広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成19年 〜2007年〜
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〇正木医院跡(まさきいいん-あと)【光永寺境内】
正木病院は昭和の始めまであった精神病院で、光永寺の一室を診療所として開設し、光永寺の一族の者が診療に当たっていました。当時、精神科はたいへん珍しい科目でした。入口は古町側にありました。




〇光永寺の(呂洞賓)祖師像
呂祖とは呂洞賓(リョ・ドウヒン)のことをいい、呂洞賓は中国唐の時代の仙人で、幼くして聡敏で若くして儒学者となり仏法や仙術を極め、後に大悟し、やがて神仙となり八仙人の一人に数えられるようになった人物です。たいへん崇敬された仙人でしたが、一説には架空の人物ともいわれています。
 その昔、中国に渡った日本の貿易通商官:王桐峯が呂祖像を崇敬していたところ、中国暦:嘉慶9年(日本暦:文化元年/1804年)夢枕に呂祖が現われ日本国に渡るように告げ、そして崎陽光永寺に安置するように命じたといいます。王桐峯は驚き、さらに祭壇の中にあった手紙には渡航に使用する船主の名前まで書かれていて、ただちに日本へ向かい長崎の光永寺に安置したといわれています。なお、この話は文化元年(1804)に書かれた呂祖真像渡来の略縁起によるものです。




〇光永寺内仏本尊:阿弥陀如来像
光永寺には阿弥陀如来のご本尊が二体あって、そのうち一体は聖徳太子(敏達3:574-推古30:622)作と伝えられていて、園山善爾が経蔵を本堂脇に建立した際、その経蔵の本尊として安置したものといわれています。経蔵がその後、壊された後、阿弥陀如来像は本堂の裏手に移されてしましたが、第13代住持:正木現諦(〜明治30:1897在職)はこの像を内仏本尊と称し、行基(668-749)作と伝えていました。




光永寺文書キリシタンころび証文【光永寺所蔵】
慶長17年(1612)幕府はキリシタン禁教令を発し、慶長19年(1914)には長崎の教会施設は破却が始まります。キリシタンは仏教徒に転宗する(ころぶ)ようせまられ、ころび証文である誓詞(セイシ=起請文)を書き神仏に誓い、さらにそむいた場合に罰を受けるという神文(罰則文)を書かされるのです。また、証文には具体的なキリストの神や聖者などの名前があるところが特徴で、光永寺のものは寛文4年(1664)の年号があります。なお、西勝寺のものは正保2年(1645)の年号があり県指定文化財に指定されています。
具体的な名前:ゑすこむにあん(excommunion)、いんへる野(Inferno)、きりしたん(christao)、てうす(Deus)、ひいりよ(fillo)、すひりつさんと(Espiritu Santo)、さんたまりあ(Santa Maria)、あんしょ(anjo)、へあと(beato)、しゅうたす(Judas)、しゅらめんと(juramento)




D-173:長崎県議会開設の地【光永寺境内】
前年の地方3新法(府県会規則ほか)の制定により明治12年(1879)1月、第1回県会議員選挙が郡区毎に行われ長崎県(現 佐賀県含む)に62人の県会議員が誕生します。しかし当時の県庁舎に議事堂がないため光永寺を月85円で借り受け3月17日に長崎県初の県会が開催されます。そして小城郡の松田正久が議長となり50日間の会期で議事細則案などが審議されました。光永寺県会は明治12年(1879)の交親館完成まで2年間5回にわたって行われました。参照2003/10/05




D-172:福澤先生留学址の碑【光永寺境内】
福澤諭吉(天保5:1834-明治34:1901)は蘭学の研究のため安政元年(1854)19歳で長崎入りし、先に長崎で砲術研究のため光永寺に仮寓していた同じ中津藩の家老の子である奥平壱岐を訪ねます。それからすぐに高島秋帆の門弟で長崎奉行所付触頭の山本物次郎の屋敷のある出来大工町に移り、わずか1年という留学期間で蘭学の原書を読みこなすまで上達したといいます。それから大坂、江戸と進み、現在の慶応義塾大学の前身となる福澤塾を開き蘭学を広め、さらに幕末の日本を独立した国家として築き上げるため尽力し、開国そして明治の礎を創ります。参照2004/03/23,2007-8/28




