広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成24年 〜2012年〜
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旦那墓(だんなばか)
向町(式見村向郷)【田福墓地】
浄満寺の墓域である田福墓地の頂上には旦那墓と呼ばれる墓所があって、式見の地頭であった式見六之允兼重、その長男である熊野市左衛門、そして孫である熊野八右衛門の3代の墓所です。また、墓所の後方には家臣である山崎忠衛門の子孫の野田家の墓所や、同族の墓所があって、おそらく地頭を守護しているような配置をしています。




田福の辻/墓地
田福の辻/墓地は式見地区の主な墓地で山全体が墓地となり、この地区特有の霊屋も多く残っています。山腹は浄満寺の檀徒である真宗系墓碑がほとんどですが、山頂には旦那墓や無縁塔に代表される日蓮宗系の墓碑が見られ、承応年間(1652-55)から元禄年間(1688-1704)のものなど、大村藩家臣のものと思われています。




浄満寺門構(じょうまんじもんこう)
浄満寺北側の高台(俗に隠居山という)は創建当初より浄満寺の墓域として使われていましたが、嘉永元年(1848)に台場建設用地として大村藩に寄進することになり、墓地は浄満寺の東側の多福の辻に移設されます。これにより大村藩は門構えの許しを与えられ山門が建立されるのです。もともと大村藩ではお堂に関して5間(約9メートル)4面以上の規模は許されておらず、山門の設置も認めていませんでした。浄満寺の山門は特別なもので、本堂も5間4面を8間4面に改装しています。




浄土真宗観海山浄満寺(-かんかいざん-じょうまんじ)
式見町(式見村字本村郷)
明暦3年(1657)大村藩を震撼させる事件「郡崩れ」は多くのキリシタンの処罰が行われましたが、当時の当主大村純長は残党摘発に力を注ぎます。そのため仏教の布教のため佐賀鹿島藩に依頼し肥前国塩田村の僧:教念を式見村に向かわせ、万治2年(1659)海岸に草庵を設けます。寛文3年(1663)土地が狭あいなため四本松(寺屋敷)の高台を開いて現在地に堂宇が完成。第2世:恵順の代になって西本願寺より寺号が許され浄満寺と称されることになります。寛保2年(1742)には西から東本願寺に転じ東本願寺門跡より四幅御影の許しを得ます。現在の本堂は昭和58年(1983)に再建したものです。




神楽島(かぐらじま)
神楽島は式見の北西約3キロのところに浮かぶ島で周囲は約2.4キロメートル、岩場に囲まれた島です。昔から島は三重と式見の相持ちの島で北側が三重、南側が式見の所有地となっています。島の真ん中にそびえる約50メートルほどの山を飯盛山といい、その昔、乙宮神社があった遺構が残っています。言い伝えでは、乙宮神社の神事の際、鈴を鳴らして神楽を舞ったところから神楽島と付いたという説。3〜4世紀、神功皇后の朝鮮出兵(三韓征伐)の凱旋による寄港で、この島に立ち寄られ神楽を奏でたところから神楽島の名がついたという説と大変神聖な島だったことが伺えます。




稲松志可太翁頌徳碑(いなまつしかた-おう-しょうとくひ)【乙宮神社後方】
稲松志可太(明治14:1881-昭和48:1973)は式見地区で活躍した医師で、婦人科の医療技術に長け、学校医としても子供たちの支えとなり、昭和4年(1929)にはトラボーム(第2次大戦中に蔓延した伝染性の結膜炎)の診療所を開設して撲滅に尽力します。昭和2年(1927)より県会議員となり式見漁港の発展に寄与、さらには式見村長や県議会議長を歴任しました。この頌徳碑はこれらの功績をたたえるため昭和30年(1955)に建立されました。碑文文字は長崎県知事の西岡竹次郎によるものです。

