広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成24年 〜2012年〜
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E-278:白髭神社(しらひげじんじゃ)
柿泊町(旧 福田村柿泊郷)
白髭神社は寛永21年(1644)にそれまであった手熊館屋敷跡に長久寺の法印:清尊によって白髭大明神を勧請して創建された神社で当初は両部神道として白髭宮と呼ばれ、明治維新を受け白髭神社となります。白髭神社の祭神は猿田彦命で、手熊、柿泊地区の鎮守神として住民によって祭事が行なわれています。白髭神社の本社は滋賀県高島市に鎮座する白髭神社です。




E-277:手熊館屋敷跡(てぐまやかたやしき-あと)
柿泊町(旧 福田村柿泊郷)
16世紀、福田兵庫助兼家の代まで大村氏と敵対関係でしたが、福田大和守純定の代のとき、大村純伊(スミコレ)の危機を救った縁から同盟関係を結び、永禄8年(1565)その子の兼次のとき福田にポルトガル船来航の運びとなります。
手熊館屋敷跡は宮尾ノ古城の西側約100メートル、標高約26メートルのところにあって、天正14年(1586)福田大和守純定が築城したという記録があり、上下2段で上段が10間四方、下段が30間四方の規模を誇っていました。現在は5体の石造座像が安置され、地元ではお地蔵さまとして信仰される県下でも珍しい胎蔵界大日如来と四方仏で、明らかに真言密教時代の遺物で、郷土史の上からも大切にしたいもののひとつといわれています。なお、屋敷跡は海岸道路拡張のため削られ現在地に移設されています。




E-276:宮尾ノ古城(みやのおこじょう)
柿泊町(旧 福田村柿泊郷)
16世紀、福田兵庫助兼家の代まで大村氏と敵対関係でしたが、福田大和守純定の代のとき、大村純伊(スミコレ)の危機を救った縁から同盟関係を結び、永禄8年(1565)その子の兼次のとき福田にポルトガル船来航の運びとなります。
宮尾ノ古城は現在の手熊町白髭神社後方の標高約48メートルの小高い山一帯で城というより砦といった方が正しく、天正14年(1586)福田大和守純定が築城したという記録があり、北方より東南方向へ土手があり、高さ1間、幅1間、北側は手熊川、東西は34間、南北22間の規模といわれています。同時期には舞岳にも城を築いています。




E-275:弁天様(べんてんさま)
柿泊町(旧 福田村柿泊郷)
柿泊の集落の西、現在の白浜弁天海水浴場付近をその昔、弁天島と称していました。弁天島とは弁天様がお祀りされてたことに由来し、柿泊地区の信仰の場所になっていました。言い伝えによると、その弁天様は柿泊の者が岩屋山より弁天様を持ち出しこの地にお祀りを始めたとあり、あわせて白髭神社にあったお地蔵さまもここに安置されたといわれています。




E-274:龍ヶ崎の鮪網代(りゅうがさきのまぐろあじろ)
柿泊町(旧 福田村柿泊郷)
龍ヶ崎は小江と柿泊の境をなす岬で、この網代は白浜弁天付近のことといわれています。天正3年(1575)第15代福田大和守純定は龍ヶ崎の能瀬は鮪の網代(定置網の漁場)に適しているということから、深堀から石場之丞という者を呼び寄せ、その頭として当てます。その後、第19代福田兼親の代、慶長3年(1598)に式見家に入った兼親の兄弟である兼重は、自らの領である式見薪山(手熊山)とこの網代を交換します。寛文2年(1662)式見村や福田村などは不作で運上金の納入ができなくなったことがあり、一時、この網代が奉行預かりになりますが寛文11年(1671)には返納されています。このようにこの網代は財産として扱われるほどの良好な漁場だったことが伺えます。