D-171:園山善爾墓所(そのやまぜんじ-ぼしょ)【光永寺境内】
園山善爾(慶長19:1614-元禄7:1684)は、本名を信庸、このほか独真居士といい、大阪の和泉の農家の家系でしたが、善爾は貿易商人となり寛永7年(1630)長崎入りし、唐貿易で莫大な利益を上げます。天和年間(1681-84)長崎が飢饉に陥ったとき善爾施粥をし、多くの長崎市民を救います。さらに善爾は信仰も厚く、元禄2年(1689)明版蔵経9495巻と経蔵を光永寺に寄附したり、翌3年(1690)には私費で阿弥陀橋を架橋します。なお、光永寺にはその功績を称えた園山善爾石像や石碑、そして墓所が光永寺境内に置かれています。




サン・ラザロ病院跡(San Lazarus)/サン・ジョアン教会跡(San Joanna)【光永寺境内】
天正19年(1591)ポルトガル船長のロケ・デメロペレイラの寄附によって、サン・ラザロ病院サン・ジョアン教会が建設されます。サン・ラザロ病院はハンセン病患者の収容施設で、サン・ジョアン教会は吉利支丹寺:三寿庵といわれていました。慶長19年(1614)の禁教令でサン・ジョアン教会が、元和5年(1619)にはサン・ラザロ病院が破却され、その跡地に光永寺が建ったと伝えられています。なお、現在、両施設は筑後町の本蓮寺付近に置かれたことが定説になっています。




D-170:真宗向陽山光永寺(-こうようざん-こうえいじ)
桶屋町33/古町27(町名変更なし)
慶長末期(1610頃)、肥前国唐津出身の唐津久兵衛は、幕府が禁教令を発しているにもかかわらずいっこうにキリシタンの勢力が衰えないことに憤りを感じ、自ら仏門に入り慶西と名乗り長崎入りします。そして浦上村に庵を構え布教活動を始めますがキリシタンの妨害が強く命を狙われることもあったといいます。そして時の第3代長崎奉行長谷川左兵衛藤広は慶西の働きに対し寺の建立を許可し土地を与え寛永19年(1642)光永寺の創建となります。寛文の大火で焼失するも再建され、元禄2年(1689)には貿易商人:園山善彌(A-165:2003/11/23)が明版蔵経9495巻と経蔵を寄附し信庸庵を完成させ、そのほか唐船などからの寄進などを受け寺格も昇進して行きます。寛政7年(1795)には御朱印地格に命ぜられ本堂、山門、鐘楼などますます充実。明治維新後は長崎県議会場や日曜学校などの場所として使用されました。しかし昭和20年(1945)原爆の影響で本堂などは倒壊してしまいます。平成元年(1989)本堂再建を皮切りに梵鐘など施設整備が進み今に至ります。




桶屋町大師堂【桶屋町天満宮内】
桶屋町大師堂は桶屋町天満宮の楼門の横に設けられている大師堂で、昭和28年(1953)延命寺第22世住職:堤祐演が再興した長崎四国八十八ヶ所霊場の中の第八十番霊場に当り弘法大師をお祀りされています。この長崎四国八十八ヶ所霊場とは、四国八十八ヶ所霊場に行くことが困難な人のために開かれたもので、長崎四国八十八ヶ所霊場を巡ると四国と同じご利益があるといわれています。2004/08/31参照




D-169:桶屋町天満宮(おけやまちてんまんぐう)
桶屋町54(町名変更なし)
桶屋町天満宮の創建は不明で、境内にある鳥居の建立年:嘉永2年(1849)から創建は江戸時代後期と考えらます。祭神は菅原道真公で、社殿は本殿と楼門からなり、楼門の横には弘法大師をお祀りする桶屋町大師堂が置かれています。また、くんちや他の行事など天満宮は桶屋町の会合の場にもなり地元の氏神さまとしてたいへん親しまれている存在です。




D-168:桶屋町(おけやまち)
桶屋町は隣の今紺屋町が慶長11年(1606)頃にひらかれたことから同時期の誕生と考えられ、名前の通り桶職人が集まった町でした。当時、桶屋町に入ると他町の棟梁などは声を潜めて通るほど独特の雰囲気のあった桶職人街だったといわれています。その後、桶屋町は商家などの建ち並ぶ町になり今に至り、現在まで町名町界の変更はありません。長崎歴史博物館に収蔵されてある「桶屋町宗旨改踏絵帳」は当時の人々の様子がわかる貴重な資料として重要視されて、また、長崎くんちにおける桶屋町の傘鉾は象ののった傘鉾として有名で、飾りはからくり時計、垂は長崎刺繍と当時の技術の素晴しさを知ることができます(市指定文化財)。