式見漁港修築記念碑
碑は昭和9年(1934)に修築を行った記念碑です。




式見乙宮神社の奉納額【乙宮神社】
奉納額は第一面、第二面と2枚からなり連続仕立てになっています。万延元年(1860)式見浦に手代として着任した藤原(渡辺)綱豊ですが、翌年、式見は干害に見舞われ、豊綱は早速、甘藷栽培や加工保存食料の指導にあたり、その功績に対し大村藩主:大村純煕(スミヒロ)より稈(ワラ)150俵を賜ります。豊綱はその感謝のため大村藩内の俳人75名に対し100句の投句を得、奉納額とするのです。さらに大村藩絵師である山崎雲仙に式見浦で行われていた漁撈法縫切網の様子を描かせました。市指定文化財

式見乙宮神社の絵馬【乙宮神社】
絵馬の絵柄は式見浦を乙宮神社から眺めた構図となっていて、当時、乙宮神社の前を頻繁に航行していた千石船の様子や、帆船7隻が描かれており、渡辺長吉によって奉納されました。市指定文化財。




乙宮神社(おとみやじんじゃ)
向町(式見村向郷)
乙宮神社の創建は不明で、昔は式見の沖合にある神楽島の飯盛岳のお祀りされていましたが、その後、式見の北にある矢筈岳に移され矢筈権現と称されていました。矢筈岳にお祀りされていたとき、9月9日の祭礼の際は式見まで神輿が巡幸され、千切嶋と呼ばれる場所を御旅所にしていました。天正2年(1574)矢筈岳から千切嶋に遷宮され、以降ここを乙宮大権現と称します。明治維新を受け乙宮神社に改称し今に至ります。祭神は素戔嗚尊で式見地区の鎮守神です。




慈母観音像(女神像)【淡嶋神社境内】
淡嶋神社の御神体は石坐像の金彩色本地観音と伝えられていて、この像は昭和40年(1965)淡嶋神社新築移転遷宮祭にあわせて建立されたものです。像は地元有志の浅川長一によって建立され、観世音菩薩の慈悲が子供に与えられている様子を表しています。




淡嶋神社・公園・上田記念館建設記念碑【淡嶋神社境内】
昭和37年(1962)当時の式見支所長であった阿部重雄が着任後、淡嶋神社境内地を使って公園建設の構想が起こり、翌38年(1963)淡嶋神社乙宮神社改修造営奉賛会が発足。奉賛会ほか多くの有志の寄付が約1400万円(今のお金で2700万円)集まり建設が始まります。このとき境内地に修練道場が設けられ、ここは地元有志の上田満弘による浄財で建設されたもので昭和41年(1966)の完成式典は地区挙げての盛大催しだったといわれています。この記念碑はこの淡嶋神社境内地の広場が式見の伝統を培い、伝承されることを祈念して建立されたものです。




近海丸殉難者之碑【淡嶋神社境内】
昭和19年(1944)12月24日、長崎交通船株式会社所有の連絡船「近海丸(26トン)」が小江の沖合で高波を受けて転覆、そのまま沈没します。近海丸は三重や式見から長崎の大波止に向かう途中で、乗客には疎開学童や老人ら338人が乗っていて、乗客のほとんどが食糧不足のため買い出しに回っていた主婦や年末年始の準備でせわしくしていた人たちばかりでした。救助者はわずか65人、死者行方不明者は273人に上りました。この事故は悪天候下での出航や定員の4倍を超す乗員だったことが後にわかりました。この碑は事故の50周年を機に地元有志によって建立されました。銅像製作者は山崎和國氏です。




淡嶋神社(あわしまじんじゃ)
向町(式見村向郷)
淡嶋神社は正徳2年(1712)式見浦の郷士:森嘉兵衛によって創建されたもので、祭神の少彦名命(スクナヒオナノミコト)は大国主命とともに日本建国に努力された神さまということで、農業のほか医薬、子授けの神といわれ、特に女性の守護神として古くは丸山遊女の参詣も多かったといいます。言い伝えによれば、郷士森嘉兵衛の夢枕に三夜にわたり現われ、霊夢のお告げにより海中よりご神体を引き揚げたといわれています。その御神体は石坐像の金彩色本地観音です。もともとは現在地の北側下段にありましたが、昭和38年(1963)山頂にあたる現地に約600坪を造成して修練道場と共に再建されたものです。