長崎市総合運動公園(かきどまり運動公園)
柿泊町2112(旧 福田村柿泊郷)
長崎市総合運動公園は平成8年(1996)の庭球場を皮切りに、順次、施設の拡充が行われ、平成10年(1998)に野球場と陸上競技場の完成で長崎市の新しい運動施設として誕生しました。愛称として「かきどまり運動公園」と呼ばれ、様々な利用がなされています。そして、平成15年(2003)には全国高校総合体育大会(長崎ゆめ総体)が開催されました。なお、施設は第1種公認陸上競技場、第3種公認陸上競技場、投てき練習場、野球場、庭球場などのほか、運動公園と多目的広場、ちびっこ広場、クロスカントリーコースなどが設置されています。




E-273:手熊町(てぐままち)
手熊は手隈とも書き平安時代よりある地名で、手熊野、手隈野村、手隈原とも称されていました。始めは彼杵郡手隈村といい、江戸時代は大村藩に属し、明治4年(1871)大村県、そして長崎県、明治11年(1878)長崎県西彼杵郡福田村手熊郷となり、昭和30年(1955)に長崎市に編入、昭和33年(1958)手熊町となります。地名の由来は不明ですが、治承4年(1180)桓武平氏を祖とする隈氏が筑後国より手熊村の定使職に補任(ブニン)されており、その隈が転化したとも考えられます。




E-272:中浦(なかうら)
柿泊町内にある中浦地区は、江戸時代は福田村の中浦郷といい、明治4年(1871)大村県、そして長崎県に属し、明治11年(1878)長崎県西彼杵郡福田村中浦郷、明治22年(1889)市制町村制が引かれ正式に福田村中浦郷となります。昭和30年(1955)長崎市に編入した際、柿泊郷に編入され、同33年(1958)長崎市柿泊町になります。地名の由来は不明ですが、入江(浦)と上浦の間の地域ということで中浦と呼ばれたものと考えられます。




E-271:上浦町(かみうらまち)
上浦町は江戸時代、大村藩福田村上浦郷と称し、明治4年(1871)大村県、そして長崎県に属し、明治11年(1878)長崎県西彼杵郡福田村上浦郷、明治22年(1889)市制町村制が引かれ正式に福田村上浦郷となります。昭和30年(1955)長崎市に編入し、同33年(1958)長崎市上浦町になります。地名の由来は不明ですが、入江(浦)の上手にあたる地域から上浦と呼ばれたものと考えられます。




E-270:柿泊町(かきどまりまち)
柿泊町は江戸時代、大村藩福田村柿泊郷と称し、明治4年(1871)大村県、そして長崎県に属し、明治11年(1878)長崎県西彼杵郡福田村柿泊郷、明治22年(1889)市制町村制が引かれ正式に福田村柿泊郷となります。昭和30年(1955)長崎市に編入し、同33年(1958)長崎市柿泊町になります。地名の由来は不明ですが、カキは崖の転訛したものと考えれば崖のそばの船溜まり(泊)を意味しているものと考えられます。




E-269:岩屋神社(いわやじんじゃ)
小江原1(旧 福田村小江原郷)
長崎県警察学校脇より岩屋山に進むと岩屋神社があります。創建は昭和56年(1981)ごろで、岩屋大権現のほか観世音菩薩と不動明王がお祀りされています。なお、不動明王は北村西望が白寿のとき(昭和57年)の作品です。境内には滝があり修験道場として使用されています。




E-268:愛宕神社(あたごじんじゃ)
小江原5-32(旧 福田村小江原郷)
愛宕神社の創建は不明ですが、昔から小江原村の鎮守神として住民によって祭事が行なわれています。祭神は火の神の火之迦具土神(ヒノカグツチノカミ)といい、参道の鳥居には寛延3年(1750)、上社祠には明治14年(1881)建立と刻されています。




