広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成25年 〜2013年〜
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F-57:力場坂(りきばざか)
川平町(旧西浦上村川平郷)
川平町の中央を流れる浦上川とともに旧西山街道が走っています。バス停名にある力場坂は当時の食場(ジキバ)つまり食事の場所といわれ、それがなまって力場となったといわれたり、江戸時代のキリシタン弾圧の際、キリシタンだった松浦家の元家老のパウロ原田善左衛門夫婦がこの地で捕えられ、その知らせを聞いた家臣が馬を走らせ駆けつけるも処刑を行った狼煙(ノロシ)を見て嘆き、むちを地面に突き刺した場所、力いっぱい馬を走らせたところから力場坂の名がついたといわれています。




F-56:川平有料道路(かわひらゆうりょうどうろ)
川平有料道路は長崎外環状線(〜川平〜西山〜本河内〜早坂〜上戸町〜土井首)の一部をなす道路で国道206号線時津町井手園交差点から長崎バイパス川平インターチェンジまでの約4.7キロメートルの自動車専用道路です。平成2年(1990)に完成し全路線片側1車線で、途中、長与インターチェンジと女の都インターチェンジで一般道と接続します。総工費約176億円。




F-55:長崎バイパス
昭和30年代に入り経済の成長とともに自動車中心の生活となり長崎市に入る幹線道路の国道34号線は慢性的な渋滞が始まります。そして昭和44年(1969)開催予定の長崎国体を前に長崎県は政府に対し道路建設を陳情し昭和39年(1964)日本道路公団によって建設が始まります。この道路は日見峠〜矢上を経由する国道34号線の迂回路(バイパス)として長崎市昭和町から旧多良見町市布までの約11キロメートル、片側1車線の自動車専用道路で、総工費約24億円で昭和42年(1967)完成します。さらに昭和63年(1988)長崎旅博覧会を控え市布川平間を片側2車線に拡幅、延伸線として川平から西山までのルートも造られました。




F-54:川平町(かわひらまち)
江戸時代は西浦上村川平郷に属し、昭和24年(1949)長崎市川平町となりました。町名の由来は平とは斜面を意味し、川に面した斜面地という意味です。




F-53:長崎精道学園(ながさきせいどうがくえん)
三原2-23-33(旧 西浦上村本原郷/三原町)
長崎精道学園は昭和53年(1978)に設立されたカトリックのミッションスクールで、初めは長崎精道小学校が開かれ、昭和59年(1984)に中学校が誕生しました。昭和63年(1988)学園内に精道三原台小学校、精道三原台中学校を開学。ここを男子校、当初の学校を女子高とし、男女別の教育を進めています。このほか学園内には専修学校三川女子調理師学校もつくられ、特色のある学校として注目を集めています。




F-52:浦上新線(長崎本線)三川町点検坑口
長崎本線のJR浦上駅とJR現川駅の間にある長崎トンネルはちょうど三川町付近を通っていて、屏風岩下の薬師堂の前に点検坑の入口があります。厳重に施錠されている入口ですが、すぐに斜路になっていてトンネル内の信号場「肥前三河信号場」付近に向かっています。工事や緊急時の非常用通路として利用されます。




F-51:屏風岩(びょうぶいわ)
三川町(旧西浦上村三組川内郷)
三川町の入口にひときわそびえる大岩を屏風岩といいます。西山街道はこの岩のそばを通り交通の安全のため薬師如来堂があり、岩に直接、薬師如来が彫られていて元禄15年(1702)大井手町の原賀利兵衛によって奉納されたと記されています。このほか堂内には男性自身を表した陽石があり、精巧な形は見る人を驚かせます。




F-50:三川町(みかわまち)
江戸時代は西浦上村三組川内郷に属し、昭和24年(1949)長崎市三川町となりました。町名の由来は郷名の三組川内から「三」と「川」を取り三川町となりました。




F-49:西山台(にしやまだい)
昭和53年(1978)それまで三原町と西山町、三川町の山間部が住宅地造成のため開発され団地や住宅地が作られます。西山地区の山間部の台地から西山台と命名され、1丁目と2丁目からなります。西山台は西山街道が走り西山峠になります。