E-296:式見(樒)氏について
14世紀、南北朝時代、応安5年(1372)の一揆連判状に「志幾見若狭守兼綱」とあり、このころにはすでにシキミ氏がいたことがわかり、「式見由緒」には樒越前守三清入道は毛利輝元の家臣であることが記されています。天正3年(1575)には樒越前守は入道(※入道=出家の意)して三清と称し、三根城を長子伝助らに譲り自らは隠居して相川屋敷に入るとあります。しかし、三清死後の天正5年(1577)式見家は龍造寺家と内通していたようで、そのため大村純忠が刺客を送り斬殺し、式見村は没収され公領となります。鎌倉中期の元寇の際、福田村の福田兼重も参加し活躍を見、新知行地として式見村を賜ります。慶長元年(1596)樒を式見に改称し自らも式見姓を名乗り、以降、大村藩の家臣として町を治めます。




E-295:見崎町(みさきまち)
見崎町は江戸時代、大村藩式見村に属し大崎郷と称していて、明治4年(1871)大村県となり、そして長崎県へ。明治11年(1878)長崎県西彼杵郡式見村大崎郷、明治22年(1889)市制町村制が引かれ式見村大崎郷となります。昭和37年(1962)長崎市に合併し長崎市大崎郷となり、昭和46年(1971)より見崎町となります。地名の由来は町域全体が岬になって海に突き出ていて、大崎町が長崎市内に既に存在していたため見崎町となりました。




E-294:相川町(あいかわまち)
相川町は江戸時代、大村藩式見村に属し相川郷と称していて、明治4年(1871)大村県となり、そして長崎県へ。明治11年(1878)長崎県西彼杵郡式見村相川郷、明治22年(1889)市制町村制が引かれ式見村相川郷となります。昭和37年(1962)長崎市に合併し長崎市相川郷となり、昭和46年(1971)より相川町となります。地名の由来は不明ですが、地区の中央を流れる相川川はいくつもの支流を持ち、それが河口に進むにつれ狭まり合わさった川の意。もしくは鮎が多く生息する川「鮎川」が転訛したなど考えることができます。




E-293:四杖町(よつえまち)
四杖町は江戸時代、大村藩式見村に属し田舎郷と称していて、明治4年(1871)大村県となり、そして長崎県へ。明治11年(1878)長崎県西彼杵郡式見村田舎郷、明治22年(1889)市制町村制が引かれ式見村田舎郷となります。昭和37年(1962)長崎市に合併し長崎市田舎郷となり、昭和46年(1971)より四杖町となります。地名の由来は町域に字四杖という地名があったところから四杖町になりましたが、おそらく田舎の名称を避けていたものと考えられます。




E-292:牧野町(まきのまち)
牧野町は江戸時代、大村藩式見村に属し牧野郷と称していて、明治4年(1871)大村県となり、そして長崎県へ。明治11年(1878)長崎県西彼杵郡式見村牧野郷、明治22年(1889)市制町村制が引かれ式見村牧野郷となります。昭和37年(1962)長崎市に合併し長崎市牧野郷となり、昭和46年(1971)より牧野町となります。地名の由来は牧は牛馬の放牧地や草地を意味し、そういった地区が拡がっていたところから牧野と呼ばれています。