E-267:岩屋山(いわやさん)
岩屋山は長崎の中心部の北西に位置し、南は小江原、北は滑石地区に接す標高475メートルの山で市中心部のほか五島灘や長崎半島が眺望できる山です。江戸時代から長崎の市民に大変親しまれた山で大村領内でしたが春ともなると行楽客に賑わっていたといいます。また、正月に行われていた七高山巡りも本来は加えられていて長崎を代表する山の一つともいえます。山頂へは小江原から約1時間、岩屋神社から約1時間半で向かうことができ、頂上には岩屋神社奥の院として祠が置かれています。




E-266:長崎県警察学校(ながさきけんけいさつがっこう)
小江原5-1-1(旧 福田村小江原郷)
第二次大戦以前の警察学校(長崎県巡査教習所/養成所)は現在の県庁前交差点東側にあって強制建物疎開によって姿を消します。昭和24年(1949)新制度になり旧城山町に長崎県警察学校が完成し警察官の養成所となり、昭和27年(1952)には特別機動隊の設置に伴い同所に入ります。昭和41年(1966)校舎の老朽化や狭小化で警察学校は小江原町に新築移転し、昭和44年(1969)機動隊が田中町に新築移転します。




E-265:長崎北高等学校(ながさききたこうとうがっこう)
小江原1-1-1(旧 福田村小江原郷)
昭和23年(1948)長崎県立長崎東高等学校と長崎西高等学校は公立の学校として開校しましたが、高校生の急増対策として昭和35年(1960)より新学校の建設が始まります。そして昭和39年(1964)全日制公立高校としては県内で41番目となる長崎北高等学校が小江原町に誕生します。第一期工事として総事業費は2億9000万円。




E-264:小江原(こえばる)
小江原は江戸時代、大村藩福田村小江原郷と称し、明治4年(1871)大村県、そして長崎県に属し、明治11年(1878)長崎県西彼杵郡福田村小江原郷、明治22年(1889)市制町村制が引かれ正式に福田村小江原郷となります。昭和30年(1955)長崎市に編入し、同33年(1958)長崎市小江原町になります。昭和30年代後半から開発が進み、昭和39年(1964)長崎県立北高等学校の開校を皮切りに、同41年の長崎県警察学校や市営小江原団地の完成など発展めまぐるしく、近年では小江原ニュータウンも開かれました。平成15年(2003)ごろ住居表示となり1丁目から5丁目に分けられます。なお、小江原の由来は西側にある小江の入り江の上手に拡がる地域ということで小江原とつけられています。




E-263:池の元(いけのもと)
小江町(旧 福田村小江郷)
小江から小江原に向かう途中に、その昔。池の元というため池があって、その脇には式見の寺からも見えていたといわれる大きな楠がありました。残念ながら楠は埋められてしまい最近まで枝が見えていたといいます。この池の元には次のような言い伝えが残っています。
その昔、その池に美女が現れ、同じように沖合の島の野島に美男子が現れます。二人はいつしか愛し合うようになり、野島は手や足を出しながら海岸に近づいてくるのです。それを見た瀬戸の初院という人物が「小江、小江人は言えども、今は、はや痩せて骨となりにけるかも」と歌を詠んだところ、美男美女は姿を消したといいます。




E-262:無縁塔(むえんとう)
小江町(旧 福田村小江郷)
小江地区の墓所(国道202号沿い)にある無縁塔群は、その昔、この地を襲った大津波によって流されてきた犠牲者を一か所に集め埋葬し弔ったもので、地元ではお盆の15日の夜に若者や子供たちが集まり供養をする風習が残っています。その供養は独特のもので、まず、若者が「南無阿弥陀仏」と7回唱えると、続けて子どもたちが「あ〜」と7回唱え、その後、墓所内のすべてのお墓を一つ一つまわり、お供えしていたお菓子などをお接待として持ち帰っていたといいます。残念ながら昭和50年代ごろよりお菓子を渡す習慣はなくなり現在ではただお参りするのみになっていますが、以前までは相撲なども行われていました。




