広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成24年 〜2012年〜
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E-222:庵寺(あんでら)
小浦町891上手(旧 福田村小浦郷)
小浦町の西部、山あいに庵寺と呼ばれる地域があり、庵のん屋敷ともいわれています。言い伝えによればその昔、古寺があったともいわれており、現在は小さな祠に地蔵尊がお祀りされています。




E-221:弁慶の足跡(べんけいのあしあと)
小浦町639上手(旧 福田村小浦郷)
小浦町の山手に「弁慶の足跡」と呼ばれる池があって、その昔、弁慶がこの地を訪れた際、途中、右足が溝の中にはまり、それで跡がついたといわれていて、もう片方を村人が探したところ小浦の北にある式見に左足の跡があったといわれています。




日露戦争戦没者記念碑(せいろきねんひ)【大山祇神社境内】
この記念碑は小浦地区から日露戦争へ出征し亡くなられた14名を慰霊するために建てられた碑で大正2年(1913)に建立されました。また、そばの寄付者人名碑には福田村の寄進者名を見ることができます。

日獨戦没記念碑(にちどくきねんひ)【大山祇神社境内】
大正3年(1914)7月、オーストリアがセルビア王国に宣戦布告し第一次世界大戦がはじまり、8月、日本も参戦しドイツに宣戦布告します。日本からはドイツが支配していた中国の青島へ派兵がなされ、第18師団が長崎港から出征し、11月、青島が陥落し、12月、長崎港へ順次凱旋が始まります。
この碑は小浦地区の戦没者5名が刻され、大正5年(1916)に建立されています。




E-220:大山祇神社(おおやまずみじんじゃ)
小浦町657付近(旧 福田村小浦郷)
大山祇神社創建は不明。古来より小浦地区の氏神として親しまれています。
大山祗神社は大山祇命を祭神とする神社で本社は愛媛県今治市大三島町宮浦にあります。祭神は日本古来の神である大山積神で本来は山の神ですが、戦国時代に瀬戸内海を支配していた村上水軍が信仰したことから海上安全、海上守護の神ともなっています。境内には文政5年(1822)建立の石灯籠が奉納されています。




E-219:城の古址/城ノ高地(しのろこし/しろんこうち)
大浜町/小浦町
城の古址・城ノ高地の場所は大浜町と小浦町の境の小高い山で、中浦バス停の東側の上手に位置します。16世紀、福田兵庫助兼家の代まで大村氏と敵対関係でしたが、福田大和守純定の代のとき、大村純伊(スミコレ)の危機を救った縁から同盟関係を結び、永禄8年(1565)その子の兼次のとき福田にポルトガル船来航の運びとなります。城ノ高地とは天正年間(1573-92)福田大和守純定の居城があった場所といわれ、小浦側に馬をつないでいたと考えられる「ウマカケバ」と呼ばれる地名が残っています。




E-218:塩壺(しおつぼ)
小浦町(旧 福田村小浦郷)
大浜町から小浦町に入ると海岸沿いの道と山側の道(旧道)に分かれますが、その付近に以前まで湧水があって塩壺と呼ばれていました。この付近は道路ができる前まで浅瀬が広がり、干潮時にはくぼみから湧水が見られていました。言い伝えでは弘法大師が布教のために付近を通っていたとき、のどを潤すため金剛杖で岩を突くと清水が湧きだしたといわれ、地元民は弘法大師の杖の跡と呼んでいました。




E-217:長崎遊園地跡(ながさきゆうえんち-あと)
大浜町(旧 福田村大浦郷)
長崎遊園地は昭和32年(1957)長崎自動車によって開設された遊園地で、観覧車やメリーゴーランド、ゴーカートなどの遊具のほかに夏季にはプールと海水浴場も開設され多くの長崎市民に親しまれました。平成8年(1996)施設の老朽化などで閉園となり、跡地はマンションとして整備され平成12年(2000)ごろ「コアマンションマリナシティ長崎」として生まれ変わります。




征露記念碑(せいろきねんひ)【稲荷神社境内】
征露記念碑は明治37年(1904)の日露戦争に出征した大浦郷(現 大浜町)の人々を称えるもので、明治38年(1905)に建立されました。碑文字は近衛歩兵の山口多次郎によるものです。記念碑は石造りで砲弾の形をしています。




征獨記念碑(せいどくきねんひ)【稲荷神社境内】
大正3年(1914)7月、オーストリアがセルビア王国に宣戦布告し第一次世界大戦がはじまり、8月、日本も参戦しドイツに宣戦布告します。日本からはドイツが支配していた中国の青島へ派兵がなされ、第18師団が長崎港から出征し、11月、青島が陥落し、12月、長崎港へ順次凱旋が始まります。
なお、福田村の戦没者は14名で、大正3年(1914)の慰霊碑としてこの碑が建立されています。




