広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成17年 〜2005年〜
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C-41:荒物問屋:雪屋:森家墓所
(あらものどんや-ゆきや-もりけぼしょ)【正覚寺墓域】
荒物問屋とは今でいう雑貨商のことで、森家が営んだ雪屋は江戸時代中期の元禄年間(1688-1704)を創業とし、初代森喜左衛門から明治期以降の11代まで長崎を代表する荒物商となります。また、雪屋が位置していた場所は現在の浜町(旧西M町)佐賀銀行のところで、西M町のくんちの傘鉾は雪屋が一手持ちで行い、傘鉾持ちの衣装などは雪屋にちなみ雪の結晶模様が散りばめられていました。




C-40:筑後屋:西田家墓所(ちくごや-にしだけ-)【正覚寺墓域】
江戸時代中期、宝暦(1751〜)以降の丸山に筑後屋は頭角を現し、花街丸山で最大級の規模を誇る遊郭となります。筑後屋初代の西田氏は屋号から筑後地方出身で、当時、博多商人が多く出入りした長崎の町に、博多商人相手の遊郭を始めたものと考えられます。その後、次第に勢力を持ち「角の筑後屋」「中の筑後屋」「新筑後屋」「筑武筑後屋」と4軒もの店を構えるようになり、筑後屋の一統は明治初年の遊郭廃止まで続きます。また、筑後屋のうち「中の筑後屋」は「中の茶屋」を開いた遊郭で、花月と共に丸山を代表する茶屋(料亭の意)となります。さらに寄合町は筑後屋一統が軒を連ねていたこともあり、ほとんどが西田姓で寄合町は俗に西田町とも呼ばれていました。




C-39:引田屋:山口家墓所(ひけたや-やまぐちけ-)【正覚寺墓域】
江戸時代、引田屋は花街丸山で最大の遊郭で寄合町、丸山町、中小島の三町にまたがる1521坪(約5000平方メートル)の規模を誇っていました。初代山口太左衛門は寛永年間(1624-1644)讃岐国引田村(現香川県東かがわ市)から長崎入りし宿屋を開き、これが引田屋の創業となります。そして文政元年(1818)頃、引田屋庭園内に亭(料亭の意)を作り花月と命名、その後、花月は大変な賑わいを見せますが、明治12年(1879)寄合町からの火事で花月は焼失し引田屋のみとなります。明治後期、引田屋花月楼と改称し営業を続けるも経営不振で昭和4年(1929)廃業。山口家は16代まで続きました。




C-38:正覚寺墓域
正覚寺墓域には次の方々の墓碑を見ることができます。
【江戸時代】遊郭引田屋の山口家、遊郭筑後屋の西田家、豪商:荒物問屋の雪屋を営んだ森家、長寿で褒美を得た明治屋、高島秋帆の弟子の中嶋名左衛門
【明治期以降】カステラの福砂屋、東京大角力協会の磯部橘郎、料亭菊本の杉本ワカほか。




光寿山正覚寺沿革紀【正覚寺境内】
沿革紀には正覚寺開基の道智について記されていて、昭和7年(1932)の建立されました。碑文を森喜三郎(素堂)、文字を萬木秀範(梧堂)によって書かれています。

○正覚寺事件(しょうかくじ-じけん)
昭和15年(1940)11月29日、正覚寺で下働きをしていた男が怨恨によって住職夫妻と長女を殺害した事件がありました。




C-37:正覚寺の陰陽石(-おんようせき)【正覚寺境内】
これは中国古来の方術である陰陽道(オンミョウ-ドウ)からのもので、後に陰陽道(インヨウ-ドウ)とも呼ばれるようになります。陰陽石は男性と女性の象徴をデフォルメしたもので陰石陽石があり、陰石が女性で陽石が男性を表わしています。陰陽石は神社仏閣には決まって存在する子孫繁栄の象徴で、正覚寺のものは長崎でも最大級の自然石を利用した大変立派な形をしています。