D-167:一覧橋/第六橋(いちらんばし/だいろくきょう)
桶屋町-麹屋町間/中島川
一覧橋は江戸時代、第六橋と呼ばれ、当時は桶屋町に架かっていたところから桶屋町橋とも呼ばれ、明治15年(1882)になって正式に西道仙により一覧橋と命名されます。明暦3年(1657)中国福建省漳州(チャクシュウ)出身で福済寺の大壇越であった高一覧(日本名:渤海/深見久兵衛)が広く寄附を募って架橋しました。高一覧は慶安3年(1650)にも大手橋を架橋しています(A-161:2003/11/17)。享保6年(1721)享保の大水害と寛政7年(1795)寛政大水害で流失しましたが公費によって石橋に再架。昭和57年(1982)長崎水害で再び流失します。昭和60年(1985)復旧工事を始めますが、この年が長崎市と福州市が友好都市締結5周年という記念の年ということと、高一覧が福州出身ということで一覧橋は全面福州産の石を使用することになります。昭和61年(1986)昭和の石橋として階段付きの太鼓橋に変わり、当時の福建省福州画院の副院長であった沈観寿に橋名揮毫されます。総工費1億8000万円。




D-166:長崎警察署(ながさき-けいさつしょ)
桶屋町65(町名変更なし)
江戸時代末期に長崎を警護する目的で結成された遊撃隊(のち振遠隊)は、明治5年(1872)兵制が整ったため解散され邏卒(ラソツ=巡査)制度となり、羅卒屯集所を外浦町、西濱町鐡橋際、下り松町に置きます。明治7年(1874)に本署として長崎警察局を本大工町(現 魚の町)に設け、明治8年(1875)長崎警察局は外浦町に移転。翌9年(1876)長崎警察局長崎警察署となり、東濱町の土地を購入。明治11年(1878)東濱町に長崎警察本署を置き移転します。大正12年(1923)外浦町に新庁舎を建て(現存:県庁第三別館)移転し、昭和23年(1948)長崎市警察署に改称。昭和29年(1954)現在の体制である長崎警察署となり、昭和43年(1968)現在地の桶屋町に移ります。D-110:2007-5/5、A−19:2003/05/22参照




ケヤキ植樹記念碑【長崎市民会館】
ケヤキの木は昭和49年(1974)の長崎市民会館落成記念にライオンズクラブ国際協会長崎南クラブによって寄進され、あわせて記念碑の建立がされました。
ケヤキは漢字で「欅」と書き、ニレ科広葉落葉樹です。別名をツキノキといい、その昔、関東地方では形のいいケヤキがある屋敷は格式が高い家といわれていました。




富永直樹の彫刻「平和の叫び」【長崎市民会館】
富永直樹の彫刻「平和の叫び」は、昭和49年(1974)の長崎開港400年記念碑として長崎開港400年記念実行委員会が建立し長崎市に寄贈しました。
富永直樹(大正2:1913-平成18:2006)は長崎市出身で平和祈念像を製作した北村西望を師事。東京美術学校(現 東京芸術大学)入学後、文部省美術展覧会(文展)に初入選するなど、精力的に活動をし文展、日展などの常連となります。昭和43年(1968)の日展ではこの「平和の叫び」が文部大臣賞を受賞し、昭和49年(1974)日本芸術院会員に任命されます。平成元年(1989)に文化勲章を受賞。翌2年(1990)長崎県名誉県民第2号となります(1号は北村西望)。




田川努氏の胸像【長崎市民会館】
碑文「田川努先生は明治三十年十二月十五日長崎県北高来郡小長井村に生まれ大正十二年二月独学よく弁護士試験に合格し長崎市内で弁護士を開業され誠実な職務遂行と正義感は多くの人から信頼された。先生は市民多数に推されて昭和二十六年四月長崎市長に当選され以来四期十六年の長きにわたり困難な諸状況の中で原子爆弾被爆により荒廃した本市の再建復興に献身され今日の躍進の基盤を築かれその功績がたたえられて長崎市から昭和四十四年三月長崎市名誉市民の称号を受けられた。先生は昭和五十二年九月五日七十九歳で逝去された。ここに先生の優れた識見と高潔円満なお人柄をしのび、その御功績をたたえて長く後世に伝えるため有志相寄ってこの像を建立する。昭和六十二年九月二十六日
胸像は北村西望の長男で日本芸術院会員であった北村治禧(大正4:1915-平成13:2001)、題字は北村西望によるものです。