E-216:稲荷神社(いなりじんじゃ)
大浜町(旧 福田村大浦郷)
大浜町の入り江に鎮座する稲荷神社は大浜町(旧大浦郷)の鎮守神と考えられ、創建は不明。境内には明治28年(1895)建立に建立された日清戦争の戦勝祈願のための灯篭ほか、日露戦争や第一次大戦の出征記念碑などがあります。




E-215:福田長兵衛兼明の墓(ふくだちょうべえかねあき-)
大浜町(旧 福田村大浦郷)
江戸時代中期、たびたび襲来する大津波のため、当時の当主:福田長兵衛兼明は元文元年(1736)6月から9月の加番中に福田の海岸に松を植えます。これは波よけのために植樹されたもので後に千本松と呼ばれます。元文2年(1737)当時流行した天然痘のため福田兼明は死亡し、感染を恐れた家臣らが大浜の上手に葬ったとされています。
※綾部団地後方の稲佐山中腹




E-214:福田氏について
桓武平氏を祖とする隈氏は筑後国の豪族で、隈三平兼盛は治承4年(1180)彼杵荘老手村、手熊村の定使職に補任(ブニン)され、文治2年(1185)兼盛の長男で隈平太兼定が鎌倉幕府の命で地頭職に就きます。しかし兼定は平家討伐のため喜界島(鹿児島県)へ向かうも戦死し、文治5年(1188)その弟の隈平次兼信が後を継ぎます。のちに兼信は老手村を福田村に改称し自らも福田を名乗ります。鎌倉中期の元寇の際、兼盛の孫の兼重と、さらにその子の兼光は北条氏の下、大いに活躍した人物です。16世紀となり、福田氏は初め、大村氏とは敵対関係でしたがのちに福田大和守純定の代に同盟関係を結び、永禄8年(1565)その子の兼次のとき福田にポルトガル船来航の運びとなります。慶長4年(1599)福田氏は大村氏の家臣となり大村藩の要職にありましたが、文化11年(1814)初代兼盛から数えて19代目の維玄のとき福田は訳あって大村藩に没収されてしまいます。




E-213:大浜町(おおはままち)
大浜町は江戸時代、大村藩福田村大浦郷と称し、明治4年(1871)大村県、そして長崎県に属し、明治11年(1878)長崎県西彼杵郡福田村大浦郷、昭和30年(1955)に長崎市に編入、昭和33年(1958)大浜町となります。大浜町の由来ですが、もともとは大浦といい福田浦の先の大きな浦ということで大浦と名付けられ本来は大浦町となるところですが、長崎市内に大浦の地名があるため、浦を浜に変えて大浜町になりました。そのため町内を流れる川は大浦川といいます。




E-212:小浦町(こうらまち)
小浦町は江戸時代、大村藩福田村小浦郷と称し、明治4年(1871)大村県、そして長崎県に属し、明治11年(1878)長崎県西彼杵郡福田村小浦郷、昭和30年(1955)に長崎市に編入、昭和33年(1958)小浦町となります。小浦町の由来は、福田浦のさらに奥まった先にある小さな浦という意味で小浦と呼ばれています。




E-211:福田本町(ふくだほんまち)
福田本町は江戸時代、大村藩福田村本村郷と称し、明治4年(1871)大村県、そして長崎県に属し、明治11年(1878)長崎県西彼杵郡福田村本村郷、昭和30年(1955)に長崎市に編入、昭和33年(1958)福田本町となります。福田本町の由来は、もともと本村郷だったところだったので、村を町に代え、福田本町になりました。




E-210:福田(ふくだ)
江戸時代は大村藩に属し福田村で、本村、中浦、小浦、小江、上浦、小江原、大浦、柿泊、手熊の9郷からなっていました。明治4年(1871)大村県となり、そして長崎県へ。明治11年(1878)長崎県西彼杵郡福田村、明治22年(1889)市制町村制が引かれ福田村として本村郷に町役場が置かれます。昭和30年(1955)長崎市に編入9郷はそれぞれ福田本町、小浦町、小江町、上浦町、小江原町、大浜町、柿泊町、手熊町となります。




E-209:福田の開港
約800年前の平安時代末期、福田は鎮西奉行天野和泉守影遠が地頭として支配し老手村と称されていました。治承4年(1180)隈平兼盛が老手村の地頭職、手熊村の定使職に任命され、のちに兼盛の二男:(兼信)包信が老手村を福田と改称。自らを福田(兼信)包信と名乗ります。戦国時代、福田氏は大村氏の家臣となり、永禄5年(1562)明船が大村氏へ貿易の許可を得るため来航。このとき明船から小船が下され簀板(スイタ=船の底板)で漕いだのがペーロンの始まりともいわれています。永禄8年(1565)平戸や横瀬浦での妨害を避けるためポルトガル船が入港。それに激怒した松浦隆信攻撃に出ますが敗退し、福田で大村純忠の援助もあって、貿易あわせて布教活動が始まります。しかし外海ということもあって停泊には適さず、元亀元年(1570)長崎港の発見によって福田の港は急速に衰退します。




