広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成24年 〜2012年〜
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西屋敷跡(にしやしき-あと)
四杖町343(式見村田舎郷)【山中宅】
永禄元年(1558)毛利輝元の家臣の木戸越前守は樒村に入り大村家に仕えて樒の地頭になり、そして名を樒越前守に改名します。天正3年(1575)樒越前守は入道(※入道=出家の意)して三清と称し、それまで居城としていた三根城を長子伝助らに譲り自らは隠居して相川西屋敷に入りました。しかし、翌4年(1576)病死し相川道の四杖に塚が造られました。そこは小松原と呼ばれ、松が植えられていましたがのちに松崎の火災で焼失します。




創立百周年記念碑【式見小学校校庭】
この記念碑は式見小学校の創立100年周年を記念して昭和51年(1976)に創立100周年記念実行委員会によって建立されました。碑には沿革や校歌が刻まれています。なお、碑正面書は当時の長崎市長諸谷義武によるものです。
校歌「神楽島 朝日に映えて さみどりの丘はあかるし ああうるわしの学びの窓よ われらの母校式見小学校」




今村元右衛門記念碑
向町44(式見村向郷)【今村整骨院】
今村元右衛門(慶応3:1867-?)は旧式見村出身で今村源蔵の長男として生れ、15才ごろより相撲を始め18才のときには力士として小雀を名乗ります。その後、各村々の宮相撲を取り歩き、25才で鷹勇頭取より神楽島の名をもらい、さらには式見村の宮相撲の力士30名を引き連れ各地を回るようになります。41才のとき、鷹勇頭取より頭取職を譲られ相撲振興に努めました。この記念碑は63才のお祝いとして昭和4年(1929)に建立されました。




長崎県立式見高等学校跡
四杖町363(式見村田舎郷)
第二次大戦後、式見村において定時制高校の誘致が盛んになり、昭和26年(1951)長崎県立西高等学校式見分校が開校。夜間ということもあり式見中学校の校舎を併用することなりました。昭和37年(1962)中学校西端に独立した校舎が造られ施設の充実が図られます。昭和45年(1970)西高分校から北高分校へ変更。しかし社会状況の変化から定時制高校への入学希望者が激減し閉校の動きになりますが地元の存続運動の甲斐あって、現在地の取得がなされ昭和51年(1976)全日制課程の変更となり、昭和54年(1979)新校舎が完成し、昭和58年(1983)長崎県立長崎式見高等学校が創立されます。平成20年(2008)生徒数の減少により閉校となります。




長崎市立式見中学校
四杖町1245(式見村田舎郷)
昭和22年(1947)の学校教育法によって新制中学校を置くことになり、昭和18年(1943)それまで小学校の増床として使われていた四杖校舎を中学校舎に転用。式見村立式見中学校が誕生します。昭和26年(1951)からは長崎県立西高校の式見分校として一部併用され(昭和54年分離移転)、昭和37年(1962)長崎市に編入により今の長崎市立式見中学校となりました。




栗林君之碑【式見小学校校庭】
栗林周太郎( -明治22:1889)は、式見村中尾(現四杖町)出身で、明治8年(1875)の式見小学校開設から教員として勤務し教育指導を行います。しかし病を患い同僚から静養するよう勧められますが、本人の意志は固く平素のように登校し教鞭をとります。明治22年(1889)思いむなしく急逝。この記念碑は翌23年(1890)生前の功績を称えるために有志によって建立されました。




長崎市立式見小学校
式見町678(式見村本村郷)
式見における教育の始まりは安政3年(1856)酒造業を営む岩永仙平の聖的塾(中通郷)が始まりで、明治5年(1872)には学制発布により問役所跡に村学校が設けられました。そして明治7年(1874)新制学校が鼻崎郷城山に設けられこれが村立式見小学校です。その後、中等式見小学校、尋常式見小学校と改称し、明治22年(1889)現在地に新築移転します。さらに式見尋常小学校、式見尋常高等小学校となり、明治36年(1903)には夜間の実業補修学校も併設します。昭和16年(1941)式見国民学校となって、昭和22年(1947)新制の式見村立式見小学校となり、昭和37年(1962)長崎市に編入により今の長崎市立式見小学校となります。