西南の役警視病院(せいなんのえき-けいしびょういん)
【正覚寺境内】
明治10年(1877年)2月国内最後の内戦といわれる西南戦争が勃発します。明治新政府への士族の反発が引き金となり7カ月に及ぶ戦いが繰り広げられます。そのとき正覚寺警視病院に指定され多くの傷病者を収容しました。




C-36:蓮池庵跡(れんじあん-あと)【正覚寺境内】
延宝4年(1676)正覚寺が芊原橋近くから現在の小島に移転しますが、もともとその小島の地には蓮池庵という寺院がありました。その昔、中国:明人:陳智光という者が蓮池大師(=袾宏:シュコウ:中国:明時代の仏教の第一人者)に謁見しその得度を受けて僧となり長崎に渡来、そして元和元年(1615)頃、蓮池庵を建立します。この陳智光は中国:宋の四大書家の一人である米元章の遺品で天台宗の本山:四明山にあった水雲という硯(スズリ)を大切に所持していましたが、移転してきた正覚寺の道智も同じように硯に関心があって、ついに陳智光は道智にその硯を贈ります。しばらく正覚寺の宝物でしたが文化元年(1804)正覚寺の本山である仏光寺に献納したといいます。




正覚寺開基:道智の布教活動(吉利支丹教徒の妨害)
言伝えによると、文禄3年(1594)長崎入りした道智は仏教再興のため布教活動を始めますが、当時、長崎はキリシタンの全盛期で仏教徒への脅迫、投石、放火、さらには暗殺や井戸に毒薬を混ぜるなどの行為があって道智は油断することができなかったといいます。そのため外出の際は投石を防ぐため大きな編み笠をかぶって出かけなければなりませんでした。また、道智の活動には第2代長崎奉行小笠原一庵為宗が警護の者をつけていたといいます。慶長9年(1604)ようやく布教活動の基礎が出来ると、慶長9年(1604)道智は立山の「山のサンタマリア教会」と翌10年(1605)には舟津村(現 本蓮寺)の「サン・ジョアン・パプチスタ教会」の信徒らと宗論を戦わします。この行動はキリシタンへの挑戦でもあり、以降、道智はキリシタンから憎悪をもたれ、慶長12年(1607)には正覚寺は放火され、一時、伊良林(現浄安寺付近)に移転せざるを得なくなります。そして次第に仏教再興のために多くの僧が長崎入りし、大光寺開基:慶了、光永寺開基:慶西、大音寺開基:傳譽、晧台寺開基:泰雲らが再興にあたります。慶長18年(1613)キリシタン禁教令が発布するとついにキリシタンの勢力が衰え、多年にわたる道智の活躍が実を結ぶことになり幕府から絶大な恩賞を受けることになります。そして寛永7年(1630)江戸に上り将軍家光に拝謁となります。道智は正教院道智(道順)といい23年間在職し、99歳で亡くなりました。




C-35:浄土真宗仏光寺派光寿山正覚寺(-こうじゅざん-しょうがくじ)
東小島町2-6(旧長崎村小島郷字下南/字尾崎)
開基となる道智(天文11:1542-寛永17:1640)は佐賀の牛島(武雄付近)出身で、竜造寺隆信の支族(分家)牛島家でした。その後、有馬氏の養子となるも、若くして武芸に励み武術の修行に各地を廻ります。40歳を越えた天正15年(1587)僧となり、文禄元年(1592)肥後領主:加藤清正に仕え朝鮮へ出兵。文禄3年(1594)長崎奉行寺澤志摩守に仕え長崎入りし船津町の庄林五左衛門の家に滞在します。当時、長崎はキリシタン全盛期で各地に教会が立ち並んでいたため、道智は仏教の再興のため長崎の郊外(現在の鍛冶屋町付近)に拠点を構え布教活動に入ります。しかし道智の布教活動はなかなかうまくいかず危険が及ぶこともありました。慶長9年(1604)ようやく鍛冶屋町の敷地を拡大し西本願寺の許しを得、正覚寺が開かれます。これが長崎(旧長崎市街地)最初の寺院となります。元和4年(1618)正覚寺は芊原橋近くに移転。延宝4年(1676)現在地である小島郷字尾崎移転します。その後、正覚寺には転入寺(廃寺)、広済寺(現 中新町)、達相寺(廃寺)、常光寺(廃寺)、信光寺(廃寺)、深廣寺(現片淵)などの多くの末寺が開かれ、寛政8年(1796)御朱印地格となり幕府から特別の取り計らいを受けるようになります。しかし明治維新を受け幕府の保護がなくなると末寺などが整理されました。




