広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成25年 〜2013年〜
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【第三十番霊場】町田地蔵堂(まちだじぞうどう)
稲田町6-13(旧 長崎村十善寺郷字田ノ浦)
創建は不明。地元の町田氏によってお祀りされています。




【第二十九番霊場】夫婦川観音堂(ふうふがわ-かんのんどう)
夫婦川町4 (旧長崎村夫婦川郷字トッポ水)
夫婦川観音堂は独鈷水/トッポ水の上にある観音堂のことをいい、延宝7年(1679)に観世音菩薩を本尊として創立しました。言い伝えによると、その昔、この夫婦川郷が飲み水に大変困っていたとき、ここの観世音菩薩に祈願し開墾したところ清水が湧き出したといわれ、それが現在、お堂下の泉といわれています。また、この泉は長崎に入港した唐船やオランダ船の飲み水に使われたともいわれています。




【第二十八番霊場】倉谷地蔵堂(くらたにじぞうどう)
木場町
創建は不明。地元木場地区の住民によってお祀りされています。




【第二十七番霊場】五島大師堂(ごとうだいしどう)
本河内2-5-30【五島氏宅】
大正6年(1917)五島作太郎によって創設され、代々五島氏によってお祀りされています。




【第二十六番霊場】中山大師堂(なかやまだいしどう)
大鳥町2-1(旧 浦上淵村)
中山大師堂の創建ははっきりしませんが、付近の中山氏が明治時代ごろに勧請しお祀りしているお堂です。




【第二十五番霊場】横向き地蔵(矢の平地蔵堂)
矢の平2-3(長崎村伊良林郷)
矢の平地蔵堂の創建は定かではありませんがお堂の祠には寛政3年(1791)と刻されています。
昔々、一人の泥棒が町で盗みを犯し長崎の外れのこの地まで逃げて来ます。ふと横を見るとお地蔵さまが泥棒を見ていて泥棒は「この事は誰にも言わないで下さい」とお願いをします。するとお地蔵さまは泥棒に「誰にも言わないから私のことも言わないように」と言い“ぷいっと”横を向かれます。泥棒はびっくりしますがそのままどこかに逃げて行きます。数年後、泥棒は長崎にまた舞い戻って来てお地蔵さまの前を通りかかります。泥棒は横を向いたお地蔵さまの姿に驚き、たまたま通りかかった男の人に今までのことを一部始終を話すと、男は「さてはお前はあの時の泥棒か」と怒り奉行所に突き出したといわれています。今でもこのお地蔵さまは横を向いたまま通行の人々を守っています。




【第二十四番霊場】金鍔大師院真照寺(きんつばだいしいん-しんしょうじ)
戸町3丁目547(戸町村下郷)
金鍔谷は「谷」という名称ですが洞穴のことをいい、金鍔の由来は江戸時代初め、キリシタンであった金鍔次兵衛が潜んでいたことに始まります。現在では金鍔大師院真照寺が置かれ信仰の場所になっていますが、洞穴は当時のままの姿で残っています。この金鍔大師院真照寺ですが昭和2年(1927)真言宗の峰教順師によって建立されたものです。




【第二十三番霊場】真言宗宝珠山萬福寺(-ほうじゅざん-まんぷくじ)
旭町23-27(旧 浦上淵村)
大正13年(1924)延命寺住持:茂里舜龍が昭和天皇ご成婚を記念し稲佐地区の布教所として教会所を建立。第二次大戦中はロシア人捕虜が収容されていた時代もあり、終戦後は延命寺住持:堤祐演によって延命寺の別院となります。平成20年(2008)延命寺別院の佐々野隆海、隆寛の両氏は現在の淵神社のところにあった真言宗寺院:萬福寺の再興として新たに寺号を得て宝珠山萬福寺を創建し平成21年(2009)本堂を完成させます。




【第二十二番霊場】曹洞宗大龍山泰三寺(-たいりゅうざん-たいさんじ)
曙町30-3(旧 浦上淵村)
明治期以降、晧台寺の壇信徒のうち稲佐地区の住む者にとって参詣は不便を期し、そのため説教所の建設が求められていました。大正9年(1920)晧台寺住持の霖玉仙は許可を取り説教所の創設となります。当初は悟眞寺の下段に位置し、昭和6年(1931)現在の稲佐公園の地に移り、その後、現在地へと変わります。