E-291:園田町(そのだまち)
園田町は江戸時代、大村藩式見村に属し木場郷と称していて、明治4年(1871)大村県となり、そして長崎県へ。明治11年(1878)長崎県西彼杵郡式見村木場郷、明治22年(1889)市制町村制が引かれ式見村木場郷となります。昭和37年(1962)長崎市に合併し長崎市木場郷となり、昭和46年(1971)より園田町となります。木場とは山間部の開けた空き地という意味があって、焼畑に大変適した場所でもあり、焼畑をコバと呼ぶため木場の地名が生まれたと考えられています。また、園田町の由来は木場町が長崎市内に既に存在していたため地区の字名より園田町となりました。




E-290:向町(むかえまち)
向町は江戸時代、大村藩式見村に属し向郷と称していて、明治4年(1871)大村県となり、そして長崎県へ。明治11年(1878)長崎県西彼杵郡式見村向郷、明治22年(1889)市制町村制が引かれ式見村向郷となります。昭和37年(1962)長崎市に合併し長崎市向郷となり、昭和46年(1971)より向町となります。地名の由来は不明ですが、式見村の中央にあたる本村郷より式見川を隔てた向う側にあるところから向町になったものと考えられます。




式見町(しきみまち)
江戸時代は大村藩に属し式見村で、本村、向、木場、牧野、田舎、相川、大崎の7郷からなっていました。明治4年(1871)大村県となり、そして長崎県へ。明治11年(1878)長崎県西彼杵郡式見村、明治22年(1889)市制町村制が引かれ式見村として本村郷に村役場が置かれます。昭和37年(1962)長崎市に合併。各郷は昭和46年(1971)よりそれぞれ式見町、向町、園田町、牧野町、四杖町、相川町、見崎町に改称されます。




E-289:式見(しきみ)
式見は、昔は樒もしくは志幾見とも書き、地名の由来は樒が多く自生していたところという説、砂礫地を意味するシキと水を意味するミから転訛したした説があり、室町時代より見られる地名です。文禄元年(1592)の「文禄の役」の際、大村喜前に従って朝鮮出兵した福田兼親(19代)、兼重兄弟でしたが、特に弟の兼重の活躍は見事で旗奉行に任ぜられ、文禄4年(1595)には樒、今村の230石を賜り、慶長元年(1596)樒を式見とし自らも式見兼重を名乗ります。肥前国彼杵郡樒浦は江戸時代には大村藩領式見村で、明治4年(1871)大村県経て長崎県に属し、明治11年(1878)西彼杵郡式見村で、明治22年(1889)市制町村制が引かれ式見村として本村郷に村役場が置かれます。昭和37年(1962)長崎市に合併します。




E-288:式見隧道(しきみずいどう)
式見隧道は手熊地区と式見地区を結ぶ長さ約100メートルのトンネルで大正15年(1926)に完成しました。これにより式見と手熊との交通は便利となり、陸路長崎との交通も開けることになります。当時、式見は海路で長崎の大波止まで30銭(今のお金に換算すると約180円)で、海が荒れたときは陸の孤島と化していました。現在は手熊海岸から淡島神社下まで蝶が崎トンネル(平成2:1990年完成)が開通したため、日見隧道の利用は主に路線バスとなっています。




E-287:長崎市手熊浄水場(ながさきしてぐまじょうすいじょう)
手熊町(旧 福田村手熊郷)
昭和39年(1964)長崎市は異常渇水に見舞われ水資源確保が急務となります。当時、長崎市内は土地開発と住宅の増加で給水人口が増大したため市域外に水源を求めることになり、昭和41年(1966)長崎市水道第6回拡張事業が始められ西彼杵半島の雪浦川、神浦川、式見川にそれぞれ多目的ダムを建設し、約27キロメートルの導水管で手熊町に導き、同町内に浄水場を設け、長崎市内に給水するというもので、始めは昭和46年(1971)神浦ダムの完成と同時に手熊浄水場も浄水が開始。総工費7.8億円、6万立米/日で、その後、増設され昭和50年(1975)には12万立米/日となります。昭和51年(1976)雪浦ダム完成。昭和55年(1980)式見ダム完成。