F-48:西山街道(にしやまかいどう)
西山街道は長崎市炉粕町の諏訪神社参道より始まり、西山〜三川町〜川平町〜三根郷〜野川内郷〜伊木力から海路大村へ向かう道です。西山街道は西山峠(西山台)から3つに分かれ、右手は矢上、直進は多良見町伊木力、左は浦上へと向い、特に伊木力から海路大村へと続き大村藩が専用に使っていた街道でした。また、殿様道と呼ばれ川平町-長与町三根郷間には籠立場もありました。




F-47:仁田サークル






F-46:三ツ山(みつやま)
三ツ山町(旧西浦上村木場郷)
三つ山は三つの山から形成されているように思われがちですが実際は頂きが4つあり、ちょうど三菱のマークのように三方向に拡がっています。そのためどこから見ても三つ並んだ山に見えます。三つ山の主峰(中央)を帆場岳(ホバダケ)といい標高は506メートル。江戸時代、長崎港に来航するオランダ船や唐船はこの山を帆の目印とし、そこから帆場岳となったといわれています。
江戸時代後期に書かれた長崎名勝図会によると、三ツ山のことを黎峰(クロヤマ)、玄山(クロヤマ)または落猿峰(サルオトシヤマ)と呼び、かなり険しい山と紹介してあります。




F-45:木場普賢山(こばふげんさん)
普賢山は標高362メートルの山で一般に木場普賢山と呼ばれる山で、山頂に普賢菩薩をお祀りされているところから普賢山と呼ばれています。木場普賢山の東にあたる矢上にも同じ普賢山という山があるところから、同地区には古くから普賢信仰があったものと考えられています。




F-44:三ツ山四つ峠(みつやま-よつとうげ)
三ツ山四つ峠とは長崎市街地の東北にそびえる帆場岳を中心とする三つの山(実際は四つの山)と、そこに東側からつながる四つ峠のことをいい、四つ峠とは日見峠、中尾峠、木場峠、現川峠(西山峠)をいいます。
日見峠は本河内(高野平)から芒塚日見方面、中尾峠は本河内(奥山)から中尾矢上方面、木場峠は西山木場から中尾矢上方面、現川峠は西山三川から現川方面へとそれぞれを結ぶ交通の要所で、日見峠を除き主に農家が農作物を運ぶために利用していた道でした。




F-43:日向平観音堂(ひなたびらかんのんどう)
木場町796(旧長崎村木場郷字日向平)
創建は貞享3年(1686)で旧木場村の守護として観世音菩薩がお祀りされています。また、観音像には木場村の「五平」の銘があります。長崎四国八十八か所霊場第六十五番霊場




F-42:倉谷地蔵堂(くらたにじぞうどう)
木場町(旧長崎村木場郷字倉谷)
創建は不明。地元木場地区の住民によってお祀りされています。長崎四国八十八か所霊場第二十八番霊場




F-41:木場町(こばまち)
長崎市内には式見地区(園田町)、浦上地区(三ツ山町・畦別当町)、古賀地区(船石町)、茂木地区(早坂町)、そして西山地区に木場の地名があって、他と区別する意味で西山木場と称しています。地名の由来は山間部の焼畑を行う地域をコバといい、木場の文字があてられています。
木場はもともと大村氏の所領の長崎村に属し、当初は木場村といい、長崎開港後の慶長10年(1605)天領とし長崎代官管轄の長崎村木場郷とします。明治22年(1889)市制町村制の施行により上長崎村木場郷、大正12年(1923)木場郷は木場町になり、今に至ります。




F-40:真言宗不動山室生寺(-ふどうざんむろおじ)
西山4-133(旧長崎村西山郷)
室生寺は昭和38年(1963)秋智浄法尼の発願によって創建され、本尊を不動明王とし“西の高野不動山室生寺”と称し霊山として親しまれています。また、安置してある弘法大師像は縁結びの御利益があるとして縁結び大師と呼ばれています。長崎四国八十八か所霊場第十五番霊場。




F-39:西山ダム(にしやまだむ)
西山4丁目、片淵5丁目、木場町(旧長崎村西山郷、片淵郷、木場郷)
幕末から明治にかけて長崎ではコレラが流行し、居留地の多くの外国人から近代上水道建設を求められるようになります。そして明治24年(1891)日本初の近代水道用ダム:本河内高部水源地が造られます。しかし当時の長崎市の人口は5.5万人でしたが、人口増加に伴い水道の需要が増し明治37年(1904)本河内低部水源地と西山高部水源地が相次いで造られ、西山低部水源地として浄水場、配水池が完成します。このときすでに長崎市の人口は11万人を越えていました。昭和55年(1980)本河内水源地と西山水源地の浄水場を統合し本河内に集約することになり、昭和57年(1982)の長崎水害以降、防災工事が進められ平成13年(2001)多目的ダム:西山ダムとして生まれ変わり、現在、見学施設や復元された高麗橋などの市民の憩いの場となっています。