E-261:異人墓(とうじんばか)
小江町(旧 福田村小江郷)
小江橋の後方の高台に唐人墓と呼ばれる墓所があって、地元では唐人墓のほかに異人墓や黒人墓とも呼んでいました。その昔、小江に住む役人が異人を嫁にもらい、のちにその娘がなくなったため墓所を設けます。いつしか地元では異人墓と呼ばれるようになりました。所在不明。




E-260:鹿島神社(かしまじんじゃ)
小江町(旧 福田村小江郷)
小江町に鎮座する鹿島神社は小江町(旧小江郷)の鎮守神で創建は元禄年間(1688-1704)で、当初は角股大明神と称し、享保8年(1723)武甕槌大神(タケミカヅチノオオカミ)を勧請し祭神とします。神殿は石祠で元文元年(1736)と刻され、社殿は文久元年(1861)のものでしたが昭和22年(1947)改築しています。社名の鹿島神社は明治8年(1875)からのもので、本社は茨城県鹿嶋市の鹿島神宮です。この武甕槌大神は経津主大神(フツヌシノオオカミ)とともに出雲で大国主神と交渉し国譲りを成功した神で、剣を神格化した神といわれ戦いの神「武神」といわれています。また、このほかには地震の神ともいわれています。




E-259:小江町(こえまち)
小江は南北朝時代、彼杵郡小江村と称し、江戸時代になり大村藩福田村小江郷と称し、明治4年(1871)大村県、そして長崎県に属し、明治11年(1878)長崎県西彼杵郡福田村小江郷、昭和30年(1955)に長崎市に編入、昭和33年(1958)小江町となります。小江町の由来は、小さな入江という意味で小江と呼ばれています。




E-258:岳カトリック教会(たけかとりっくきょうかい)
福田本町477(旧 福田村岳郷)
岳地区は敬けんなカトリック信者が住む地域で、明治38年(1905)黒崎村(旧外海町)牧野より水口勘右衛門を中心とした一族がこの地区に移り住んだことに始まります。教会建立は地元民の長年の願いであって昭和45年(1970)に落成し、平成4年(1992)ルルドが開設されました。同年は湧水が唯一の水源でしたがボーイングによって良質な地下水が得られた年でもありました。




E-257:合戦場(かっせんば)
福田本町岳地区(旧 福田村岳郷)
現在の長崎カントリークラブ付近を合戦場と呼びます。平安時代末期、全国で源氏と平家の戦いが起こり、この福田の地でも合戦が行われたといいます。そのため以前まで「いけ石」と呼ばれる大岩があって、それが戦没者を埋葬した跡だといわれていました。また、小浦寄りのところを「小浦村字勢谷」といい、ここも戦いが行われた場所と伝えられています。




E-256:猫岩(ねこいわ)
福田本町(旧 福田村本郷)
その昔、福田本(郷)町と小浦の境にある峠に大きな岩がありました。当時、福田と小浦とでは本郷猫と小浦猫といって二つの猫の派閥があり、その岩のところで縄張り争いが起こります。しかし決着がつかず何度も勝負が行われましたが、最後は両方の猫の頭(カシラ)同士で決着をつけることになります。両者の戦いは数日間続き、にらみ合っているうちについに二匹の猫は岩になってしまいます。その後、地震が起こりその揺れで小浦猫の首が落ちたため、この勝負は本郷猫の勝ちとなったそうです。以降、この猫岩と呼びます。




E-255:福田穴(ふくだあな)
福田本町(旧 福田村本郷)
福田穴とは福田崎にあるといわれている洞窟です。記録では入口の高さは5間(約9メートル)、横10間(約18メートル)、深さが3間(約5.4メートル)あって、始めに約25間(約45メートル)進むと左に折れ、すぐに右に折れ4間(約7.2メートル)のところまで続いているといいます。この付近は火山岩でたくさんの穴が開いていて、言い伝えでは穴の先は浦上川まで続いているといわれています。ちなみにここから北東に約5.7キロメートル進んだところが浦上川です。




