広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成25年 〜2013年〜
<歴史散歩移動ツール>
前の月へ移動最新の月へ移動次の月へ移動
前の年へ移動 次の年はありません



浅野先生之碑【長崎大学経済学部】
浅野金兵衛(明治15:1882-昭和39:1964)は宮城県塩釜市出身。明治40年(1907)東京帝国大学工科大学卒業後、42年(1909)長崎高等商業学校教授に就きます。大正時代に南洋諸島出張や欧米各国に留学。昭和15年(1940)には中華民国に出張します。以降、長崎大学経済学部において教育指導に尽力。昭和26年(1951)には長崎県立佐世保商科短期大学の学長に就任。昭和39年(1964)長崎大学名誉教授となります。
この碑は昭和50年(1975)瓊林会会長:永田敬生によって建立。レリーフは北村西望作。
碑文「明治42年(1909)本学に師となり爾来の薫陶五十有余年に及ぶ 謹厳高潔以て近づき難しと雖も鞭に秘したる慈愛の真情測々とし学生の敬慕を鍾む 博く学びては篤く志し慎み思いては道を行う本学の学風は当に師によりて創られたりと謂うべし 師の像を遺し以てとこしえに師恩を懐わん」




武藤教授像【長崎大学経済学部】
碑文「明治40年(1907)より母校に教鞭を執ること三十有六年 日英日蘭日葡交通史に学会未踏の領域を拓く 孜々(シシ)として考証に余念なく 新知見を講じて倦(ウ)まず 学生の敬仰を聚(アツ)む 万巻の蔵書は いま武藤文庫として母校図書館の至宝なり」昭和50年10月 瓊林会長 永田敬生によって建立。




セレステン・ラムバック(Celesten Rambach)先生記念碑【長崎大学経済学部】
碑文「A LA MEMOIRE DE NOTREREGRETTE PROFESSEUR DE FRANCAIS CELESTEN RAMBACH ERIGE EN MARQUE RECONNAISSANGE PAR ZENTARD HARADA ETOAUTRESPEPBRES DE SHOSANKAI JUILLET 1958」
裏碑文「私たちの敬慕するフランス語教授セレステン ランバック先生への深い感謝のしるしとして 原田善三郎○○会の有志ここに建てる 昭和43年(1968)」




「創立の記」碑【長崎大学経済学部】
碑文「明治38年(1905)ここ西彼杵郡上西山村字片淵郷に長崎高等商業学校創立昭和24年(1948)長崎大学経済学部に改組研鑽の星霜満ちて校門を出でし万余の同窓刻苦精励よく社会に○○してすでに七十年とは○しぬ切に乞う若き後輩諸賢の黄鶴となりて母校の栄誉に光を加えられんことを」
昭和50年(1975)社団法人瓊林館によって建立。

○長崎高等商業学校門柱




F-26:経済学部倉庫【長崎大学経済学部】
この倉庫は明治40年(1907)に建てられた旧長崎高等商業学校の倉庫建物で、創立当初の建物で唯一残る建造物です。煉瓦の壁はイギリス積みという意匠で、内部は木造の洋小屋組になっています。倉庫周囲の窓の上部は楣石(マグサイシ)と下部は窓台石で装飾され、煉瓦壁上部の石材は曲線形の装飾がなされています。登録有形文化財。




F-25:瓊林会館(けいりんかいかん)【長崎大学経済学部】
瓊林会館は大正8年(1919)当時の長崎高等商業学校の研究館として建てられたもので、時の衆議院議員で海運業(橋本汽船)で名を馳せた橋本喜造(明治5:1827-?)によって新築寄贈されました。構造は煉瓦造り2階建、スレート葺、車寄せ付きになっています。橋本は同時期の大正12年(1923)大阪堂島に洋風ビル「堂島ビルヂング」を建てたことは有名。昭和17年(1942)建物は大東亜研究所と改称し、昭和24年(1949)からは長崎大学経済学部が使用。昭和47年(1972)解体を免れ改修の後、長崎大学瓊林会館として残されました。登録有形文化財。




