広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成25年 〜2013年〜
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【第六十番霊場】東法山遍照院(とうほうざんへんじょういん)
東山町15-5(旧戸町村大浦郷)




【第五十九番霊場】榎観音堂(えのき-かんのんどう)
高平町14-13(旧長崎村高野平郷)
榎観音堂の創建ははっきりしませんが、天和3年(1683)奉納の地蔵尊像、安永9年(1780)奉納の地蔵尊像があって共に高野平郷の者が安置したとあります。また、明治維新後、廃寺となった願成寺の観音像がここに安置されました。




【第五十八番霊場】西坂地蔵堂(にしざかじぞうどう)
西坂町9-2(旧 上長崎村舟津郷字西坂)【西坂町中自治会公民館】
江戸時代初め、大波止の海中に地蔵尊像が沈んでいるのを付近の樺島町の住民が見つけ、早速、救い上げることになりました。そして井樋の口(現 銭座町)にある聖徳寺へ安置するよう運び出しますが、西坂を通り過ぎた頃、急に地蔵尊が重くなったため、その日はその場に置いて帰ることになります。そしてその夜、地蔵尊を運んだ者の夢枕に地蔵尊が現われ、西坂に安置するようお告げをしたといいます。以降、地蔵尊は西坂の地に置かれ、今では西坂町の住民によって大切にお祀りされています。




【第五十七番霊場】秋葉山杉田阿弥陀堂(しょうようざんすぎたあみだどう)
本河内4(旧 長崎村本河内郷字トヤ)【妙相寺境内】
昭和50年代、信仰者の杉田氏によって阿弥陀如来、地蔵菩薩、観世音菩薩を建立しました。




【第五十六番霊場】天寿庵(てんじゅあん)
夫婦川町12-38(長崎村夫婦川郷字天寿庵)【中川家所有】
天寿庵は付近の小字にも使われていて、その昔、長崎甚左衛門の庵があったところといわれ、現在は中川氏所有のお堂としてお祀りされています。また、この中川氏は中川という地名の由来ともなった家系で、長崎甚左衛門の流れを持っているともいわれています。




【第五十五番霊場】出来大工町不動堂(できだいくまち-ふどうどう)
出来大工町15〜20 (旧出来大工町)
正保元年(1644)延命寺開基の僧:龍宣は弟子の慶順に出来大工町に一寺を建てさせました。そして青面金剛尊を祀り青光寺と命名します。一方、元禄9年(1696)僧卜意は青光寺の前にお堂(不動堂)を建て石像の不動明王をお祀りします。しかし天保7年(1836)の火災で損傷し木造の不動明王像になります(台座は当時のもの)。明治維新後、維持が困難となり青光寺および不動堂を廃されることになるのですが、町内の有志の尽力によって不動堂だけが残ることになり現在に至ります。




【第五十四番霊場】光日山御光院(こうじつざんごこういん)
日の出町15-3(旧 戸町村大浦郷)
御光院の創建は昭和28年(1953)白川妙光によって創建された寺院です。




【第五十三番霊場】界町阿弥陀堂(さかいまちあみだどう)
界1-21附近(旧 日見村大字界名)
界町阿弥陀堂の創建は不明。阿弥陀如来をお祀りするお堂で、長崎街道と網場道の分岐点にあるお堂です。




【第五十二番霊場】岡部大師堂(おかべだいしどう)
江平1-32-1(旧 浦上山里村)
岡部大師堂は昭和28年(1953)岡部長次郎によって波の平町の自邸にお祀りされてものですが、平成13年(2001)この地に移ります。




【第五十一番霊場】山の神堂(やまのかみどう)
本河内2-16-41(旧 長崎村本河内郷)
山の神堂の創建ははっきりしませが、小森氏が勧請しお祀りしているお堂です。




【第五十番霊場】樋口大師堂(ひぐちだいしどう)
本河内1-13-10(旧 長崎村本河内郷)
樋口大師堂の創建ははっきりしませんが、樋口氏が勧請しお祀りしているお堂です。