樒越前守三清入道墓所
(しきみえちぜんのかみ-さんせいにゅうどう-ぼしょ)
四杖町(式見村田舎郷)
永禄元年(1558)には毛利輝元の家臣の木戸越前守が久保半左衛門、松峰勘助、僕源左衛門らを引き連れ樒村に入り大村家に仕え樒の地頭になり、そして名を樒越前守に改名します。天正3年(1575)樒越前守は入道(※入道=出家の意)して三清と称し、三根城を長子伝助らに譲り自らは隠居して相川西屋敷に入るとあります。天正4年(1576)病死し相川道の四杖に塚が造られました。そこには松が植えられていましたが松崎の火災で焼失します。明治32年(1899)初代村長:渡邊長吉らによって再建され墓石が設けられます。昭和13年(1938)にも墓石が設けられ、昭和53年(1978)現在の教に整備されました。




渡辺長吉翁碑【式見中学校校庭】
渡辺長吉(嘉永3:1950-昭和11:1936)。明治維新を受け、式見村は里区政が敷かれ東部西部に二人の戸長が誕生し、明治12年(1879)公選によって東部地区戸長に渡辺長吉が選ばれます。翌13年には一村一戸長となり渡辺氏は引き続き戸長に就き、明治22年(1889)初代村長に選ばれます。明治29年(1896)には自らの所有地(現式見支所)に役場を移し機能を強化。以降、30年以上村政に尽力し、その後は長崎県議会議員や郡会議員を歴任します。式見村では村有地の保全や教育施設の充実に努め、この記念碑は彼の功績でもある中学校舎落成にあたり昭和26年(1951)に建立されました。




尾崎屋敷跡跡(おざきやしき-あと)
四杖町1553(式見村田舎郷)【中通公民館】
天正3年(1575)式見の地頭であった樒越前守三清入道は三根城を長子伝助らに譲り自らは隠居して相川屋敷に入ります。三清死後の天正5年(1577)樒家は龍造寺家と内通していたようで、そのため大村純忠が刺客を送り斬殺し、式見村は没収され公領となります。その後、中村橘左衛門が支配を命ぜられ一時、三根城に入りますますが、文禄4年(1594)元寇の際、福田村の福田兼重の活躍によって新知行地として樒村を賜り、慶長元年(1596)三根城に入ることになり中村橘左衛門は中通の尾崎屋敷に移り、屋敷と合わせ畑1畝20歩(=約15平方メートル)を与えられました。




中村磯庄屋跡(しきみじょう-あと)
四杖町1821(式見村田舎郷)【中村宅】
式見村には中村磯庄屋と呼ばれた屋敷が中通にありました。式見年代記によれば寛永10年(1633)ごろに230石を頂く熊野私領庄屋は、代々、田端に住む森次郎左衛門と中村橘左衛門が勤めていて、中村氏は中通に住み110石を預かっていました。現在の居住者である中村氏は庄屋職の中村橘左衛門を祖とする一族です。




松舟川(まつふねがわ)
四杖町1692(式見村田舎郷)【磯宅】
木戸越前守は永禄元年(1558)に家来の久保半左衛門、松峰勘助、僕源左衛門らと樒村に移り住み地頭職に就いた際、村名を氏に変え樒越前守と名乗ったとあります。このうち松峰勘助は三根城の北西の鼻崎地区に屋敷を構え、屋敷の下の方の窪地に井戸を掘ります。その松峰氏使用の井戸を松舟川といい、松峰が訛って松舟、井戸のことを井川というところから松舟川となったといわれています。ちなみに松峰神助はその後、福田六之允が式見入りすることを知り密かに式見を脱出します。




石火矢台場跡(いしびやだいば-あと)
式見町60(式見村本村郷)【桜井宅】
嘉永元年(1848)大村藩は台場建設のため浄満寺北側の場所を譲り受け石火矢台場を建設します。この年、大村藩は幕命により異国船に対する沿岸防備のため藩内の村(福田、式見、三重、神浦、瀬戸、面高)に砲台を設置しました。安政5年(1858)現在の式見公園(荒毛浜)北側の高台、式見町60番地付近に移転。ここは縦横10間(18メートル)、101坪(約333平方メートル)の敷地に石火矢3挺、小筒29挺を備えて、あわせて硝煙蔵や武器蔵なども設置しました。




弾正瀬(だんせいせ)
式見町188地先(式見村本村郷)
弾正瀬は漁港の中心部にある大岩で、埋立てが行われる以前は波打ち際で、昭和の初めごろまでは海面も高く、子供たちの格好の飛び込み台として賑わっていたといいます。雲母片岩のこの岩は式見の人々のシンボルとして親しまれていました。現在では国道建設のため埋立てられ姿を消しました。




