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第9話のまとめ
『吾眠ハ猫デアル』

-- タイムスリップした漱石猫 --
    第9話

  原作(猫語): 書き猫知らず

  人語翻訳:第48代我輩/BUTAPENN/とっと

 かの疑似殺人事件から1週間になる。
 疑似と言ったのは、第一に被害者が人間でないからであり、第二に我々が食べてしまって死体が存在しないからであり、第三に料理された筈の豆腐がその後も時々顔を出すからである。死体が存在しなければ事件にはならず、殺された筈の者が生きていては殺人とは言えない。もっとも、あの翌日に豆腐が顔を出した時は、吾輩は幽霊かと思って復讐を恐れたものである。幸い、直ぐに爆弾攻撃の巻き添えにあって、そのかけらはおでんの中身と消えたので、吾輩に実害はなかった。
 かの豆腐がおでん鍋に入れられた時に気付いた事がある。それは彼(豆腐の癖にオスである)が幽霊ではなく妖怪である筈だという事だ。妖怪と幽霊とは同類ではあるが、幽霊は妖怪と違って実体が無く、おでんになって客の空腹を満たすという事は有り得ない。と、そこまで考えて、吾輩の思考は邪魔された。美味しそうな湯豆腐が目の前に盛られていたからである。その後は、かの豆腐のかけらをむさぼり食った事しか覚えていない。
 この豆腐は、顔を出す度に地雷で吹き飛ばされたり、おでんの材料になったりする。しかも、飛ばされては翌日にしゃんとした体で顔を出し、食べられても翌日には四角満足で顔を出す。よく懲りないものだと思うが、人間とは無駄を繰り返す為に生きている愚かな動物であるから、このくらいの酔狂は大目に見なければなるまい。第一、この豆腐は確かに美味しいのであるから、文句を言うべきではないのである。特に一晩目の料理は非常に旨かった。その後、この店で色々な食事をあてがわれたが、あの時の豆腐ほど美味しく感じられたものはなかった。
 その材料の提供者たる<a target="_blank" href="http://www11.plala.or.jp/oborodoufu/">不死身豆腐の正体</a>は杳として知れないが、そういう事は人生において、生活において、恋愛において、仕事において、身の回りの安全において、それほど重要でない。吾輩にとっての一大事は、食べものであり、暖かい寝床であり、安心できる縄張りであり、そしてこれが最も重要な事だが、記録するに値する面白い現象が日常に存在するという事である。昔の主人の家を経験した猫にとって、平凡な場所は死よりもつらい。そして、その意味において、この喫茶は吾輩の居候すべき条件を完全に満たしている。故に、あの事件から1週間たった今も、この店に居候しているのある。けっして、犯人として拘束されていた為ではない。
 居候の経緯は慧眼なる読者に説明の必要などなかろう。吾輩が勝手に居座ったのは勿論の事だが、それ以前にここの常連に大歓迎されたのである。それほどに、この店に住み着いた時は甚だ人気が良かった。オーナーを除く全てのメンバーが可愛がってくれたものだ。もっとも、可愛がるとは、もちろん喫茶店的な意味であり、危険を伴う事は言うまでもない。例えば、ラビン髭の男は尻尾でぶら下げたり尻尾を踏んだりする。黒コートの男…彼はいつも爆弾で吹き飛ばされているのだが…は常に爆発の巻き添えに連れていく。おでん屋の女将は包丁を振りかざし、隙さえあればおでん鍋にほおり込もうとする。しかしながら、これをもっていじめと解釈するのは凡猫である。吾輩はこれでも文学猫である。複雑な人間の心理を理解すべき高等動物である。昔の主人の所で得た知識と、ここ十日程で得た現代知識を総合するに、これは『屈折した愛情表現』とか言うものに違いない。明治の時代にも『回りくどい表現』というのは沢山あり、うんざりさせられたものだが、それが百年の間に進化した姿が、この種の屈折であろう。不便でじめじめとして分かりにくいのはなべて近代人の特徴である。
 常連連中の仕打ちをもって愛情表現であると判断した根底には、全員が吾輩の日記をきちんとヒト語に翻訳してくれたという事実がある。翻訳すらしてくれるのだから単なるいじめでない事は明らかだ。もっとも、この『屈折した愛情表現』という代物は、吾輩にとって有り難い表現方法とは決して言いがたい。ただただ、不便な時代に来たものだ、と思って仕方なく付き合っているのである。タイムマシンは必ずしも幸福をもたらす訳ではない。しかしながら、吾輩は不平を言う積もりは毛頭無い。無視されていないだけでも有り難いと思っておる。この世知辛い世の中に贅沢は言えないのだ。昼寝の最中に尻尾を踏んづけられるのには閉口するが、文学猫にとって、存在価値を認められている事は極めて重要な事である。幸福と言うべきかもしれないのだ。いや、そう思うようになったという事からして、この喫茶に感化されたと思われないでも無い。

 この喫茶…『不倫喫茶』だの『爆弾喫茶』だの『コスプレ喫茶』だの妙な名前がついているようだが…に1週間も居候すれば、常連客の特徴はほぼ正確につかめる。喫茶店や従業員の様子は後日記述する事にして、今日は常連の説明をしよう。この常連は先ず第一に妖怪である。連中は吾輩の事を妖飼猫と呼ぶが、とてもここの常連連中には敵わない。不死身豆腐は措くとしても、例えば黒コートの男だが、<a target="_blank" href="http://www.script1.sakura.ne.jp/top.html">TERU と名乗るこの浮気男</a>は、来るたびにshionとか言う爆弾女に爆弾で飛ばされ、にもかかわらず空中で不敵な笑いを絶やさず、最後は見事に着地してくる。爆弾で死ぬかわりに空中サーカスを見せるとは、とても生身の人間とは思えない。しかも、噂によると、女を見るや、5秒以内に必ず直接的な愛情表現を試みるそうである。その証拠に、コートの下には何も着ていない。これは最短の行動をする為であると言われている。彼の自宅はもちろんハーレムである。昔ドンファンという妖怪男がスペインに存在したそうだが、彼の血を受けている事は間違いなかろう。
 ラビン髭の男は文字ゲリラとかいう名前で、油揚げならず和菓子ばかり食べる瘋癲である。フーテンと言っても寅さんのようなお人好しでは決してない。人をからかう事と猫を虐待することしか考えていないような危険人物であり、彼のカレンダーには1月1日と4月1日しか存在しない。噂によれば、某縁切神社の裏山に<a target="_blank" href="http://web.telia.com/〜u98012228/index.html">アジト</a>を持って危険な同士たちとゲリラ活動を行っているらしくいが、その他については年齢職業ともに不明である。この事から類推するに、ラビン髭には尻尾が9つあるに違いなく、尻尾を出すのを待っているが、未だに尻尾がつかめない。
 おでん屋の女将は<a target="_blank" href="http://www.pinky.ne.jp/〜butapenn/">Butapennとかいう舌を咬みそうな名前</a>で、喫茶店の中で勝手におでんやおにぎりを売っている。おにぎりについては美味しいとの評判があるが、おでんの中身については何を使っているのか保証がない。時折、ラビン髭の男がドクダミだのナズナだのをこっそり鍋に入れたりしているし、shionとかいう女が黒い塊を入れたりしている。それでいて、ちゃんと売り物になっているのだから、鍋に秘密があると思うが、吾輩が近づいたら最後、吾輩まで煮込まれる危険があるので、遠くから眺める事にしている。もっとも、ゴボウ天とかガンモとか美味しい材料をも使うので、吾輩は寝たふりをしながら、それらを奪う機会を常に伺っている。猫たる者、旨いものは盗まなくては肩身が狭い。吾輩の辞書に泥棒を働かない猫という言葉はない。
 <a target="_blank" href="http://www5d.biglobe.ne.jp/〜shion55/">shionという凶暴な爆弾女</a>については既に記述した通りである。それにしても初日の光景には驚いた。女性がかくもあからさまに男性をとっ ちめてるとは時代も変わったものである。もちろん痴話喧嘩は我が先祖がエジプトで始めて人間と同居するようになった昔から存在する日常茶飯事であり、本邦でも今昔物語の時代から、妻にとっちめられる男の話があり、身近な話、昔の主人も毎日朝晩細君にガミガミ言われていた。しかるにそれは家庭内の話であって、少なくとも公衆の面前では女は男を立て、特に実力をもって何かするという事は無かったものである。ところが、喫茶店の前の道路で起った事は… いや、書きたくも無い。
 彼女の爆弾は何故か男だけを選択的に吹き飛ばす。故にこの喫茶で男は無事には済まない。もっともニューハーフとかいう性別不明な者に対して爆弾が使用された事は無いので、生物学的なオスを吹き飛ばすのか、外見だけオスというのを吹き飛ばすのかは定かではないが、少なくとも外見が豆腐であっても猫であってもオスであれば吹き飛ばす。かの豆腐がオスであることは爆弾で吹き飛ばされることから検証出来る。shion は爆弾だけでなく地雷も大量に埋めており、それもオスのみを選択的に飛ばす。地雷は重量探知方式になっているという噂があるが真相は不明である。ここの男たちが飛ばされる唯一の理由は黒コートの男であり、それが必要十分条件である。元々は黒コートの男が浮気をする…実際、彼は全ての妙齢女性客に声をかける…のをとっちめる為にshionという女が彼に爆弾を投げつけていたのだが、言うまでもなく黒コート=浮気は永遠の公式であって、爆弾ごときで変わる筈がなく、故に爆弾は条件反射的に投げつけられる結果となって、それはとりも直さず常に巻き添えを生んでいてところから、いつしか爆弾=愛という間違った公式が彼女の心にインプットされて、常連の男全員が飛ばされるようになったのである。
 男だけが被害を受けると言えば、バケツの水についても述べておかなくてはなるまい。この危険な喫茶に時折場違いのような和服美人が現れる事があるが、この正体不明の人物については最後に説明するとして、その彼女が、奇麗好きである故か、はたまたオーバーヒートしたパソコンの冷却用の為が、常に冷水を張ったバケツを持ち歩いており、その冷水を男共にぶっかけるのである。一説によれば、パソコン=男という公式に従う愛情表現であるとも、黒コートの男を懲らしめるために始めた水掛けが習い性になったとも、祇園祭の山車を引く男たちに掛けていた時の名残とも言わているが、いずれにせよ、ここで被害を受ける男にとっては迷惑な話であろう。

 このようにこの喫茶はトリップだらけである。そのトリップに最近新しい機械が加わった。隠しカメラである。店の要所要所に取り付けられている隠しカメラは、けっして改悪警察法によって設置させたものでも、某大統領によって取り付けられたものでも、ゲリラ対策に設置された監視カメラでもない。確かにこの喫茶は危険人物というか妖怪のたむろしているが、今の所、官憲によるその手の施設は取り付けられていない。監視カメラを置かないのはオーナーの見識である。しかし、その代わりオーナーは桜蘭とかいう二十歳の娘さんが隠しカメラを設置する事を完全に黙認している。
 <a target="_blank" href="http://www5d.biglobe.ne.jp/〜totto/">オーナー</a>が若い娘に甘いのは今に始まった事ではない。吾輩が観察するに黒コートの男は30歳代の女性に、オーナーは20歳代の女性に目がないと思われる。もちろん本人は否定している。オーナーが得意なのは若い女性だけでなく、借金をためる事と、主人公を陰険にいじめる事である。この『吾眠ハ猫デアル』においては吾輩が主人公なので、戦々恐々としている。事によれば、常連客よりも危険な人物かもしれぬ。一方、借金がむやみに溜まるのは、キリリクとかいう無担保無利子のサラ金から借りているからであり、催促を何年も無視する心臓を持っているからである。なんでも、この心臓は黒コートの男に鍛えられたそうだ。
 話を元に戻して、<a target="_blank" href="http://midaresetugekka.parfe.jp/">「霞 桜蘭」なる妙齢の娘</a>のことである。春の野を思わせるまことに麗しき名ではあるが、だまされてはならない。この娘はなんと、かの爆弾女shionと義姉妹の契りを交わし、せっせと手榴弾、地雷、タイマー爆弾などの奥義習得に励んでいるらしい。かと思えば、ラビン髭の元に弟子入りしては山を駆け、地に潜ってゲリラ戦法を学ぶという、まことに戦慄すべき嗜好の持ち主だ。
 この時代の医学によれば、各々の身体の細胞の中にはDNAという螺旋状のものが存在し、それが個々人の遺伝的要素すべてを決定しているらしいが、まさに彼女のDNAの中には爆弾魔とゲリラの素質が螺旋の捩れとなって脈々と流れているのだろう。そのせいか、この女の血はドロドロだと言う。動物にとって生命の源ともいうべき血液、「血潮」という言葉があるごとくに、母なる太古の潮の成分を宿しているはずの血液がドロドロだというのだから、もはやこれは人間というよりは、妖怪の部類に属するのだろう。というより、自らの血をわざと毒物に変えて、襲い掛かる敵を返り討ちにする魂胆ではあるまいか。まさに肉を切らせて骨を断つ戦法である。そんなことともつゆ知らず、あの黒コート男は、若い女と見るや黒マントの吸血鬼に変身して、血を吸う機会を狙っているらしい。南無阿弥陀仏。