【第四十九番霊場】曹洞宗海雲山普昭晧台寺(かいうんざん-ふしょう-こうたいじ)
寺町2-1(長崎村伊良林郷字下之平)
長崎開港後の慶長年間(1596-1614)長崎はキリシタンの全盛期で仏教の布教は大変厳しい時でしたが、肥前松浦の洪徳寺の住持:亀翁(英鶴)は長崎入りし改宗に尽力します。あまり成果は挙がりませんでしたが時の第3代長崎奉行長谷川左兵衛藤広は亀翁の働きに同情し寺の建立を許可。慶長13年(1608)女風頭山麓(現在の筑後町付近)に笠頭山洪泰寺を建立します。慶長18年(1613)の禁教令発布を受けると改宗が進み記録では48,600人もの人が帰依したといいます。亀翁は改宗が落ち着くと退き佐賀より一庭融頓を向え住持とします。元和5年(1619)長崎代官村山等安が処刑されると等安の建物が与えられ、境内に移築し本堂とします。寛永3年(1626)船本弥平次と梅野了安が自らの所有地を洪泰寺に寄進、現在地に移転となります。寛永19年(1642)一庭は江戸で将軍家光と京都で明正天皇と謁見、一庭は特別な位になり海雲山普昭晧台禅寺の号を与えられ後に改称となります。その後も一庭は光雲寺や永昌寺、高林寺などの建立や天草などでの改宗活動に尽力。慶安元年(1648)晧台寺は御朱印地に指定、以降、幕府の保護を受け租税などの免除を受け境内整備や各地に末庵を広げます。しかし明治維新を受け幕府の保護がなくなると末庵などが整理されますが、その後も勢力は大きく現在でも晧台寺は長崎でも最大規模の寺院となっています。




【第四十八番霊場】お城谷観音堂(おしろだにかんのんどう)
片淵3-19-1(旧 長崎村片淵郷)
創建は不明。本尊の大悲観世音菩薩台座には「元文元年(1736)片淵村女人講18人」とあり、さらには盂蘭盆会用の銅鑼(ドラ=双盤)には天保5年(1834)と刻されており、観音堂はすでに江戸時代中期より奉仕されていたことが分かっています。




【第四十七番霊場】浄土宗萬年山比経院三寶寺(-さんぽうじ)
寺町5-22(長崎村伊良林郷字中之平)
元和初年(1615〜)長州萩藩出身の僧:轉譽は、第3世天台座主の慈覚大師(794-864)作と伝えられた矢負の弥陀という阿弥陀如来の木像を背負って長崎入りし、阿弥陀橋の南側に住み浄土宗の布教を始めます。当時、この轉譽の活動に時の第4代長崎奉行長谷川権六守直は大変賞賛し、この地に寺の建立を許可、元和9年(1623)轉譽は寺を建立し矢負の弥陀を本尊とします。これが三寶寺の創建となります。そして第13代猶譽は公家のとの関わりがある院家職であったため文政8年(1825)には菊花葵紋章を賜ることとなり本堂は唐破風造の院家格式の構造となっています。天明8年(1788)には格天井180区画に花の天井絵が施されました。本堂は元禄年間に再建されたものですが昭和20年(1945)原爆で大破。のちに改修が行われて今に至っています。




【第四十六番霊場】一ノ瀬大師堂(いちのせだいしどう)
本河内1-19-21(旧 長崎村本河内郷字一ノ瀬)
一ノ瀬大師堂は地元の小森綱吉によって大正9年(1920)ごろに創建され、代々小森氏が管理しているお堂です。




【第四十五番霊場】豊前坊上不動堂(ぶぜんぼうかみふどうどう)
本河内2(旧 長崎村本河内郷字豊前坊)
飯盛神社(豊前坊)には2つの不動明王堂があって、一つは飯盛神社社殿横にある荒田不動明王堂と社殿下にある浪切不動明王堂です。おそらく祭神の不動明王は江戸時代の本覚寺のもので、明治維新の廃仏毀釈によって仏像群は破却もしくは取り除かれ社殿とは離れた場所に安置されたものと考えられます。なお、登山道中腹には行場(ギョウバ)つまり滝に打たれる行(修行)の場が設けられ、不動明王信仰に関係のあるところでもあります。なお、荒田不動明王堂は長崎四国八十八ヵ所霊場の45番札所に指定され豊前坊上不動堂と称されています。