上中/下中共同井戸之跡(かみなか/しもなかきょうどういどのあと)
式見町566地先(式見村本村郷)
恵美須神の東隣には上中/下中共同井戸之跡の碑が立っています。碑の前の道路には以前まで大井戸があって、この周辺の上中郷、下中郷の飲料水として使用されていました。昭和30年(1955)式見村に水道施設が完成したのを機に飲料水としての役割を終えましたが、その後も生活用水として親しまれていました。しかし井戸を囲んでいた築石に亀裂が入り通行に支障をきたすところから昭和53年(1978)式見支所によって閉鎖され埋め戻されました。この記念碑は井戸の歴史を伝えるために上中自治会と下中自治会によって昭和57年(1982)建立されました。




恵美須神社(えびすじんじゃ)
式見町191地先(式見村本村郷)
恵美須神社は式見のまちなかに祠としてお祀りされていて、祠は安政7年(1860)に再建され、それを昭和57年(1982)に再再建されています。始めに再建されたものには式見村の役人であった横目:長崎甚平次、平代:高嶋節左衛門、山伏:金蔵院とあり、この祠は村を挙げての建立だったことが分かります。恵比須神は神徳としては五穀豊穣、海上安全、大漁満足、商売繁盛などで、釣り竿に鯛を抱いているところから漁業関係者に厚く信仰されています。




制札場跡(せいさつじょう-あと)
式見町191(式見村本村郷)【青木宅】
制札場は正保元年(1644)幕府の掟を掲げる場所として設けられ、キリシタン禁制や鎖国、貿易統制などの政策が示されていました。特に外海(ソトウミ)に面するこの地方では抜荷(密貿易)に対しては厳しく、漂流船や外国船監視には大変力を入れていました。




横目役所跡(よこめやくしょ-あと)
式見町223(式見村本村郷)【臼井宅】
大村藩では明暦3年(1657)に制定された村々制法によって藩における村々の管理は確立され、郷村役人として庄屋(肝煎り)が住民側から選ばれる役人に対し村横目は在地家臣団の中から任命されます。郷村役人は法度を村民に徹底させることを始め、庄屋の監督ほか年貢収納、作柄の善悪、村内の問題などを藩の大目付に報告しなければなりませんでした。その横目役所が海岸釜屋敷にあって、その下段(式見町191番地)には式見小番所がありました。横目はその番所役人を兼務していました。この役所は明治初年に廃止となります。




問役所跡(といやくしょ-あと)
式見町357(式見村本村郷)【式見支所】
大村藩では明暦3年(1657)に制定された村々制法によって藩における村々の管理は確立され、藩側の役人を村横目、住民側から選ばれた役人が庄屋もしくは肝煎りといい、浦方に問(トイ)が置かれました。庄屋は村の行政の責任者で、問は浦方(漁業部落)の責任者をいい、問の役所を問役所といいます。この制度は明治2年(1869)まで続き、その後は郡区と改められ西彼杵郡第16大区二ノ小区式見村に称され里区となり、それも明治12年(1879)戸長制度へ変化し、明治22年(1889)から地方自治法の制定により戸長は村長になるのです。




石火矢台場跡(いしびやだいば-あと)
式見町(式見村本村郷)
浄満寺北側の高台(俗に隠居山という)は創建当初より浄満寺の墓域として使われていましたが、嘉永元年(1848)に台場建設用地として大村藩に寄進することになり、墓地は浄満寺の東、式見川の東側の「田福の辻」に移設されます。この年、大村藩は幕命により異国船に対する沿岸防備のため藩内の村(福田、式見、三重、神浦、瀬戸、面高)に砲台を設置しました。安政5年(1858)現在の式見公園(荒毛浜)北側の高台、式見町60番地付近に移転。縦横10間(18メートル)、101坪(約333平方メートル)の敷地に石火矢3挺、小筒29挺を備えていました。




忠魂碑(ちゅうこんひ)【式見小学校】
式見小学校上段にある忠魂碑は式見出身者で国のために命を落とした方を慰霊する碑で、第二次大戦後に建立されています。殉国者は明治元年(1868)の戊辰戦争で命を落とした大村藩新精組に属していた武士:田嶋駒太、栗林文七郎のほか、明治10年(1877)西南の役、明治27年(1894)日清戦争、明治37年(1904)日露戦争、大正3年(1914)第一次大戦、昭和に入り満州事変から第二次大戦まで、この式見地区出身の殉国者338超名の慰霊碑です。




式見のエノキ【式見小学校】
式見小学校校庭にある榎(エノキ)は樹齢300年以上といわれ、この一帯がまだ山林で三根山と呼ばれた頃よりあったといわれ、樒氏の三根城や城山の庄屋、式見村戸長役場と変遷する中、ここのシンボルとして残されていたものです。一説には旧街道の境界木として存在してあるともいわれています。樹高は17メートル、幹回り5.8メートルでたかさ1.7メートルのところから三方向に分かれ、その一つは周囲2.8メートルあります。市指定天然記念物。




