広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成24年 〜2012年〜
<歴史散歩移動ツール>
前の月へ移動最新の月へ移動次の月へ移動
前の年へ移動 次の年へ移動



(29)祖霊社(康平社)【諏訪玉園社参道】
祖霊社には寛永2年(1625)諏訪神社の再興を行なった第4代長崎奉行長谷川権六郎守直と、文化5年(1808)フェートン号事件で犠牲となった第81代松平図書頭康平(これは当時の市民の申し出により霊を慰めるためお祀りされました)、そして氏子先祖の霊、さらに明治27年(1894)日清戦争で犠牲となった旧長崎市の戦没者をお祀りしてあります。
もともとこの祖霊社は図書明神(康平社)と称し松平図書頭と、長谷川権六郎をお祀りしてありましたが、明治維新を期に八百萬神社と改称、しかし幕府の役人ということもあり幕府倒壊により祭事が行なわれなくなります。そこで明治8年(1875)12代宮司:坂元秋郷が旧役人の希望を受け祖霊社と改め再興されます。さらに日清戦争の当市戦没者も氏子先祖ということで合祀されることになりました。




(28)蛭子社(ひるこしゃ)【諏訪玉園社参道】
解説板には蛭子社の祭神は少彦神とありますが、一般に「蛭子」と書くと「えびす」と読み、恵美須神を表わし漁業や商売の神といわれています。一方、少彦神は少彦名命(スクナヒコナノミコト)のことで温泉や医療、酒造りの神といわれています。この諏訪神社の蛭子社には祠の下に水をたたえ珍しい河童の形をした狛犬が置かれています。




(27)今里廣記胸像(いまざと-ひろき)【諏訪荘内】
今里廣記(明治40:1907-昭和60:1985)は、東彼波佐見町出身で、旧制大村中学校を卒業後、家業の今里酒造の後継となります。昭和12年(1937)九州採炭、戦後は日本精工などの企業を歴任、その後も日経連の顧問など財界のご意見番として活躍します。また、出身地の波佐見町への貢献も大きく、波佐見町では名誉町民に選ばれます。さらに、諏訪荘の移転にも大きく貢献した人物です。




(26)諏訪荘【諏訪神社拝殿北側】
もともと諏訪荘があった炉粕町8,9付近(現 立正佼成会)は江戸時代、本覚寺というお寺があって明治維新を受け廃寺となりました。その後、当時の豪商永見寛二が大正9年(1920)屋敷を構え、さらに昭和11年(1936)諏訪荘という旅館に代替りします。当時ここは皇族などがお泊まりになるなど長崎を代表する旅館でしたが、昭和59年(1984)廃業。平成2年(1990)現在地に解体移転します。現在は諏訪神社の祭事などに使われています。




(25)蜀山人句碑(しょくさんじん)【諏訪荘前】
蜀山人(寛延2:1749-文政6:1823)、本名:大田直次郎は号を南畝(なんぽ)、覃(たん)といい、江戸牛込御徒町で幕府の下級武士の家に生れます。幼少の頃から学問を学び狂歌もここで覚えます。17才で父の後を継ぎ、翌年本を発刊、学問でも生計を立てます。その後、洒落本などを出版、ベストセラーに輝きます。40才を前に幕臣として再出発。しかし狂歌師としても活躍します。文化元年(1804)55歳のとき長崎奉行所勘定方として着任、1年間という短い勤務でしたが長崎にも狂歌などを残します。墓所:東京文京区白山本念寺。なおこの句碑は、諏訪荘が炉粕町からこの地に解体移転したのを期に平成2年(1990)移転記念として建立されました。
碑文「彦山の上から出る月はよか こげん月はえっとなかばい




(24)高濱虚子句碑(たかはま-きょし)【諏訪荘前】
高濱虚子(明治7:1874-昭和34:1959)は愛媛県松山市出身で、本名を高浜清といいます。若い頃から正岡子規の指導を受け明治30年(1897)俳誌「ほとほぎす」に参加、後に主宰となります。その後も多くの俳句、和歌、散文などを手掛け、季題と定形をもつ伝統芸術を大切にした俳句を作り続け生涯に数万もの句を残します。高濱虚子と長崎の関係では昭和28年(1953)長崎を代表する俳人:向井去来の250年忌を期に高濱虚子を招致、2年後に実現します。そして平成4年(1992)有志によってこの句碑の建立となります。
碑文「手を経て 広がるのみの 夏木かな 虚子