 上記の常連ほどでは無いが、時々姿を現す半常連もいる。彼らは本常連でないお陰で、爆弾や地雷の餌食になる事はめったにないが、だからといってマトモな人間ではない。否、1匹は犬であり、1頭は鹿である。
 鹿というのは、<a target="_blank" href="http://www2.ttcn.ne.jp/〜deer/">「鹿の子」という女性</a>であり、実は吾輩はその実体をまだ拝んだことがない。いつも鹿の着ぐるみを着ているのだ。この着ぐるみたるや、脱いでも脱いでもまだその下に着ているというところは、まさにかの露西亜の民族人形「マトリョー鹿」を彷彿とさせる。ときどきティッシュ(ティッシュとは要するに便所紙である)配りの副業をしているらしく、よくこの喫茶店でも余り物のティッシュを配ったり、お祝いと見るや、その紙で作った花飾りを贈っているのを見かけたことがある。
 彼女の本業はと言えば、「日々楽々」という店の経営だ。まあ言わば旅巡業の芝居小屋のような場所で、そこでしばしば
<a target="_blank" href="http://www2.ttcn.ne.jp/〜deer/gift.html">「日ワイ劇場」</a>
という聞くだに卑猥そうな名前の芝居を上演している。筋立ては、市井の三文探偵が殺人事件に遭遇し、登場人物ががやがやと言い合っているうちに、いつの間にか犯人が見つかるという他愛もないものであるが、問題はその役者をこの喫茶店の常連たちが務めるというのだから、どれほどいかがわしいか想像がつく。観客の中にはあまりのくだらなさに卒倒する者もいるらしく、鹿の子はいつも「救心」という心の臓の薬を持ち歩いているほどだ。
 先般の、豆腐が豆板醤にされたあの擬似殺人事件も、この「日ワイ劇場」の再来などと一同が興奮していたのは、ご承知の通りだ。あれ以来、ここの連中は隙さえあれば、『また「日ワイ」をやりたい』などと話し合っているので、早晩また新作芝居がかかるかもしれぬ。まったく迷惑な話ではあるが、吾輩も生来こういうお祭り騒ぎは好きなので、これは一枚噛まねばならぬと思っている。
 犬の方は実は姿を現した事がない。この喫茶の外には普段空っぽの犬小屋があるが、たまに深夜気配がするかと思うと<a target="_blank" href="http://www.geocities.jp/sleepdog550/">犬が眠っている</a>のである。起きている姿は決して見た事がない。吾輩に感づかれずに犬小屋に出入りしているところから、彼犬もまた妖怪である事が知れる。そもそも、オスである癖に爆弾で吹き飛ばされた事も水をかけられた事もないなぞ、妖怪以外には出来ない事ではないか。
 妖怪とは修行を積んだ動物に他ならないのであり、それはとりも直さず、人語を巧みに操る事を意味するが、実際、美しい日本語を紡ぐ事に関して、彼犬の右に出る者はごく少ない。そして美しいものが危険である事は自然界人間界妖怪界の真理であり、故に吾輩は間違っても犬小屋に近づかないようにしている。
 半常連にもう一人、これまた文学表現の上手い男がおる。自称<a target="_blank" href="http://www.geocities.jp/bunshidou_kt/">文士</aだそうだが、「自称」という接頭語がつく当たりが、その昔吾輩を猫又呼ばわりした某自称美学者を彷彿とさせる。実際、確かに吾輩にはとうてい真似の出来ない表現をするところは、かの迷亭に比べる事が出来、そして、その行動が意表をつく所もまた、かの迷亭大先生にひけをとらない。その事は、吾輩の日記に勝手に外伝を加えた行為によって知る事が出来よう。

 いやはや、こうして見るとこのかふぇなるものは本当に奇想天外な人間のたまり場という他あるまい。もちろん時間帯によっては普通な客も来ているのであるが、そう言う者達は異様な雰囲気を醸しだす常連達におされてか、カウンターには近寄らず、用が済めばさっさと店を出て行ってしまう。君子危うきに近寄らず。食事が目的であれば、それに専念し、それ以外には手を出さないということだ。
 吾輩も他の客を見習って、常連には近づかないのが懸命とは思っている。思ってはいるがなかなかそうはいかないのが現実というものである。こちらがどんなにそれを望まなくても、相手が吾輩を放っておかぬ。現に今も吾輩の目の前には一人の客が紙とペンを手に鎮座しておるのだ。
 ふたつの黒い瞳が吾輩をじっと見つめる。
「さあて、今度はなにをするのかな〜」
 そう呟きながらもふたつの眼は瞬きひとつせずに吾輩を見続ける。
 この風変わりな客、名前を「muraさん」と言うらしい。女性である。間違ってもデカ部屋で片目を細めて唇を突き出し鷹揚に頷いているオジさんとは似ても似つかないので混同しないように。
 なに? そんなのは知らぬ?
 今どきのものが太陽に吠えろも知らぬのか? 嘆かわしい。刑事ドラマの代表作だと言うのに。
 明治生まれで平成の世に転生してきたお前が何故昭和のドラマを知っている等と言うなよ。ここの奥方がミステリーファンで、「やっぱりミステリーと言ったら刑事ドラマよね」とか言って先日も「太陽に吠えろ スペシャルエディションDVDBOX」なるものを(注 そんなものは存在しません緒で真剣にAmazonとかで検索をかけないように)買って毎日見ておるのだ。この奥方がそのむらさんと言う親父が大好きなのだ。
 さて話が逸れたが、このmuraさんと言う客、実は女性である。そして漫画の原作家でもあるらしい。吾輩に張りついて片時も目を離さないのも、その漫画のネタの為だと言うことだ。
 娯楽の少ない明治の御世ならともかく、現代社会において猫の観察記録など読むものがいるのだろうか?
 吾輩のそんな疑問を察したかのように彼女はこう答えた。
「宇宙の大海原を駆けめぐる戦艦や、汽車の話を描いた偉大なるSF漫画家だって昔は猫が主役の少女漫画を描いていたんだからね」
 それが彼女が吾輩を観察する理由になるのかどうかはいま一つわかりかねたが、まあそんなものなのだろうと思うことにした。終始見つめられると言うのはあまり落ち着かぬ気分ではあるが、それ以上の実害はない。爆弾で飛ばされることや、おでんの具になる危機を考えれば問題などないに等しい。それどころかまたまた吾輩が主役となる話が世に出るのであれば、それは実に誇らしいことであると言えるかもしれない。ただ、ひとつ注文をつけるのであれば、用を足す時ぐらいは一人にしてほしいと思うものである。

 さて、この店の常連客も残すところはただ一人。やはりトリはこの人物しかあるまい。
 活動写真のテロップ等なら主役、脇と紹介された後、最後に少し離れてほとんど画面に一人だけで名前が出てくるような大物である。それ故に扱いも難しい。なにか気に障るようなことでもしようものなら、「ややわぁ、そんなことしはって。ぶ・す・い」とか言いながら笑顔で土手っ腹にドスでもブスリとやりそうな怖さがある。
 この大物常連客、店に入ってくるなりいきなり啖呵を切ると言う。「姓は☆Hit !! 、名はMe !!☆ 」等といきなり叫ばれたときには、すわ! 出入りか!? と一同飛び上がったものだ。
 一節によるとこの御仁、PSと言う部類に属するとも言われている。PSとはおそらくは「ぱーふぇくと・そるじゃー」の略ではないかと考える。と、言うのもこの御仁をPSと定義づけた人物が無類の特撮・アニメ好きであるのだ。詳しくは黒コートの男の店へ行き、Gift-textのページを見てほしい。いろんな都合でここでは多くは語れないのである。

ガッコーン!

 いきなり吾輩の頭の上にタライが降ってきた。
「だまって聞いていれば、好き勝手言ってくれはりますなぁ」
 主人公イジメの好きなオーナーが仕掛けた罠かと思ったら、どうやらこの御仁が仕業であったらしい。
「それじゃあまるでわたしが極悪人みたいやないの」
 いや、いきなり人の……いや猫の頭の上にタライを落すなど十分極悪人だと思うのだが……。
「ややわぁ。これはお約束やないの」
 お約束って……。
「ちゃんとボケと突っ込みが出来ひんかったら、次は水バケツやからね」
 そう言うと彼女は吾輩の尻尾をつかみグリグリと回した後に離れた行った。

 全くもって生きた心地がしない。
 しっぽをつかまれた時にはそのまま投げ飛ばされるかと思った。
 さらにはボケと突っ込みだと? 出来ねば水バケツとかも言っておったような……。
 吾輩のこめかみに一筋の冷や汗。そんなのは猫じゃないと言う突っ込みは勘弁してもらいたい。要は「いめーじ」の問題なのだ。とにかくあの御仁の言葉から鑑みるに吾輩にも漫才をやれと言っているように思われた。
 吾輩はガックリと頭と垂れる。
 やらねば次は本当に水バケツを被るであろう。あの御仁の水バケツも某爆弾女の爆弾と同じで何故か牡にのみ有効と来ている。猫とて同じであろう。猫に水とはこれほどの拷問があろうか……。
 吾輩はそのときの自分の姿を想像し、途方に暮れるのであった。

 今日も非常に疲れる一日であった。
 ここの常連客にかかると、身も心も休まる暇がない。
 このままではせっかく助かった命もいつ果てるとも判らぬ。そんな危機感を覚える今日この頃である。
(明日にはここを出て、新しい住処を探そう……)
 ここに来るまでも苦労したが、今ここで味わう苦労に比べればそれがいか程のことがあろうか。
 吾輩がそう決心した瞬間、目の前に小さな皿が差し出される。
 その皿に主が牛乳を注いでくれた。
 ここの牛乳は牛乳と言ってもただの牛乳ではない。引佐の低音殺菌牛乳だ。六十三度で三十分以上かけて殺菌する本当の牛乳だ。その味は百二十度で加熱する高音殺菌牛乳や百四十度加熱のロングライフ牛乳などとは比べるべくもない。
 吾輩は皿に注がれた牛乳を舐め取りながら、先程の決心はどこへやら。もう少しここに居てみようかなどと思っている。いつもこの繰り返しなのである。
2007/03/12

『吾眠ハ猫デアル』その9C
-- タイムスリップした漱石猫 --
    第9話その3

  原作(猫語): 書き猫知らず

  人語翻訳:とっと

 いやはや、こうして見るとこのかふぇなるものは本当に奇想天外な人間のたまり場という他あるまい。もちろん時間帯によっては普通な客も来ているのであるが、そう言う者達は異様な雰囲気を醸しだす常連達におされてか、カウンターには近寄らず、用が済めばさっさと店を出て行ってしまう。君子危うきに近寄らず。食事が目的であれば、それに専念し、それ以外には手を出さないということだ。
 吾輩も他の客を見習って、常連には近づかないのが懸命とは思っている。思ってはいるがなかなかそうはいかないのが現実というものである。こちらがどんなにそれを望まなくても、相手が吾輩を放っておかぬ。現に今も吾輩の目の前には一人の客が紙とペンを手に鎮座しておるのだ。
 ふたつの黒い瞳が吾輩をじっと見つめる。
「さあて、今度はなにをするのかな〜」
 そう呟きながらもふたつの眼は瞬きひとつせずに吾輩を見続ける。
 この風変わりな客、名前を「muraさん」と言うらしい。女性である。間違ってもデカ部屋で片目を細めて唇を突き出し鷹揚に頷いているオジさんとは似ても似つかないので混同しないように。
 なに? そんなのは知らぬ?
 今どきのものが太陽に吠えろも知らぬのか? 嘆かわしい。刑事ドラマの代表作だと言うのに。
 明治生まれで平成の世に転生してきたお前が何故昭和のドラマを知っている等と言うなよ。ここの奥方がミステリーファンで、「やっぱりミステリーと言ったら刑事ドラマよね」とか言って先日も「太陽に吠えろ スペシャルエディションDVDBOX」なるものを(注 そんなものは存在しません緒で真剣にAmazonとかで検索をかけないように)買って毎日見ておるのだ。この奥方がそのむらさんと言う親父が大好きなのだ。
 さて話が逸れたが、このmuraさんと言う客、実は女性である。そして漫画の原作家でもあるらしい。吾輩に張りついて片時も目を離さないのも、その漫画のネタの為だと言うことだ。
 娯楽の少ない明治の御世ならともかく、現代社会において猫の観察記録など読むものがいるのだろうか?
 吾輩のそんな疑問を察したかのように彼女はこう答えた。
「宇宙の大海原を駆けめぐる戦艦や、汽車の話を描いた偉大なるSF漫画家だって昔は猫が主役の少女漫画を描いていたんだからね」
 それが彼女が吾輩を観察する理由になるのかどうかはいま一つわかりかねたが、まあそんなものなのだろうと思うことにした。終始見つめられると言うのはあまり落ち着かぬ気分ではあるが、それ以上の実害はない。爆弾で飛ばされることや、おでんの具になる危機を考えれば問題などないに等しい。それどころかまたまた吾輩が主役となる話が世に出るのであれば、それは実に誇らしいことであると言えるかもしれない。ただ、ひとつ注文をつけるのであれば、用を足す時ぐらいは一人にしてほしいと思うものである。

 さて、この店の常連客も残すところはただ一人。やはりトリはこの人物しかあるまい。
 活動写真のテロップ等なら主役、脇と紹介された後、最後に少し離れてほとんど画面に一人だけで名前が出てくるような大物である。それ故に扱いも難しい。なにか気に障るようなことでもしようものなら、「ややわぁ、そんなことしはって。ぶ・す・い」とか言いながら笑顔で土手っ腹にドスでもブスリとやりそうな怖さがある。
 この大物常連客、店に入ってくるなりいきなり啖呵を切ると言う。「姓は☆Hit !! 、名はMe !!☆ 」等といきなり叫ばれたときには、すわ! 出入りか!? と一同飛び上がったものだ。
 一節によるとこの御仁、PSと言う部類に属するとも言われている。PSとはおそらくは「ぱーふぇくと・そるじゃー」の略ではないかと考える。と、言うのもこの御仁をPSと定義づけた人物が無類の特撮・アニメ好きであるのだ。詳しくは黒コートの男の店へ行き、Gift-textのページを見てほしい。いろんな都合でここでは多くは語れないのである。

ガッコーン!