E-254:つむし
福田本町(旧 福田村本郷)
つむしとは、小江と福田の峠付近のことで、現在の墓地霊園付近をいいます。ここは旧番所へ抜ける道で、その昔、罪人はそのつむしで処刑されていました。このつむしとは、罪人(ざいにん=つみびと)が訛ってつむしになったといわれています。




E-253:福田遠見番所跡(ふくだとおみばんしょ-あと)
福田本町(旧 福田村本郷)
江戸時代、遠見番は外国船来航をいち早く発見のために設けられた番所で、福田崎の上手の頂に大村藩は寛永18年(1641)自領である福田の福田崎に番所を設け警戒していました。遠見番所は間口10間の四面板屋根の屋敷を構えていて、外国船を発見した際は、まず、本町にある大番所に報告、あわせて岳地区(現 長崎カントリークラブ付近)にあったのろし台に伝えられ、大村藩などに報告していました。当時、番所役人は遠眼鏡を用い42里8町27間(約170キロメートル)まで見通せたといいます。寛永18年(1641)現在、番所役人は13人。元禄2年(1689)には65人。寛政元年(1789)には13人勤務していました。




E-252:断罪所跡(たごしまだんざいしょ-あと)
福田本町1604付近(旧 福田村本郷)
江戸時代、田子島台場の一の台場付近に断罪所がありました。断罪所とは罪人の処刑場のことで、福田村の村はずれに位置する田子島付近にその刑場が設けられていました。




田子島台場の構造
●一の台場
直立3間半、?溜竪17間、横3間半、土手長16間半、横2間、石火矢3挺(8ポンド1挺、1貫目1挺、12ポンド1挺2貫目500目700目)
●二の台場
直立3間、?溜竪13間、横3間、土手長14間5寸、横5間半、石火矢3挺(12ポン2挺、1貫目1挺)
●三の台場
直立1間半、?溜竪14間、横4間半1尺、土手長17間、横2間半、石火矢3挺(12ポン1挺、2貫目1挺、500貫目1挺)
●四の台場
直立1間、?溜竪14間、横4間半1尺、土手長17間、横2間半、石火矢3挺(12ポン1挺、1貫目1挺、700貫目1挺)




E-251:田子島台場の由来碑
福田本町(旧 福田村本郷)
江戸時代後期、長崎港外にしばしばオランダ以外の船舶が来航するようになり、安政2年(1855)大村藩の大村丹後守純煕(スミヒロ)は防衛と警備のために福田の字田子島に砲台を設け大砲を備えます。砲台は1〜4の台場まで設けられ大砲はあわせて12門で、安政5年(1859)には改築され淵山半平、千葉土佐之助、大嶋鋭太郎ら御普請御用掛にあたらせます。このとき飲料水として城島別宅井戸や異人井戸などが使用されます。なお、台場には焔硝蔵、武具蔵、番手小屋、焔硝小出蔵などの付属施設もありました。
この由来碑は昭和44年(1969)福田地区史跡保存会によって建立されました。




E-250:田子島台場跡(たごしまだいば-あと)
福田本町1604〜1575付近(旧 福田村本郷)
江戸時代後期、長崎港外にしばしばオランダ以外の船舶が来航するようになり、安政2年(1855)大村藩の大村丹後守純煕(スミヒロ)は防衛と警備のために福田の字田子島に砲台を設け大砲を備えます。砲台は1〜4の台場まで設けられ大砲はあわせて12門で、安政5年(1859)には改築され淵山半平、千葉土佐之助、大嶋鋭太郎ら御普請御用掛にあたらせます。このとき飲料水として城島別宅井戸や異人井戸などが使用されます。なお、台場には焔硝蔵、武具蔵、番手小屋、焔硝小出蔵などの付属施設もありました。




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