【第四十四番霊場】宝雲山弘仁寺(ほううんざんこうにんじ)
出雲1-17-23(旧戸町村大浦郷)
三重県出身の修験者:水貝佛徳は十三仏を背負い四国を中心として全国行脚をしていましたが、明治34年(1901)出雲町に大師堂を開創し、本尊を不動明王、弘法大師像などをお祀りします。昭和53年(1978)高野山真言宗宝雲山弘仁寺の寺号となり今に至ります。




【第四十三番霊場】江の浦大師堂(えのうらだいしどう)
江の浦町10(旧浦上淵村)
江の浦大師堂の創建ははっきりしませんが、断崖の上に建つお堂は地元の坂口五太郎氏が寒修行を行い浄財を集め創建されたものです。




【第四十二番霊場】平和大師堂(へいわだいしどう)
平和町27-12(旧浦上山里村字平野宿)
平成14年(2002)長崎四国八十八か所霊場会役員の前田敏博氏によって建立されたお堂で、地区が原爆爆心地に近く被爆者や戦争犠牲者の慰霊と世界平和を祈念して平和大師堂と名付けられました。




【第四十一番霊場】伊良林観音堂(いらばやしかんのんどう)
伊良林1-4-11(長崎村伊良林郷字大窪)
伊良林観音堂の創建は不明ですが、その昔、伊勢町の小田久三郎によって観音菩薩像と弘法大師像を建立され、観音菩薩像は小田久三郎が祈願のために像を背負い諸国を巡歴したといわれています。




【第四十番霊場】薬師寺教会(やくしじきょうかい)
西山3-1-26(旧長崎村西山郷)
明治時代初期(1868〜)島原にある大師堂のすすめで肥前観音三十三か所霊場の一つとして創建されたもので、堂内の青銅大師像は盗難に遭うも偶然この土地の所有者が海中により偶然発見されたものです。




【第三十九番霊場】峯巖寺観音堂(ほうがんじかんのんどう)
飽の浦町10-30(浦上淵村飽ノ浦郷/飽ノ浦町1丁目)
明治35年(1902)銭座町聖徳寺の僧:井上達龍は飽の浦地区の信徒増加に伴い教会所を創建。当時は飽の浦教会所と称していました。その後、大正10年(1921)静岡県の宝台院の境内にあった峯巖院の寺号を移し峯巖院と公称し、のちに峯巖寺とします。本堂は木造入母屋造りの建物で正面には金龍院と書かれた大額が掛っています。堂内は内陣、外陣の区分けがあり、内陣中央には本尊阿弥陀如来像が安置されています。観音堂創建は不明。




【第三十八番霊場】大福山宝輪寺聖寿院(だいふくざん-ほうりんじ-せいじゅいん)
上戸町1-13-29(旧 戸町村上郷)
朝鮮百済国の琳聖太子28世の子孫である修験者:増慶は江戸時代初め長崎に入りし、新紙屋町に寛永18年(1641)一寺を建て宝輪寺の創建とします。その後、延宝4年(1676)高野平郷に移転。当時、長崎奉行所には3個の陣貝があって1個はこの宝輪寺に備えて置くことになり、奉行が市内巡見の際は差し出さなければなりませんでした。文化5年(1808)フェートン号事件以降、異国船渡来の非常事態の時は宝輪寺も参加するとし、もう一つ陣貝を預かることになります。現在も宝物として陣貝が残されているといわれています。なお、昭和47年(1972)現在地に移転。ここの本尊は大黒天で腹内に黄金の大黒天像が鎮蔵しているところから「腹篭りの摩訶伽羅金天」と呼ばれています。