(23)福田清人句碑(ふくだ-きよと)【諏訪荘前】
福田清人(明治37:1904-平成7:1995)は東彼波佐見町出身で、江戸末期から明治にかけて医者として活躍した貴族院議員の長与専斎もこの福田家と血縁があります。福田清人は東京大学文学部を卒業後、作筆活動を始めつつ立教大や日大の講師を務めます。このほか長崎の土井の首小中、南陽小などの校歌の作詞を始め多くの児童文学作品を発表します。また、同じ諏訪神社の向井去来句碑建立にも携わりました。
碑文「岬道 おくんち詣での 思い出も 清人




(22)五釐金之碑(ごりんきんのひ)【諏訪荘前】
貿易五厘金制度といって慶長年間(1600頃)から続く積立制度がありました。これが文久元年(1861)から貿易商人らの申し出により貿易額の5/1000(0.5%)を積立てる制度に変わります。使い道として0.3%を身許備(みもとそなえ=身元保証金)、0.2%を長崎市街地の整備に使うものでした。しかしその7年後(明治維新)その積立金は新政府に没収されてしまいます。貿易商人らは再三に渡り払戻しの申し出を行ない、明治9年(1876)に積立金の0.3%。明治16年(1883)残り0.2%が払戻されました(約6万6千円)。当時、長崎は水問題が深刻だったためこの約6万6千円は本河内高部水源地建設に使われます。その後も長崎貿易会所を主体として積立制度は行なわれ明治21年(1888)まで続き、これによって長崎市内の整備が進むのです。




(21)酒田恒山顕彰碑(静待碑)【諏訪荘前】
酒田恒山は羽州(出羽:山形県)出身の武芸家で、本名を傳次郎、号を恒山といいます。宝暦3年(1753)に来崎。恒山は刀から剣、弓矢に至るまですべての拳と学問に優れ、多くの門人を育てます。文化10年(1813)諏訪神社第8代宮司の青木兵庫助など多くの門人によってこの顕彰碑が立てられ、碑文は長崎聖堂助教の武田左久八によって書かれます。なお、この酒田恒山顕彰碑に使われた石は当時大村領だった大浦郷から持ち込まれ、ここに置かれました。このほか碑文から静待碑とか、人物から“やはらのいしふみ(柔の石文)”などと呼ばれます。




(20)恵比須神社【諏訪荘前】
恵比須神社には商売繁盛の神である恵比須さまがお祀りされ、この恵比須さまのことを事代主神(ことしろぬしのかみ)といいます。諏訪神社恵比須神社は古く、江戸時代の貞享4年(1687)から続いている神社です。
ちなみに、神話の中の話ですが、実は恵比須さまお諏訪さま大黒さまの腹違いの兄弟になります。




(19)廣足神社(ひろたり-じんじゃ)【諏訪荘前】
廣足神社には江戸時代、長崎で和歌の指導にあたった国学者の中島廣足や、中島廣足が尊敬する詩歌の祖:柿本人麻呂(かきのもとの-ひとまろ:生没年不詳:奈良期)、国学者:本居宣長(もとおり-のりなが:享保15:1730-享和元:1801)がお祀りされていて詩歌の神といわれています。
この中島廣足(寛政4:1792-元治元:1864)は、本名を嘉太郎、号を廣足といい、熊本細川藩士の子として生れ、若い頃から国学を好くし、その後、江戸で和歌を学びます。31才で来崎、その後は長崎を拠点に和歌の指導にあたります。さらに諏訪神社第9代宮司の青木永章や長崎会所役人の近藤光輔らと和歌を通して交友があって、後にこの3人を崎陽国学の三雄と呼ぶようになります。




(18)願掛け狛犬とげ抜き狛犬【諏訪神社拝殿裏】
諏訪神社には近年、多種多様な狛犬が置かれるようになりましたが、願掛け狛犬やとげ抜き狛犬もその一つです。願掛け狛犬はその昔、丸山の遊女が客人の船員を帰したくないために嵐が来るよう狛犬を海の方向に向け祈願したところから願掛け狛犬と呼ばれています。また、とげ抜き狛犬は、刺(とげ)つまり災いを抜き取って下さるご利益があり、祈願の仕方はこよりを足に結び付けるとあります。このほか神殿入口にある狛犬は2-300年もの古さがあり、解説には止事成就狛犬と書いてありますが、止事つまり物事を中止させるご利益があるといわれていて、狛犬の足にこよりを結ぶと願いが成就するそうです。