 いきなり吾輩の頭の上にタライが降ってきた。
「だまって聞いていれば、好き勝手言ってくれはりますなぁ」
 主人公イジメの好きなオーナーが仕掛けた罠かと思ったら、どうやらこの御仁が仕業であったらしい。
「それじゃあまるでわたしが極悪人みたいやないの」
 いや、いきなり人の……いや猫の頭の上にタライを落すなど十分極悪人だと思うのだが……。
「ややわぁ。これはお約束やないの」
 お約束って……。
「ちゃんとボケと突っ込みが出来ひんかったら、次は水バケツやからね」
 そう言うと彼女は吾輩の尻尾をつかみグリグリと回した後に離れた行った。

 全くもって生きた心地がしない。
 しっぽをつかまれた時にはそのまま投げ飛ばされるかと思った。
 さらにはボケと突っ込みだと? 出来ねば水バケツとかも言っておったような……。
 吾輩のこめかみに一筋の冷や汗。そんなのは猫じゃないと言う突っ込みは勘弁してもらいたい。要は「いめーじ」の問題なのだ。とにかくあの御仁の言葉から鑑みるに吾輩にも漫才をやれと言っているように思われた。
 吾輩はガックリと頭と垂れる。
 やらねば次は本当に水バケツを被るであろう。あの御仁の水バケツも某爆弾女の爆弾と同じで何故か牡にのみ有効と来ている。猫とて同じであろう。猫に水とはこれほどの拷問があろうか……。
 吾輩はそのときの自分の姿を想像し、途方に暮れるのであった。

 今日も非常に疲れる一日であった。
 ここの常連客にかかると、身も心も休まる暇がない。
 このままではせっかく助かった命もいつ果てるとも判らぬ。そんな危機感を覚える今日この頃である。
(明日にはここを出て、新しい住処を探そう……)
 ここに来るまでも苦労したが、今ここで味わう苦労に比べればそれがいか程のことがあろうか。
 吾輩がそう決心した瞬間、目の前に小さな皿が差し出される。
 その皿に主が牛乳を注いでくれた。
 ここの牛乳は牛乳と言ってもただの牛乳ではない。引佐の低音殺菌牛乳だ。六十三度で三十分以上かけて殺菌する本当の牛乳だ。その味は百二十度で加熱する高音殺菌牛乳や百四十度加熱のロングライフ牛乳などとは比べるべくもない。
 吾輩は皿に注がれた牛乳を舐め取りながら、先程の決心はどこへやら。もう少しここに居てみようかなどと思っている。いつもこの繰り返しなのである。

2006/02/28

『吾眠ハ猫デアル』その9B
-- タイムスリップした漱石猫 --
    第9話その2

  原作(猫語): 書き猫知らず

  人語翻訳:BUTAPENN

(第9話その1の後半部分(第48代さん担当))
 このようにこの喫茶はトリップだらけである。そのトリップに最近新しい機械が加わった。隠しカメラである。店の要所要所に取り付けられている隠しカメラは、けっして改悪警察法によって設置させたものでも、某大統領によって取り付けられたものでも、ゲリラ対策に設置された監視カメラでもない。確かにこの喫茶は危険人物というか妖怪のたむろしているが、今の所、官憲によるその手の施設は取り付けられていない。監視カメラを置かないのはオーナーの見識である。しかし、その代わりオーナーは桜蘭とかいう二十歳の娘さんが隠しカメラを設置する事を完全に黙認している。
 オーナーが若い娘に甘いのは今に始まった事ではない。吾輩が観察するに黒コートの男は30歳代の女性に、オーナーは20歳代の女性に目がないと思われる。もちろん本人は否定している。オーナーが得意なのは若い女性だけでなく、借金をためる事と、主人公を陰険にいじめる事である。この『吾眠ハ猫デアル』においては吾輩が主人公なので、戦々恐々としている。事によれば、常連客よりも危険な人物かもしれぬ。一方、借金がむやみに溜まるのは、キリリクとかいう無担保無利子のサラ金から借りているからであり、催促を何年も無視する心臓を持っているからである。なんでも、この心臓は黒コートの男に鍛えられたそうだ。

(以下BUTAPENNの担当パート)
 さて、話を元に戻して、「霞 桜蘭」なる妙齢の娘のことである。春の野を思わせるまことに麗しき名ではあるが、だまされてはならない。この娘はなんと、かの爆弾女shionと義姉妹の契りを交わし、せっせと手榴弾、地雷、タイマー爆弾などの奥義習得に励んでいるらしい。かと思えば、ラビン髭の元に弟子入りしては山を駆け、地に潜ってゲリラ戦法を学ぶという、まことに戦慄すべき嗜好の持ち主だ。
 この時代の医学によれば、各々の身体の細胞の中にはDNAという螺旋状のものが存在し、それが個々人の遺伝的要素すべてを決定しているらしいが、まさに彼女のDNAの中には爆弾魔とゲリラの素質が螺旋の捩れとなって脈々と流れているのだろう。そのせいか、この女の血はドロドロだと言う。動物にとって生命の源ともいうべき血液、「血潮」という言葉があるごとくに、母なる太古の潮の成分を宿しているはずの血液がドロドロだというのだから、もはやこれは人間というよりは、妖怪の部類に属するのだろう。というより、自らの血をわざと毒物に変えて、襲い掛かる敵を返り討ちにする魂胆ではあるまいか。まさに肉を切らせて骨を断つ戦法である。そんなことともつゆ知らず、あの黒コート男は、若い女と見るや黒マントの吸血鬼に変身して、血を吸う機会を狙っているらしい。南無阿弥陀仏。

 上記の常連ほどでは無いが、時々姿を現す半常連もいる。彼らは本常連でないお陰で、爆弾や地雷の餌食になる事はめったにないが、だからといってマトモな人間ではない。否、1匹は犬であり、1頭は鹿である。

 鹿というのは、「鹿の子」という女性であり、実は吾輩はその実体をまだ拝んだことがない。いつも鹿の着ぐるみを着ているのだ。この着ぐるみたるや、脱いでも脱いでもまだその下に着ているというところは、まさにかの露西亜の民族人形「マトリョー鹿」を彷彿とさせる。ときどきティッシュ(ティッシュとは要するに便所紙である)配りの副業をしているらしく、よくこの喫茶店でも余り物のティッシュを配ったり、お祝いと見るや、その紙で作った花飾りを贈っているのを見かけたことがある。
 彼女の本業はと言えば、「日々楽々」という店の経営だ。まあ言わば旅巡業の芝居小屋のような場所で、そこでしばしば「日ワイ劇場」という聞くだに卑猥そうな名前の芝居を上演している。筋立ては、市井の三文探偵が殺人事件に遭遇し、登場人物ががやがやと言い合っているうちに、いつの間にか犯人が見つかるという他愛もないものであるが、問題はその役者をこの喫茶店の常連たちが務めるというのだから、どれほどいかがわしいか想像がつく。観客の中にはあまりのくだらなさに卒倒する者もいるらしく、鹿の子はいつも「救心」という心の臓の薬を持ち歩いているほどだ。
 先般の、豆腐が豆板醤にされたあの擬似殺人事件も、この「日ワイ劇場」の再来などと一同が興奮していたのは、ご承知の通りだ。あれ以来、ここの連中は隙さえあれば、『また「日ワイ」をやりたい』などと話し合っているので、早晩また新作芝居がかかるかもしれぬ。まったく迷惑な話ではあるが、吾輩も生来こういうお祭り騒ぎは好きなので、これは一枚噛まねばならぬと思っている。

2006/02/02

『吾眠ハ猫デアル』その10−1
  -- タイムスリップした漱石猫 --
    第10話ーその1

  原作(猫語): 書き猫知らず

  人語翻訳:とっと

 食堂と言うものは思いの外朝が早いものらしい。ここの主はまだ日も昇らぬうちに床を抜け出し、調理場に立つ。吾輩は食堂から居住区へと続く土間に寝床を与えられた為、必然的に毎朝この主にたたき起こされることになる。たたき起こされると言っても特にどうこうされるわけではないのだが、寝ている吾輩の鼻先を通り抜け、さらには土間続きの調理場でガチャガチャと音を立てる為、どうしても一度目が覚めてしまうのである。仕方なく吾輩も大きくひとつ伸びをすると、主に続いて調理場へ向かうこととなる。そうすれば無口なわりに人の良いこの主は小さな皿に『みるく』なる飲み物を入れ差し出してくれるのである。
 この主、口数は少ないが決して無愛想と言うわけではない。それに吾輩がこれまで見てきた人間達とは多少顔つきが異なる。なんでも西洋人の血が混じっているとかで、それ故と言うことだ。まあ、猫でも色々な猫がいる。三毛もおれば、白、黒、斑に縞とている。この主もまあ、そんなものなのであろうと吾輩は納得することにしている。
 主の容貌よりも不可思議なのがこの家の力関係である。普通主と言うものは家の中でも一等良い部屋にでんと構え、やれ飯だ、風呂だと威張り腐っているものと言うのが吾輩の認識であるが、ここではそんな風景は見ることがかなわぬ。かなわぬとは言うが、決してそう言ったものを見たいと言うわけではないが、これまで吾輩が見てきた主どもと比較した時に、なんともこの主が憐れに思えて来るのである。
 おそらくはこの主が起きて調理場に立つとき、奥方はまだ布団の中でまどろんでいるのではあるまいか? それを証拠に吾輩がその日一番に見る奥方は主に呼ばれて朝飯を喰らいにくる寝ぼけ眼の姿なのである。亭主に飯の支度までさせるとは……。吾輩があきれ顔で奥方を見ていると、ある時「餅は餅屋って知ってる?」と問いかけられた。言わんとすることは判らなくもないが、果たしてそれが亭主をこき使うことへの弁解となるかどうかは甚だ疑問を感じる。しかし吾輩はこの娘とに関しては深く追求しないことに決めている。吾輩が大人しくしておればこの奥方も機嫌がよく、奥方の機嫌が良いと、時々吾輩の為に自分の食事の中から『ういんなあ』なる肉の固まりを分け与えてくれるのである。まあ、時代が変わったのだと吾輩は思うことにしている。今より暫く前に『うーまんりぶ』というものが流行り、それ以降次第に女性の地位が向上していったのだと近所の猫仲間が得意気に話してくれたことがある。それと同時に家庭での亭主の地位はどんどんと下がっていった様である。どこの家庭でも今では似たようなものだとそいつはいう。多少の差こそあれ、塵を集積所まで運ばされる亭主もいれば、俸給が少ないと罵られる亭主までいるのだと言う。それに比べれば餅は餅屋程度で済んでいる主はまだ用法なのかも知れぬ。なにより主が今の状況に特別不満を感じていないようであるから、いまさら吾輩が口を出すことでもあるまい。
 奥方が自分の食事を済ませると次はご息女の番となる。空になった食器を主のいる調理場へ運ぶと奥方は一度居住区へと戻り、ご息女を起こして来る。とはいえ奥方の食事は実に優雅なもので、亭主の作った西洋風の朝飯を喰らったあと、さらにお茶までのんびりと飲むのである。その間主は調理場で忙しく動きながら、時折パンなどをつまむ。どうやらそれが主の朝飯と言うことらしい。これでは吾輩が知っている世界とはまるで逆だ。以前は亭主が食卓にどっかりと腰を下ろし、一人飯を喰らう。その間奥方は側にいて何くれとなく世話を焼き、亭主が喰い終わったあとでまるで飯を盗み喰うかのようにそっと済ませたものである。嗚呼、明治は遠くになりにけり……。
 ご息女が食事をとり始める時間になると、ぽつぽつとお客も現れ始める。この食堂――主に言わせると実は食堂ではなく、『かふぇー』なるものらしいが……、一見妖怪変化のたまり場見たいに見えるが、実は普通のお客と言うのも存在する。この店には朝っぱらからむさ苦しいなりをした男たちが集まって来るのである。それが目の前にある大学と言う所に通う学生と言う種族であることを知ったのはつい最近のことである。以前、吾輩は書生と言うものが人間中で一番獰悪な種族と語ったが、この連中は書生と違い店の中では概ね安全だ。あるいはそれは、主から食べ物の施しを受けている連中であるから、吾輩にも特に遠慮と言うものをしているに過ぎぬのかも知れぬが。
 学生達は『こおひい』と一緒に出された西洋風の朝飯を喰らうと大抵は直ぐに出て行く。この時間は主、客共に慌ただしくて、吾輩が幾ら愛想を振りまこうともまず、滅多におこぼれに預かることはない。目まぐるしく客は入れ代わり、主もそのたびに『こおひい』を入れ、飯を作りと忙しく動き回る。こちらも下手に歩き回ろうものなら誰かしらの足で踏みつぶされかねぬ。一度など、おねだりしようと足元にまとわりついた途端に尻尾を踏まれ、机の上にまで飛び上がってしまった。しかも悪いことに、そのとき吾輩が飛び乗った机には食べかけの飯がのっており、把手付きの湯飲みは倒れ、『こおひい』はこぼれる。皿はひっくり返り菜っ葉の盛り合わせは飛び散る。そして吾輩は首根っこを掴まれて奥へ放り投げられてしまった。それ以降、この時間は隅で大人しくしていることに決めている。チャンスはこの後にあるのだから。これでも吾輩にも野生の血は幾ばくかまだ流れているのである。そこから呼び起こされる本能が、狩りをする時にはじっと身を伏せて気配を消し、獲物が近づいて来るのを待つべしと言っているのだ。
2005/06/16

『吾眠ハ猫デアル』その11甲
  -- タイムスリップした漱石猫 --
    第11話ー甲

  原作(猫語): 書き猫知らず

  人語翻訳:劇団『爆弾中毒年』

 今日はラビン髭の男が朝7時だというのに喫茶店に顔を出している。マスター一家はまだ起きていない。暫くすると、こんどはオーナーまでやってきた。珍しい事もあるものだ。
「さすが優良社員で表賞される事はありますね、たった23分17秒の遅刻じゃないですか」
「あのですねえ、休日ぐらい、もっとゆっくりしてくれません?」
そういいつつ2人は外に出る。あとについていくと、外には窓のない中古バンが駐車していて、そこではshionとTERUの爆弾コンビが仲良く缶コーヒーを飲んでいる。
「なんで窓が無いんです?」
「機密保持の為に決まってるじゃないですか」
どうやらラビン髭が運転するようだ。
「とっとさん、大丈夫よ、中にはテレビもパソコンもゲームもあるから」
とshionが言うのに促されてオーナーもバンに乗り込んだ。
こんな時は面白い事件があるに決まっているから、こっちも外でニャーニャーないていると、shion が
「あなたもいらっしゃい」
と言って吾輩を車に入れてくれた。

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「わたし歩きくたびれちゃった」
「なんで馬を用意しないんだ」
「鹿で我慢しときなさい」
「あーあ、お腹がぺこぺこ」
「鹿せんべいならあるよ」
「鹿の子が鹿の餌なんか食べる訳ないでしょ!」
がやがや言いながらいつもの連中が山の上までやってきた。吾輩は豆腐の上にに乗って登る。考えてみれば、豆腐が歩くというのも、その上に乗って豆腐が崩れないというのも、常識的には変だが、この連中を前に常識は通じない。常識なんぞ捨てた方が賢明である事は経験で知っておる。

「ええ、本日は我が山塞にまでお越し頂き有難うございます」

そう言いつつラビン髭の男は紙をあずまやに貼った。そこには
  『清風山』
と書いてある。山腹は黒焦げだ。早速爆弾女が反応する。
「ああ、すがすがしいわ、この焼けあと」
「ハニー、まさかこれを全部ひとりでやったのかい?」
そう尋ねているのはもちろん黒コートだ。
「なんでわたしなのよ? 動機が無いでしょ」
そこへ、横合いからオーナーはいつもの暴露をした。
「あれ、TERU さん、さっき麓の鹿にモーションをかけてませんでした? 確かメスでしたよ」
「え、ダーリン! また鹿の子さんに手を出すうとしたの?」
「キャー嬉しい、TERU さん、私に何かおごってくれるんだ!」
この程度の会話のずれに驚いていては、あの喫茶には住めまい。
「馬鹿言え、あれは本物の鹿に餌をやっていただけだ」