【第三十七番霊場】御船蔵町地蔵堂(おふなぐらまち-じぞうどう)
御船蔵町6-9(旧 浦上山里村馬込郷字船蔵ほか)【御船蔵町中集会場】
御船蔵町地蔵堂がある場所は江戸時代初めから長崎の処刑場にあてられ、特に島原の乱で処罰された益田四郎時貞(天草四郎)をはじめとする3000人の首はこの地に埋められたといわれ、当時は首塚と称されていました。慶安元年(1648)この場所に御船蔵が設けられることになり船頭(フナガシラ)2名、水主(カコ)10名の長屋と元禄8年(1695)には火番所が建てられることになり、元禄10年(1697)それまでの処刑場の慰霊の意味を込め地蔵尊の建立がなされます。以降、この地では疫病や火災などの災害が起こることなく、また、多くの参詣者や崇敬者から親しまれるのですが、昭和20年(1945)原爆の影響で焼失します。昭和32年(1957)御船蔵町の有志によって再建され今に至ります。




【第三十六番霊場】真言宗寶磐山聖無動寺利生院(-ほうばんざん-しょうむどうじ-りせいいん)
筑後町2-70(旧 下筑後町字下笠頭/岩原郷字下笠頭)
寛永19年(1642)頃、利生院專音という僧が長崎入りし、正保元年(1644)長崎奉行の許可を得、利生院を建立します。当時、オランダ船宗門改やオランダ方役筋制詞証文などの作成や調査がここで行われ、さらにはオランダ船海上安全やオランダ商館の安泰などの祈祷が始まると、オランダ人から毎年、砂糖の寄進を受けるようになります(砂糖は長崎会所に一旦入ったのち正貨にて納められます)。一方、万治元年(1658)第2代住持:宥昌が京都に上り真言宗寺院仁和寺から寺号を得、現在の聖無動寺となりました。明和5年(1768)からは長崎奉行より出島オランダ商館の避難所指定を受け、オランダ商館と密接な関係となりますが幕末になるにつれ衰退しはじめ、一時期、海軍伝習所生の宿営地に当てられますがついに明治維新を迎えます。聖無動寺は檀家がなかったこともあってその後は信徒獲得に努めることになります。明治期以降、仮本堂、聖天堂、庫裏などを有していましたが昭和20年(1945)8月9日。原爆の影響で焼失。その後、堂宇が再建され今に至ります。




【第三十五番霊場】曹洞宗瑠璃光山妙相寺(-るりこうざん-みょうそうじ)
本河内4(旧 長崎村本河内郷字トヤ)
寛永19年(1614)薬師如来を本尊とした宗圓寺が今籠町(現 大音寺付近)に創建され多くの信者が訪れていましたが後に衰退し、延宝7年(1679)晧台寺第5世逆流が妙相寺として再興します。宝永4年(1707)本河内の吉川儀部右衛門より土地を購入し移転。境内に天満宮や秋葉大権現などを設け境内を整備します。文化5年(1808)には非常時の唐人らの避難所に指定され、唐船主らの参詣が常となります。明治に入り檀家が少ないため寺院維持のため仏像などは整理され、さらに農地財産も売却し第二次大戦後は無住持となります。現在は波の平町の太平寺が住持を兼務し自治会によって管理されています。なお、本尊は明治の初めに(明治8年以前)釈迦如来に変更されましたが、現在は再び薬師如来に改められています。




【第三十四番霊場】真言宗英彦山不動院(ひこさん-ふどういん)
本河内3-28-8(旧 上長崎村本河内郷字善吾岩)
英彦山不動院は昭和35年(1960)高橋敬雄氏が発起し昭和37年(1962)御手水に庵を構え創建となります。昭和41年(1966)現在地に移転。福岡県の英彦山から勧請した英彦山権現や不動明王をお祀りし、護摩供養などを中心に様々な祈祷が行われています。また、水子供養も行われていて門前には玩具の風車がたくさん並べられています。このほか地蔵尊、稲荷神など様々な神仏がお祀りされています。




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