(17)高麗犬井・高麗犬水(こまいぬ-)【諏訪神社拝殿裏】
高麗犬井は水道がなかった江戸時代から使われている井戸で、いかなる干ばつにも枯れることなく諏訪神社で一番清らかな水といわれていました(現在は水道水使用)。そして神事直会時はこの水で調理していたそうです。また名称の高麗犬とは狛犬のことで、その昔、高麗(昔、朝鮮半島にあった国)から伝わった獅子に似た架空の動物でした。そして、この高麗犬(狛犬)が神社に置いてあるのは魔除けの意味を持ちます。現在では安産や金運にご利益があるともいわれています。




(16)斎庭(ゆにわ)【諏訪神社拝殿南側】
斎庭とは身を清める(清祓い)場所をいい、神官や参拝者が月例祭や大祭などの祭典に先立ってお祓いをする場所をいいます。また、諏訪神社創始の時期から行われている湯立て神事はこの斎庭において行われています。このほか斎庭には力石は呼ばれる丸く大きな石があって、解説によるとその昔、力競(比)べに使われたということです。さらに大正9年(1920)4月2日には、昭和天皇長崎巡幸の際、長崎図書館内にお手植えが行なわれましたが、この力石はそのお手植えの踏み石として使われました。なお、力石の解説文は第14代宮司立花照夫によるものです。




(15)よか獅子【諏訪神社拝殿前】
よか獅子は世界的彫刻家の流政之(大正12:1923〜)の作品で設置当初は700万円の値段がついたといわれます。流政之は長崎出身で第2次大戦時、零線パイロットを経験。終戦後は彫刻家の道を進みます。今は無きニューヨーク貿易センタービルのシンボル:巨大彫刻の「雲の砦」は彼の代表作で、平成13年(2001)のテロ事件の際でも奇跡的に残りました(復旧作業のため撤去)。このよか獅子は平成10年(1988)建立されました。




(14)神馬(しんめorじんめ)【諏訪神社拝殿前】
神馬とは神様がお乗りになる馬を意味し神社に奉納された馬をいいます。また、この馬が後の絵馬の起源となります。諏訪神社の神馬は昭和3年(1928)長崎製鉄所の創業記念に奉納されましたが(後に長崎公園に移転)、第2次大戦時、供出され姿を消しました。そこで、昭和60年(1985)昭和天皇在位60年を記念して新たに神馬が建立されます。この神馬は平和祈念像の作者:北村西望(明治17:1884-昭和62:1987)の昭和59年度第16回日展の出品作です。




(13)種田山頭火句碑(たねだ-さんとうか-)【諏訪神社踊馬場南】
種田山頭火(明治15:1882-昭和15:1940)本名:正一は山口県防府の出身で、幼少の頃、母親と死別、父親とも疎遠で、早稲田大学に入学するも中退して帰郷。その後も不幸な生活が続き大正14年(1925)出家します。九州、四国、中国などを托鉢、放浪の旅をし多くの句を作ります。ここの句は昭和7年(1932)長崎に訪れ諏訪神社を参詣した際に詠まれたもので、碑文は山頭火の句をテーマにして活躍されている版画家の小崎侃(こざき-かん:昭和17:1942〜)氏によって書かれたものです。山頭火:墓所:防府市護国寺
碑文「大樟の そのやどり木の 赤い美




(12)大楠日吉社(おおくす-ひえしゃ)【諏訪神社踊馬場南】
踊馬場南側の大楠は諏訪神社創建当初(寛永2:1625)より自生しているもので、その昔、幹の空洞に日吉社がお祀りされていました。しかし浮浪者が住みついたため閉鎖。現在は大楠の外側に移転しています。また、あわせて狛犬も置かれていますが、この狛犬は江戸時代、祈願すると疱瘡(ほうそう)などの腫れ物が回復するといわれていて、祈願方法は狛犬に患部と同じ所に白紙を貼り、完治したら白米の団子を作り白紙にに包み狛犬に奉納するものでした。しかし狛犬はいつの間にか土中に埋没してしまい大正の文献には行方不明とあり、それが360年の大改修の際、発見されこの位置に置かれるようになりました。