C-34:玉帯橋(たまおびばし)
油屋町-旧本石灰町間/小島川(玉帯川)
玉帯橋は茂木街道の起点となる橋で現在の正覚寺下交差点に架かっていました。慶安4年(1651)第12代長崎奉行馬場三郎左衛門利重によって架橋され、茂木街道の入口の橋として利用されます。玉帯橋は当初、油街橋(アブラマチ-バシ)や油屋町橋南石橋などと呼ばれていましたが、明治になって漢学者で初の長崎市議会議長となった西道仙によって命名されました。これは下を流れる小島川がこの付近で玉帯川と呼ばれることによります。一般に橋の修繕は担当の町が行うと決まっていましたが、この橋においては会所銀が使われていて重要な要所だったことが伺えます。玉帯橋眼鏡橋大手橋に次いで3番目に古い橋で、流失の記録がありませんでしたが、昭和10年(1935)頃、新道工事の際、破却され姿を消します。




C-33:「茂木街道ここに始まる」の碑
東小島町2-6(旧長崎村小島郷字下南)
江戸時代、長崎から市外へ出るには6ヶ所のコースがあって、@東泊口(戸町-深堀-野母へ)A茂木口B馬籠口(浦上街道)C西山口(西山-川平-本川内-伊木力-大村へ)D日見嶺口(長崎街道)E頴林口(伊良林-飯香浦-小浜へ)のうち、茂木に至るコースを茂木口または茂木街道と呼んでいました。この街道は玉帯橋(正覚寺下電停付近)を基点に小島から田上、茂木と進むコースで、玉帯橋が慶安4年(1651)に架けられたことから江戸時代の初めにはすでに使われていたことが判ります。明治に入り人力車や馬車が現れると山間部を避けるコースが造られ、明治18年(1885)県道として玉帯橋から桜木町のコース(いわゆる旧街道)と、油屋町から愛宕、桜木町のコースなどが開通します。そして昭和11年(1936)現在のバス通りが開通し現在に至ります。
この碑は茂木街道のほか長崎街道浦上街道の各入口に長崎平和ライオンズクラブによって平成6年(1994)に建立されました。




C-32:雷公岡(かみなりのおか)
東小島町、中小島1、上小島1(旧長崎村小島郷字下南,上南)
長崎女子高校(鶴鳴学園)下から高嶋秋帆別邸に至る一帯を雷公岡といいます。なぜ雷公岡なのかは不明ですが、地形的には唐八景、合戦場、南高校、小島中学校と長い尾根が続き、一旦、長崎女子高校のところで急激に斜面となり、再び高嶋秋帆邸付近から本石灰町大崎神社付近までの長い岬となっています。このように雷公岡一帯は岬のような地形、長崎港から望むと島のような形をしていたので小島という地名がついたともいわれ、唐船石伝説と並び小島の由来となっています。なお、下長崎村小島郷は大正2年(1913)に長崎市に編入、それぞれ東小島、中小島、西小島、上小島となります。




砲痕石(ほうこんせき)【高島秋帆別邸】
砲痕石は高さ約1メートル幅約90センチメートルほどの自然石の板で大砲の標的として利用されていたもので、そのため表面に着弾の痕跡を示す亀裂が多く残っています。当時の砲術試験は石室状になっていたところに弾丸を発砲する方法がとられていて、現在のように弾に火薬が入っていたのではなく破壊が目的でした。この砲痕石は明治33年(1900)当時の所有者(料亭宝亭)が雪見灯篭に作り変え、それを見た西道仙が明治41年(1908)に砲痕石と命名したといいます。現在、雪見灯篭は解体され石のみ現存しています。