 あずまやの横には火の用心と大きく書かれたバケツ、一面の焼け野原の向こうには奈良市街が見える。吾輩でも奈良ぐらいは知っていおる。そう、ここは奈良若草山の山頂、山焼きがあったばかりだ。

「これの何処が清風山よ」
という女将の文句に黒コートの男が相槌をうつ。
「誰が見ても若草山じゃないか、なんでわざわざ窓のない車に載せる必要があったんだ」
それにはラビン髭が答えるまでも無くとっとが答えた
「でも、あのパソコンを独占してたのはTERUさん御本人ですがねえ」
一方の鹿の子は
「清風山ってなあに」
と無邪気に尋ねている。
「おおかた鹿を焼いて食べる所だろう」
「じゃあ、今日は鹿の子さんが死体なのね」
「鹿の子は鹿じゃない!」
「そうですよ、鹿の子といえば羊羹です。焼いて食べたら不味くなります」
「文字ゲリラさん、そんな悠長なこと言ってる場合じゃないでしょ、早くこの焼跡から焼死体を探し出してください!」
「なぜここで焼死体が出て来るんです」
「だって、日ワイで焼跡が出てきたら焼死体に決まってるじゃない?」

日ワイとは、喫茶店の連中が興業しているミステリー劇場の事である。5人で死体役と犯人役と探偵役を交替でやるのだが、役者が役者だけに、どうしてもシリアスな劇にならない。このオリジナルメンバーに最近ラビン髭の男と巨大な豆腐が加わった。

「焼死体じゃなくて焼き豆腐でもいいけど」
「えっ? 二回続けて死体役をやるんですかあ?」
「じゃあ、鹿の丸焼き」
「鹿の子、食べてみたーい」
「げ、共食い。こりゃ日ワイも凄いテーマを扱いますなあ」
「なんで共食いになるの? 鹿の子は鹿じゃ無いって言ってるでしょ!」
そう、彼女は鹿の着ぐるみを無限に着た鹿の妖怪である。鹿の妖怪と言えば、西遊記の第79回に出てくるが、その飼い主は南極老人とかいって、不老長寿の薬と称するいかがわしい健康食品を作っている。とすれば、鹿の子はこの妖怪の子孫かもしれない。

「あのう、焼け野原の事は忘れて頂けないでしょうか? ここは中国青州の清風山という事になっているんですが」
「中国青州? ここは関西よ」
「仕方ないじゃないですか。中国ロケをしようと思ったらいくらかかると思ってます? それとも各人十万円ずつ出します?」
「鹿の子、十万円あったら、オーロラ見に行きたい!」
「わたしゃ新しいパソコンが……」
オーナーに続いて黒コートが
「僕だって十万円あったら……」
と言いかけるや
「十万円なんてダーリンにははした金でしょ?」
と横やりが入った。黒コートの男は、表向きは貧乏探偵だが、その実、泥棒が本業の大富豪である。もちろん私生活では爆弾女に首根っこを押さえられた浮気ハーレム男だ。
「でもハニー、この連中と一緒に中国に行くのと、2人きりで浜辺に行くのとどっちがいいかい?」
「えっ、いつ、いつ? このあいだのタヒチは野暮用でヨーロッパに行ったから海辺を楽しんでいないわ」
先日フランスでダイヤの盗難があったが、期を同じくして2人はタヒチに出かけていた事になっている。その日程表をみると、タヒチからフランス往復がギリギリ可能である。但し、真相は誰も知らない。
「タヒチより素敵なところさ」
ダイヤの次はおおかた携帯ミサイルでも盗む積もりだろうか。

ラビン髭が続ける。
「まあ、そういう訳で、ここは清風山ということでお願いします」
「清風山って、水滸伝の?」
「はい」
「市街が見えてるのに?」
「清風鎮の街に見立てて下さい」
「車の騒音がひでえなあ」
「宗代の昔だってこんなものでしょう」

水滸伝と言えば、中学教師の主人…正確には元主人というべきであろうか…が、暇な時に読んでいた記憶がある。確か、清風山は、第33回あたりの前後数回の舞台であった筈だ。

「ところで、なんで水滸伝が日ワイなんだ」
「そうよ、水滸伝の話なら皆知ってるわ」
「じつは、私は読んだ事がないの」
「恥ずかしながらわたくしも」
「ええええ?」

その言葉に応じて、白い壁みたいな物体が説明を始める。最近の朧豆腐は硬派に走っているらしく、豆腐と言うよりは岩である。吾輩がその上に乗れたのも、彼が硬派に走っているお陰である。
「ええ、清風山の一場は、水滸伝の中でも特に宋江の険悪さが出ている場面で、彼のせいで、3人の堅気武官が山賊に身を落とす事になります」
講談話で出てくる宋江は正義の味方のヒーローであるが、なるほど事実だけを見ればそうかも知れない。

「ふーん、で、それと日ワイとどう関係あるの?」
鹿の子が不思議そうに聞くと
「そりゃ、陰険な奴を殺すのよ!」
と爆弾女が目を輝かせる。それを聞いたとっとは、すぐさま
「違いますよね、文字ゲリラさん」
どうやら、彼は自らを陰険だと心得ているらしい。さすがサド会長だ。
「とっとさん、御安心下さい。一番陰険な人間は生き残りますから…」
一番陰険という言葉に不満そうなとっとが文句を言う前にラビン髭は続ける。
「…で、この話では、悪役の劉高とその妻が殺される事になっていますが…」
「ワーイ、鹿の子のうれしい連続殺人だあ」
「でも話では兵卒も皆殺しだった筈ですがね」
そう先走りする豆腐を女将が制する
「戦争で殺すのはチャップリンによれば殺人とは言わないから除外ね」
「…それがどのような殺され方をしたか検証しようという訳です」
「どういう殺され方をしようが、ミステリーにはならないじゃないか、刺した人間は分かっているんだから」
一応筋を知っているらしいTERUが疑問を呈すた。
「いや、始めに刺した人間で無く、致命傷を与えたのが誰かが問題です。昔の中国の法律によりますと、多人数が一人を殺した場合、致命傷を与えた人間だけを死罪にするってなってまして」
「そんな事どこに書いてあるんだ」
「棠陰比事。ミステリーを書く人にとっては必携ですよ」
「では、我々で真相の究明をやろうという訳かい」
「まるで黒沢の羅生門ね」
と女将が真面目に反応すると、shionは別の方向に反応をする
「じゃあ、死体役は何度も殺されるんだ!」
これを聞いて喜んだのは鹿の子と女将だ。
「キャー、連続同一人殺人だわあ」
「死体役はTERUさん以外にありえないわねえ」
「なんで僕なんだ」
女将に代わってオーナーが答える。
「だって何度女の人に殺されても死なないじゃないですか、その為にどれだけ喫茶店が爆弾被害を受けているか知っていますか?」
「しかしだ、僕がパフォーマンスをしなければ、誰があの寂れた喫茶店に行くのだ。僕は出演料を貰っても良いぐらいだぜ」
「朧豆腐さんがいます」
「彼は女将さんに料理されるだけで何もしないじゃないか」
「文字ゲリラさんがいます」
「彼は和菓子を食べるだけで何もしないじゃないか」
「私がいます」
経営のまずさを突かれて、とっとは頭に血の昇ったとみえる。それもそうだろう、あの喫茶は借金だらけで首が回らないのだから。

「あのう、おとりこみ中を申しわけありませんが、TERUさんには別の適役があるから、残念ながら死体役にはなれません」
「適役って何だい」
「ナンパ専門の豪傑役です」
「お、そいつは素晴らしい……ゲホゲホ……残念だ、僕が間違って誤解されて。まあ、仕方ない引き受けてあげよう」
「ふっふっふ、私の前で浮気役をするとは好い度胸ね。死体役で無くても死体にしてあげるから」
「でも、水滸伝にナンパばかりする役ってあったかしら」
「西門慶じゃあないの」
「それは清風山とは関係ないわ、それに西門慶は豪傑じゃなくて悪徳商人よ」
「ああ、いたいた、王の矮股」
「ちょっと、僕は足は短くないぞ、ホームページの写真をみたまえ、写真を。それに王矮股と云う名前でなく王矮虎だ」
「矮股虎って名前もあるわよ」
「足の短い虎って、ますます短いイメージじゃないの」
「ああ、僕のイメージが…」
「でも、王矮虎といえば、女好きという事のみで名前を覚えてもらえる唯一の豪傑でしょ? こんなユニークな豪傑他にはいないわよ」
「そりゃあ、なるほどぴったりだ!」
と水滸伝を知らないとっとが思わず感嘆の声をあげる。TERUは不満の態である。
「王矮虎は単なる女好きではないか。僕は女を楽しませるのが好きなんだ。分かるかね、この違い」
「そんな事知りませんよ」
「王矮虎は女好きだが女にもてない。僕は何も言わなくても女がよってくる。分かるかね、この違い」
「ダーリン、さっきから何だか素晴らしいことをいっているわねえ?」
「ハ、ハニー、誤解しちゃいけない。どんなに女に慕われても僕の心は君だけのものだ」
「TERUさん、言い訳はいくらして下さっても構いませんが、この配役は僕が絶対の自信を持って推薦するものです。何なら投票にかけます? 王矮虎が良いか死体役が良いか」
とラビン髭が言うや、答が次々にあがる。
「王矮股」
「王矮股!」
「王矮股になってついでに死ぬ」
「それいい!」
「あのう、王矮股が死ぬのは清風山じゃないんですけど」
「じゃあ、私が殺してあげるわ、ねえ、ダーリン」
余り拒否しつづけるとますます不利になると悟ったTERU はしぶしぶ王矮虎役を引き受けた。

「次にとっとさんの配役ですが」
ラビン髭が全部言う前にTERUの王矮虎が口を出す
「そりゃ、宋江だろう。なんたって一番陰険なんだから」
「そうかしら、劉高のほうが陰険じゃない?」
しかし、さっきラビン髭はとっとさんに御安心下さいと言っていた。宋江しかありえないと思っていたら、鹿の子が声をあげた。
「わーん、さっきから話がみえなーい」
とっとも賛同する。
「そうですよ、もうちょっと詳しく筋書きを説明してくれません」
「だから、さっき朧豆腐さんが説明した通りです」
確かに、このままでは水滸伝を知らない人間や妖怪には何にも分かるまい。こういう時は某エッセイストの登場である。
「文字ゲリラさん、筋はともかく、登場人物だけでも説明しなきゃ駄目だろう」
そう言って王矮虎のTERUが説明をはじめた。吾輩も筋は知っている。

 清風山の場の主要登場人物は、清風山の山賊が3人、頭領の燕順、女好きで矮股の王英、白面美男の鄭天寿。これに水滸伝の名目上の主役たる宋江、弓の名手で一番かっこいい花栄、短気ながらも愛すべき将軍の秦明、ちょい役の黄信の4人が加わって、一応、正義の味方を名乗る。その一方で清風山の麓の街で賄賂を取りまくっている文官の劉高…本人に言わせれば当時の慣習に従っただけの事ではあるが…と、その妻が悪役という配役で、当然ながら悪役2人が最終的に殺される訳である。途中で秦明の家族も殺されるが、ラビン髭の口ぶりからして、今日の日ワイではそっちは目玉ではないだろう。というのも秦明の家族まで役に入れると、とても日ワイの役者だけでは足りないからだ。いや、それどころか、以上の9人だけに絞っても役者が足りない。

「…そういうわけで、役者は十人以上必要です」
そうTERUが説明しおわると、ラビン髭が付け加えた。
「これらの配役のうち、ストーリーに関係ないのが白面美男の鄭天寿ですので、彼と秦明の家族を除けば必要なのは8人です」
「ちょっと待って、ここには7人しかいないわよ」
「6人と豆腐一丁と言った方が正しいな」
「だって、そこに猫がいるじゃないですか」

ラビン髭のこの言葉に吾輩はびっくりした。吾輩が役者を?
「猫に何が出来るっていうの」
「いや、君たち、ラビン髭の言う事は正しいかも知れん、なんせ、こいつは、かの爆弾喫茶に住み着いて平気に生活しているのだからただ者ではない筈だ」
「じゃあ、TERUさん、この猫に何の役をやらせようと仰るのでしょうか」
「もちろん死体役に決まっているではないか」

その言葉に吾輩は一瞬のけぞった。三味線にでもなるのだろうか。
「死体役? それ贅沢だわ」
「そうよ、このあいだも犯人役だったじゃないの?」
「でも一応ここは日々楽々ではなく、猫祭りの会場だ、猫に敬意をあらわしても悪くなかろう」
ここまで聞いて思い出した。そうだ、日ワイでは、犯人と死体の2役が美味しい役どころなのだ。それが日ワイの日ワイたる所以である。ちなみに日々楽々とは日ワイの脚本を載せているサイトで、鹿の子が経営している。
「こんな妖怪猫のどこに敬意を払えっていうの」
「いや、わたくしとしては、この猫のお陰で喫茶店の売り上げが増えているので、敬意を払ってかまいませんがねえ、どうでしょう、その劉高とかいう悪役をやらせては」
「劉高っていいわねえ。確かに書生あがりの癖に他人のあらを捜しては、それをネタに強請っているから、この猫にぴったりよ」
吾輩は不満である。第一に吾輩の意見が無視されている。第2に、他人のあらを捜すのが一番得意なのはとっとであり吾輩では無い。第3に劉高が一番のサドである事が看過されている。清風山の幕では、拷問が一ヶ所あるが、それは劉高が宋江に対して行なうものであり、、、とここまで考えて、吾輩はふと気付いた。宋江はとっとの役に決まっている。ということは吾輩が彼をひっかこうか、彼のパソコンに小便を引っ掛けようが、自由なのである。不満を云うのは止めにしよう。