(11)長坂(ながざか)【諏訪神社参道】
長坂は諏訪神社大門の前にある73段の坂段(石段)のことで、正保年間(1645頃)に造られ享保7年(1722)長崎代官の高木作右衛門が整備、さらに寛政12年(1800)長崎奉行肥田豊後守によって両側の石垣を築かれました。この長坂は諏訪神社の神事(くんち)の際はこの石段には多くの観客が集まり格好の見物場所になります。




(10)踊馬場(おどり-ばば)【諏訪神社参道】
踊馬場は長坂の下にある広場を指し、諏訪神社の神事(くんち)の際、各町の奉納踊りが行なわれる場所から踊馬場と呼ばれるようになりました。このとき長坂や踊馬場の左右には桟敷が設けら多くの観客で賑います。




(9)祓戸神社(はらえど-)【諏訪神社参道】
祓戸とは神社に参詣する際に身を清める場所をいい、主に神官が祭典に先立ってお祓いをする場所です。この祓戸には次の4体の神が祀られていて、瀬織津比売(せおりつ-ひめ)・速開都比売(はやあきつ-ひめ)・気吹戸主(いぶきどぬし)・速佐須比売(はやさすら-ひめ)の4体を祓戸の神といいます。この祓戸の神は人間の様々な罪穢(けが)れを祓って下さる大変ありがたい神といわれています。




(8)福澤諭吉像【諏訪神社参道】
福澤諭吉(天保5:1834-明治34:1901)は大坂堂島の中津藩蔵屋敷で生まれますが父の死ですぐに中津に帰ります。幼い頃より勉学に励み20才になり長崎に留学します。1年間蘭学などを学び再び大坂、そして23才のとき江戸に蘭学者として迎えられます。そして現在の慶応義塾大学の前身となる福澤塾を開き蘭学を広め、さらに幕末の日本を独立した国家として築き上げるため尽力し、開国そして明治の礎を創ります。
この福澤諭吉像は平成10年(2000)長崎三田会によって建てられ、銘は当時の塾長である鳥居康彦によって書かれています。
碑文「天は人の上に人を造らず 人の下に人を造らずと云えり」(学問のすすめ)




(7)山本健吉文学碑【諏訪神社参道】
山本健吉(明治40:1907-昭和63:1988)本名:石橋貞吉は、石橋忍月(森鴎外と文芸評論について論争して注目を浴びた人物)の三男で、磨屋町(現 古川町)生まれの銅座町育ちです。(旧制)県立長崎中学校から慶応大学へ進み国文学を学び、卒業後は出版や新聞関係の仕事に就きますが文芸評論家として脚光を浴び、俳句や短歌の研究に励み多くの文学作品を残します。この文学碑は山本健吉の「母郷行」の一節が書かれています。




(6)向井去来句碑【諏訪神社参道】
向井去来(慶安4:1651-宝永元:1704)は、儒学者:向井元升の次男で35才頃、松尾芭蕉の門下となり、やがて蕉門十哲(しょうもんじってつ)の一人に数えられます。元禄2年(1689)帰郷し長崎に蕉風俳諧を伝えた人物でした。この句碑は東京の無月同会ほか小説家で俳人の福田清人によって昭和61年(1986)に建てられたものです。
尊さを 京でかたるも 諏訪の月 落去来




(5)下村ひろし句碑【諏訪神社参道】
下村ひろし(明治37:1904-昭和61:1986)本名:下村宏は、明治34年(1901)日本で5番目となる婦人科の学校:下村産婆学校を設立した下村亨の長男で、下村宏もこの学校を引き継ぎます。しかし第2次大戦後に廃止され、後に磨屋町(現 古川町)に下村産婦人科を設立します。下村ひろしは俳句に長け、昭和22年(1947)「棕梠(しゅろ)」の主宰となり活躍の場を広げます。この碑は昭和55年(1980)機関誌「棕梠」300号記念と自らの喜寿の記念として建立されました。
龍踊や社頭の秋日捲込んで ひろし




