉱についてI
昭和23年(1948)次第に坑内の機械化が進み、坑内電車や岩石を詰め込む機械など能率向上が図られます。この年はほかに雲仙保養所が完成し保健施設が建てられたり文化活動が盛んになり、昭和25年(1950)には鉱業所病院の開業、保育園、保育所といった福利厚生施設が次第に充実していきます。昭和27年(1952)高島港に島民待望の本桟橋が完成しはしけを使わず直接、接岸できるようになり安全性が向上します。その一方で労働組合の分裂やストライキなど主義主張の問題がクローズアップするようになります。




高島炭鉱についてH
第二次大戦時、昭和20年(1945)6月、このときはじめてアメリカ潜水艦によって端島が魚雷攻撃を受け、7月に高島にアメリカ軍機が襲来し爆弾が投下され発電所や事務所が被害を受け、発電不能で坑内が水没。ついには高島新坑は廃坑となります。終戦を受け作業員は帰郷させ操業を自粛させていましたが、昭和21年(1946)一転、増産運動が行われます。その後は労働組合が立ち上がり労働環境などの改善につながります。




高島炭鉱についてG
明治41年(1908)に開坑した二子斜坑ですが高島に住む労働者の通路として、小船の避難所として二子島と高島間の埋め立て工事がなされ大正9年(1920)に竣工、以降、のちの新坑開発によるボタにより現在の広大な埋め立て地となります。大正9年第1回国勢調査で島の人口は8,907人、世帯数は1791世帯でした。このころの社宅は島の北東側に日吉岡社宅、島の東に百間崎社宅、二子島にそれぞれ社宅が置かれていました。昭和に入り炭界不況に陥り従業員の配置転換がなされるなど苦しい時代がありましたが、昭和12年(1937)軍備拡充体制となり一転好景気となります。




高島炭鉱についてF
明治34年(1901)島の西、蛎瀬坑開削が始まり翌35年に採炭が始まります。しかし明治39年(1906)創業以来最悪の事故となった蛎瀬坑ガス爆発事故が起こり、この事故以降、坑内通気方式が変更されることになります。明治40年(1907)には島の南側の二子斜坑が開坑。翌41年の発電所の完成を機に二子坑動力電化の始まります。このころから炭鉱の機械化が進み坑外エンドレスや排水ポンプ、電気巻き上げ機などの使用が始まります。




高島炭鉱についてE
明治14年(1881)高島炭鉱の譲渡を受け岩崎彌太郎は社内の鉱山関係の技術者を集め、翌年から増産体制を進めます。明治17年(1884)伊王島、沖ノ島、中ノ島などの試掘権や事業を譲り受けますが着炭できなかったり湧水のため断念。翌18年(1885)には岩崎彌太郎は志半ばで逝去してしまします。この時期はコレラや天然痘の流行、坑内火災に悩まされます。明治22年(1889)島の東の百間崎坑、仲山坑が開坑(これにより尾濱坑が近接することで廃坑になります)。翌23年(1890)三菱は端島炭鉱を買収し経営にあたり、明治27年(1894)三菱は横島鉱区を取得し採炭を拡張します。しかし、端島をのぞく百間崎坑、仲山坑、横島坑区など湧水や海水の侵入に合い相次いで廃坑することになります。




高島炭鉱についてD
明治3年(1870)高島炭鉱が順調に出炭している頃、貿易の中心が神戸や横浜に移るとグラバー商会の長崎の業績が悪化。多くの負債を抱えたグラバー商会は倒産。高島炭鉱の採掘権はオランダ商社ボードウィンに移譲されます。明治7年(1874)明治政府はボードウィンに債務40万円(今のお金で40億円以上)を支払い高島炭鉱は官営となるも、出炭が一日250トンまで落ち業績が悪化。民間払い下げが検討され、政府の参与や大阪府知事、参議を務めた後藤象二郎に55万円で払い下げられます。しかし、ガス爆発や坑内火災、さらには大暴動など様々な事件事故に見舞われたため、明治14年(1881)岩崎弥太郎が経営する三菱に譲渡されます。




高島炭鉱についてC
明治元年(1868)佐賀藩とグラバー商会の合弁会社はイギリス人技師モーリスを召致し近代的技術によって高島の元村の海岸で立坑開削が始まります。このとき掘進に火薬が使用され、石炭などの巻き上げや排水に蒸気による巻き上げ機やポンプを使い、通気には扇風機、照明に安全灯を使用します。そして我が国初となる馬車による四輪車(坑内炭車)が登場しました。掘削を始めて1年後の明治2年(1869)着炭し、我が国初となる洋式立坑として北渓井坑(ホッケイセイコウ)が開坑します。ここは翌3年(1870)には出炭一日300トンに達しました。この年、高島の尾浜でも開削を始め明治4年(1871)採炭を始め南洋井坑が誕生します。




高島炭鉱についてB
安政2年(1855)長崎奉行所西役所内にオランダから海軍を学ぶために海軍伝習所が設けられ、第二次伝習の指導者カッテン・ダイケ艦長は安政5年(1822)高島坑に赴き坑内の機械化の必要性を説きました。翌6年(1859)幕府は露、仏、英、蘭、米の各国との自由貿易を許可し、多くの外国人が来日。8月上海からイギリス(スコットランド出身)人のトーマス・ブレーク・グラバーが来日します。グラバーはすぐに貿易商社のグラバー商会を立ち上げ営業を始め、安政4年/明治元年(1868)佐賀藩とグラバー商会は共同経営契約を結び、近代化による本格操業が始まります。