齢松軒(れいしょうけん)【高島秋帆別邸】
高嶋秋帆別邸は別名を齢松軒といい、老木の松が庭園にあるところからこう呼ばれ、木造2階建ての建物が2棟建っていました。そのうちの1棟に桜ノ間という客室があって、そこの床の間は一面に桜花を描き金粉が施されたといいます。また2階の客間を雨聲楼(ウセイロウ)といい窓より清水寺から愛宕山を望むことができ雨の日などは小島川の川音が聞こえていたといわれ、ここから雨聲楼と呼ばれます。さらに雨聲楼の西側の客間を送月楼といい、稲佐山に没する月を鑑賞した部屋といわれています。昭和20年(1945)原爆により大破し現存していません。




C-31:高嶋秋帆別邸跡(たかしましゅうはん-べっていあと)
東小島町5-38(旧長崎村小島郷字下南)
高嶋秋帆別邸秋帆の父である第10代高島茂紀が文化4年(1806)に建てたもので、秋帆は大村町の本邸が天保9年(1838)小川町の大火で焼失して以降、天保13年(1842)までの4年半、この別邸が秋帆の拠点となります。そしてここで国防や砲術研究を行い天保12年(1841)の江戸徳丸ヶ原での砲術演習を迎えます。秋帆が投獄のため天保13年(1842)に江戸に向かうと家族が留守を預かっていましたが、嘉永6年(1853)秋帆の幽閉が解かれたあと家族も江戸に向かいます。その後、別邸秋帆の高弟:中嶋名左衛門やその家族が使用していましたが、明治3年(1870)or明治12,3年(1880)頃、料亭咲草屋(ショウソウヤ)の手に渡り、その後、油屋町の松尾浅五郎?所有の料亭宝亭(-ホウテイ)となります。明治41年(1908)または大正5年(1916)料亭辰巳の手に渡り、昭和に入ると毛利千代の所有となります。昭和20年(1945)原爆により大破し別邸は姿を消し、跡地に料亭米春の寺田實が住居を構えます。現在は石垣、石段、井戸などが残り、平成初年からは市有化が進められ整備が待たれています。国指定史跡。




C-30:菅神社(かん-じんじゃ)【八劒神社境内】
菅神社は八劒神社の末社にあたり祭神は菅原道真公でいわゆる天満宮のことをいいます。この菅神社の歴史は古く本博多町(現 万才町)の坂上天満宮と関係があるといわれていて、坂上天満宮の創建当時(享保18:1733)の社殿であった石の祠を、諏方神社宮司の青木氏と坂上天満宮初代宮司:丹下幸丸らによってこの八劒神社に遷宮(移設)されたものといわれています。しかし、なぜ坂上天満宮の祠がこの地に来たのかは判っていません。長崎でも最大規模の石の祠です。

八劒神社記念碑/再建碑【八劒神社境内】
この記念碑は大正12年(1923)に社殿改修と創建350年を記念し建立された碑で、3つの創建の話がありますが、一番古い永禄11年(1568)を創建と定め祭事を行っています。




○八劒神社の3つの創建の話
@延宝年間(1673-1681)小島郷の一人の農夫が耕作中に1匹の白蛇を見つけます。追い払うも動かなかったためそのままにしていたところ、この夜、農夫の夢枕に白蛇が現れ「我は八劒明神である。昼間、野に出たところを見られてしまった。すぐに身を清め社を建て私に仕えよ」と告げられます。農夫は付近の者と夢に従い社を建ててみると、多くの人が参詣に訪れるようになったといいます。以降、農夫は初代神主となり一生を捧げたといいます。
A延宝年間(1673-1681)小島郷の一人の農夫が耕作中に一つの石棺を見つけます。農夫が恐る恐る開いてみると8本の剣を発見。この夜、農夫の夢枕で「我を八劒大明神として祀れ」と告げられすぐに社を建て8本の剣をお祀りします。いつしかこの8本の剣は鎮西八郎(源為朝)の鏃(ヤジリ)といわれるようになりこれが神社の御神体となります。
B永禄11年(1568)肥後国阿蘇宮の社人だった東源左衛門という者が神南(カムナミ:この付近の字名)に来て日本武大明神(日本武尊)の信仰を始めます。代が替わり息子の東新三郎も熱心な信仰者で元和4年(1618)夢枕に神のお告げがありました。それは「我は八劒大明神である。今の神社を八劒社と唱えよ」というお告げで、新三郎は始めは信じていませんでしたがあまりに同じ夢ばかり見るので、祝詞を上げ神前に報告すると不思議な光(後光)が差し込み、神主をはじめとする村人らは驚き神の力を知ることになります。