北村西望花吹雪」【長崎市民会館広場】
北村西望の彫刻「花吹雪」は昭和49年(1974)の長崎市民会館落成記念に長崎ロータリークラブ、長崎北ロータリークラブ、長崎南ロータリークラブ、長崎東ロータリークラブによって建立されました。碑文は次の通り。
一年の蓄積を見事に表現してまさに絢爛無比我々を喜ばせてくれる桜それで毎年々々その約束を違えたる事もない、そうして心地よい春風に乗ってたちまち豪華な舞踊をくりひろげ打ちよせる波濤の如く又吹雪の如くその花吹雪のなかに僕はふと乙女の舞姿を思出すことが出来た、おお天使よ春や春 西望塑人
作品は昭和36年(1961)の作品。北村西望(明治17:1884-昭和62:1987)2005/09/30参照




D-165:長崎市民会館/長崎市立中央公民館
魚の町5-1(旧 本大工町)
昭和26年(1951)社会教育法の施行で市内各地に市立公民館が設立され、坂本町に第一号公民館が誕生します(のちの銭座地区公民館)。昭和28年(1953)には小島、飽ノ浦、滑石の各地区にも置かれ、昭和31年(1956)本下町公設中央市場内に長崎市立中央公民館が開設されます。中央公民館は市民のサークル活動や展示会などの催しに利用され、昭和35年(1960)には増床増設工事によって施設の充実が図られます。昭和47年(1972)長崎市は長崎開港400年記念事業の一環として旧長崎中学校跡地に長崎市民会館の建設を開始し、昭和49年(1974)総工費約20億円を投じ、一大文化・スポーツセンターを完成させます。これにより本下町公設中央市場内に置かれていた中央公民館市民会館に移転し、市民に広く利用されることになります。




D-164:長崎市立長崎中学校跡
魚の町5-1(旧 本大工町)【長崎市民会館】
旧制中学の長崎県立長崎中学校は明治17年(1884)に開校し、昭和23年(1948)教育改革により長崎県立長崎高等女学校、長崎県立瓊浦中学校、長崎市立高等女学校の3校と統廃合され、長崎県立東高等学校と西高等学校の2校に編成されます。一方、昭和22年(1947)新学制によって中学校が発足。片淵、大浦など8校と共に長崎市立勝山中学校が誕生します。しかしこれは制度上のもので先生も教科書もありませんでした。昭和24年(1949)勝山中学校長崎市立長崎中学校に改称。あわせて新校舎が完成します。昭和45年(1970)市中心部という環境から離れる公害疎開の一環として立山町市民運動公園に校舎を建設し移転。今に至ります。なお、昭和61年(1986)同窓会によって「長崎中学校の跡」の碑が建立されます。A−230:2004/02/25参照




古賀重太郎(こがじゅうたろう)【長崎市公会堂内】
昭和初期、篤志家:中村重太郎は長崎市に公会堂と呼べる施設がないことを残念に思い、昭和5年(1930)それまで袋町にあったキリスト教青年会館とその敷地を買収し、あわせて改造費35,300円を加え長崎市に寄附。長崎市はその金額に公費を足して改造し昭和6年(1931)長崎公会堂が誕生します。このとき中村重太郎の功績を讃え胸像を建立するも昭和20年(1945)の原爆による火災によって公会堂ともども焼失します。昭和37年(1962)長崎市は新たな公会堂を建設。前回の公会堂での功績を讃え再度、古賀重太郎の胸像建立となります。なお、当初の胸像の原型は遺族が保管していたため、同型の胸像が完成します。D-135:2007-6/4




D-163:長崎市公会堂
魚の町4-30(旧 本大工町)
昭和29年(1954)当時の佐藤勝也副知事、田川努長崎市長、中部悦郎商工会議所会頭が発起人となり長崎国際文化センター建設の計画を発表。翌30年(1955)原爆投下10周年を記念し、5ヶ年計画で県立図書館、美術館、体育館、水族館、市公会堂などの建設を決定し長崎国際文化センター建設委員会を設立します。そして昭和37年(1962)長崎市出身で早稲田大学教授である武基雄(タケ-モトオ)明治43:1910-平成17:2005)の設計で、建設費2億5000万円をかけ長崎市公会堂が本大工町グランドに完成します。長崎市公会堂は県や市の様々な催し物やコンサートや発表会と今なお現役で活躍している建物です。なお、武基雄は長崎水族館の設計も行っています。