F-24:拱橋(こまねきばし)【長崎大学経済学部】
拱橋は長崎高等商業学校の造成のために開校前の明治36年(1903)に架橋され、のちに学校の大手橋として利用されます。当時、鉄筋コンクリート橋が一般的になっていた時代ですが学校の景観を考慮し石造橋が選ばれました。また、形状も中島川の他の石橋とは異なる上部空間が開かれた上路式アーチ橋となっていて、近代的な設計となっています。登録有形文化財。




F-23:旧長崎高商表門衛所跡
(きゅう-ながさきこうしょう-おもてもんえいしょ-あと)【長崎大学経済学部】
長崎高等商業学校は通称を高商といい、創立は明治38年(1905)で、長崎医学専門学校(通称:医専)と共に長崎の最高教育機関でした。昭和19年(1944)長崎経済専門学校と改称、さらに昭和26年(1951)新制大学制により長崎経済専門学校は長崎大学経済学部に変わり現在に至ります。表門衛所は創立当時のもので、昭和50年(1975)頃、グラバー園内に移築保存されています。




○長崎大学商科短期大学部跡の碑【長崎大学経済学部】
碑文「学び舎の北辰高く輝きて 未来夢みるともがらを得し 二千年三月吉日」
裏碑文「長崎大学商科短期大学部は1951年(昭和26年)3月 戦後復興の鎚音響くなか 勤労学徒の強い要望に応え 国立初の夜間短期大学として設立。爾来、五十年に渉り 五千余の幾多有為の人材を輩出。時代の進展にともない その社会的使命を終え 2000年(平成12年)3月閉学。」
平成12年(2000)瓊山会によって建立。




F-22:長崎高等商業学校跡/長崎経済専門学校跡
片淵4丁目1〜2 (旧長崎村片淵郷)【長崎大学経済学部】
明治38年(1905)勅令第96号により長崎高等商業学校(通称:高商)を設立。東京の第一高商、神戸の第二高商に次ぐ第3番目の高商で長崎医学専門学校(通称:医専)と共に長崎の最高教育機関でした。当時、この長崎高等商業学校には中国や旧満州から多くの留学生を向え、また多くの実業家を生み出しました。昭和19年(1944)勅令第165号により長崎経済専門学校と改称。長崎工業経営専門学校(昭和21年廃止)を併設します。昭和26年(1951)国立大学設置法により長崎経済専門学校は長崎大学経済学部に変わり、平成16年(2004)国立大学法人化します。




F-21:矢場下橋新設記(やばしたばししんせつき)
西山2‐片淵2(旧 長崎村西山郷/片淵郷)
碑文によると、片淵、西山地区は昔から交流がありましたが西山川に隔たれていたため交通の便が悪く、長崎市に対し両町有志が架橋を求めていました。大正13年(1924)ようやく気運が熟し地元市会議員をはじめとする有志らの支援により地元民の土地の購入。そして文部省の所有地32坪(約106平方メートル)、高木與作所有地84坪(約277平方メートル)、大塚泰次郎20坪(約66平方メートル)らの土地の寄進を受け、ようやく架橋に入り大正14年(1925)完成します。橋名はその昔、この付近に長崎氏の演武場があり弓矢の稽古場があったところから矢場、その下側ということで命名されました。延長6間(約10.8メートル)、幅2間(約3.6メートル)、総工費3400円(今のお金で約200万円)。