高島炭鉱についてA
文化10年(1813)石炭運搬船が高島と香焼島の間にある横島付近で遭難し、乗組員20余人のうち男4人、女1人が溺死します。記録の上ではこれが初めての事故となっています。文化15年(1818)には炭鉱数6坑。島の北側に集落(71戸、372人)ができ本村が誕生。文化7年(1810)の端島における石炭発見。天保5年(1834)の香焼坑の開坑など周辺の各地で石炭の採掘が始められ安政2年(1855)高島炭の出炭数は24,996トンを記録します。




高島炭鉱について
元禄8年(1695)佐賀鍋島藩支藩深堀藩の下僕であった五平太は、広磯の地で野焼きをしていたところ石に火が引火し、五平太はこれを燃石と呼び村人に分けたやったといわれています。いつしかのこの石を五平太と呼ぶようになります。その後、深堀藩はこの燃石に着目し深堀の鍛冶町などにあった鍛冶屋の燃料として使用したり、瀬戸内地方への製塩用燃料として販路を広げ藩の収入とします。天明7年(1787)深堀藩は烏山平次郎に対し長崎での石炭販売を許可。文化元年(1804)佐賀藩本藩は深堀藩の評判を受け佐賀藩直轄事業とし、製塩燃料や船舶燃料の販売を促進します。




端島名(はしまみょう)
江戸時代は彼杵郡高濱村に属し幕府領でした。明治元年(1868)長崎府、翌2年に長崎県、明治12年(1879)西彼杵郡高濱村端島名になります。大正5年(1916)高濱村役場端島出張所が設けられ、昭和30年(1955)端島名は高島町に合併し高島村端島となります。




端島A(はしま)
端島は羽島とも書き、高島の南約3キロメートルにある周囲約1200メートルの無人島で、一番高いところで標高40メートルほどです。文化7年(1810)石炭の露頭が発見され、明治3年(1870)採掘がはじまります。石炭採掘によるボタで周囲が埋め立てられ周囲はすべてコンクリート護岸で固められました。このために外観が軍艦の姿に似ているため軍艦島の異名を持ちます。人口は最盛期の昭和34年(1959)に5,259人まで膨れ上がり世界一の人口密度となりました。




C-585:端島(はしま)
端島は文化7年(1810)石炭の露頭が発見され、明治3年(1870)に天草の小山氏によって端島坑として開業します。明治15年(1882)には鍋島孫六郎によって採掘が進められ、明治23年(1890)三菱が買収します。大正5年(1916)には我が国初となる鉄筋コンクリート高層アパートが誕生し、さらには石炭採掘によるボタで周囲が埋め立てられ周囲はすべてコンクリート護岸で固められました。昭和10年(1935)のガス爆発では死傷者34名という大惨事を起こし、のちもたびたびガス爆発事故などが起こります。最盛期の昭和34年(1959)に5,259人まで膨れ上がり世界一の人口密度となりました。昭和49年(1974)ついに閉山。以降は無人島となります。近年まで三菱の所有でしたが現在は長崎市の所有となり、産業遺産として注目を集めています。




中ノ島(なかのしま)
中ノ島は高島の南約2キロメートルにある周囲約860メートルの無人島で、一番高いところで標高51メートルです。鎌倉時代には深堀時仲氏と戸町俊基氏の間で所領の争われ戸町氏の所領に落ち着いています。明治16年(1883)からは石炭の採掘が始められ明治25年(1892)には15万トンもの石炭を産出しますが、翌26年、多量湧水のため大量の良質炭層を残し廃坑となりました。最終合計量は83万8887トンでした。以降は無人島となります。




高島A
現在の高島は島の南部を中心に埋立てによって形成された島で、そのほとんどが石炭採掘のために拡張された人工地盤です。特に高島の南に位置していた上二子島と下二子島とは石炭採掘によって発生したボタにより埋立てられたもので、北部の地域にのみ自然海岸が残っています。また、平成に入り飛島とは突堤によって陸続きとなりました。周囲は約6.7キロメートル、面積は1.27平方キロメートル、一番標高の高いところは権現山の114メートルで、埋立てによって拡張された地域以外が本来の島の形といえるでしょう。




高島@(たかしま)
高島は長崎(野母)半島の西に位置する島で鷹島とも書き、一般に高島とは高島と南にある上二子島と下二子島、北にある飛島の三島のことをいいます。さらに高島町となると高島の南約2キロメートルの中ノ島、高島の南約3キロメートルにある端島も含みます。高島は言い伝えでは鎌倉時代以降、平家の落人の伝承や江戸時代に隠れキリシタンの島ともいわれていますが詳細な記録はありません。




C-584:高島町(たかしままち)
高島は江戸時代は佐賀藩深堀領に属し彼杵郡深堀郷のうちで人家はありましたが一村とは認められず、元禄年間(1688-1704)に高島村と称されるようになります。明治4年(1871)から佐賀県、伊万里県を経て、明治5年(1872)長崎県となります。そのとき3島6村(高島、伊王島、沖ノ島、香焼村、蚊焼村、大籠村、土井首村、竿浦村、平山村)と合併し新しい深堀村となりますが、明治13年(1880)それぞれ独立して高島は高島村に戻ります。明治22年(1889)市制町村制が引かれ高島村になり、昭和23年(1948)高島町(-ちょう)になります。平成17年(2005)長崎市に合併し高島町(-まち)です。




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