広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成24年 〜2012年〜
<歴史散歩移動ツール>
前の月へ移動最新の月へ移動次の月へ移動
前の年へ移動 次の年へ移動



2003年11月27にちまで更新加筆




2003年11月20日まで更新




2003年11月15日まで加筆更新




2003年10月末日まで加筆更新完了




2003年10月17日まで加筆更新




2003年10月11日まで加筆更新完了




2003年9月末日まで加筆改定完了




2003年9月15日まで更新




2003年8月末日まで加筆修正完了




2003年5月分改定加筆完了




2003年8月1日から15日まで改訂完了




2003年7月末日まで改訂完了




2003年7月1日から15日まで改訂完了




2003年6月末日まで改訂完了




2003年6月1日〜14日の分まで改訂済み




ホームページのメンテナンスおよび資料整理のため更新をお休みします。
その代わり、2003年6月分から順次、加筆、訂正作業を行います。復習作業にお付き合いください




式見付近のキリシタン布教について
永禄5年(1562)大村藩主の大村純忠は自らキリスト教の洗礼を受け藩内の地頭にも奨励し、翌6年、大村領横瀬浦が焼打ちされると布教と貿易の中心は福田浦に移ります。永禄8年(1565)福田浦が開港し、ここから外海方面の布教が始まります。この福田から外海、手熊、式見へと伝えられて来た中心をなしたものは宣教師フランシスコ・カブラアルやフィゲイドでした。特にフィゲイドは手熊、式見の地頭およびその一族へ布教を行い多くの信者を得ていました。




関平の脱走
正保5年(1648)式見村の農民:関平は土地のことで役人の隈藤馬と口論の末、式見村を脱走。平戸藩の津吉村(現平戸市)に隠れ住みます。そんなあるとき鯨漁の漁師が津吉浦の瀬が漁の支障になると困っていたところ、関平は良案があると豪語します。半信半疑で漁師が頼むと関平は干潮のときにその瀬に数十本の縄を結び付け
浮標を付け、満潮になって浮き上がったときに小舟数十隻で引き出し、見事、大岩を片付けるのです。漁師らは関平を知恵者と称え、のちにこのことは平戸の松浦氏に伝わり名字帯刀士分に取り立てられます。その後一時、式見に帰り田畑と売り払い津吉村で平和に暮らしたといいます。




首形地蔵と義人段平
江戸時代中頃、大村藩の渡辺段平は藩の政策に反し式見村の農民に便宜を図った件で城下に呼び出されます。そして臼杵坂を通っていたとき自らの脇差が突然抜け落ち、段平はあわてて拾い上げ納めますが、大きなため息をついてひと言「わが生命迫れり、わが事終われリ、われ義のために死す 臆することなし」と従者に告げ、続けて、式見に帰って「どんな返事があっても慌てず人に笑われることが無いように」と家人に伝えるようにいいます。段平は一人城下に向かい、農民一揆の首謀者として問われ元文4年(1739)11月27日に処刑されます。しかしその数分後、赦免する旨の早馬が来るも時遅し、遺骸は罪人ではないため家族に引き渡され墓所に葬られますが、あわせて地蔵尊が置かれ代々首形地蔵といって大切にされているといいます。




式見の女相撲について
式見では明治4年(1871)頃から郷土芸能が盛んになり各集落ごとに芝居が催され式見座として興業も行われていました。そして明治28年(1953)日清戦争の凱旋祝賀会や大正4年(1915)の日独戦争の凱旋祝賀会折には部落対抗の余興が競演されます。式見年代記によれば、踊りの題名には向郷:大江山、里郷:堺神輿、木場:桂川、中通:富士の裾野、田舎:四十七士、相川:凱旋踊、中尾:銭太鼓、松崎:蛇踊、鼻崎:鯨取、上郷:百足山、上中:兎踊、下中:手踊、下郷:百人想、相撲踊りなどがあり、近隣から多くの観客が訪れていました。このうち下郷の相撲踊り(角力踊り)は大正4年(1915)より弓取りが始まり、昭和60年(1985)ごろから横綱土俵入りと三役揃い踏みが行われるようになりました。




賀衆ヶ峯(がしゅうがみね)
賀衆ヶ峯(鶚岳:ミサゴダケ:ガガク)は手熊峠の西にある山で、長崎で異変があった際には狼煙(ノロシ)を上げて村内に知らせていました。これは文化5年(1808)に起こったフェートン号事件をきっかけに翌年に整備されたもので、福田の岳地区にあった狼煙台からの連絡を受けて、村内の連絡のほか引き続き、三重村の三重岳の狼煙台に受け継がれていました。文化6年(1809)から毎年、予行訓練や演習が実施されていました。