城山旧庄屋跡【式見小学校】
幕末の記録「大村藩城代家老隈外記」によれば、式見村の庄屋屋敷は三根城があった場所で、その後の明治8年(1875)には式見村の役場が置かれ、明治12年(1879)から29年(1896)までは戸長役場に使用されます。翌30年からは現在の式見支所の地に役場が移され、以降は式見小学校として拡張されました。




三根城跡(みねじょう-あと)
式見町678(式見村本村郷)【式見小学校】
「式見由緒」には樒越前守三清入道は毛利輝元(天文22:1553-寛永2:1625)の家臣であることが記されていますが、樒氏はそれまで木戸越前守と称していて、永禄元年(1558)に家来の久保半左衛門、松峰勘助、僕源左衛門らと樒村に移り住み地頭職に就いた際、村名を氏に変え樒越前守と名乗ったとあります。樒氏の居住地が現在の式見小学校の地で、東西30間(約54メートル)、南北48間(約86メートル)の敷地で、永禄年間(1558-70)に築かれており周辺には当時の石垣が残っています。




熊野庄屋跡(くまのしょうや-あと)
式見町604(式見村本村郷)【辻宅】
式見村の庄屋は熊野庄屋と呼ばれた通称:里の辻付近にありました。式見年代記によれば寛永10年(1633)ごろに230石を頂く熊野私領庄屋は、代々、田端氏、森次郎左衛門が勤めていました。現在の居住者である辻氏は庄屋職の森次郎左衛門を祖とする一族です。




幸徳屋敷跡(こうとくやしき-あと)
式見町345付近(式見村本村郷)【山崎宅】
文禄元年(1592)の「文禄の役」の際、大村喜前に従って朝鮮出兵した式見六之允兼重は、家来に森次郎左衛門、山崎備中、山崎忠衛門らを従えていましたが、朝鮮半島の「蔚山(ウルサン)の戦」での退去中に肥満がたたって山崎忠衛門に背負われ事なきを得ます。帰国後、山崎は主人より特段の褒美もないため怒って長崎に逃げてしまいますが、思い直し再び式見に入り兼重に逃げたことに詫びを入れると、兼重は逃げたことは悪いが手柄を無にするわけにはいかぬと浜と岡の間にある幸徳屋敷を与え住することになりました。




式見遺跡(しきみいせき)
式見町(式見村本村郷)
式見遺跡は現在の式見の市街地に位置し、土器片の特徴から縄文時代前期から中期にかけて人間が生活していたものと考えられています。当時、式見は砂丘になっていて、川の河口部に生活の場所があったものと推測され、山で狩猟を行い、海岸で貝の採取や魚とりが行われ南向きの温かい地点が選ばれたものと考えられています。このほか式見地区には縄文時代の牧野、四杖、前田、小江原遺跡と縄文〜弥生時代の手熊遺跡などがあります。




取切馬場三筋
式見町(式見村本村郷)
明和6年(1769)式見村中心部で大火が発生、そのため翌7年に村民らの申し出によって、非常時の取り切り場として馬場三筋を設けます。これは延焼を防ぐために新たな道を設け広げる工事で、浄満寺門前より海岸へ通る筋を上方、恵美須橋から海岸へ通る筋を中当、神楽橋から海岸へ通る筋を下方といい、立ち退かれた家々は海岸を埋め立て移転させました。この通りは旧海岸線の通りをいい現在の国道の一つ内側の通りです。




茄子塔(なすとう)【田福墓地】
茄子塔と呼ばれる墓所は卵形をした僧:春国のものです。春国は鎌倉の禅宗寺の檀林(寺院の学問養成所)に長く務め、その後、この式見の地に移り住み浄満寺の後山に庵を構え住していました。言い伝えでは田福山(田福墓所のある山)に自ら掘ったといわれる井戸があって、当時、「和尚の水」と称されていました。井戸の所在は不明。春国は宝暦6年(1756)71才で没します。




無縁塔(むえんとう)【田福墓地】
無縁塔と呼ばれる墓所は、横目役の朝永陸左衛門の妻の墓所で寛政11年(1799)に没しています。この横目役ですが大村藩では庄屋などの村役人の監視指導を役目とし、藩の大目付に報告する義務がありました。そのため農民から選ばれるのではなく在地の家臣団から任命される特別職で、この朝永陸左衛門は乙宮神社の石宝殿の建立に携わっていた人物です。なお墓石には「横目役相勤候 節相埋候 間末迄御村中へお情に可煩候」と刻され妻への情が込められています。




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