F-20:長崎県立東高等学校跡(-ひがし-こうとうがっこう-あと)
下西山町(13〜)16 (旧 長崎村西山郷/西山町)【東高跡地公園】
明治6年(1873)公立小学校(向明学校、啓蒙学校)が開校。
明治9年(1876)小学生の卒業に伴い県立準中学校が外浦町の民家に開校。しかしすぐに手狭となり中島聖堂内(現 伊勢町)に移ります。
明治11年(1878)立山の英語学校の廃止に伴い移転し長崎中学校と改称します。のちに県立長崎中学校へ。
明治17年(1884)県内の他の中学校を廃止し長崎県立中学校が設立。
明治19年(1886)中学校令により長崎県尋常中学校に改称。
明治32年(1899)中学校令により長崎県長崎中学校に改称。
明治34年(1901)長崎県立長崎中学校に改称。
明治41年(1908)福富町(現 幸町)に仮校舎を建て移転。
立山の跡地に長崎県女子師範学校入る。
大正2年(1913)中川郷(現 鳴瀧高校)に新築移転。
昭和23年(1948)学制改革により旧制中学は新制高校に変わり長崎県立長崎高等学校となる。
あわせて明治35年(1902)開校の県立長崎高等女学校、大正11年(1922)開校の県立瓊浦中学校の3校と統合し、長崎東高、長崎西高の2校に統廃合。西山町にあった長崎県立長崎高等女学校の校舎を長崎県立長崎東高等学校として始まります。
昭和51年(1976)施設の老朽化と敷地の狭さから現在の立山5丁目13-1に移転、現在に至ります。




F-19:高木與作翁彰善碑
高木與作(天保11:1840-大正14:1925)は佐賀小城藩牛津出身で明治3年(1870)長崎入りし種類販売業を創めます。当時は西九州随一の富豪といわれ不動産業なども手がけ、大正2年(1913)東濱町に長崎高木銀行を資本金100万円で設立。個人経営の銀行として評判となります。大正9年(1920)には県立長崎高等女学校開校のため西山の広大の敷地1870坪を寄付し紺綬褒章が贈られています。しかし昭和4年(1929)金融恐慌によって長崎高木銀行は倒産となります。墓所:興福寺後山。この高木與作翁彰善碑は大正10年(1921)に建立されました。




F-18:県立長崎高等女学校跡(こうとう-じょがっこう-あと)
【東高跡地公園】
明治34年(1901)高等女学校令により長崎市に初めて4年間の学校:長崎県立長崎高等女学校の認可が下り、明治35年(1902)西山郷に開校します。昭和23年(1948)学制改革により旧制中学は新制高校に変わり長崎県立長崎女子高等学校となり、あわせて明治17年(1884)開校の長崎県立長崎中学校、大正11年(1922)開校の長崎県立瓊浦中学校と長崎県立高等女学校の3校と統合し、長崎東高、長崎西高の2校に統廃合します。




F-17:長崎市立高等女学校跡(こうとう-じょがっこう-あと)【上長崎小学校】
女子中等学校の入学希望者の増加で大正11年(1922)下西山町の西山女児高等小学校内に長崎市立高等女学校が開校。大正13年(1924)西山女児高等小学校を廃止し、その校舎を市立女学校に当てます。昭和13年(1938)桜馬場町の長崎県師範学校跡に移転。昭和23年(1948)新制高等学校になり長崎市立女子高等学校に変わり、すぐに統廃合され長崎市立高等学校(旧瓊浦高校内)と長崎市立女子高等学校が統合し長崎市立高等学校になります(校舎は長崎市立高等学校校舎を使用)。昭和40年(1965)栄町に新築移転し、昭和57年(1982)長崎市立長崎第二商業高等学校と統合し長崎市立長崎高等学校となります。平成12年(2000)長崎県立女子短期大学の跡地に長崎県立鳴滝高等学校が開校し、それまでの長崎市立長崎高等学校が移管されます。




F-16:西山女児高等小学校跡
明治19年(1886)小学校令により西山女児高等小学校が置かれ10才から14才までの女子が教育を受けます。明治40年(1907)の小学校令改正で12才から14才までとなり(この法律は昭和16年の改正まで続く)、大正13年(1924)西山女児高等小学校は廃され、その校舎を長崎市立高等女学校に当てられます。