這迫(はいさこ)
園田町(式見村木場郷)
式見年代記によれば、文禄4年(1595)第5代式見六之允兼重の家来の日向は、ある日、主人の意向をくんでか狩りに向かうために家臣の城之助を誘います。そして牧野に向かっている途中、ちょうど薗山川の裏手道で日向は城之助の背後を槍で突き刺します。しかし、城之助はひるまず「下郎未練」と言って日向をにらみつけると、日向はおじけついて逃げ出します。城之助は「七代祟る」の言葉を残し息を引き取ります。以降、付近を這迫と呼ぶようになりました。




幡杭瀬(ばんくいせ)
見崎町(式見村大崎郷)
現在の乙宮神社は以前まで式見の沖合にある神楽島にお祀りされていて、祭礼の度に式見の人々は船で渡って祭事を行っていました。あるときたまたま荒天のため島に渡れず、神楽島にいちばん近い磯辺で祭礼を行うことになり、その際、磯辺に幕を張り、幡を立てて行ったところから、その磯辺を幡杭瀬または幕ノ瀬と呼ぶようになります。




遠の木場(とおのこば)
現在の園田町は以前まで式見村木場郷といい、今でも中木場、先木場という地名が残っています。さらに現在の鳴見町付近には遠の木場があります。永禄元年(1558)樒越前守三清入道が樒村に引き連れて入った従僕の源左衛門は怪力の持ち主で、木場の辻に住していました。そして樒越前守が狩猟のときはお供をし、城戸山や丸尾山(現在の滑石トンネル西側)に赴くときは付近に滞在し、丸尾山には隠れ小城があったといわれています。そうして狩猟の度に開拓が行われ源左衛門は移住することになり、木場地区のさらに遠い場所ということから遠の木場と名付けられます。この源左衛門ですが怪力のため人々は鬼源左と呼んでいました。




龍ヶ崎の鮪網代(りゅうがさきのまぐろあじろ)
柿泊町(旧 福田村柿泊郷)
龍ヶ崎は小江と柿泊の境をなす岬で、この網代は白浜弁天付近のことといわれています。天正3年(1575)第15代福田大和守純定は龍ヶ崎の能瀬は鮪の網代(定置網の漁場)に適しているということから、深堀から石場之丞という者を呼び寄せ、その頭として当てます。その後、第19代福田兼親の代、慶長3年(1598)に式見家に入った兼親の弟である兼重は、自らの領である式見薪山とこの網代を交換します。寛文2年(1662)式見村や福田村などは不作で運上金の納入ができなくなったことがあり、一時、この網代が奉行預かりになりますが寛文11年(1671)には返納されています。このようにこの網代は財産として扱われるほどの良好な漁場だったことが伺えます。




木場観音堂(こばかんのんどう)
園田町519付近(式見村木場郷)
木場観音堂の創建は不明ですが、昔から木場地区には観音岩と呼ばれる岩があって信仰の対象になっていました。その後、地元民が観音堂を設けたといわれ、おそらくキリシタンによって破却され姿を消します。元禄2年(1689)地元民によって再建がなされ、息災延命、身体健全の御利益のために信仰が復活します。




田舎の法華堂跡
四杖町1040(式見村田舎郷)【久田宅】
奈良時代に僧:行基(668-749)が筑後巡回の際に訪れ、阿弥陀如来、釈迦如来、観音菩薩の三尊を安置して岩屋山大権現とします。平安時代には弘法大師が唐からの帰途に立ち寄られ神宮寺で護摩を焚き、以降、別院36坊を要する寺院に発展します。そのころ木場地区に観音岩、矢筈岳に権現信仰が盛んになり、この田舎地区では法華経信仰があってここにその修行堂があったといわれています。




矢筈岳(やはずだけ)
矢筈岳は手熊の北に位置する標高366メートルの山で、その昔、式見の沖合にある神楽島にお祀りされていた権現さまを矢筈岳に移し矢筈権現と称していました。そして9月9日の祭礼の際は式見まで神輿が巡幸され、千切嶋と呼ばれる場所を御旅所にしていましたが、天正2年(1574)矢筈岳から千切嶋に遷宮され、これが乙宮神社となりました。山頂での祭礼の際、流鏑馬が行われ、その名残で山のふもとに「岳の馬場」という地名が残っています。




<歴史散歩移動ツール>
前の月へ移動最新の月へ移動次の月へ移動
前の年へ移動 次の年へ移動

管理者専用



- Cute Diary Ver2.06 - by Ultinet.Inc SPECIAL THANKS : Daughter 16