(4)(四ノ鳥居)建立記念碑【諏訪神社参道】
四の鳥居は諏訪神社創建300年(寛永2:1625再建)を記念して建てられたものですが、この記念碑はその四の鳥居の建立を記念して建てられました。建立には文明堂の創始者でもある中川安五郎らの寄付を得て建てられ、碑文は明治時代の宮中顧問官で神職のニ絛基弘(安政6:1859-昭和3:1928:号 孤鶴)によって書かれました。
神明のお恵みによりて産れ 神明の御恩を更て 生きながらへる 我々只御神霊に祓ひたてまつるわ 人たるものの勤なり




(3)まよひ子志らせ石(迷い子知らせ石)【諏訪神社参道】
三の鳥居の上手に明治12年(1879)に建てられたまよひ子志らせ石という石碑があります。石碑には「たづぬる方」「おしゆる方」と書いた面があって、子供を探している親は“自分の住所と子供の名前”を書いた紙を「たづぬる方」と書いてある面に貼り、一方、子供を保護した人は“その子の名前と年齢と特徴”そして“保護した人の住所と名前”を書いた紙を「おしゆる方」と書いた面に貼り、お互い連絡し合うという方法です。これは諏訪神社祭事の際、あまりの迷子の多さのため長崎県警察課警察署の警部の人達によって建てられました。なお、当初は一の鳥居のそばにありました。




(2)流鏑馬馬場(やぶさめ-ばば)【諏訪神社参道】
流鏑馬馬場は別名横馬場ともいい、諏訪神社参道から松の森神社までの通りをいいます。流鏑馬とは馬を走らせ矢で的を射る儀式のことで、江戸時代、諏訪神社の神事(くんち)終了の日、ここで流鏑馬を行なったところからこの名が付いたといわれています。




(1)諏訪神社の陰陽石(-いんようせき)【諏訪神社参道】
陰陽石は陰と陽つまり女性と男性を表わし、神社仏閣には決まって存在する子孫繁栄の象徴です。諏訪神社の陰陽石は判っているだけで2ヶ所あって、1つ目は参道の路面、もう一つは拝殿の前の路面にあります。参道の陰陽石は陰陽別々に存在していて陽石(男石)が一の鳥居とニの鳥居の間、陰石(女石)が三の鳥居と四の鳥居の間にあります。参道のものは陽石が男性の象徴を輪切りにしたようなもので、陰石は六角形をしていて女性自身を表わしています。そして拝殿前のものは四角形と円を合わせたデザインで、陰石の中に陽石が組み込まれた形の夫婦和合を意味します。




〜平成15年(2003)10月18日より転送〜
A-154:諏訪神社(すわじんじゃ)
上西山町18-15(旧長崎村西山郷玉園山)
諏訪神社には三体の神(諏訪神社、森崎神社、住吉神社)が奉られていて、そのうち諏訪神社は弘治年間(1556頃)長崎甚左衛門の弟の織部亮為英が京都より諏訪の神を受け東山(現在の寺町長照寺付近)にお祀りしたことに始まり、森崎神社はいつの頃か森崎(現在の県庁付近)に、そして住吉神社は小島郷尾崎(現在の正覚寺付近)に奉られていたことに始まります。しかし、キリシタンによる迫害によってその記録は定かではなく、特に慶長14年(1609)頃起った迫害では御神体まで廃棄されたといわれています。
 そこで修験者の青木賢清は神道の再興のため長崎入りし、寛永2年(1625)長崎奉行長谷川権六郎の援助のもと諏訪神社を西山郷圓山(現在の松森神社)に再建します。慶安元年(1648)現在の玉園山に移転。この頃は玉園山神宮寺とも称していました。江戸時代も中期になるとオランダ人や唐人なども参詣するようになり大いに賑います。度重なる台風や火災に何度も倒壊や焼失しますが、総町(長崎の全町)からの寄進によって再建を果し、長崎の氏神様として親しまれています。また、10月に行なわれる大祭(くんち)は日本三大祭と称されています。




<歴史散歩移動ツール>
前の月へ移動最新の月へ移動次の月へ移動
前の年へ移動 次の年へ移動

管理者専用



- Cute Diary Ver2.06 - by Ultinet.Inc SPECIAL THANKS : Daughter 16