C-608:高島町風力発電設備
高島町下二子島(旧高島村)
平成10年(1998)高島町がかねてより誘致していた風力発電所がNEDO(新エネルギー産業技術総合開発機構)との共同事業としてスタート。1基を下二子島の旧高校グランドに設置しました。試験観測ののち平成14年(2002)より運転が開始され、高島と野母半島の一部に電力供給がなされました。プロペラの直径は45メートル、発電開始風速は3.0メートル毎秒、総重量は78トン、総工費は約2億円。毎年1,000万円の収入を得ていました。
平成24年(2012)4月、失火により焼失。




C-607:浜節の歌碑(はまぶしのかひ)
高島町下二子島(旧高島村)
浜節は長崎を代表する民謡として親しまれている歌の一つで大正から昭和初期ごろに作られた歌です。作詞は長崎の郷土史家で長崎学の祖といわれた古賀十二郎、節回しは丸山芸妓の愛八といわれていて、平成11年(1999)なかにし礼の小説「長崎ぶらぶら節」で全国的に有名になりました。歌詞の中には主人公が高島生まれだということ、さらには高島の南にある三つ瀬などが歌われていて、この碑は三つ瀬を望むかたちで建立されています。おそらくこの碑はその小説のヒットを機に平成16年(2004)ごろ建立されたもので、文字は当時の長崎市長伊藤一長によるものです。




C-606:慰霊碑
高島町蛎瀬(旧高島村)【高島久松縫製工場跡】
昭和63年(1988)高島への進出企業「高島久松(代表取締役安達謙蔵)」は縫製工場を開き軍手や布団などの製造を行います。工場の開所式では工場が蛎瀬坑の入昇坑に位置しているところから炭鉱従業員殉職者の霊を弔うため慰霊碑を建立。開所式にあわせて除幕式が行われました。
碑文「高島鉱に 眠る人々よ 安らかに」




C-605:高島大権現(たかしまだいごんげん)
高島町丸尾頭(旧高島村)【権現山山頂】
権現山展望台の北に岩穴が見られ、その一角に高島大権現、火炎菩薩、観世音菩薩などが祀られています。現在では荒廃していますが、民間信仰の地として親しまれていたものと考えられます。




C-604:鷹巣権現社跡(たかすごんげんしゃ-あと)
高島町丸尾頭(旧高島村)【権現山山頂】
鷹巣権現社は元和9年(1623)佐賀藩主:鍋島勝茂は島民の守護神として島の最高峰の丸尾頭に創建され、のちにこの山を権現山と呼ぶようになります。幕末には参道として北部の本村(現 本町)まで石切りの石段が設けられましたが、両部神道の権現社は明治維新の廃仏毀釈で社名を高島神社に改められることになります。
鷹巣権現社の祭神は埴安姫命(ハニヤスヒメノミコト)で土の神といわれています。この埴安姫命は日本の国を造った伊耶那岐命、伊耶那美命の二神の伊耶那美命の糞が土に変わり生まれた神として、土の神として大切にされた神です。




C-603:千人塚慰霊碑【高嶋神社境内】
大正9年(1920)炭鉱関係の仕事によって死亡した人で無縁となった方々の遺骨を収骨する通称「千人塚」と呼ばれる供養塔が百闕闔ミ宅の上手に建立されます。金松寺の過去帳:大正9年1月の項だけでも22人の無縁死亡者があるとされ、それらの遺骨の供養が目的とされます。昭和63年(1988)炭鉱閉山を機に永代追悼供養が行われ、遺骨は金松寺納骨堂に移され、千人塚を廃し慰霊碑が三菱石炭鉱業鰍ノよって建立されました。




C-602:蠣瀬坑罹災者招魂者之碑【高嶋神社境内】
明治39年(1906)3月28日、高島西部にあった蛎瀬坑でガス爆発が発生し、入坑者307人全員が死亡するという操業以来の大惨事となります。事故後、丸尾頭山腹に慰霊のための弔祭堂が設けられ法要が執り行われ、明治40年(1907)この招魂碑が建立されました。蠣瀬坑罹災者招魂者之碑は総大理石で、碑正面は曹洞宗永平寺第64世管首の森田(大休)悟由、碑後面文は岩崎彌之助が師事した帝国大学文科大学の教授で漢学家の重野安繹(シゲノ-ヤスツグ)、文字は明治大正期に活躍した富山県出身の書家:若林常猛(号:快雪=岩崎小彌太の美術顧問)、碑右面文は曹洞宗皓台寺27代住持の金峰玉仙によるものです。なお、この事故以降、坑内通気方式が変更されることになります。