C-29:八劒神社(やつるぎ-じんじゃ)
東小島町5-5(旧長崎村小島郷字下南)
八劒神社は小島郷の鎮守神ですが一説には古墳だったともいわれ、しかし創建は定かではなく永禄11年(1568)から延宝年間(1673-1681)まで様々な説があります。地域がら市内からも近く、各町からや在留の唐人からの寄進があったり、享保4年(1719)には町年寄:後藤惣右衛門からの剣8振りの奉納などがありました。天保11年(1840)社殿改修では神社横に別邸を持つ町年寄:高嶋秋帆からの寄進を得ています。祭神は日本武尊(ヤマトタケルノミコト)。




上小島地蔵群(かみこしま-じぞうぐん)
上小島1-3-1(旧長崎村小島郷字上南)【正覚寺電停から360m】
上小島町地蔵堂横には30余りの石仏群があり、地蔵尊や六十六部供養塔、僧侶墓石などを見ることができます。地蔵尊はその昔、茂木街道沿いに置かれたものが道路改修などで寄せ集められたもので、六十六部供養塔や供養塔は街道を歩く多くの人々に祈願してもらうために建立されています。
@六十六部供養塔2基:享保8年(1723)、宝暦2年(1752)建立のもの。
A僧侶墓石2基:「弘壽寂紀禅師覚位」と「栄林浄桂禪尼之塔」で、後の方は平松地蔵尊と同じ慈眼によって建立されています。




妙法蓮華経方墳
(みょうほうれんげきょう-ほうふん)【上小島地蔵群内】
妙法蓮華経方墳は一字一石塔と同じ意味合いのもので、何らかの土木作業に従事し命を失った人々(石子)のために建立されたものです。碑は元禄17年(1704)池田安治によって建立され石子の泉屋三右衛門を始めとする800余人によって祈願されています。

十方海會塔(じっぽうかいえ-とう)【上小島地蔵群内】
十方とはすべての世界という意味で海は心の静まりを意味します。そしてこの十方海會塔は無縁仏を供養するもので元禄3年(1690)本石灰町によって建立、筑後町の河崎與四右衛門によって造られました。




C-28:上小島町地蔵堂(かみこしままち-じぞうどう)
上小島1-2-7(旧長崎村小島郷字上南)【正覚寺電停から350m】
上小島町地蔵堂の創建は定かではありませんが、茂木街道沿いということもあり街道の道中安全を祈願するために作られたものと考えられます。また、地蔵堂横(地蔵群)に1基の井戸がありますが、この井戸は油屋町の住民が水不足の際に使用した井戸で、水への感謝の意を込め地蔵尊を元文4年(1739)に建立したものと伝えられています。このほかにも地蔵堂横(地蔵群)には様々な石碑があって妙法蓮華経方墳十方海會塔六十六部供養塔など供養塔が立ち並んでいます。




C-27:鶴鳴学園(かくめいがくえん)
上小島1-11-8(旧長崎村小島郷字僧都)
鶴鳴学園は明治29年(1896)笠原田鶴子によって出来大工町に長崎女学院として設立、鶴鳴は創立者の笠原田鶴子に因むもので中国の最古の詩集:詩経の中の句「鶴九皐に鳴き声天に聞こゆ(つるきゅうこうになきこえてんにきこゆ)」にちなむとあり、鶴のように清らかで節操高い女性となり名声を上げて欲しいとの願いが込められています。長崎女学院は明治34年(1901)興福寺境内に移転し鶴鳴女学校と改称、明治45年(1912)鶴鳴実科高等学校と改称します。大正10年(1921)現在の上小島に移転し、昭和23年(1948)学制改革により鶴鳴女子高等学校となり、昭和41年(1966)弥生町に鶴鳴女子短期大学(のちの長崎女子短期大学)を開学します。平成9年(1997)には長崎女子高等学校と改称。鶴鳴学園は長崎の女子の学校として歴史と独自の風格を持つ学園です。