E-286:舞岳(まいだけ)
手熊町(旧 福田村手熊郷)
舞岳は手熊の北に位置する標高252メートルの山で、戦国時代、永禄元亀年間(1558-1573)に樒越前守が地頭在任中に山をひと廻りし城を構えたので廻岳と呼ばれ、後に舞岳となったものです。天正14年(1586)には福田大和守純定が改築したという記録があり、東西は47間、南北35間の規模で、東側に二の廓(城郭)があって長さが70間ありました。また、近くに馬掛場という地名があります。




E-285:五輪の塔(ごりんのとう)
手熊町1115(旧 福田村手熊郷字神)【園田氏宅】
手熊浄水場建設(昭和46:1971年部分完成)の際、土手から多数の室町時代の墓石が出土しました。形状からそれなりの武士団が居住していたと考えられており、その一部8基の笠石が園田氏宅の庭に保管されています。
五輪の塔とは正式には五輪塔(ゴリントウ)といい、5段に分かれた供養塔または墓石をいいます。形状は上から宝珠、半球状、三角形の屋根、球形、方形となっていて、宝珠を空輪といい空を、半球状を風輪といい風を、三角形を火輪といい火を、球形を水輪といい水を、方形を地輪といい地を意味します。この空、風、火、水、地が密教の教えでは五大といい万物の構成要素といわれています。




E-284:上の殿の墓(うえのとんのはか)
手熊町(旧 福田村手熊郷)
福田浦の開港によってポルトガルとの交易に尽力したのが第17代当主福田兼次で、大村家とも交流があったことから洗礼を受けキリシタンとなっていました。この「上の殿の墓」はその福田兼次ほか福田家の遠祖をお祀りした墓といわれ、地元では殿の墓(とんのはか)と呼ばれ大切にお祀りされています。キリシタンであったところからキリシタン墓とも呼ばれています。
※場所は「下の殿の墓」の後方で手熊小学校から延びる林道から下がったところにあります。




E-283:下の殿の墓(したのとんのはか)
手熊町1275付近上手(旧 福田村手熊郷)
福田浦の開港によってポルトガルとの交易に尽力したのが第17代当主福田兼次ですが、その孫にあたる第19代福田兼親の髪寿塔が「下の殿の墓」と呼ばれ、髪の毛などを納めた塔です。また、そばに2基の墓所があり、その2基は大村氏に反旗を翻した樒氏を討ち取った第18代福田忠兼と考えられています。




E-282:丹波様(たんばさま)
手熊町(旧 福田村手熊郷字向山)
手熊の字向山に一つの墓所があって、地元では丹波様と呼んでいます。墓所は雲弱石を敷き詰めた古い形態をしていて、お盆の夜には地元民が提灯を灯し供養をする風習が残っています。
ちなみに、香焼島には鎌倉様と呼ばれる無縁塔があります。
※「上の殿の墓」の下方にあります。




E-281:手熊橋(てぐまばし)
手熊橋は手熊川の河口に架かる橋で、以前までは石造りの橋でした。現在は河川工事などがなされ鉄筋コンクリート橋になっていますが、橋のたもとには当時をしのばせる親柱があり、橋の高い位を意味する擬宝珠が施されています。




E-280:手熊台場跡(てぐまだいばあと)
柿泊町(旧 福田村手熊郷)
江戸時代後期、長崎港外にしばしばオランダ以外の船舶が来航するようになり、嘉永3年(1850)大村藩の大村丹後守純煕(スミヒロ)は防衛と警備のために手熊のほか外海の自領7か所に台場を設けます。台場は白髭神社前方にありました。その後、安政2年(1855)に福田の田子島砲台が造られます。




E-279:キリシタン墓碑【白髭神社境内】
このキリシタン墓碑は昭和44年(1969)に発見されたもので、墓碑のある丘が手熊の館跡と考えられるところから、この城主と関係があるのではないかと考えられています。しかし、地元では神社境内地から見つかったところからが平家の落人と呼んでいます。




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