【第二十一番霊場】真言宗大覚寺派穴弘法奥の院霊泉寺
江平1-32-1(旧 浦上山里村)
穴弘法(寺)のあるこの一帯にはもともと慶安元年(1648)創建の圓福寺(現 山王日吉神社)の奥の院のあった場所で支院の常福寺、白巖寺がありました。そして寛政2年(1790)浦上山里村庄屋の高谷永左衛門が弘法大師像を設けるため村民に寄付を募り、それに応じない者がキリシタンとみなされ浦上一番崩れの遠因となりました。その後、荒廃し仏像などは圓福寺(現 山王日吉神社)や聖徳寺に移され、廃仏棄釈後は廃寺となります。明治42年(1909)花田辰五郎によって再興され霊泉寺となります。霊泉寺後山には巨大な陰陽石があって、陰石の岩窟には弘法大師がお祀りされています。




【第二十番霊場】真言念仏宗白雲顯山蓮聖院
(はくうんけんざんれんしょういん)
茂木町888-7(旧 茂木村)
当初、第二十番霊場は秋葉山妙相寺境内にあって、昭和62年(1987)蓮聖院境内に移転し、本尊も新たに建立されました。




【第十九番霊場】立江地蔵堂(たちえ-じぞうどう)
立山2-16-16(旧 岩原郷字下笠頭)
創建は不明ですが弘法大師など民間信仰の場として誕生し、付近一帯には多くの石仏などを見ることができます。昭和13年(1938)には地区の大師講によって13体の仏像(十三佛)が建立され、当時の信仰の深さを示しています。
※十三佛とは虚空菩薩、大日如来、阿閦如来、阿弥陀如来、勢至菩薩、観世音菩薩、薬師如来、弥勒菩薩、地蔵菩薩、普賢菩薩、文殊菩薩、釈迦如来、不動明王をいいます。




【第十八番霊場】西小島下ノ切地蔵堂
西小島1-1(旧長崎村小島郷)
お堂は明治時代より町内にありましたが昭和50年ごろ老朽化のため再建され今に至ります。




【第十七番霊場】曹洞宗月桂山光雲寺(げっけいざん-こううんじ)
出来大工町4 (旧出来大工町)
光雲寺は正保3年(1646)曹洞宗の僧:松雲宗融と晧臺寺の一庭が長崎奉行馬場三郎左衛門に願いを出して開かれました。開基を一庭、2代住職を宗融として始まります。一方、言い伝えでは光雲寺はもともと長崎村本河内郷字昌源(現本河内町蛍茶屋付近)のところにあって、キリシタンによる弾圧で衰退してしまい、そこで宗融が出来大工町に移し一庭に協力を仰ぎ開かれたともいわれています。現在、蛍茶屋電停横に光雲寺の墓地があるのは、こういった経緯があったからです。また、光雲寺本尊は慶安年間(1650頃)唐通事の頴川官兵衛、陸一官らによって中国普陀山にお祀りしてあった釈迦如来像、普賢菩薩像、文殊菩薩像の各像を光雲寺に移したものです。昭和50年(1975)ごろ道路拡張のためセットバックし鉄筋コンクリート建3階の建物に変わります。




【第十六番霊場】長崎山清水寺興成院
(ちょうきざん-きよみずでら-こうじょういん)
鍛冶屋町8-43(旧長崎村高野平郷/八坂町)
山城国(現 京都府南部)八幡出身の僧:慶順は京都清水寺に入っていましたが、後に諸国巡礼を始め元和年間(1615-1623)長崎入りし、小島の民家に滞在し真言宗を説いていました。当時、キリシタンの勢力が強かったが慶順に帰依する者が多く、時の長崎奉行長谷川権六はその努力に対し寺院建立を許可します。慶順は早速、建立場所を探していましたが、ある夜、小島の民家から見て東の方に何か光を見たので、翌朝、その場に向うと大きな石から光が発していました。慶順はすぐにこの地に寺院を建立。京都清水寺から持参してきた観音菩薩像を安置します。観音菩薩像は運慶作とも延鎮僧都ともいわれ、延鎮が京都清水寺のために作った8尺(約240cm)の仏像の試作品といわれています。慶順はこの寺を清水寺興成院とし、光を放った石を瑞光石と名付けます。この時、元和9年(1623)でした。寛永4年(1627)境内改修、寛文8年(1668)祟福寺の大壇越:何高材と何兆晋が本堂の改修、以降も度々改修され、現在は平成22年(2010)に大改修が行われました。




【第十五番霊場】真言宗不動山室生寺(-ふどうざんむろおじ)
西山4-133(旧長崎村西山郷)
室生寺は昭和38年(1963)秋智浄法尼の発願によって創建され、本尊を不動明王とし“西の高野不動山室生寺”と称し霊山として親しまれています。また、安置してある弘法大師像は縁結びの御利益があるとして縁結び大師と呼ばれています。