F-38:高麗橋/第二橋(こうらい-ばし/だいにきょう)
西山3―片淵5(西山川)
高麗橋は伊勢町と八幡町を結ぶ中島川に架かる石橋で、江戸時代、第二橋と呼ばれ、俗称では伊勢宮橋といわれていました。明治になって西道仙により高麗橋と命名されます。高麗とは橋の架かる伊勢町の旧名:新高麗町からとったもので、承応元年(1652)に架けられました。しかし誰が架けたかが正確にはわからず、長崎図志などには「明人平江府等建」とあり地名なのか人名なのか、おそらく当時の興福寺の檀徒の中国江蘇省蘇洲出身者ではないかと考えられています。このほか伊勢宮の宮司が寄付を集めて架橋したとか、江戸時代の旧町の28町が寄進して架橋したなど説も様々。しかし昭和57年(1982)の水害で流失は免れますが、その後の河川改修で無残にも撤去され鉄筋コンクリート橋になります。現在、橋全体を西山ダム下の公園に復元されていて、光雲寺山門に旧高麗橋の親柱を見ることができます。




F-37:薬師寺教会(やくしじきょうかい)
西山3-1-26(旧長崎村西山郷)
明治時代初期(1868〜)島原にある大師堂のすすめで肥前観音三十三か所霊場の一つとして創建されたもので、堂内の青銅大師像は盗難に遭うも偶然この土地の所有者が海中により偶然発見されたものです。長崎四国八十八か所霊場第四十番霊場。




F-36:西山町地蔵堂(にしやままちじぞうどう)
西山2-26-13(旧長崎村西山郷字小川)
江戸時代後期に書かれた長崎図志には、古来長崎(6世紀)には神宮寺という寺院が今の諏訪神社付近にあって、その末庵の観音堂が「西山村の内烏帽子山の下」つまり、これが西山地蔵堂の起源になります。正平5年(1350)に神宮寺が改修された際、同時に改修され観音寺と称され、長崎を治めていた長崎氏の妻はこの寺で祈願を行っていたこともあり、ここを加持聞場(カジキキバ)と呼び、地元民は字名の小川から「小川の観音」と呼んでいました。観音寺はその後、キリシタンの破却に遭い姿を消しますが、元禄年間(1688-1704)長崎の役人が霊夢を見、付近を掘って見ると数体の石塔を発見したため祠を設け石像を安置します。享保19年(1734)に改修がなされ、のちに聖福寺の末寺「観音院」となります。天明2年(1782)晧台寺第15代住持:天苗は観音院を譲り受け、高野平にあった蒙山堂(4代住持玄光隠居所)を移転させ般若林と改称します。明治維新で廃された後、地元住民の願いによって現在地に移され今に至ります。長崎四国八十八か所霊場第六十九番霊場




F-35:西山低部水源地跡(にしやまていぶ-すいげんちあと)
西山2-7〜9(長崎村西山郷)
幕末から明治にかけて長崎ではコレラが流行し、居留地の多くの外国人から近代上水道建設を求められるようになります。そして明治24年(1891)日本初の近代水道用ダム:本河内高部水源地が造られます。しかし当時の長崎市の人口は5.5万人でしたが、人口増加に伴い水道の需要が増し明治37年(1904)本河内低部水源地と西山高部水源地が相次いで造られ、西山低部水源地として浄水場、配水池が完成します。昭和55年(1980)本河内水源地と西山水源地の浄水場を統合し本河内に集約することになり、低部水源地(浄水場)廃され交通渋滞緩和のための県道要地となります。それまで「西山低部水源地」というバス停名は「水源池跡」に変更されます。※地ではなく池が使用されます。