「劉高は良いとして、劉高の妻は誰がやるのでしょう?」
「劉高の妻って一番の悪役でしょ?」
白い壁と着ぐるみ妖怪が次々に尋ねる。
「かなり変った悪役ですよ、とにかく殺される前に2度も浚われる訳ですから。美人だったんでしょうなあ」
「じゃあ2度も乱暴を受けたのでしょうか?」
とっとの興味はどうしてもそっちに走る。
「水滸伝は子供も聞いていた講談だから、乱暴はすべて未然に防がれています」
「じゃあ、おいしそう! 鹿の子がやる!」
「鹿の子ちゃん、あなたいつも猟師の罠にはまって浚われているじゃないの。たまにはわたしにやらせてよ。一度、誰にでも良いから浚われてみたかったの」
「あの、女将さん、何か勘違いされてません? この世に、女将さんを2度も浚うような奇特な人がいると思っているですか?」
「そうですよ、少しは浚う僕の身になって下さいよ、山まで持ち上げたら重くてぎっくり腰になります」
こめかみにしわを寄せる女将をよそにshionが言う。
「ふふふ、やっぱり私しかいないわね、ダーリンに浚われる役」

しかし、それには全員が反対した。
「またそのパターン?」
「面白みがないわ」
「新鮮味も無いな」
「日ワイって、もっと、こう刺激的でなきゃ駄目よね」
ワンパターンはともかく、この組む合わせでは、最後に殺されるのは劉高の妻ではなく、清風山の山賊になってしまう。黒コートの王矮虎ならそれも心配するに違いない。そう思っていたら、
「ハニー、そういう訳だ、今回は諦めよう」
矢張りそうだ。
「どうしてダーリンまでそんなつれない事をいうの?」
shionはTERUを見据える。
「ハ、ハニー、そう怒る事はないだろう。実はハニーにはもっと良い役があるんだ」
「えぇ?それなあに」
突然機嫌が良くなる。現金な女だ。いや、彼女の場合はダイヤモンドな女と言うべきか。
「扈三娘さ。美人で武芸達者で、水滸伝では一番素敵な女だよ、ねえ文字ゲリラさん」
とTERUはshionが美人という言葉を追及する前に話を振る
「なんで、そこで僕に振るんです?」
「だって、君が同意したらハニーも納得するではないか」
「まあ、いいですけどねえ、、。shion さん、扈三娘が最高の女役である事は僕も認めますよ。しかも、その女がこともあろうに王矮虎のTERUさんと結婚するんです」
「それこそ私の役じゃないの!」
「但し、この清風山では出て来ません」
「出てこないものを出すのが日ワイでしょ? ねえ、扈三娘を出してよ」
「それはこっちの能力を越えてまして」
黒い塊を手にしながらそう要求する女の前に、さすがの文字ゲリラもしどろもどろだ。
「ダーリン! あなたの頭は何処にあるの? こんな時に脚本を変えるのがあなたの役でしょ?」
「そうですよ、TERU さん、扈三娘の名前を出したのはあなたですからね、責任とって書いてください」
文字ゲリラはここぞばかりに責任回避に走る。
「ちょ、ちょっと待った、扈三娘の名前を出したぐらいでどうして僕が書かなくちゃならないんだ」
「これは確定ですな。中国もののエッセーを書くか、扈三娘の出る日ワイを書くか」
扈三娘を全く知らないとっとまで加勢に出る。日ワイと聞いて鹿の子が黙っている筈がなあ
「嬉しい! もう1本、日ワイが楽しめるのね。で、その扈三娘って何したの?」

ここに至って、諦めたのか、或いははぐらかすつもりなのか、TERU は扈三娘の出る場面の説明をはじめた。
「まあ、まず説明をしなくちゃね。扈三娘というのはね、このあとの祝家荘の闘いで登場する女武者なんだ。敵方としてね。しかも一番強い事になっている。その彼女が登場した時……」
「ああ、わかった。王矮虎のTERUさんが早速口説きに行って、こてんぱにやられたんだ」
このあたりは鹿の子でも簡単に想像出来る話である。
「げげ、どうしてその秘密を」
「秘密って、水滸伝に書いてあるじゃないですか、王矮虎は醜男で弱い、一丈青は美人で強い、って」
とは文字ゲリラ。一丈青とは扈三娘のあだなである。文字ゲリラが続ける。
「で、これを見た宋江は、王矮虎に一丈青をめあわせたら、王矮虎も女の尻を追い掛ける事が出来なくなるだろうと考えたのです」
「いんけーん、まるでどこかのサド会長みたい」
「私には陰険というより深謀遠慮に思えますがねえ、なんせ相手はあのTERUさんですよ」
さすがにサド会長は視点が違う。
「僕じゃない、って。これは王矮虎なんだから。とにかく宋江の意を察した林冲が、扈三娘を生け捕りにするんだな」
「林冲ってだーれ」
「冒頭からかっこよく活躍するスマートな男、彼がやもめになったのは勿体ないわあ」
「扈三娘だって、林冲と一緒になれたら良かったのに」
「駄目駄目、私はダーリンの方がいいわ。林冲なんて浮気絶対しないでしょ? そしたら爆弾を投げる相手に困るじゃないの。それに、女って愛された方が幸せなのよ…」
さすがに爆弾魔は考える事がちがう。
「ああ、すばらしきロマン。王矮虎と扈三娘の組み合わせなんて、馴れ初めからその後に至るまで私たちそのものね」

そうであろうか? 王矮虎が扈三娘に首っ丈だったか首根っこを捕まえられていたか知る由もないが、扈三娘と一緒になって以来、王矮虎が女女と騒がなくなった事は確かだ。その点はshionの目を盗んで浮気に走る男とは大違いである。王矮虎の方が、黒コートの男よりも数段も上等である事は明らかである。
「で、TERUさん、殺人はあったのでしょうか」
とっとが珍しく真面目に尋ねる。日ワイの必須条件だ。
「それが、あるんだなあ。敵方の一番の豪傑で、陰険オーナーの宋江すら惚れ込んだという欒廷玉が乱戦の内に死んで誰が討ち取ったのか分からないんだよ。だから、その犯人を糾明しようというミステリーは成り立つ」
「キャー、嬉しい、で、いつ書くの?」
「ちょっと待て、誰が書くといった?」
「そこまで言いながら書かないのは卑怯よ。まるで何処かのオーナーじゃあない」
「今の意見には賛同できかねますなあ。気を持たして書かないのは何処かの和菓子好きだと思いますが」
和菓子と言えば一人しかいない。
「僕がいつそんな真似をしたかい?」
「ほら、女将さんのおでんのおごりで、昔の恋愛経験を話しかけた事があるじゃないですか」
「記憶に無いなあ、ほら、それより今日の日ワイを続けなくっちゃ、劉高の妻の配役がまだ決まって…」
「誤魔化してはいけませんなあ」
「あ、そう、じゃあ、今日の日ワイは無いほうが良いと仰るわけで」
そう言いながら、ラビン髭は強引に話から逃れた。黒コートの男もほっとしている。

 その時、新しい顔があずまやに現れた。桜蘭だ。
「よくここが分かったわね」
「そりゃ隠しマイクをとっとさんの鞄に入れておきましたから」
彼女は隠しカメラをあちこちに備え付けている。鞄で小さかったからマイクにしたのだろう。
「ああ、そうだわ、劉高の妻は桜蘭さんがいいんじゃない」
と早速女将が提案する。同じ事を黒コートの男も言いたかったに違い無いが、shionの手前で黙っている。
「えっ、それどんな役なの」
「殺される役」
「ちょっとお、死体になるの?」
「僕なんか始めからいきなり死体ですよ。劉高の妻はその前に2度も花があるからよっぽどマシですよ」
とは岩のような豆腐の言い分だ。
「花って?」
「王矮虎のTERUさんに浚われる役」
ここまで聞いてshionが黙っている筈が無い
「ダーリン、私の義妹に手を触れたら、どうなるか分かってるわね」
と、黒い塊を見せつける。
「ハニー、ちょっと待ってくれ、これは単なる役なんだ。その役では僕は劉高の妻をお姫さまだっこしなければならないんだ」
「へえ、じゃあ、いいわ、その役とかいうのをおやりなさいよ。この山の山腹と同じ色にしてあげるから」
この会話を女将は楽しそうに聞いている。なるほど、それで桜蘭を推薦した訳か。進退窮まったTERUはやけくそで吾輩の驚くような提案をした。
「そうだ、この猫を劉高の妻の代役しよう。つまり王矮虎は無類の猫好きで、それで猫を浚ったと」
この意見に文字ゲリラが賛同する。
「なるほど、そりゃ面白い。日ワイの水滸伝に相応しいかもしれないですね」
そういう訳で、吾輩は劉高の飼い猫の役に抜てきされたのである。
2005/01/11

『吾眠ハ猫デアル』その11乙
  -- タイムスリップした漱石猫 --
    第11話ー乙

  原作(猫語): 書き猫知らず

  人語翻訳:劇団『爆弾中毒年』

 吾輩の配役が決まったところで、昼寝を決め込こむ。日当たりの良い斜面は、山焼きの跡の余熱もあって気持ち良い。猫灰だらけと言うではないか。ここは吾輩の場所だ。
 うとうとと虎だかライオンだかになってサーカスで演技をする夢を見ていたら、突然首筋を掴まれて起こされた。王矮虎役のTERUの声が聞こえる。
「さあ捕まえたぞ、ゴッホ、げっ、なんだ、ゴッホ、この灰は、ゴッホ、ゴッホ」
「さすがTERUちゃんね、黒いコートに灰をつけて山賊らしい格好になろうって訳かしら」
「女将さん、じゃなかった、一の頭領、あのですね、僕は何も好きでこの役をやっている訳ではないんですから」
どうやら女将が燕順の役のようだ。清風山の山賊のボスである。王矮虎は二番ボスだ。目の前にはもう一人某オーナーがいる。と言う事は、彼が予想通り宋江なのだろう。
「あら、さっきとっとさんの肝を抉るのを楽しみにしてたの、TERUちゃんじゃあ無かった?」
「それは女将さんでしょう? おでんに入れたいとか言って。僕は単純に王矮虎の役をやっていただけですよ、ねえ、とっとさん」
「わたしゃ、あの時の女将さんのサド的目つきにびびって、あやうく宋江ですって言うのを忘れるところでしたよ」
 吾輩の記憶によると、あの国では百年前まで平然と人肉を食べていたそうで、その人肉の中でも肝が一番美味しいという事が山賊もの講談の決まりであった。肝を食べる話は水滸伝原作でも何度も出て来る。清風山の場では、その冒頭で主人公の宋江が清風山の麓の清風鎮という街に行く途中、山賊の仕掛けた罠にかかって、それこそ鹿のように縛られて、文字どおり料理されかけたのだが、あわや殺される直前に宋江だと分かって、頭領の燕順があわてて助け起こして平伏した事になっている。
「ふう、やっと灰が取れた。さあて、この妖怪猫をどうやって可愛がろうか」
吾輩は劉高の妻の代わりであるから、灰コートの王矮虎は女の代わりにペットが欲しくて吾輩を攫った事になる筈だ。
「かん袋に押し込めて蹴鞠でもしたら?」
残虐な事を言っているのは女将である。燕順は、というか燕順に限らず水滸伝の豪傑は一般に女に恬淡と言う事になっているが、恬淡の意味を女将は曲解しているとしか思えない。
「女将さん、一応、この猫は文字ゲリラさんが創造したものだから、あまり虐めるとあとが怖いですよ」
と言うのはとっと。一応は諌めているのだろう。
 原作によると、宋江が清風山に到着したあと、王矮股が清風の街の文官筆頭:劉高の妻を攫って来たので、これ幸いとばかり、彼女を街に送り返す為の口添えをして、旧知の武官筆頭:花栄に恩を売ろうとした事になっている。
「とっとさんも客商売は大変ねえ、猫と文字ゲリラさんを除くと閑古鳥が鳴くもの」
「いえ、決して利害の事なんか考えておりません。なんせわたくしは善良なサラリーマンですから」
そういえば、宋江も役所の書記という薄給サラリーマンである。
「それより、とっとさん、ちゃんと僕を諌めて、猫を文字ゲリラさんの所に送り返すようにしてくださいよ。僕は雄猫には興味ないんだから」
と、灰色の黒コートの男は明らかに女の方が良かったと言う顔つきで劇の進行を促す。危険を承知で女を手に入れるのが彼の趣味だ。先ほどはshionとの会話の成りゆきで吾輩を攫う事にしたが、それを如何にも後悔している様子である。
「諌めるのは簡単ですよ。第一にその猫は祟りますね。猫又伝説を御存じでしょう? しかもTERUさん今年前厄と来ている。いいんですか、そんな危険な妖怪を手元において」
さすが妖怪喫茶のオーナーだ。吾輩が黒コートの男の不幸を喜ぶ事を良く知っている……、と一瞬思ったが、考えてみれば、あの喫茶の常連で黒コートの男の不幸を喜ばない者はいない。3時間居候すれば、充分に分かる真理である。
「そうかあ、しょうがないなあ、せっかくいたぶってやろうと思ったが、それは仕方ない、文字ゲリラさんに返してやるか」
と、いきなり吾輩は山腹に放り投げられた。手荒い連中だ。

 連中から逃げると、目の前でラビン髭がおいでおいでしている。彼の所に『送り返す』という話だったから、あのラビン髭が劉高の役なのだろう。吾輩はこれでも役と言うものを心得ておる。一応この男は飼い主役だから、近付いてやった。彼は例によって携帯コンロでぜんざいを暖めている。日ワイの進行よりもぜんざいのほうが大切らしい。上を見ると、あずまやまで100mぐらいしかない。清風鎮は山の麓の筈であるが、さすが、この連中ならではの手抜きだ。横手では20mほど離れた所でshionが桜蘭に黒い塊の投げかたを教えている。どうやら、爆弾魔は花栄の役らしい。
「見ててごらん、こう投げるの」
直球というよりビーンボールである。何処に当るか分からない。
「お義姉さま、それでは正確には当らないんじゃないですか」
あの二人は義姉妹だから、配役でも花栄とその妹という事になっているのだろう。
「いいのよ多少の巻き添えぐらい。どうせオスしか飛ばさないのだから」
花栄と言えば巻き添えの可能性が絶対にない名人である。実は、悪役の劉高もその妻も花栄の矢で殺される訳ではないのだが、爆弾魔の花栄では原作通りになるとはとても思えない。