【第十四番霊場】黄檗宗萬壽山聖福寺(-まんじゅざん-しょうふくじ)
玉園町3-77,73(旧 上筑後町/岩原郷字下笠頭)
元禄3年(1690)聖福寺山門の左右に石地蔵が建立されます。その後、お堂が建立され子安観音や不動明王、弘法大師などが安置されるようになり、後に上筑後町(現 玉園町)の人々によって奉仕がなされるようになります。また、地蔵尊は子供たちの守護神ともいわれ、特に子孫繁栄のご利益があるといわれています。大正7年(1918)地域の江口喜太郎がお堂の改修をした際、地蔵尊などに彩色を施したという記録があって、現在も一部の地蔵尊にその様子を見ることができます。




【第十三番霊場】中小島地蔵堂(なかこしま-じぞうどう)
中小島1-8-36(長崎村小島郷)
この地蔵堂はもともと旧大徳寺境内にあったお堂で、大正2年(1913)この中小島地区に住む高比良政吉によって再建されたものです。また、仏像や仏具(お鈴、線香立など)、お堂自体の建材は廃寺となった大徳寺から譲り受けたもので、数年前に改修が行われた際、内部に朱塗りの木材などを見つけることが出来ました。さらに言伝えによると、ここの地蔵尊は火除けのご利益があるといわれ、付近ではあまり大火が起きないということです。




【第十二番霊場】豊前坊下不動堂
本河内2(旧 長崎村本河内郷字豊前坊)
豊前坊下不動堂は正式には丁場大師堂といい、飯盛神社の下方にある大きな岩の空洞の中に位置し、その昔ここが石場(採石場:石丁場)で仏体はその作業犠牲者のためのものといわれています。創建は大正7年(1918)で石祠のお堂を昭和初期までは尼僧:小森スエがお堂横に庵を構え管理されていました。昭和5年(1930)には石工:佐藤定雄による不動明王、観世音菩薩、釈迦如来などの磨崖仏が刻され当時の信仰の厚さを物語っています。当時の寒行稲荷施行では小豆御飯が振る舞われたり、本河内の青年部が先達となり地元の神社(英彦山神社・奥山秋葉神社・松嶋稲荷神社)を参詣するお巡りがありました。なお、岩場には昔の参道跡として鎖金具を見ることができます。




【第十一番霊場】渡瀬地蔵堂(わたらせじぞうどう)
愛宕3-3-33(旧長崎村高野平郷)
堂内にある地蔵尊には文久3年(1863)の銘があるところから、そのころから始まったもので現在のお堂は大正11年(1922)には地元の愛宕町青年団によって再建され、昭和60年(1985)には地元の山下重義ら有志によって改修されています。




【第十番霊場】足引観音堂(あしびきかんのんどう)
本河内3-6-9付近(旧 長崎村本河内郷字道光)
足引観音堂の創建ははっきりしませんが、旧長崎街道沿いに建つ観音堂で、お堂のそばにある湧水は当時の旅人の喉を潤していた水といわれています。




【第九番霊場】曹洞宗コ光山高林寺(とっこうざん-こうりんじ)
鳴滝1-6-27(長崎村中川郷字松山)
高林寺は正保3年(1646)皓臺寺一庭が禅僧天宗融察と、オランダ通詞の名村、猪俣両氏の援助を受け炉粕町に創建します。一方、上長崎村中川郷に知足庵(当初は栖雲庵)という皓臺寺の末庵があって、明治40年(1907)池田新吉という者が、シャム国王(タイ国)勅願寺サケート寺に安置してあった釈迦如来の銅像をもらい受け、軍艦で長崎に運ばれここに安置します。しかし由緒ある仏像を末庵に納めることに市内寺院から反対が起こり協議会が開かれます。そして当時、移転を検討していた高林寺が手を挙げ、明治42年(1909)知足庵と合併し、この地に高林寺を移し今に至ります。




【第八番霊場】御手水地蔵堂(おちょうず-じぞうどう)
本河内3-34-39(旧 上長崎村本河内郷字上御手水)
創建は不明ですが地元御手水地区の青年団によってお祀りがなされ大山祗神社同様、御手水の守り神として親しまれています。お堂脇に湧水があって昔から旅人ののどを潤していたといいます。長崎四国八十八ヵ所霊場第八番霊場。