D-162:長崎外国語学校跡(ながさきがいこくごだいがく-あと)
魚の町4-30(旧 本大工町)【長崎市公会堂】
昭和22年(1947)長崎外国語学校が長崎県知事の認可を受け馬町の仮校舎で開設。翌23年(1948)本大工町に校舎を設け移転します。翌24年(1949)には長崎外国語短期大学の認可が下り、以降、米英語科ほか様々な専門課程の認可を受け、長崎を代表する外国語専門学校として成長します。昭和34年(1959)住吉町(現 泉2丁目)に移転。平成8年(1996)現在の横尾3丁目(一部時津町)に移転し施設の充実が図られ、平成13年(2001)には長崎外国語大学を開学させます。その後も国際交流センターの設置などと国際化に合わせた人材育成に貢献しています。




D-161:長崎郵便役所跡(ながさきゆうびうんやくしょ-あと)
魚の町(旧 本大工町)
明治4年(1871)8月、長崎に初めての郵便役所が置かれ、当初は本大工町(現 魚の町)の岡村三郎宅を仮庁舎として開設します。本庁舎が無いまま12月5日東京-長崎間に郵便路線が開通し、12月13日ようやく本博多町に庁舎を借り受け業務を始めます。明治7年(1874)本博多町の長崎郵便役所と長崎郵便役所外国郵便分室(西浜町旧薩摩藩邸)を梅香崎新庁舎(新地町6-53:旧市医師会館)に移転、長崎郵便局と改称します。昭和45年(1970)長崎中央郵便局と改称、現在の恵美須町に移転します。A−92:2003/08/15




D-160:紺屋町/本紺屋町/今紺屋町/新紺屋町/中紺屋町
(こうやまち/もと-/いま-/しん-/なか-)
長崎開港間もない慶長2年(1597)頃、内町の外に外町(A-109:2003-9/12参照)が開かれ、当時としては高台の内町から川沿いの水辺に下った場所に紺屋つまり染物屋の職人街が開かれ紺屋町生まれます。現在の中央公園-常盤橋間です。染物には大量の水を必要としたため川沿いの地域が選ばれるのです。さらに材料の紺(こん)は藍(あい)という草から採るのですが長崎にはなく、海路で輸入するため川沿いの場所が適地となるのです。現在の中島川常盤橋辺りでは水洗いや荷揚げを、内陸側(中央公園側)では洗った布を干していました。
長崎の発展につれ染物の重要も増え慶長11年(1606)頃には、中島川の上流(現在の公会堂-芊原橋間)に新たに紺屋町が開かれ当初の紺屋町本紺屋町とし、今紺屋町が開かれます。その後、すぐに中島川を挟んで寺町側にも紺屋町が開かれ新紺屋町となり(のち麹屋町)、今紺屋町で水洗いや染付けを行ない、新紺屋町は内陸のため洗った布を干していたともいわれています。
寛文12年(1672)大改革で今紺屋町を通りを挟んで二つに分割、今紺屋町の上手(桶屋町寄り-麹屋町寄り)を今紺屋町。下手(魚の町寄り-諏訪町寄り)を中紺屋町とします。200年近くそのままでしたが、明治初期(1870年頃)、新たな改革が行われ今紺屋町中紺屋町を合併させ紺屋町とします。しかし昭和41年(1966)本紺屋町は賑町と栄町に、紺屋町の西側を桶屋町と魚の町に、東側は麹屋町と諏訪町に分割され消滅、今ではくんちの踊町のみ(麹屋町/諏訪町の通り)見ることができます。B-147:2004-12/11参照




D-159:銀座跡(ぎんざ-あと)
諏訪町or魚の町(旧 今紺屋町)
慶長5年(1600)徳川家康は関が原の戦いの後、全国統一に向け京都、大坂、江戸に銀座を設けの鋳造と管理を始めます。そして元和2年(1616)江戸幕府は無制限なの海外流失を防ぐために長崎の芊原付近に銀座(銀座屋敷)を置き、さらに京都:伏見銀座から銀見役らを呼び、良質な(灰吹き銀)や将軍の極印のない無判錠銀の監視させるのです。ここでは貿易商人に輸出するの量を申告させ現物と照合し、確認後、将軍の極印を押して、あわせて船長や貿易商人に起請文を書かせていました。芊原付近にあった銀座はその後、大村町(現 家庭裁判所西側)に移転し、寛文12年(1672)の市法売買法(2006/02/26参照)になるまで続きます。




