広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成24年 〜2012年〜
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E-249:異人井戸(いじんいど)
福田本町1493-1(旧 福田村本郷)【福田小学校校庭】
福田小学校のプール西側に以前まで異人井戸といわれる井戸がありました。永禄8年(1565)平戸や横瀬浦での妨害を避けるためポルトガル船が福田浦に入港。井戸はそのころに掘られ飲料水として使用されました。さらに時代が下って、幕末、安政2〜5年(1855-58)に長崎港外を警備するため設けられた田子島台場の役人も飲料水として使用しました。昭和39年(1964)ごろ福田小学校の拡張工事の際、危険という判断で埋められてしましました。




E-248:福田開港の由来碑
福田本町(旧 福田村本郷)
14世紀中期、平戸はポルトガル貿易の中心地として栄えていましたが仏教徒との対立が激しくなったため、大村領の横瀬浦にその中心地を移します。大村純忠は洗礼を受けるなど援助を惜しみませんでしたが、キリスト教反対党によって焼打ちに遭い、やむなく平戸へ入港します。その後、大村純忠の勢力回復により、永禄8年(1565)同じ大村領であった福田浦へ誘致し福田浦の開港となります。開港後は教会が建てられ各地の信者が集結し、信仰と貿易の港として栄えるのです。しかし、福田浦は良港とはいえず元亀元年(1570)長崎の港の発見によりその座を譲りました。
この由来碑は以上のような福田浦の歴史が刻まれ、昭和44年(1969)長崎市によって建立されました。




E-247:福田海水浴場跡(ふくだかいすいよくじょう-あと)
福田本町(旧 福田村本郷)
福田における海水浴の始まりは明治34年(1901)ごろ、長崎の居留地に住していた外国人が福田まで来遊し海水浴を行ったことに始まりますが、日本人に海水浴という文化が伝わるのは明治後期以降となります。明治45年(1912)には戸川豊吉が三階建ての桟敷(休息所)を設け、大正5年(1916)には福田の崎山地区に石本作太郎によって桟敷(休息所)が設けられます。このころになると夏は海水浴、秋は学生の遠足の地として賑わいを見せるようになります。




E-246:津波よけの石垣
福田本町(旧 福田村本郷)
江戸時代初め、福田はたびたび襲来する津波に悩まされていましたが、天和元年(1681)住民らは津波を避けるための石垣を築きます。福田中学校東側の宮林付近より福田本町の中心付近(小原氏宅235番地)までの約150メートル、高さ約1〜2メートル、幅1メートルほどの小石が積まれた石垣があったといわれ、現在では数か所だけ残っています。




E-245:千本松原(せんぼんまつばら)
福田本町(旧 福田村本郷)
千本松原は福田本町の支所付近から福田小学校に至る地域に分布していた松原で、江戸時代中期、たびたび襲来する大津波のため、当時の当主:福田長兵衛兼明は元文元年(1736)6月から9月の加番中に福田の海岸に松を植えます。これは波よけのために植樹されたもので後に千本松と呼ばれます。安政4年(1857)には111本、大正7年(1918)ごろには99本、昭和5年(1930)ごろには80本ほどが植わっていましたが、第二次大戦後に松くい虫によって枯れ、昭和25年(1950)頃には2、3本となりやがて姿を消してしまいました。地元では「福田丸木の千本松は誰を待つやら青々と」とか「福田丸木の千本松は千といえども千はない」などと歌われていました。現在、支所付近などにある松はそのあとに植えたものです。




E-244:事代主神社(ことしろぬしじんや)
福田本町(旧 福田村本郷)
事代主とは事代主神のこといい、大国主神(オオクニヌシノカミ)の御子神をいいます。一般には恵比須神といい、神徳としては五穀豊穣、海上安全、大漁満足、商売繁盛などで、釣り竿に鯛を抱いているところから漁業関係者の信仰が厚く、漁港近くに多くお祀りされています。




E-243:宮林/宮の森(みやばやし/みやのもり)
福田本町1646付近(旧 福田村本郷)
福田中学校の東側にこんもりとした椎の木の林がありました。ここは福田天満宮が最初にあった場所で、そこから宮林/宮の森と呼ばれています。江戸時代の初め、天満宮は津波に遭い被害を受けたため、現在地である梅園山に移転しました。その社殿があった場所が鎮守の森として近年まで残っていました。