F-15:長崎市立上長崎小学校
下西山町9-1(上長崎村西山郷)
旧鳴瀧塾は幕末から明治の初年までシーボルトの娘イネが使用していましたが、明治9年(1876)第5大学区第1中学校区鳴瀧小学校として使用されます。明治19年(1886)小学校令により尋常4年(義務教育)、高等4年に分け、校名に尋常、高等の名前が入ります。明治26年(1893)新小学校令に伴う統廃合によって西山町3丁目42番地へ移転し上長崎小学校が開校します。明治28年(1895)片渕町2丁目に新築移転。昭和13年(1938)長崎市立高等女学校が桜馬場に移転したため旧校舎に移転し、昭和16年(1941)上長崎国民学校と改称。昭和22年(1947)新学制により長崎市立上長崎小学校となり今に至ります。




F-14:梅屋敷(うめやしき)
西山2丁目20付近(旧長崎村西山郷)
左近稲荷神社の北側、ちょうど谷間になっているところに以前まで梅屋敷と呼ばれる屋敷がありました。梅屋敷は明治以降にある商家が別荘として大きな屋敷を建て、その庭にたくさんの梅を植えたところからこう呼ばれているといわれています。戦後、この屋敷の川向こうに九州電力の所有の屋敷(西山本町22-38)があって、そこに長崎学の祖:古賀十二郎が晩年を過ごされていました。しかしその屋敷は平成12年(2000)に解体されました。




F-13:左近稲荷神社(さこん-いなり-じんじゃ)
西山2丁目15(旧長崎村西山郷字小川)
左近稲荷神社はいつの頃からお祀りされているかはっきりしませんが、江戸時代初期、まだ、西山地区がキリシタン全盛期だった頃、すでに西山郷の氏神様としてお祀りしてあったといわれています。なお、参道の鳥居には「寛延三年」(1750)の文字を見ることが出来ます。また、左近稲荷神社の社殿の後には鉄砲岩といわれる大きな岩があって、言い伝えでは安政年間(1855頃)皓臺寺の僧大機が、観世音菩薩の石像を造らせ、この岩を台座に使ったといわれています。




F-12:黄檗宗祇樹林跡(ぎじゅりん-あと)
西山本町9付近(旧長崎村西山郷字椿原)
江戸時代、崇福寺には23の末庵を持ち、特に広福庵、緑蘿庵、大悲庵、祇樹林、広コ院は独立した寺院の位を持っていました。その中の祇樹林は、貞享2年(1685)唐僧の惠雲(のち雪摩)が興福寺に創建したのが始まりで、一時崇福寺に移りますが、享保2年(1742)西山の地に開かれます。この祇樹林には唐船から盛んに寄進が行なわれていましたが、次第に維持が困難となり、明治10年(1875)崇福寺内の広福庵に合併。跡地は売却されます。現在、祇樹林歴代の墓所のみ現存。




F-11:鉅鹿家魏之琰兄弟の墓 
(おうがけ-ぎしえん-きょうだい-のはか)【椿原墓地】
魏之琰は中国福建省出身で、明朝の遺臣として最後まで清朝に抵抗していましたが、明朝滅亡後、東京(トンキン)に移住、安南貿易に従事します。江戸時代中期の安南-長崎間の貿易で巨額の富を得、崇福寺の大檀越(巨額支援する信者の意)として活躍します。寛文12年(1672)長崎に移住、後に鉅鹿の姓を取るのですが、これは魏之琰が中国河北省鉅鹿の出身ということで鉅鹿の姓になります。延宝7年(1679)には古川町橋(常盤橋)を架橋し、元禄2年(1689)魏之琰が亡くなったため、すでに安南で亡くなっていた兄の魏毓禎(ギ-イクテイ)と共に、魏之琰の子の魏高(鉅鹿清兵衛)が造ったのがここの墓所で馬蹄形の純中国風の墳墓となっています。現在、県指定史跡。
注)東京は現在の北ベトナム(安南)の地名。