ふと、あずまやの方から声がした。さほど遠くないから、猫の耳には良く聞こえる。
「それでわたしゃどうすればいいんですか」
宋江役のオーナーが尋ねている。
「宋江は友人の花栄に会いに行く事になっています」
「花栄って?」
「弓矢の名人ですよ。もっとも今日は矢の代わりに爆弾を持っていますがね」
やはり、shion が花栄の役らしい。
「それはそれは、急いで行って敬意を表わしておかなくては」
と云って、とっとがすたすた降りて始めると、何故か黒コートの男もついてくる。
「TERU さん、なんで付いて来るんです」
「そりゃ護衛役に決まってるじゃないか」
「でも、行き先は一応山賊を退治する仕事を受け持った武官ですよ。かえって危ないんじゃないですか?」
「実は原作には書いていないが、王矮虎は女好きだから、女郎屋に行くチャンスを狙っているに決まっているんだな。だから、旅人風の宋江と一緒に降りた方が街に入りやすいと考えている筈だ」
「じゃあ、なんですか、わたしゃ隠れ箕だと仰る訳で」
「当たり前じゃ無いか。王矮虎は宋江の顔を立てて女を解放したんだぜ、そのくらいの見返りがあって当然だろう」
「TERU さん、山の上には女将しかいないから逃げ出して来たんじゃありません?」
「しーっ。それは禁句だ」
女将に監視されていては、浮気男でなくても逃げ出したくなるだろう。しかも下には桜蘭も鹿の子もいる。
「TERU さんの行動にいちいち口を挟む積もりはありませんがね、巻き添えにはしないで下さいね」
とっとが当然のように言う。陰険宋江にぴったりの発言ではある。というのも、水滸伝で義理人情を持ち出して山賊の自由気ままな復讐人生に縛りをつけたのが宋江であり、他人を巻き添えにして自分だけが良い生活をしているのも宋江がからである。しかも彼はそれを自覚してないふりをしているのだ。

その時、いきなり2人とも吹き飛ばされた。
「あら、地雷に誰かがかかったようね」
とshionが桜蘭に言っている。上空から2人の男の声が聞こえて来る
「TERU さん、巻き添えの責任を取ってください!」
「ちょっと待った、これは爆弾ではなく地雷だ。僕を狙ったものではないぞ」
「女を掠める山賊がいるから、地雷が置かれたんですよ。とどのつまりは王矮股のTERUさんの責任じゃありませんか」
「そんな文句を言わず、奈良市街の景色でも楽しんだらどうかね、ここは大和のまほろば、豊川稲荷の喫茶店と違って景色が良いんだから」
そう言いつつ2人とも降りてきた。
「ハニー、素晴らしい歓迎だな」
「ダーリン、山賊を吹き飛ばすのは武官の役割りよ」
「こっちはいい迷惑ですよ」
「あらあら、とっとさんの宋江お兄さま、私が出迎えもせず、大変な目に遭いましたねえ」
「大変な目って、あの地雷、shionさんでしょ?」
「あれは義妹の桜蘭ちゃんが仕掛けたものよ」
こうも後継者作りに熱心であるからには、爆弾喫茶は永遠に続きそうだ。
「そうは言っても、指導をしてるのはハニーだろうが?」
「当たり前じゃないの。…それより、ダーリン、聞いたわよ」
「な、何をだい」
「とっとさんと一緒に降りてきた理由。桜蘭ちゃんが盗聴器を仕掛けてたの知らなかったんでしょうねえ…」
「い、いや、あれはだ、ハニーに会いたくて降りて来たんだ。な、とっとさん、そうですよね」
「わたしゃ知りませんよ」
「本当かしらねえ」
「そりゃもちろん本当だ。そ、それより、ハニー、山賊と武官が仲良く話をしては、筋から離れてしまう」
確かにそうだ。犯罪組織と裏取り引きするのは文官だと相場が決まっている。
「だから僕はこのへんで上に戻るよ」
そういって、黒焦げコートの男が戻ろうとすると
「ダーリン、ちょっと待って、私も行く。目を離す訳にはいかないみたいだから」
と薄笑いをしながらshionが言う。
「ちょっと待て、ここで花栄が宋江をほったらかして清風山に行っては筋が滅茶滅茶だ」
「じゃあ、私は鄭天寿の役をやるわ」

鄭天寿とは清風山の3番目の親分で、色白の美男子である。爆弾魔には適役かも知れない。そして、何よりもあの浮気男を監視するには最適であろう。なんせ上役と下役がそれぞれ女将とshionである。
「えっ、ということは僕は夜叉と爆弾魔に挟まれ、、、」
黒コートの男が焦るのも無理はない。
「ダーリン、何か言った?」
「いやいや、両手に花だと」
「じゃあ、文句無しね!」
「でもハニー、それでは花栄の役がいなくなるだろ?」
「それは義妹が…」
とshionが答える前に、TERUの頭に水がバシャっとかかった。バケツ座の姐ごの、いつものように神出鬼没な登場だ。
「山賊は♪黙って山に帰らはれ♪♪大和撫子のあたしがヒットマンやるよし♪」
確かに Hit!!Man!! である。TERUだけが水をかぶり、横にいるshionには一滴もかからない。花栄も真っ青だ。
「とっとさん、つぎ行きまひょ♪ さっさと文字ゲリラはんに会いに行きなはれ♪」「桜蘭はん、妹役なんてやめなはれ♪ 性格悪いとっとさんの宋江に、政略結婚の駒やて利用されるだけですわ」
山を降りて花栄の所を訪問した宋江は、まず花栄の妹に紹介される。花栄としてはやもめの宋江に差し出すつもりだったようだが、宋江はこの妹を本人の了解もとらずに秦明にめあわせる。それが決定打になって秦明は山賊に仲間入りするのである。
「あのう、Hit!!Me!!のおねえさま、私はどうすれば良いのでしょう?」
「サドやりたい言わはるんうやったら、劉高の役を文字ゲリラはんに替わって貰いよし♪ とっとさんを廃人級に苛めらますから♪♪」
さすがにバケツ撫子だけあって立て板に水だ。劉高は確かに宋江を拷問にかける。公式には虐待で、劉高自身に言わせれば取り調べに過ぎないかも知れないが、ともかく本格的サドは、清風山の幕ではこの時だけである。サド役をやりたければ、劉高の役しかない。

桜蘭は早速こっちにやってきた。ラビン髭はぜんざいを食べている。
「師匠! お食事中申し訳ありませんけど」
「もぐ、もぐ、なんだね、もぐ、もぐ、この餅は上手い」
「花栄の妹以外の役はありません?」
「役を替わるってのはゲリラ的で非常によろしい。それでどんな役が望みかね」
「女将さんを上回るサドがやりたいなあ」
「サドと言えば劉高だが、汚れ役だよ」
「いいでーす!」
「じゃあ譲ってあげよう」
「よろしいんですか?」
「ああ、せっかくのデビューだしね」
「それでは師匠は何の役を?」
「その前に、このぜんざいを食べさせてくれない?」
そういって、ラビン髭は4杯目のぜんざいを食べ始めた。

 ここまで来れば、いよいよ吾輩の登場である。原文では、正月15日の灯籠祭に宋江を見かけた劉高の妻が、彼は山賊の大ボスだと劉高に告げ、それを聞いた劉高が、警察に宋江を逮捕させるのである。この直後に桜蘭の大好きなサドが始まる。つまり、吾輩はとっとの宋江を捕まえる為の証人にならねばならぬ。
 ちなみに劉高の妻は見た事実を述べただけである。ただただ、宋江が身柄解放の口添えをしたという事実に気付かなかっただけの事だ。山賊に浚われてあわや犯されそうになった状態で冷静に観察しろというのが土台無理であり、にもかかわらず女が解放の恩を覚えていると思った宋江に落ち度があるのは明らかだ。とすれは、とっとが現れしだい引っ掻こうが噛み付こうが悪い事は無いはずである。そこまで考えたところに、とっとが近付いてきた。
「ニャアー、にゃあー」
悲しいかな習性とは恐ろしいものである。吾輩の居候先の主人の姿を認めるや、いつものように鳴き声をあげてしまった。すかさず、ラビン髭が
「お、妖飼い猫が何か言ってるぞ」
としゃべりだした。
「ふむふむ、彼猫の言うには、この男が山賊だ、捕まえてしまえ」
吾輩は何もいっておらん。ましてやラビン髭の主張するような言葉は一言も発しておらん。これではオーナーを虐待するという吾輩の楽しみが無くなるではないか。抗議のつもりで
「フギャー!」
と鳴くと、文字ゲリラは
「おお、なんと、この男こそが清風山の大首領か、一番椅子にふんぞりかえっていたそうだ」
と言って桜蘭と2人でとっと宋江を縛り上げた。とっとがラビン髭に抗議する。
「文字ゲリラさん、わたしゃ、頭領の役なんて貰ってませんよ。殺されかけた役は貰いましたが」
「えい、黙れ黙れ、この猫は確かにお前に誘拐されたと証言しておる」
「わたしには、ニャーとかフギャーとしか聞こえませんがね」
「猫語で可しか取れない癖に何を言う」
「そういう文字ゲリラさんは?」
「試験なぞ受けた事ないわ」
吾輩は抗議しても無駄なので黙る事にした。というか、積極的に黙る事にした。第一、これなら吾輩は罪をかぶらなくて良いし、第2に、宋江に落ち度がある以上、文字ゲリラの言い分は一理あるし、第3に、ラビン髭がオーナーを如何に虐めるか見てみたいからである。
「さあ、我が弟子よ、ここから劉高の役だ。この得体の知れぬ宋江役にドロを吐かせてみたまえ」
バトンを受けた桜蘭は嬉々として十八番の着せ替えセットを持ってきた。
「やってみたかったのよねえ、オーナーの着せ替え」
そういって、尋問の代わりにオーナーをマネキンよろしく色々な服を着せた詳細はいちいちここに書かない。おそらく本人が掲示板に書くであろう。最後の着せ替えは、当然中国宋代の重罪人の首枷足枷の格好である。
 
着せ替えの終ったところで、突然、ラビン髭の持っていたぜんざい腕に水がバシャっと当って、腕がたたき落とされた。ラビン髭には返り水すら当らない。
「その格好でええから♪ とっとさんを返すよし!」
とHit!!Me!!の花栄がバケツを持って話している。
「そんなあ、お姐さま。せっかくの着せ替えマネキン人間を…」
「返さへんのなら、次は椅子にあてますがな♪」
と言うなり、椅子にバシャッ。ただでさえ寒いのに冷気がもうもうと立ち昇っている。
「次は文字ゲリラはんの髭♪♪」
そう言われて、あわててラビン髭は逃げ出した。どうやら、ラビン髭は清風の街の武芸師範の役という事らしい。
「桜蘭はん、あんたの玩具をちょいと借りてくね♪」
「えっ、じゃあ返してくれるんですか」
「当たり前ですわ、原文でもそうなってるし」
ここまで聞いていたとっとは思わず抗議する
「えぇー? また虐められるんですか?」
「なんせ相手はゲリラさんやし♪ 楽しみですわあ」
「捕まる前に早く逃げなくては」
「それは、あっちに戻ってからよし♪ なら、桜蘭はん、後で」
そう云って、バケツ撫子ととっとが帰って行くと、ラビン髭が戻って来る
「よし、とっとさんを捕まえに行こう」
「えぇ? 師匠本気です? 花栄に逆らう者も、お姐さまに逆らう者もいませんよ」
「ふふふ、そこは謀略さ」

ここは水滸伝にしては珍しく敵味方陣営の思惑を現実的に記述した部分である。花栄に助けられた宋江は、劉高がこの強奪を公文書化して上級官庁に送り、花栄の立場を危うくすると予想する。まともな文官なら確かにそうするだろう。花栄はいかなる争いも厭わない立場だが、肝の小さい宋江が、こんな街にいては、いつまた捕まるかもしれないと思い、しかも、強奪の証拠たる宋江自身が姿を消せば、上級官庁も手を引くだろうと考え、さっさと清風山に逃げる。一方の劉高は、宋江が逃げると考えて山の麓で待ち伏せをする。
 そこで宋江のとっとの方を注目すると、例の姐ごがノートパソコンをいじくっている。とっとのパソコンだ。
「とっとはん、コスプレ、なかなか似合っておましたで♪」
「えっ、見てたんですか」
「当たり前ですねん♪ 結構、楽しみはってたんちゃいます?」
「まさか、まさか、そんな趣味はありませんよ」
「ほなら、なんでですやろ、パソコンが痛めつけられてんのは。着替えに夢中で気付かはんやったかいな♪♪」
「ちょっと、どこか壊れてます?」
「そら拷問ですねん。猫の小便の臭いがしますわ」
吾輩は悪役の筈である。さっき、唯一の悪役チャンスをラビン髭の男に取られたのだから、このくらいしないと割があわない。
「ええええ! そんなあ。修理出来ます?」
「とっとはんやから、勉強して3万円にしときますわ♪」
「ちょ、ちょっと、それは何でも」
「日ワイにパソコン持って来るのが阿呆ちゃいますか♪」
「それ、文字ゲリラさんに言われて持ってきたんですよ」
「知りまへんがな」
「じゃあ、請求書は文字ゲリラさんに送って下さい」
これを遠くで聞いていた文字ゲリラが突然怒鳴る。
「とっとさーん、勝手に僕のせいにしないでくださーいよ。とっとさんが借金を溜め過ぎて、寸暇を惜しんで書かなけらばならなくなかったから、ノートを持ってきて良いって言ったんですよー。自己責任ですよー…」
話が食い違うのは水滸伝でも同じである。宋江の言い分だけを聞いては確かに問題がありそうだ。
「…もしも請求書を出すなら、とっとさんの喫茶の妖飼い猫に出すべきでしょう−」
ラビン髭の男を擁護するのも止めよう。2人とも目くそ鼻くそだ。
「ほなら、今日だけ特別ですねん、直したげますからに、とっとさん、さっさと山に登りなはれ」
と言って Hit!!Me!! の花栄はパソコンに没頭しはじめた。