C-26:名妓愛八墓所(めいぎ-あいはち-ぼしょ)
上小島1-4(旧長崎村小島郷字僧都)【八剣神社墓域】
愛八(明治7:1874-昭和8:1933)は本名を松尾サダといい長崎市網場町(旧 日見村網場)出身で、17歳のとき丸山で芸妓となります。芸事に長けさらには歌声も素晴しく、すぐに丸山でも指折りの売れっ子芸妓となります。昭和5年(1930)郷土史家で長崎学の祖といわれた古賀十二郎の指導を受けビクターレコードより「浜節」「ぶらぶら節」をレコード化、一躍大スターとなり、このことは平成11年(1999)なかにし礼の小説「長崎ぶらぶら節」になりました。また、愛八相撲好きでも有名で木戸御免の扱いを受けるほどでしたが、貧しい人には惜しみなく援助をし晩年は大変貧しく、最期は長崎検番裏の借家で静かに息を引き取ります。葬式の際、海軍好きでもあったことから海軍から多くの花輪を贈られ盛大な葬儀となります。この地への埋葬は、愛八の遺言で丸山に近い場所にとの希望でこの地となります。昭和8年12月30日没。享年60。戒名「愛譽八池貞水大姉




C-25:山伏塚/柿樹太郎(やまぶしづか/かきたろう)
上小島(旧長崎村小島郷字高僧都)
江戸時代後期の「長崎名勝図絵」によると、茂木街道(小島街道)のピントコ坂付近から少し下った辺りを山伏塚、さらに下って長崎女子高校付近を柿樹太郎と呼んでいました。この付近、春から夏にかけての雨の降る夜、陰火(インカ)または狐火(キツネビ)といわれる不思議なが現れる場所で、一つのがいつしか多くのとなり雲のように拡がり、やがて消えていくというものでした。言伝えでは、一人の修験者(山伏)が法を犯したため他の修験者たちが穴を掘り、その修験者を穴に落とし石を投げ込み殺したといわれ、その霊が恨みのとなって出ているといわれています。




一字一石塔(いちじいっせきとう)
上小島1-9(旧長崎村小島郷字高僧都)【平松地蔵より450m下】
一字一石塔は一人一人の信者が一つの石に一文字ずつ文字を書き、その塔の下に埋め願いを掛けるというもので、塔の「南無妙法蓮華経」は日蓮宗のお題目です。また、この塔は碑文から日蓮宗の宗祖:日蓮(貞応元:1222-弘安5:1282)の没後500年を記念する500遠忌に建てられたもので、長照寺第16代住持:(唯心院)日勤によって安永10年(1781)建立されました。




C-24:東古川町三界萬霊無縁塔
(ひがしふるかわまち-さんかいばんれい-むえんとう)
上小島2-11(旧長崎村小島郷字高僧都)【平松地蔵より470m下】
寛文2年(1662)に長崎で痘瘡(天然痘)が大流行し多くの犠牲者を出したため長崎街道には一ノ瀬無縁塔が建立されます。さらにその50年後の正徳2年(1712)再び痘瘡が大流行、多くの犠牲者が発生、このことにより正徳3年(1713)茂木無縁塔を建立されます。翌年には最初の発生による犠牲者の50回忌が行われ、東古川町によって三界萬霊無縁塔が建立されます。東古川町では宝暦13年(1763)に100回忌が、文政3年(1820)には再刻、おそらく文字の彫り直しを実施、当時の疫病に対する恐怖は計り知れないものだったのでしょう。