F-10:北島秀朝墓所(きたじま-ひでとも-ぼしょ)【椿原墓地】
北島秀朝(天保13:1842-明治10年:1877)は現在の栃木県馬頭町に生まれ、幼少の頃から医学、儒学から剣術、砲術などの軍事教育を受け、さらに尊皇攘夷の思想を身につけます。嘉永6年(1853)御所警護のために京都に上るのですが、ここで長州や薩摩などの武士たちと交流をもつようになり、そこで攘夷の思想から倒幕へと考え方を変えるのです。慶応2年(1865)ついに脱藩を決意。京都では岩倉具視に出会い倒幕軍の指揮官として活躍します。さらに廃藩置県が行われた後、和歌山県令(知事)、佐賀県令を経て明治9年(1876)長崎県令に任命されるのです。長崎では師範学校の設立、長崎病院内の医学場を開設、さらに明治政府が掲げた富国強兵、殖産興業を進める上で重要な長崎港改良工事を行ない大陸への足掛かりを築きます。




F-9:椿原墓地(つばきはら-ぼち)
西山2丁目17(旧長崎村西山郷字椿原)
椿原墓地は主に旧西山郷の人々の墓地として使われていますが、特に有名な墓所に、松森神社伊奈家の墓所、諏訪神社青木家の墓所、西山神社堤家の墓所、さらに、明治時代、長崎港の改良工事に尽力した長崎県令(知事)の北島秀朝の墓所や、本河内水源地創設などに尽力した長崎区長の金井俊行の墓所などの墓所があります。




F-8:金井俊行邸跡(かない-としゆき-ていあと)
西山本町9(旧長崎村西山郷)【金井パーキング】
金井俊行(嘉永3:1850-明治30:1897)の父は、地元 西山郷出身の長崎代官手代(補佐)金井八郎で、金井俊行は幼少から漢籍を学びます。15才(慶応元年)で長崎代官所書役に任命され、明治政府に変わり長崎府軍用方属役や長崎および佐賀県の書記官を歴任します。明治19年(1886)には長崎区長となり政治家となります。区長になってからは教育改革(教育の平等)や道路、下水道などを整備を進め、さらに近代的水道を進める上で重要な本河内水源地の創設に力を注ぎます。明治23年(1890)最後は南高来郡郡長で終わりました。墓所は椿原墓地。




F-7:上の切地蔵堂(かみのきりじぞうどう)
上西山町12-1(旧長崎村西山郷)
創建は不明ですが、堂内には文久年間(1861-64)の墓碑があり、現在の建物は慶応2年(1866)に再建されたものです。当時は長崎一といわれる地蔵堂で、西山地区(旧西山村)の守護として親しまれています。長崎四国八十八か所霊場第六十三番霊場。




F-6:西山口/西山街道(にしやまぐち/-かいどう)
長崎市炉粕町〜川平町〜三根郷〜野川内郷〜伊木力…大村
西山口は長崎の出入口の一つで長崎市中心部の東北に位置し、西山街道となって炉粕町の諏訪神社参道より始まります。西山街道は途中から3つに分かれ、右手は矢上、直進は多良見町伊木力、左は浦上へと向い、特に伊木力から海路大村へと続き大村藩が専用に使っていた街道でした。また、殿様道と呼ばれ川平町-長与町三根郷間には籠立場もありました。




F-5:西山御薬園跡(にしやま-おやくえん-あと)
下西山町3〜10、上西山町6〜11 (旧長崎村西山郷)
御薬園はオランダ船や唐船から持ち込まれた薬草を栽培するところで、当時、江戸、駿府、京都、長崎の4ヶ所に置かれていました。長崎の薬園は江戸時代初期、長崎代官の末次家が十善寺郷(現 館内町付近)に開いたのが始まりといわれ、末次家が不祥事により滅亡したあとは、延宝8年(1680)幕府経営の本格的薬園と変わります(8,700坪)。元禄元年(1688)十善寺郷の地に唐人屋敷建設が始まると薬園は立山奉行所内に移転となり、享保5年(1720)一旦、十善寺郷(現十人町付近)に移転しますが、最終的には文化7年(1810)西山郷に置かれ明治初年まで続くのです。西山御薬園は1,228坪(または1169坪)で、現在、番人の家屋があったといわれる瀬戸口宅庭園には薬の神「神農様」が、松森神社には少彦名神がお祀りされています。