【第七番霊場】浄土宗日見山養国寺(-ひみさん-ようこくじ)
網場町451(旧 日見村大字網場名)
江戸時代初め、大音寺を開山した筑後の傳譽開徹(デンヨカイテツ)という僧は、島原藩主:松倉豊後守重政の命を受け日見地方の布教活動を行い、寛永8年(1631)養国寺が開創され弟子の頂譽を住持にあてます。
現在の建物は昭和57年(1982)に建て替えられたものです。




【第六番霊場】岩這薬師堂(いわばいやくしどう)
界1-19-11附近(旧 日見村大字界名)
薬師堂とありますがご本尊は観世音菩薩で俗に歯痛(シツツキ)観音と呼ばれています。これはお姿があたかも歯の痛みで頬に手をあてているかのように見えるところから土地の人が名付けたもので、歯の痛みをとってくれると信じられています。観音菩薩を囲む石柱には寛政3年(1791)とありその当時からお祀りされているところが分かります。このお堂は長崎四国八十八ヶ所霊場第六番霊場にも指定されており四国の第六番霊場のご本尊が薬師如来のため薬師堂と称されます。




【第五番霊場】愛宕五仏地蔵堂(あたごごぶつじぞうどう)
愛宕1-24-29(旧長崎村高野平郷)
願成寺開基の修験者(山伏):宥慶は江戸時代の初めに平戸から長崎入りし立山に一寺を建立します。寛永20年(1643)第12代長崎奉行馬場三郎左衛門利重の許しで合斗峰(ごうとほう=愛宕山)のふもとに移転し、合斗峰山頂の上宮に愛宕大権現と栄術太郎坊天狗をお祀りし、ふもとに地蔵尊を本尊として願成寺(愛宕宮)を開きます。愛宕大権現は火の神様ということもあって、以降ここは長崎奉行より長崎の安全祈願を命ぜられ、幕府老中からの添書きも与えられます。文政元年(1818)や嘉永元年(1848)には唐船より安全祈願のため多額の寄附を得、拝殿や鐘楼堂などの再建に役立てます。しかし、明治維新により廃寺となり愛宕神社となります。五佛石像は境内に移され五仏地蔵堂となります。五佛とは五智如来(ゴチ-ニョライ)とも呼ばれ、大日(ダイニチ)如来、阿閦(アシュク)如来、宝生(ホウショウ)如来、不空成就(フクウジョウジュ)如来、阿弥陀如来の五つの仏様をいい、それぞれに個性を持ち、大日如来は宇宙全体を意味し、阿?如来は物事のすべての現象、宝生如来は平等を意味し、阿弥陀如来は正しいものを見る目、不空成就如来は正しい行いを意味します。阿弥陀如来像は現存せず。




【第四番霊場】真言宗高野山派長崎高野山穴弘法寺
坂本3-6-1(旧 浦上山里村)
穴弘法(寺)のあるこの一帯にはもともと慶安元年(1648)創建の圓福寺(現 山王日吉神社)の奥の院のあった場所で支院の常福寺、白巖寺がありました。そして寛政2年(1790)浦上山里村庄屋の高谷永左衛門が弘法大師八十八ヵ所霊場を設け、廃仏棄釈後は廃寺となりますが、明治42年(1909)に霊泉寺として再興されます。この穴弘法寺は霊泉寺の分院です。穴弘法寺後山には巨大な陰陽石があって、陰石の岩窟には弘法大師がお祀りされています。このほか後山に四国八十八ヶ所霊場より持参してきた砂(お砂)を八十八体の御本尊の石像と一緒に安置していて、同じご利益をいただくことができます。




【第三番霊場】黄檗宗聖壽山祟福寺(せいじゅざん-そうふくじ)
鍛冶屋町7-5(長崎村高野平郷字風頭/旧今籠町)
寛永年間(1624-1643)はキリシタンの取締りが年々厳しくなる時期で、さらに唐人の中にもキリスト教を信仰する者もいて、唐人に対しての取締まりも厳しくなっていました。寛永5年(1628)長崎奉行は中国:泉南地方の唐人に対しキリシタンではないという証明として福済寺(筑後町)を建てさせましたが、中国:福州地方の唐人は寺院の建立がなく福州出身者は建立を急いでいました。寛永6年(1629)ようやく福州地方出身の王引、何高材、魏之琰、林仁兵衛らの援助で唐僧:超然を招致、そして風頭のふもとにお堂を建立、しかしここでは宗教的行事はなく航海安全の祈願や先祖供養を主としていましたが、寛永12年(1635)長崎奉行所の許可を得、祟福寺の建立となります。当時、祟福寺が福州出身者で建立されたことから福州寺(-でら)とも呼ばれました。その後、寄進によって大雄宝殿や山門、媽姐堂など整備が進み寺院としての機能を持つようになります。承応3年(1654)には高僧:隠元が一時滞在したほか、隠元の高弟で大雄宝殿の扁額「世尊(釈迦の意)」を書いた即非禅師や、即非の高弟で大釜を造らせ施粥を行った千呆禅師などは祟福寺の歴代の住持です。現在、祟福寺には国宝の大雄宝殿や第一峰門ほか多くの重文があり文化財の宝庫で、旧暦の7月26日〜28日(8月下旬)には境内で中国盆会(シナ盆)が開催されます。