とっとの宋江は10歩と歩くまもなくラビン髭の男とコスプレ魔に捕まった。
「ひええ、花栄の Hit!!Me!! さん、助けてえ!」
しかし返事は全く無い。
「とっとさん、パソコンに没頭した姐ごが宋江なんか気にする筈はないでしょう?」
「師匠、これのどこが陰謀です?」
「これは陰謀じゃあない、原作に忠実な当然の成りゆきだ、陰謀はこのあとに…」
成りゆきと聞いて桜蘭が急にはしゃぐ
「じゃあ、もしかしたら拷問の第2段?」
「原作にはあからさまには書いていないがね」
「原作に忠実にお願いしますよ」
とっとが思わず抗議する。
「とっとさん、これは日ワイですよ。つまり推理しなきゃいけないんです。推理とは即ち、当時の社会風習に忠実に小説の行間を埋めるって事です。いいですか、虐待があったのは当時の牢の風習からして自然に予想できるんです…」
彼が話を終らないうちに突然外野から
「そうよねえ、でないと面白く無いわあ」
という声がする。女将の声だ。見ると、割烹着を着た燕順が、ほおずえをついてこっちを見ている。とっとは訳が分からないと云った顔付きだ。
「もしかして、助けに来てくれたんでしょうか?」
「まさかでしょ、偵察に来たのよ」
宋江が清風山を降りた後、山賊が宋江の身を案じて偵察を出したというのは原典にある。
「文字ゲリラさん、私を無視して続けてよ。とっとさんが男の拷問を受けるのを楽しみにしているんだから」
それを聞いてとっとがぎくりとする。
「あのう、どう行間を読んでもそういう言葉を清風山の首領が吐くとは思えないのですが」
「そうかしら、私が燕順だったら、矢張りちゃんと拷問の様子を確認しててよ」
「それは女将さんだからですよ」
「これは女将さんに分がありますな。水滸伝の108人は強い絆で結び付けられているから、拷問の様子を確認しに来たというのはあり得る話です。その時、思わず本性が出て、もっとやれ、って呟く事もありえます…」
文字ゲリラとて、さすがに女将を敵には回したくないらしい。
「…それにです、さっきのコスプレでは全然拷問になっていないとの読者の声が強いんですよ。だから、その埋め合わせをしなきゃならない。皆の楽しみにしている拷問・虐待を省略すると、僕が読者に殺されるじゃないですか」
「そうよ、あんなじゃ拷問じゃないわ」
「女将さん、助けもせずに見てたんですか」
「当たり前じゃ無いの、ずーっと偵察してるのよ」
どうも偵察の意味が違うような気がするが、そんな事は気にしてはならないのだろう。そう思っていると、ラビン髭が桜蘭に引き継いだ。
「我が弟子よ、今度こそしっかり虐待しないと、劇団のメンバーから外されるから、そう思いなさい」
「がんばりまーす!」
そう答えた新人桜蘭は、さっそく提案した。
「師匠、色仕掛けなんてのはどうでしょう? とっとさんは恐妻家だそうだから、私がとっとさんにべたべたしている様子を師匠が写真に撮って自宅に送りつけるというのは?」
とっとの扮する宋江は、己の妾を殺してそれを自慢話に加えるような男であるが、それ故に、女に未練のある様子を見せたら最後、軽蔑される運命にある。だから、色仕掛けの写真を黒旋風:李逵のような凶暴かつ単純な男に送りつけたら確かに効果があろう。但し、李逵が宋江の女遊びに腹を立てたのは、物語もずっと後ろの第72回である。今はまだ第33回だ。
「それじゃあ、とっとさんへの拷問というよりTERUさんへの拷問だなあ」
「どうしてTERUさんなんですか?」
「20歳の娘が中年男を口説いている様子を目の前で見せつけられて、しかも隣にいるshionさんの手前、それを指をくわえて見るしかない、そういう境遇に彼が満足すると思うかい?」
ラビン髭のあとに女将が続ける。
「そうよ、とっとさんが喜ぶだけよ。しかも、この人、20歳代の女の人には見境がないんだから」
とっとは恐妻家だが、同時に不倫喫茶のオーナーでもある。数ある名前…爆弾喫茶、コスプレ喫茶、文士喫茶…の中でも不倫喫茶の名前を一番好んでいる男である。
「ちょっと待って下さい、わたしがいつ若い女性を口説きました?」
「とある25歳の娘さんに、自分の養女にならないかって言ったのはどなた?」
これは事実である。この不倫オーナーは、彼の書いたうちで、最も純文学に近い作品を彼女に捧げ、しかもそれを掲示板でも宣伝している。
「あ、あれは黒コートの浮気男が彼女を口説いたので、その魔の手から守る為ですよ」
「僕には、あの時のとっとさんはTERUさんと同類にしか見えませんでしたがねえ」

3人の会話をよそに、桜蘭は携帯電話を取り出して、猫祭りサイトのねこいたを読んでいる。
「弟子よ、何を見ている」
「拷問のリクエストです。意外に少ないんですよ」
「じゃあ、全部云ってごらん」
「ええっと、『縛られて吊るされて青竹でバシバシ叩かれる所や、逆さ吊りにされて水おけに突っ込まれる所や、縛られてベッドの上で足の裏とかをコチョコチョくすぐられるシーン』『精神的な拷問』『吾眠乗っ取り計画』、の5つ」
そのうちはじめの3つと最後の1つは、現在縛られている宋江役のとっとが書いたものだ。
「あのう、わたしはリクエストのつもりで書いたんじゃないんですが」
「書いたイコール希望じゃあないか。つべこべ云わずに請君入甕」
「それ、何です?」
「中国唐代に取り調べで有名なサド警察長官がいて、ある時、彼の所にやってきた司法省の役人が、どうやったら上手く自白させられますかと質問したら、彼は得意になって、容疑者を甕に入れて熱すれば良いと答えたんだ…」
「カメってなんですかあ?」
と若い桜蘭が尋ねる。
「昔、死人を埋蔵するのに使っていた大きな壺さ」
「ひえー、それだけでも十分にサドだ」
「…話はここからだ。その時、司法省の役人がサド長官に向かって『請君入甕』、君こそ甕に入ってくれたまえ、って言ったんだよ。クーデター計画に参加していた嫌疑がかかっていたんだな。サドの警察長官はやむなく容疑を認めたんだが、因果応報もここまで来ると気持ち良いねえ」
これを聞いて、とっとが不安げに尋ねる。
「あのう、冤罪って事はありえないんでしょうか?」
「そんなこと誰も気にしていないさ。たとい彼が冤罪だとしても同情する人はいないだろう」
「師匠、じゃあ、とっとさんを甕に入れるんでしょうか?」
ラビン髭の答える前に女将が口を出す
「そしてアリババのように熱い油を注ぐのねえ! ついでだからダイコンとかガンモとか入れて…」
「アリ婆婆の女将さん、そんな事をされたら、わたしゃ死んでしまいますよ。殺しちゃ拷問にならないじゃないですか。ちゃんと千一夜物語を読んで下さい」
さすがにサド会長だけあって筋が通っている。
「とっとさんの宋江もたまには良いこと言いますねえ。あの西遊記ですら、熱い油を風呂の如く楽しんだのは孫悟空だけで、羊の妖怪すら焼けただれて死んでしまったんです。原作で宋江が生きている以上、ここで殺す訳にはいきません」
そこまでラビン髭が言った時、桜蘭が重大な発見をした。
「あのう、師匠、甕は何処にあるんでしょうか」
肝心の拷問道具がなくては始まらない。かくて甕の拷問は次の機会にお預けとなり、リクエストに移った。

1つ目のリクエストは青竹叩きである。とっとはぐるぐるに縛られ、そのうえ首枷手枷足枷をしている。
「青竹ってのは間違いだね、水滸伝では棒を使うんだ。その名も殺威棒ってやつで、牢の新入りが百回打たれる事になっている」
と早速ラビン髭が訂正する。
「師匠、竹にしろ棒にしろ、今は山焼きのあとで見当たないのですが」
「そのあたりを探せば、焼け残ったセイタカアワダチ草ぐらいはあるだろう?」
そういうや、直ぐに炭になりかけた短い茎を見つけ桜蘭に渡した。
「きゃあ、嬉しい。……さあ、陰険宋江、覚悟!」
と云ってとっとを打つや、棒はポキっと折れて、とっとの服が真っ黒になった。
「せっかくの服があ、、」
ととっとは歎いている。怪我はない。ラビン髭の男はこれでも虐待と認定したのか、
「じゃあ、後は任せたから」
と唐突な事を云う。
「あれ、師匠、どこに行かれるんです?」
「陰謀さ。劉高である君の要請を受けて、花栄の上官を青州からここに派遣するからね」
どうやら、ラビン髭は今度は青州の知事の役をやるらしい。州に2つの意味があり、一つは文字どおり一番大きな行政単位を指し、もう一つは、その州都を街を指す。いずれにせよ、最終的に捕まえた山賊を断罪するところだ。
「師匠、青州って、もしかして、そこでも拷問をするのですか?」
「常識的にはそうだろうな。水滸伝に書いてある拷問の全てをみっちりやるのが筋だろう」
そう云ってラビン髭は場を離れた。水滸伝には確かに多くの拷問場面がある。例えば第28回には囚人達が最も恐れている拷問として盆吊と土布袋の2つが紹介され、前者が
『黄色く黴びた古米を2杯と臭い干魚でもって御馳走し、満腹になったところを縄で縛った上に藁むしろでぐるぐる巻きにして、更に目鼻口耳を塞いで逆さ吊りにすると、1時間もしない内に御陀仏』
後者が
『逆さ吊りの代わりに土牢に転がして、その上に重い土嚢を載せれば、2時間しないうちに御陀仏』
という事になっている。殺せば残虐殺人、直前で解放すれば見事な虐待だ。他にも爪を責めるってのが一般的だと聞く。オーナーには悪いが、これは面白そうだ。

ラビン髭と入れ代わりに鹿の着ぐるみがやってきた。という事は鹿の子が黄信の役なのだろう。武官の癖に文官の劉高の言う事を真に受けるような早とちりの名人で、それを青州の知事に見込まれて、身分の上は花栄の上官だ。その彼が青州から『文官と武官の諍いを仲裁する』という名目の元に派遣されるのだが、その裏で花栄を逮捕する秘密指令を受けている。武官どおしなら気を許して花栄も隙を見せるだろうという青州知事の知恵だ。
「ここに来れば、宋江のとっとさんが年貢を納める場面に立ち会えるって文字ゲリラさんが云ってたんだけど?」
鹿の子も鹿の子だが、文字ゲリラも文字ゲリラである。ものは言いようだ。
「そうよ、桜蘭ちゃんが今から払わせる所だわ」
「やったー! やっと書いてくれるのね。私ったら、リクエスト権を得る為に夜更かし早起き何でもしたのよ、それなのに約束の日から3ヶ月以上経つのにまだ第1話しか出来てないなんて詐欺だわ」
鹿の子の話は噛み合った事がない。
「ああ、忘れてたあ。そうよねえ、私だって頑張ったのよう」
と桜蘭も思い出したように云う。どうやら、喫茶店開店3周年の3題噺の事を話しているらしい。聞く所によると、オーナーは3題噺を書くと称して、3題のリクエスト権を餌に客よせをしたことがある。そのリクエスト期間はメニューが普段の倍の値段だったにもかかわらず、普段の倍の客がやってきた。それなのにオーナーは多忙を理由になかなか書かなかったのである。その時にリクエスト権を得たのが、今、とっとの回りに入る3人である。
「ちょっと待って下さい、どうしてここで3題噺が出て来るんです、今は水滸伝ですよ」
とっとはうろたえている。
「じゃあ、ここで拷問の代わりに、とっとさんが執筆するのを監視しない?」
「賛成!」
なるほど、これは良い拷問だろう。下手な拷問より余程効きそうだ。とっとは
「いや、実はパソコンがあの妖飼い猫に壊されまして」
と苦し紛れに云う。
「なーんだ」
「ざんねーん」
「普通の拷問で我慢するしかないわねえ」
しぶしぶ、なのか嬉々とというべきか、とにかく桜蘭が普通の拷問を始めたが、その様子は本人かあるいは偵察中の女将が語るであろう。

拷問が半分ほど終ったところで、少し離れた所から声が聞こえる。
「とっとはん、パソコン出来たよし♪ はよ、続きを書きなはれ♪♪ 1週間更新せんはったらHD壊れるプログラムつけたで(ヲニ)♪」
花栄らしからぬ言葉を発する花栄である。
「そうや、鹿の子はん、はよ籠持って迎えに来るよし♪ とっとはんと一緒に青州行くよって♪ とっとはんの拷問あたしも見たい♪」
かなり乱暴な解釈だ。原典では、黄信に騙されて捕まった花栄が黄信に対し、武官どおしの宜しみで官服を来たまま護送籠に乗る事を要求し、それが認められる。同じく青州に護送される宋江が、拷問でぼろぼろになって気を失った状態なのとは対照的である。
「えぇっ、あたしが籠をかつぐのお?」
「あのう、お姐さま、籠なんて何処にもありませんけど」
「しゃあないわー。歩いていったげる」
そう言いつつ、手枷足枷のとっとを引き連れるて、劉高の桜蘭と黄信の鹿の子と花栄のバケツ撫子は山を横切るように歩き出した。待ち構えているラビン髭は、盆吊と土布袋の準備を手にもってとっとを待ち構えている。
2005/01/23

『吾眠ハ猫デアル』その11丙
  -- タイムスリップした漱石猫 --
    第11話ー丙

  原作(猫語): 書き猫知らず

  人語翻訳:劇団『爆弾中毒年』

あずまやのほうから話し声が聞こえる。
「あ〜あ、やだなあ。なんで男のとっとさんを助けなくちゃならないんだ」
王矮虎役のTERUの声だ。
「だって、ダーリンったら、かっこ良く助けるって言ったじゃない。わたし、ダーリンの活躍をいつも期待してるのよ」
鄭天寿役のshionは、ここが山賊3人そろって助けに行く場面である事を知らない。
「あれは場の勢いで云ったんだ。宋江に惚れ込んでいるのは一の頭領の燕順だから、本来なら女将さんが一人で行くべきなんだよなあ」
「TERUちゃーん、なに駄々を捏ねているのー。私だっていやいや助けに行くのよー。ちゃんと原典どおりになさい!」
とっと達からつかず離れずの所にいる女将が遠くから反論する。サド連合幹部の彼女は、とっとが拷問を受けるさまをもっと見たいらしい。
「でも女将さーん、王矮虎だけは宋江を良く思っていない筈ですよー。なんせ、せっかく攫って来た美人をー、手付かずで送り返さなきゃあーならなくなったんですからねー」
美人を攫うと聞いてshionが黙っている筈が無い。
「ああ、如何にもダーリンだわ! 私以外の美人の話をした事は許してあげるから、つべこべ言わずに助けに行ってらっしゃい!」
と爆弾を投げ付けた。TERUは若草山上空へと打ち上げられる。まあ、実際にも燕順と鄭天寿の2人が王矮虎の尻を叩いて救出に向かったのかも知れない。

shionの爆弾が男だけを飛ばすのは現代科学の知識では理解できないそうだが、黒焦げになった男の放物線軌道は物理法則に従って正確に計算できる。上空の風の効果を考慮すると、どうやら宋江役のとっとに落下するようだ。と、その時、王矮虎のTERUはぼろぼろコートを脱ぎ捨てて黒マントを取り出した。
「フッフッフ、ハニーも甘いな。僕はこれを見越していたんだ。山賊は血を好む。だから僕も当然血を好む!」
どうやら未だにドラキュラ気分が抜けていないらしい。彼は昨秋の一時期、ドラキュラ仮装に凝っていたのだ。
「桜蘭さーん、あなたの若々しい血を頂きにあがりますよー」
と言って、マントを繰りながら劉高役の桜蘭に向かっていった。山賊ドラキュラの襲来に驚いたのは桜蘭である。あわてて十字架を取り出す。
「ドラキュラよ、くたばれ!」
だがTERUは微笑んでいる。
「ふふふ、物理の好きな僕に、十字架は効かないのだ」
そう答えてドラキュラ風の王矮虎は急降下を始めた。
「ダーリン、私の義妹に何するの!」
当然ながら、このshionが手榴弾が投げ付ける。同時に
「これで煩悩を洗いなはれー♪」
とバケツ撫子のお姐さんも水をかける。鉄砲水は正確に浮気男に向かうが、手榴弾が少し外れて、その水の頭にぶつかった。かくて水鉄砲の勢いを浮気男の直前で止めて、手榴弾自体は水をかぶって爆発しない。男だけを選ぶハイテク爆弾の癖に、水ごときで爆発をやめるというのも奇妙だが、今はそんな事を詮索する暇は無い。桜蘭の劉高、危機一髪!