F-34:長崎仏舎利塔(ながさき-ぶっしゃりとう)
片淵5(長崎村片淵郷)
仏舎利塔とはお釈迦さまの骨をお祀りした宝塔のことをいい、世界各地に世界平和を祈念して日本山妙法寺の山主:藤井日達によって建立されています。特に長崎は原爆の被爆地として悲惨な歴史を持つところから被爆25周年を記念して昭和45年(1970)に建立されています。宝塔の設計は社寺建築で有名な大岡實氏で、インドラージギル霊鷲山(リョウジュセン)にある多宝塔を模したデザインになっています。塔の正面は釈尊転法輪像、東面は釈尊誕生仏、裏面は釈尊降魔成道仏、西面は釈尊御涅槃仏になっています。




F-33:丸尾天満宮(まるおてんまんぐう)
片淵4-580付近(長崎村片淵郷)
創建は不明。祭神は菅原道真公。御神体は石造で首が折られている跡があるところから廃仏毀釈の影響があったと考えられ江戸時代のものと推測できます。以前は現在地より下方(丸尾付近)にあって、昭和46年(1971)現在地に移転。社殿は平成5年(1993)新築されています。




F-32:片淵4丁目観音堂(かたふち4ちょうめかんのんどう)
片淵4-12-12(長崎村片淵郷)
創建は不明。昭和25年(1950)ごろより奉仕されています。 長崎四国八十八か所霊場第七十六番霊場




F-31:お城谷観音堂(おしろだにかんのんどう)
片淵3-19-1(長崎村片淵郷)
創建は不明。本尊の大悲観世音菩薩台座には「元文元年(1736)片淵村女人講18人」とあり、さらには盂蘭盆会用の銅鑼(ドラ=双盤)には天保5年(1834)と刻されており、観音堂はすでに江戸時代中期より奉仕されていたことが分かっています。長崎四国八十八か所霊場第四十八番霊場




F-30:真宗仏光寺派転入山深廣寺
片淵4-6-1(長崎村片淵郷)
安永天明年間(1772-1789)正覚寺の僧:観海は布教活動に熱心で帰依者も多く、寛政3年(1791)正覚寺の住持:寂興は本山の許しを得、正覚寺内に深廣寺を開き観海を開基とします。一方、片淵の地は寛永年間(1624-1644)正覚寺開基の道智がキリシタン徒への改宗教化をした地区だったこともあり正覚寺の壇徒が多く、寛保2年(1742)に正覚寺の住持:浄超が転入庵という庵を設けると片淵の壇徒はすべて属するようになります。壇徒は明治30年(1897)ごろから一寺建立を希望しますが許しが出ず、明治43年(1910)正覚寺内の深廣寺を移転させ転入庵を改称します。




F-29:水道トンネル
明治24年(1891)日本初の近代水道用ダム:本河内高部水源地が完成。しかし長崎市の人口増加に伴い明治37年(1904)新たに本河内低部水源地と西山高部水源地が造られます。この時、本河内低部水源地には浄水場敷地がなかったため、西山高部水源地と兼用の浄水場(西山低部水源地)を使用することになり、本河内から西山までの水道トンネルが造られます。このトンネルの入口が水神神社境内にあって、コースは水神神社-鳴滝橋-鳴滝西部公民館下-片淵3公民館下-水道橋-長大経済学部瓊林館横までの約1200メートルです。現在は送水管は引かれています。




F-28:片渕町山下組地蔵堂(かたふちまちやましたぐみじぞうどう)
片淵3-6-1(長崎村片淵郷)
片渕町山下組観音堂は地区の大塚安五郎ほか4名の有志によって建立が進められ、地主:島田徳市から土地の無料提供を受け明治31年(1898)完成しました。その後、お堂は信仰の場だけではなく地区青年団の集会場としても利用され、昭和20年(1945)原爆の被害をも乗り越えました。本尊の地蔵菩薩ほか観音菩薩などが安置されています。長崎西国霊場第二十四番霊場。




F-27:心田庵(しんでんあん)
片淵2-18-18(長崎村片淵郷)
心田庵は唐小通事の何兆晋(ガチョウシン)が天和元年(1681)頃に建てた別荘で、江戸時代中期の庭園が残っています。約530坪(1750平方メートル)の庭園には長崎市街地では唯一の木造茅葺きの建物(茶室、玄関)や土蔵などがあります。心田庵は以前まで増田水産の所有でしたが平成23年(2011)に長崎市に譲渡され市有形文化財に指定されました。




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