D-158:芊原橋/第七橋(すすきはらばし/だいななきょう)
魚の町-諏訪町/麹屋町間/中島川
芊原橋は江戸時代、第七橋と呼ばれ、当時は中紺屋町/今紺屋町に架かっていたところから中紺屋町橋/今紺屋町橋とも呼ばれ、明治15年(1882)になって正式に西道仙により芊原橋と命名されます。芊(すすき=セン)とは草が生い茂っている様子を表し、その昔付近が草でおおわれていたことを表します。延宝9年(1681)に架橋。寄付者は判っていませんが、延宝7年(1679)魏之琰による古川町橋(現 常盤橋)の架橋や、同年、僧:卜意(ボクイ)による桃渓橋の架橋など、この時代に中国人の架橋が続いているところから、芊原橋も中国人によるものだと考えられています。享保6年(1721)享保の大水害と寛政7年(1795)寛政大水害で流失しましたが、公費や今紺屋町/中紺屋町の両町が復旧しています。昭和57年(1982)長崎水害で流失し昭和61年(1986)都市計画道路の関係で鉄筋コンクリート橋で復旧されました。総工費8250万円。




D-157:長崎税務署跡(ながさき-ぜいむしょ-あと)
魚の町6-15(旧 本大工町)【中島川パークサイドビル】
長崎の税金に関する役所は新町(現 興善町)に明治11年(1878)の収税委員出張所の設置が最初で、明治14年(1881)以降、租税局長崎出張所や長崎税務管理局などと改称が行なわれます。そして正式な税務署としては明治29年(1896)の長崎税務監督局が初めてで、庁舎は桜町(現 市役所別館)にありました。大正8年(1919)庁舎を長崎商業会議所(A-85:2003-8/8参照)が買収。その後、大正10年(1921)長崎税務署は本大工町に移転します。さらに昭和59年(1984)現在の松が枝町に移転します。A−91:2003/08/14参照




D-156:松翁軒(しょうおうけん)
魚の町3-19(旧 本大工町)
松翁軒は元和元年(1681)創業の長崎でも老舗の一つに数えられる菓子舗でカステラの元祖と伝えられています。初代:山口貞助が本大工町に店舗を構えポルトガル人伝来のカステラや砂糖漬けなどを販売。その後も、ざぼん漬けや寒菊などの製造を始めます。文久年間(1861-64)7代目:熊吉は細工菓子の名手で、その出来ばえに国学者:中島廣足(2004/04/02参照)は「松翁軒」という屋号と翁の商標をこのとき贈ります。明治に入り8代目:貞治郎は松翁軒の名物となったチョコレート風味のカステラチョコラーテ」を開発。以降、様々な味のカステラや和菓子を世に送り出し多くの人々を魅了しています。




D-155:サン・アントニオ教会跡(San Antonio)
魚の町3,6(旧 本大工町)
慶長11年(1606)長崎代官村山等安は、息子で洗礼を受けているフランシスコ村山のために本大工町に教会を建立。翌12年(1607)から小教区となりフランシスコ村山がパードレ(司祭)となります。なお、教会の裏手には小さな墓地も備えていました。慶長19年(1614)禁教令によって大村藩が破却します。




D-154:大工町(だいくまち)現 魚の町の一部
長崎開港後、町建てに欠かせない大工職人が集まり開かれた町が大工町といわれていますが、一説には戦国時代、河内国錦織村(現 大阪府富田林市)の地頭:若杉浄宣が戦に追われ長崎入りし、自ら技工集団の長ということもあってここに大工町を形成したともいわれています。大工町は長崎の発展とともに大工の需要も増し、また、大工仕事は広大な敷地を必要とするため、当時の長崎の外れの中島川上流に新たに町を開きます。慶長11年(1606)新しく開かれた大工町新大工町となり、若杉浄宣が後に移り住んだ場所ともいわれています。この新大工町誕生で大工町本大工町と改称。江戸明治大正そして昭和と300年以上も続きますが、第2次大戦中、町内は通りをはさんで北側半分(現 公会堂〜市民会館)が強制道路疎開で撤去され、そして昭和38年(1963)町界町名変更で魚の町に統合されます。2003/12/03参照




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