C-23:茂木道無縁塔(もぎみち-むえんとう)
上小島2-13(旧長崎村小島郷字高僧都)
正徳2年(1712)8月から翌年3月まで長崎で痘瘡(天然痘)が大流行し3000人もの人々が感染、子供を中心に多くの死者を出します。正徳3年(1713)死者のために茂木無縁塔を建立され、正面に釈迦如来像、左側に観世音菩薩像と「南無観世音菩薩」の文字、右側に弥陀如来像と「南無阿弥陀佛」の文字、裏面に地蔵王菩薩像と「南無地蔵王菩薩」の文字がそれぞれ施され、文字は祟福寺第7代住持:大衡海権と第9代住持:義勝寂威によるものです。
また、茂木無縁塔の基礎石に獅子(ライオン)の彫刻があって、一般に日本仏教美術の中では唐獅子の形態が施されていますが、ここは獅子を使った大変珍しい彫刻といえます。この獅子から無縁塔を「ライオンの塔」と呼びます。なお、50年前の寛文2年(1662)長崎でやはり痘瘡が大流行(死者2318人)し、このとき建てられたのが長崎街道の一ノ瀬無縁塔です。このように2つの塔は街道の入口に立てられていますが、これは市街地への疫病の進入を防ぐ意味があります。市指定文化財。




C-22:傾城塚/比翼塚(けいせいづか/ひよくづか)
上小島2-13(旧長崎村小島郷字高僧都)【小島郷財産区墓所】
傾城とは遊女のことで傾城塚で遊女の墓所を意味します。傾城塚はピントコ坂の中間の八剱神社墓域内にあって、娼妓阿登倭碑、一字一石塔、大乗妙典臺部塔(正徳2:1712)のほか3基の墓石があり比翼塚ともいいます。

娼妓阿登倭碑(しょうぎ-おとわ-ひ)
娼妓阿登倭碑ピントコ坂の由来について刻されたもので、小島郷の桐山奥四郎、田中勝三郎など20名の者によって明治20年(1887)に建立。碑文は寺町長照寺第27代住持:浅井日昇によるものです。
※墓石@「圓元信士・妙證信女」墓石A「観境院了遊日玄(天明3:1783)・観了院妙遊日境(寛政10:1798)」 墓石B「秀幻童女(元禄8:1695)」
@Aは男女の墓石Bは女児の墓所です。




C-21:ピントコ坂/花魁坂
上小島2-13(旧長崎村小島郷字高僧都)
茂木街道の南高正門から長崎女子高横までの坂をピントコ坂といいます。言伝えによると、江戸時代中期(元禄年間1688-1704)、丸山の筑後屋という遊郭に登倭(トワ)という遊女がいて、才色に優れさらに毎夜変わる客人(嫖客:ヒョウカク)にも心から尽くし「気立て良しのお登倭」と評判でした。一方、中国(唐)に何旻徳(ガ-ピントク)という若い男がいて、この男、許嫁(イイナズケ)を上役人から奪われたため心に傷を負い、遠く長崎に住む叔父の貿易商のところへやってきます。長崎に来た旻徳は丸山に足を運ぶようになり、そして許嫁とそっくりな登倭と出会い恋が再燃します。しかし平和な日々は長く続かず、すぐに恋敵:長崎代官が現れます。代官は登倭の心を引き寄せるため、当時、詮議中だった贋金(ニセガネ)作りの犯人を旻徳にかぶせ、木駄の原(小田の原)で処刑させます。登倭はすぐにその亡骸(ナキガラ)を貰い受け丸山の上手に葬るのですが、それから数日後の朝、筑後屋2階に血に染まった男女2人の遺体が見つかります。それは登倭と代官でした。丸山の人は心優しい登倭の亡骸を旻徳のそばに葬ります。以降、ここを比翼塚と呼び、横の坂を旻徳からピントコ坂または花魁坂と呼ぶようになりました。
 なお、このことは史実にないため言伝えの域を出ませんが、おそらく元禄16年(1703)近松門左衛門の曽根崎心中が流行したことに始まったものと考えられています。




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