E-242:火渡橋(ひわたしばし)
福田本町(旧 福田村本郷)
福田本町の中心を流れる太田川に架かる館道の橋を火渡橋といいます。この橋は以前まで雲弱石?(おそらく雲母石)の橋でしたが現在は姿を消しました。その昔、福田の町を大津波が襲ったとき、町は水浸しになりすべての火を失います。そのため被害を受けなかった上の段の集落からこの橋を渡って種火をもらい火を点けたといわれ、そこから火渡し橋と呼ばれるようになりました。




E-241丸木館屋敷跡(まるきやかたやしきあと)
福田本町(旧 福田村本郷)
丸木館屋敷は天正3年(1575)福田大和守純定が居城として建てた屋敷跡で、広さは三段の4畝ほどで周囲に石垣が施してあったといいます。1畝=30坪=100平方メートル、4畝=120坪=400平方メートル。なお、この屋敷の前の道を館道(タチミチ)といい、現在の福田保育所の前の通りをいいます。




E-240:福田ペーロンの由来碑
福田本町(旧 福田村本郷)【福田漁港内】
この由来碑には永禄5年(1562)明の船が福田浦に来航し、その際に走らせた小舟が福田におけるペーロンの初めといわれ、その後、農村部では田植え後に行われる水神祭に、漁村部では海神祭にペーロンが取り入れられ福田地区の伝統行事として発展して行ったことなどが記されていて、昭和44年(1969)福田地区史跡保存会によって建立されました。




E-239:丸木問役所(まるき-といやくしょ)
福田本町1873(旧 福田村本郷)
丸木とは付近の地名で、寛政3年(1791)港やその周辺への人の出入りが激しくなったことに伴い、往来の者を改める役所として問役所が置かれました。最初の役人は成瀬小左衛門で、成瀬家の墓所は丸木墓地にあります。




E-238:オロシャ井戸/オロシャ川
福田本町242(旧 福田村本郷)
永禄8年(1565)平戸や横瀬浦での妨害を避けるためポルトガル船が福田浦に入港。ここの井戸は当時、飲料水として使用されたもので、長崎が開港する元亀元年(1570)まで使われました。井戸の深さは7.7メートル。水面までは約5メートルありました。ポルトガル船が使用したといわれていますが、なぜ、オロシア井戸というのかは分かりませんが、おそらく幕末から明治にかけてロシア海軍が長崎の稲佐に入っていたので、休息時にここを使用していたのではないでしょうか?なお、そばを流れる川をオロシャ川といいます。




忠魂碑(ちゅうこんひ)【福田天満宮境内】
この忠魂碑には詳細が記されていないため何の忠魂碑か不明ですが、建立が大正10年(1921)2月というところから、
大正3年(1914)の第一次世界大戦に出征し殉国した福田本郷(現 福田本町)の人々を称えるもので7回忌の記念と考えられます。なお、日本からはドイツが支配していた中国の青島へ派兵がなされ、第18師団が長崎港から出征し、同年11月、青島が陥落し、12月、長崎港へ順次凱旋が始まります。
碑文字は大村家の流れを汲む陸軍少将の大村純英によるものです。




忠魂碑(ちゅうこんひ)【福田天満宮境内】
この忠魂碑には詳細が記されていないため何の忠魂碑か不明ですが、建立が大正3年(1914)2月というところから、明治37年(1904)の日露戦争に出征し殉国した福田本郷(現 福田本町)の人々を称えるもので10周年記念と考えられます。猪股多吉ほか16名の名前が刻されています。
※大正3年(1914)7月、第一次大戦始まる。




E-237:草住の碑(くさずみのひ)【福田天満宮境内】
天文16年(1547)青年の僧:谿山繁公記室(ケイザンハンコウキシツ)禅師が草住(=福田と小江との峠道付近)というところに庵を建て修行をしていましたが27才の若さで命を落とします。そのため僧の両親が供養のため経文をしたため供養塔「一字一石塔」を庵があったところに建立しました。昭和53年(1978)道路拡張のため第9代福田天満宮宮司:宮本磐穂によって移設されました。
碑文「逆修一字一石谿山繁公記室禅師/天文16年/正二十七」