【第二番霊場】浄土宗正覚山大音寺(しょうかくざん-だいおんじ)
鍛冶屋町5-87(長崎村高野平郷/今籠町)
慶長19年(1614)の禁教令でミゼリコルディア本部の教会部が破却され、幕府あげて改宗の動きが高まりますがキリスト教徒の抵抗が激しく、大音寺開山となる筑後の僧:傳譽開徹(デンヨ-カイテツ)は、第3代長崎奉行の長谷川左兵衛より布教妨害のキリシタンの切捨て御免の許可を与えられます。そして改宗の功が奏し第2代将軍秀忠によりミゼリコルディア本部教会の跡を与えられ、元和2年(1616)大音寺が造られ翌年創建します。寛永15年(1638)傳譽は敷地が手狭になったため老中松平伊豆守に許しを得、現在地に移転します。その後、大音寺は江戸期、明治期など度々大火や大風の被害を受けるがすぐに復興、最近では昭和34年(1959)放火によって全焼したが現在は鉄筋コンクリート造の本堂になっています。




【第一番霊場】真言宗御室派醫王山遍照院延命寺
(-いおうざん-れんしょういん-えんめいじ)
寺町3-1(長崎村伊良林郷字下之平)
慶長年間(1596-1614)キリシタンの全盛期の長崎に備前岡山の僧:龍宣は薬師如来の像を携え長崎入りし、中紺屋町(現市民会館付近)の倉吉氏宅を借りて真言宗(密教)の説教所を開設します。龍宣は多くの帰依者を得、これにより元和2年(1616)時の第4代長崎奉行長谷川権六守直は堂宇建立を許可、現在地が与えられ薬師如来を本尊として創建となります。元和4年(1618)長崎に疫病が流行したため龍宣は疫病退散の祈祷を行ったところたちまち疫病は治まり、これにより多くの市民が本尊の薬師如来に参詣を始め、長谷川長崎奉行も大いに感激し、早速、長崎の安全祈願寺や航海安全などの祈祷所に指定します。そして祈祷札を市内各戸に配布することとし総町より祈祷料を収納することとなります。寛永3年(1626)京都仁和寺より遍照院の名称を得(承応3:1654年院号許可)、寛永7年(1630)第6代長崎奉行竹中采女正重興の援助によって本堂を建立します。寛永18年(1641)醫王山延命寺の寺号の許しを得、その後、真言宗の寺院(萬福寺、青光寺、能仁寺、圓福寺など)を次々に開き、宮家からの寄進や在留唐人らからの寄進で盛んになり堂宇も広くなります。文化11年(1814)の大風によって庫裏などが倒壊。嘉永4年(1851)火災に遭い本堂や聖天堂など焼失。寺勢は衰退しさらには明治維新を受け廃仏毀釈のため末寺はことごとく廃寺となります。明治25年(1892)ようやく本堂が再建され、石門や山門も順次再建されます。現在の建物は本堂、大師堂、不動堂を合築したもので平成15年(2003)に竣工しました。




長崎四国八十八ヶ所霊場【延命寺】
長崎四国八十八ヶ所霊場とは、四国八十八ヶ所霊場に行くことが困難な人のために長崎市内に開かれた霊場のことで、始まりは大正時代(1912〜)といわれています。一旦、第2次大戦で途絶えてしまいますが、その後、昭和28年(1953)延命寺第22代住持:堤祐演ほか延命寺檀信徒らによって復活します。また、長崎四国八十八ヶ所霊場には、ほぼ四国と同じご本尊と弘法大師がお祀りされています。
なお、現在、長崎市内の数ヶ所の寺院に「弘法大師霊場:大正十五年 新橋町先達:百田熊吉」と書いた石碑がありますが、これは大正時代に建立されたもので現在の霊場のものではありません。




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