C-601:旧高嶋神社鳥居【高嶋神社境内】
文化9年(1812)高嶋神社の前身である鷹巣権現社に鳥居が建立されました。鳥居は高島で石炭運搬を行っていた炭山御定船25隻の船頭らによって寄進されたもので、世話方として深堀の石炭問屋の米屋利八、防州(山口県)の遠崎(トウザキ)の宮重丸伊兵衛らの協力がありました。鳥居の材質は防州特産の徳山御影の可能性があります。

〇御大典記念碑【高嶋神社境内】
文化9年(1812)に奉納された旧高嶋神社鳥居は丸尾頭に当初はあって明治7年(1874)7月の台風によって倒壊します。しばらくはそのままの状態でしたが、昭和3年(1928)昭和天皇の御大典記念事業として高島の青年団が復元し当時の社殿があった金松峠に設置し、あわせてこの記念碑が建立されます。昭和30年(1955)社殿とともに移転設置されました。




C-600:高嶋神社(たかしまじんじゃ)
高島町仲山(旧高島村)
明治維新後、鷹巣権現は高嶋神社と改称し、明治25年(1892)社殿や鳥居などの老朽化のため島原の黒住教会信徒のお世話で金松峠に新築移転します。昭和30年(1955)弔祭場広場のある現在地の仲山に再移転し、同年12月26日に盛大に遷宮祭が執り行われました。このほか上二子島山頂にあった箱崎八幡宮(通称山ノ神)が合祀され(昭和10年遷宮)、昭和36年(1961)には海神を壱岐芦辺町の住吉神社より分霊を合祀。

〇正一位稲荷神社【高嶋神社境内】
稲荷神祠は4つあり、そのうち一つは大正11年(1922)西村清太郎によって建立され正面に三菱の社章が刻されています。もう一つは明治12年(1879)高島炭鉱採炭人安全祈願のために建立されています。




C-599:日蓮宗海光山高泰寺
高島町仲山(旧高島村)
明治15年(1982)日蓮宗海光山高泰寺が創建されます。昭和15年(1940)には大宝塔が檀家の浄財によって建立されました。閉山後は縮小され現在は不明。




C-598:浄土真宗本願寺派正明寺
高島町仲山(旧高島村)
明治10年(1977)阿弥陀如来を本尊とする浄土真宗正明寺が創建されます。明治14年(1881)住持の山崎昇月は明治初年に流行したコレラによる犠牲者のために境内に無縁塔を建立します。正明寺は閉山後は縮小され現在は不明。




C-597:曹洞宗高嶽山禅海寺(-こうがくざんぜんかいじ)
高島町尾浜(旧高島村)
明治12年(1979)三菱鉱業所炭鉱社の誘致により五島の僧:佐々木正道が高島入りし仲山に観音堂を設け創建となります。以降、宗派を問わず三菱鉱業所の従業員やその家族の先祖供養などを手掛けていましたが明治41年(1908)従業員の増加で狭小となったため尾浜に新たな堂宇が建てられます。当時はまだ寺号を持たず単に誘化院もしくは禅寺と呼ばれていましたが昭和17年(1942)曹洞宗高島教会と称することとなり、昭和27年(1952)高嶽山禅海寺を得ます。炭鉱閉山後は人口の減少の影響で維持管理が難しくなっています。本尊:阿弥陀如来、脇侍:聖観世音菩薩、弘法大師。




C-596:天理教肥高島分教会
高島町尾浜(旧高島村)
大正10年(1921)春頃から高島でも天理教の布教活動が始まり、二子島に祀霊を安置し二子肥瓊集談所を置きます。以降、信徒の増加で大正12年(1923)尾浜の丘陵地に新しい教会堂を設け高島宣教所が誕生します。昭和17年(1942)天理教肥高島宣教所と改称。つづいて昭和21年(1946)現在の名称である天理教肥高島分教会となります。閉山後は縮小され、現在は無人となっています。




C-595:浄土真宗玄寳山金松寺(-げんぽうざんきんしょうじ)
高島町金松峠(旧高島村)
明治12年(1979)曹洞宗の禅海寺の起源である観音堂ができ宗派を問わず法要が営まれていましたが、明治22年(1889)
浄土真宗の説教場として尾浜金松通りに真宗高島説教場が置かれます。ここは深堀にある円成寺の説教所として始まりのちに檀信徒の増加などで昭和22年(1947)正式に寺号が与えられ真宗本願寺派金松寺が誕生します。現在の鉄筋コンクリート2階建の建物は平成5年(1993)に建てられたもので、2階は納骨堂になっています。




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