福田天満宮の言い伝え
福田天満宮には次のような言い伝えが残っています。
津波が福田の町を襲ったときの夜。福田に住む佐々木某氏の夢枕に神霊が現れ「いま津波が起こって水が高くなってきている。このままだとお宮の床が水に浸かって流れるかもしれぬ」というお告げがありました。しかし某は昨日まで天気も良く穏やかな日和だったところから気にしないで再び眠りにつくと、さらに「津波がもう胸のところまで来ている。助けてくれ」という夢を見ます。某は驚きますがまた眠りにつくと今度は、神霊が枕元に現れ「早く助けてくれ、もう水が首のところまで来た。夢ではない助けてくれ」といわれ目が覚めます。そして戸を開けてみると本当に町は水に浸かっており、急いで社殿に上がると御神体が首のところまで水に浸かっていました。某はご神体を大切に抱え込み安全な自宅の神棚に安置したといいます。その後、新たに社殿が設けられ現在の福田天満宮となるのです。




E-236:福田天満宮(ふくだてんまんぐう)
福田本町1247付近(旧 福田村本郷)
福田天満宮の創建は不明で、おそらくキリシタンによって破却され、のちの寛永12年(1635)平野平五左衛門茂明によって再興されています。祭神は菅原道真公で、大村(松千代公藤原朝臣)純信の武運長久と息災延命を祈念するために建立されました。天満宮は当初、福田本町の沿岸部の千本宮林というところにありましたが、大津波に遭い被害を受けたため現在地に移転しました。現在の建物は昭和61年(1986)に改築されたものです。




E-235:大音寺跡(だいおんじ-あと)
福田本町1187付近(旧 福田村本郷)
福田天満宮と福田バス停との中間付近にその昔、大音寺という寺院がありました。大正7年(1918)に道路の改修工事が行われる前まで付近に椿の老木があって、その近くに寺の門があったといわれ、付近の個人宅の池が大音寺の清水といわれています。しかし、地元では「ジャーモンガシラ」「シャーモンガシラ」と呼び、漢字では邪宗門(頭)と書くところから、永禄年間(1558-1570)に大村純忠が教会を建てた場所といわれています。




E-234:浄土真宗大谷派法林山西光寺(-ほうりんざんさいこうじ)
福田本町295(旧 福田村本郷)
慶長19年(1614)キリスト教禁止令後に仏教の再興のために諫早の僧:宗斎(のちに順慶)が福田に入り庵を設け布教活動を始めます。その後、一寺建立となり西光寺の創建となりました。明暦3年(1657)ときの住持が上京し西本願寺にて寺号を許され、そして本尊となる阿弥陀如来像を持ち帰ります。元禄12年(1699)ときの住持恵雲は東本願寺に移り今に至ります。現在の本堂は平成12年(2000)に再建されたものです。




E-233:琴むすめの墓/琴爪墓(ことむすめのはか)
福田本町185上手(旧 福田村本郷)
寛政4年(1792)いわゆる島原大変と呼ばれる島原で起こった眉山の崩壊で島原藩の家老の娘が亡くなり、そのまま津波に流されこの福田の浦に流れてきたといいます。村人は丁重に葬りますが、その娘の指には琴の爪がはめてあったそうでいつしかこのお墓を琴むすめの墓と呼びます。




E-232:長崎市編入四十周年記念碑
福田本町(旧 福田村本郷)【福田支所内】
碑文「福田村は昭和30年1月1日に長崎市に編入された。市編入40年目にあたり郷土の過去を顧み、現在を確かめ未来への発展を祈念しここに記念碑を建立する。平成7年10月22日/福田村・長崎市編入四十周年事業実行委員会」




E-231:福田山記念碑(ふくだやまきねんひ)
福田本町(旧 福田村本郷)【崎山海岸】
福田山は(安政3:1856-?)は福田出身の力士で、16才のときに大相撲・鳴ヶ崎親方に弟子入りし、その後も高勇を師事し、25才のとき福田山を襲名します。明治時代の初期から中期に活躍、45才まで現役を務めます。この記念碑は福田山が61才(おそらく還暦)の祝いとして建立されました。

虎ヶ濱記念碑(とらがはまきねんひ)
福田本町(旧 福田村本郷)【崎山海岸】
虎ヶ濱(本名:瀬崎寅五郎)は福田出身の力士で明治時代の初期から中期に活躍。この碑は明治30年(1897)に建立されました。