F-4:片淵(かたふち)
片淵はもともと大村氏の所領の長崎村に属し、長崎開港後の慶長10年(1605)天領とし長崎代官管轄の長崎村片淵郷とします。明治22年(1889)市制町村制の施行により上長崎村片淵郷、明治31年(1898)長崎市片淵郷、大正2年(1913)片淵郷は片渕町1〜3丁目に分けられ、のちに1〜4丁目に再編します(一部が先に長崎市に編入)。地名は古くは偏潭とも書き、そばを流れる西山川はその昔、多くの淵があって烏亀淵、準提淵、楠淵、瓢箪淵などがありました。また、その名の通り西山川の片側に淵があったところから地名となります。




F-3:新大工町地蔵堂(しんだいくまちじぞうどう)
新大工町2-5付近(旧 新大工町)
創建は不明ですが、地蔵祭りに使用する道具入れには明治30年(1897)ごろの署名があるところから明治中期にはすでにお祀りされていたことになります。新大工町地蔵堂はもともと伊勢町の中島川(銭屋川)沿い、現在、祠や地蔵像群があるところにあって、昭和50年代の町界町名変更の際に伊勢町(旧新大工町町域)から現在の新大工町町域に移されました。そのため旧所在地には新大工町の石工:田口氏の銘があります。祭事は地蔵祭りとして毎年5月23日ごろに行われています。




F-2:堂門橋/大手橋(どうもん-ばし/おおて-ばし)
馬町-新大工町間/西山川(堂門川)
中島川の支流、西山川の桃渓橋から大手橋までの間を堂門川といい、大手橋を別名で堂門橋と呼びます。これは以前まであった神宮寺毘沙門堂に由来するものです。堂門橋は長崎の中心地が桜馬場地区だった頃、つまり長崎氏が領主時代だった頃にはすでに橋は存在していました。しかしそれは木廊橋(屋根付きの木製橋)で、当時、長崎氏城下の門にあたり金蘭豪華な美しい木廊橋だったと伝えられています。のち一時竹橋となり、慶安3年(1650)中国福建省の貿易商:高一覧によって石造アーチ橋に架け替えられます。そのときは新しい橋ということで新橋と呼ばれます。その後、堂門橋は流失の記録はなく昭和9年(1934)現在の国道の開通の際、擬宝珠親柱1本を(欄干の親柱)を眼鏡橋に補充、その後、欄干ほか橋上部を鉄筋コンクリ−ト橋に改造、現在は下部アーチ部のみ現存しています。現存では眼鏡橋(寛永11年:1634)に次ぐ2番目に古い石橋です。




F-1:天台宗神宮寺毘沙門堂(-じんぐうじ-びしゃもんどう)
炉粕町59附近(旧 爐糟町)
神宮寺内に建つ毘沙門堂は「諏訪流鏑馬場内大鳥居と能仁寺の間」にあったと長崎市史には記されていますが、それは現在の炉粕町59番地附近(公衆トイレ付近)と考えられます。
本尊の毘沙門像はキリシタンによる破却の際、何者か密かに持ち出し、寛永年間(1624-44)の諏訪神社再興の際に青木賢清へ届けられ安置されます。しかし神仏合祀が禁止となったため、以降所在が分からなくなり、その後、山中において毘沙門像は発見され島田某氏が安置することになります。宝永年間(1704-1711)安禅寺多門院に移され、当時の記録では高さが5寸(約16.5センチメートル)で兜を付け矛を携え鬼を踏んでいたということですが、明治維新による廃寺となり毘沙門像は行方不明になります。その後、一説には聖無動寺に安置されたといわれていましたが原爆によって焼失してしまいました。




<歴史散歩移動ツール>
前の月へ移動最新の月へ移動次の月へ移動
前の年へ移動 次の年はありません

管理者専用



- Cute Diary Ver2.06 - by Ultinet.Inc SPECIAL THANKS : Daughter 16