E-230:馬籠/馬込(まごめ)
福田本町(旧 福田村本郷字馬込)
国道が走る福田支所付近から小浦の船溜まり付近を馬籠ともいいます。その昔、源平合戦が激しかった頃、この付近でも戦があり平家軍が敗退。その当時ここに馬をつないでいたところから馬込と呼ばれています。この付近は明治45年/大正元年(1912)ごろ、石本作太郎によって休憩所が設けられた場所で、昭和25〜35年(1950-60)石炭調査のため試掘が行われ複数の人骨が出土したといいます。なお、試掘のボーリングを行った台座が残っています。




E-229:福田小番所跡(ふくだこばんしょ)
福田本町20(旧 福田村本郷字城の下)
長崎が開港した元亀2年(1571)長崎港へ入津するポルトガル船の入港手続きのために設けられたのが福田小番所で、相川左衛門が最初の番所役人を務めます。




E-228:崎山海岸カッパ穴
福田本町(旧 福田村本郷字馬込)
福田支所から小浦に向かう海岸線を崎山海岸といい、ちょうど福田と小浦の境のところに岩がせり出しており岩穴があります。もともと小浦と福田本町の間は山を越えなければ往来ができなかったため、岩穴は近道として岩をくりぬいたものではないかといわれています。
岩穴には次のような言い伝えがあります。その昔、岩穴の中に悪カッパが一匹棲んでいて、あまりに悪事を働くところから、偉い大将が河童を退治します。すると河童は大将に対し「自分の棲み家の一部を残してくれればもう悪事は働かない」と行ってどこかに逃げて行き姿を消します。以降、岩穴をカッパ穴といいます。




E-227:だんどん様・崎山古墓群
福田本町(旧 福田村本郷字馬込)
言い伝えによると、その昔、福田の船津、崎山地区は源平の合戦が行われた場所で、多くの犠牲者を出したといいます。その犠牲者の供養塔(石室)が「だんどん様」で、ここは小浦地区に住んでいた柳生シラが台湾に滞在中に夢の中でのお告げがあったことにより設けられたものといいます。




E-226:祐徳稲荷神社(ゆうとくいなりじんじゃ)
福田本町(旧 福田村本郷字城の平)
祐徳稲荷神社は佐賀県鹿島市にあるの祐徳稲荷神社の分霊を勧請しお祀りされたもので、祭神は倉稲魂神(ウガノミタマノカミ)、猿田彦神(サルタヒコノカミ)、天鈿女命(アメノウズメノミコト)の三神で、商売繁盛の神として福田地区の信仰を集めています。




E-225:福田古城(ふくだこじょう)
福田本町(旧 福田村本郷字城の平)【祐徳稲荷神社】
福田古城は小浦町と福田本町の境にある小高い山のことで、16世紀、福田兵庫助兼家の代まで大村氏と敵対関係でしたが、福田大和守純定の代のとき、大村純伊(スミコレ)の危機を救った縁から同盟関係を結び、永禄8年(1565)その子の兼次のとき福田にポルトガル船来航の運びとなります。福田古城は天正3年(1575)福田大和守純定が築城したという記録があり、東西10間、南北13間の規模で、水の便が悪かったといわれています。なお、大番所跡付近を字城の下、祐徳神社付近を字城の平といいます。




E-224:事代主神社(ことしろぬしじんや)
小浦町974(旧 福田村小浦郷字船津)
事代主とは事代主神のこといい、大国主神(オオクニヌシノカミ)の御子神をいいます。一般には恵比須神といい、神徳としては五穀豊穣、海上安全、大漁満足、商売繁盛などで、釣り竿に鯛を抱いているところから漁業関係者の信仰が厚く、漁港近くに多くお祀りされています。




E-223:御船蔵跡(おふなぐらあと)
小浦町969.974付近(旧 福田村小浦郷字船津)
文化6年(1809)小浦波止場(船津)が設けられた後、弘化3年(1846)小浦船溜まりの北、事代主神社西側付近に御船蔵が建てられました。この御船蔵は役人詰所も兼ねていて、外国船が現れたときに番所役人やここの警備役人を乗せて出航していました。御船蔵の敷地は長さ10間、横20間で、そこには2棟の船小屋に関船1隻、小早船3隻、東海船4隻、組子船5隻が収められていました。御船蔵があったことから付近を「はとうち」「こはやのうち」などと称します。




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