清風街の長を浮気山賊の毒牙から守れるのは、もはや黄信役の鹿の子のみである。そもそも黄信はそれが仕事だ。鹿の子は懐から必殺道具を取り出すや浮気マント男に向かって、
「覚悟!」
と叫んだ。彼女の出したのは当然ながら救心である。こんなものの何処に効果があるのだろう思ったが、意外や、突然ドラキュラ王矮虎のバランスが崩れた。
「ま、まぶしい!」
見ると、鹿の子の手鏡に映った太陽がTERUに当たっている。鹿の子を見た瞬間に目に入ったらしい。ドラキュラは太陽に弱い。夜型の浮気男もしかり。しかも逆光だ。写真家のウイークポイントである。かくてバランスを崩したマント男は、哀れ、とっとの頭上に墜落した。
「ドーン」
そのままとっとは気絶する。そうして、同時に手枷足枷首枷が外れた。度重なる拷問虐待で、救出時に宋江が意識を失っていたというのはいかにもあり得る事だ。
「えっへん、なんて私は強いのかしら。さあ、残りの山賊も勝負!」
そう自慢する黄信役の鹿の子の傍らで花栄役の姐ごが
「えーっと、あたしの役は…、宋江を助け起こす、か。なあんだ」
と言いつつ、とっとにバケツの冷水をぶっかける。
「つ、冷たあ!」
「はー、はー、はっくしょーん!」
とっとのみならず同時に水をかけられたTERUも震えている。吾輩には拷問の続きにしか思えない。
「あのう、Hit!!Me!!の花栄さん、一応、我々は親友という事になっていんだから、手加減して貰えません?」
「あら、ごめんなさい、あたしTERUさんにかけた積もりだけど」
この言葉にTERUが文句を言おうとした矢先に、
「寒いなら花火であっためなさーい」
というshionの声がするや
「ドッカーン」
と爆弾が爆発し、TERUはとっとを道連れにあずまやの山塞に向かって飛ばされていく。既に鄭天寿役のshionが降りてきている以上、頭領役の女将もいる筈だ。そう思って鹿の子のほうに目を遣ると、割烹着を着た燕順が懐から包丁を取り出している。
「ねえ、鹿の子ちゃんの肉を使わせてえ、ピックニックでの鹿の焼肉は絶品なんだからー」
冗談なのか本気なのか分からない所が恐ろしい。鹿の子は慌てて吾輩の方に逃げてきた。女将相手では、本物の黄信でも逃げるだろう。
 一方、劉高役の桜蘭の方を見ると、shionが義妹の桜蘭に話し掛けている。
「桜蘭ちゃんは一緒に山に登るわよね」
と有無を言わせない口調で云う。桜蘭の扮する劉高は肝の小さい文官だから、本文では山賊の前では金縛りになって、そのまま山塞に連行される。違いは縛られているか腕を掴まれているか差だけだ。残った2人、即ちバケツを手にした花栄と割烹着の燕順もあずまやに向かった。

皆があずまやに戻った頃、とっとの声が聞こえる。
「山塞に着いたんだから、もうこれ以上の拷問は無いでしょうね。わたしゃもうズタズタですよ」
「とっとさん、心配せんとサドに専念しなはれ♪ あたしが助けてあげますによって」
宋江と花栄の救出された後は、確かに宋江が山塞の顧問として事実上君臨する事になる。
「とっとさんへの拷問がこれ以上見られないのは残念だなあ」
とはもちろんTERUである。
「わたしも拷問をもう少し見たかったわ。じゃあ、いよいよ桜蘭ちゃんのお仕置きに移りましょうか」
「お義姉さま、何をするんです?」
桜蘭は女将の義妹でもある。
「あら、劉高役のあなたを殺して肝を取り出すに決まってるじゃないの」
「きゃぁ! 本気なの?」
「桜蘭ちゃん、義妹だからって手加減しないわよ。日ワイの世界は非情なんだから…」
原文によると、山賊3人に捕らえられた劉高は燕順に縛られて宋江の目の前で肝を抉られて殺される。
「…さっき、とっとさんの生き肝を取り損ねたけど、今度こそ念願が果たせそうね。犯人役をやってついでに若い乙女の肝でおでんを作る、日ワイ始まって以来の最高の役だわ!」
「女将さん、ちょっと待った。殺してしまっては生き血が吸えないじゃ無いですか」
「ダーリン、生き血、生き血って、わたしの可愛い義妹を捕まえて、何のつもり?」
「ハ、ハニー、こ、これは役なんだ。つまり、山賊は生き血をすするってのが決まりなんだ」
「へえー、そうなの! じゃあ私が優先ね。だって私の義妹なんだから。ついでに生き肝も食べようっと」
「2人とも黙んなさい! 一の頭領がわたしって事を忘れているわよ。桜蘭ちゃんの肝はおでんの具になるって決まっているんだから」
3人とも己の趣味に夢中で、本来の目的を忘れているらしい。確か、劉高殺しの主犯を考察する為にこの劇を始めた筈だ。
「あのうー、わたしの意見を述べてもよろしいでしょうか? 確か文字ゲリラさんは…」
3人の剣幕に怖れをなして、とっとが恐る恐る口を出す。
「とっとさん。宋江は椅子に座っているだけで、手は下さないんだ。だから桜蘭さんの始末は僕達に任せてもらいたいな」
やくざマフィア暴力団のボスは手を下してはいけない。最近では具体的指令すらしてはいけないそうだ。
「そうよ、黙っててよ。さっきまで散々主役として虐められたんだから、それだけで満足すべきじゃないの」
女将が理事を勤めるサド連合の規約によると、主役はかっこ良ければ良いほど虐めらなければならないそうだ。とっとはその連合の会長である。
「とっとさんは3題噺の執筆に専念する! この劇が終るまでにその2をアップしなかったら、そのパソコンが粉々になると思ってね」
とshionは爆弾と見せる。

一方、傍らでは花栄役のHit!!Me!!が桜蘭に耳打ちしている。
「あの連中ほっときよし。劉高に手え下すのヒットマンや♪って水滸伝に書いてありますから」
無言の命令を誰が下したかはともかく、手を下したのは確かに花栄である。
「あのう、お姐さまはどうされるのです」
恐る恐る桜蘭が尋ねると
「そやなー、あの3人、あんたの血欲しい云うとるねん、二十歳の献血ってどうですやろ」
「私の血を飲ませるんですか、不摂生だから健康に悪いですよ」
「つべこべ云わんと、そこに寝なはれ」
桜蘭は死体よろしく横になった。Hit!!Me!!の花栄は採血している。
「本物は赤十字のぼっくりに送ってぇと、…代わりに鉄錆水にケチャップとニンニクとニコチンと混ぜてぇ、…はーい、そこの皆さーん、桜蘭さんの生き血ですー」
っとバケツ一杯の赤い液体を4人に持って来た。議論に夢中で、劉高殺し役をいつの間にか Hit!!Me!!に取られた3人は、一瞬毒牙…毒気と言うよりこっちが正しいであろう…を抜かれた態だったが、そこは喫茶店のメンバーである、直ぐに気を取り直して乾杯となった。
「不味ーい」
「なーに、これ」
「姐ご、それ本当に桜蘭さんの血?」
おそらく黒マントの王矮股は、さっき桜蘭に食い付けなかった事に安堵しているに違いない。

皆がしかめっ面をしている時、山の横手から大音声がした。
「出会え、出会え、そこの山賊どもよ!」
時代がかりな登場は朧豆腐である。持てない筈の棍棒を豆腐の肩に載せるぐらい、真面目に役に徹している。もちろん秦明の役だ。山賊に宋江と花栄を取り返されて劉高を殺された、と云う急報を受けて、青州の知事が州全体の武官筆頭を派遣した事になっている。
「秦明の朧さん、上手く全員捕まえたら、南禅寺の湯豆腐に入れてあげますからね」
と、知事役の文字ゲリラが後ろで声をかけている。南禅寺の湯豆腐は豆腐の誉れだ。

あずまやのほうは皆が青い顔をしている。
「まずい! うー、ぺっぺっ、まずい」
さっきの山賊ドリンクで気分が悪くなったらしい。とても戦う所ではない。
「心配いらへん、あたしに任しときー」
唯一元気な姐ごが立ち上がる。彼女だけは飲んでいないのだ。まあ、あれを知ってて飲むのは自殺行為だろう。
「カンカンカンカンカン」
バケツをしきりに鳴らす音に誘われて、白い塊がそっちに向かう。
「バシャッ」
花栄役の姐ごの水が豆腐に降り注いで、その勢いで白い塊はごろごろ下に転がる。その跡には無惨なかけらが散らばっている。しかし、その程度で諦めては秦明役は勤まらない。
「カンカンカンカンカン」
勝鬨をあげるバケツ音へと、白い塊は再び向かう。
「バシャッ」
またも水が豆腐に降り注いで、白い塊がごろごろ下に転がる。その跡には再び無惨なかけらが散らばっている。
「カンカンカンカンカン」
「バシャッ」
「ごろごろごろ」
「カンカンカン」
「バシャ」
「ごろごろ」
「カ…」
「バ…」
「ご…」
「……」
「……」
「……」
これだけ続けば豆腐も随分スリムになっただろうと思いきや、砕け散った筈のかけらが本体にくっついて、豆腐は一向に巨大なままだ。吾輩の居候先で毎月のように爆破されながらしぶとく生き延びている秘密はここにあるらしい。
「秦明豆腐どの、その調子! その分だとカリフォルニア知事になれますよ」
と後ろからラビン髭の男が応援している。朧豆腐は
「ワシは政治家になるほど落ちぶれてないぞ!」
と答える。当たり前だ。武官の秦明が知事のような汚らわしい仕事をする筈がない。豆腐は清く美しくなければならないのだ。

秦明豆腐とバケツ花姐の戦いは永遠に続きそうに思えたが、やがて姐ごは、豆腐妖怪を山の正面におびき出すや、巨大なバケツもろとも水を投げた。
「カーン」
水だけの積もりだった豆腐は、当ったバケツにすっぽりかぶさって、そのまま斜面の窪みに落ち込んだ。バケツはつるつるして這い上がれない。
「ひえー、落とし穴だ」
そう言ながらもがいている。一方のバケツ花姐のほうは、とみると安心してビールを飲んでいる。
「あー汗かいたー。これで美味しく飲めるー。……ウマー。あとよろしく」
そう、妖怪を捕らえる役を終えて、さっさと見物役に回っているのだ。バケツ花姐からバトンを受けた4人は、先程までの腹痛が嘘のようにすっかり元気を回復している。さすが、女将のおでんを食べ慣れている連中だ。或いは、単にサドが出来ると思って元気のなったのかも知れない。4人が近付いて来るのを見て一瞬あせった朧豆腐であったが、そこは何と云っても秦明の役である。すぐに不敵な表情に戻る。
「ふっふっふ、そう簡単には参らないぜ!」
 朧豆腐への拷問は、先ずは浮気男の王矮虎が
「とりあえず水攻めだろうな」
と云って大バケツの中の朧豆腐に冷たい水を注ぐ。朧豆腐は
「おお、これぞ最高の冷ややっこ」
と云いつつ、懐から刻みネギと生姜を取り出す。これでは拷問にならない。次は燕順の女将だ。
「火攻めじゃないと駄目よ」
といいつつ、バケツをバーナーで熱する。
「こりゃ好い湯加減だ。湯豆腐はこうでなくっちゃね」
そうなのである。この豆腐は自ら料理され人に食されるのを無上の喜びとしている妖怪なのだ。念のために鄭天寿のshionが爆弾で朧豆腐を粉々にするが
「麻婆豆腐には挽肉が必要です。山賊の誰かの肉を取ってきて下さい」
とのたまう次第である。この豆腐妖怪に普通の拷問を当てはめようというのが土台無理なのだ。

一向に降参する気配の無い朧豆腐に、しぶとさで名を売る3人の山賊メンバーも音を上げる。
「煮ても焼いても食えない奴って、まさにこれだなあ」
「ワシは最高級の遺伝子非組み換え国産大豆しか使っていないから、煮ても焼いても美味しく頂ける筈ですぞ!」
「なんて頑固な豆腐なの!」
「そうよ、ここまで来たら降参して、山賊の仲間に入るべきよ」
「それじゃあ秦明じゃあないっす」
確かに、落とし穴にはまったて捕まった後も、そのあと酒食の歓待を受た後も、意志を変えずに、山賊になるぐらいなら殺してくれ、と主張して、結局解放された事になっている。秦明といえば、そのくらい単純で頑固な武将なのだ。
「ねえ、ダーリン、頑固な麻婆豆腐は食べてしまって、次に進行しない?」
とうとう爆弾女は辛抱を切らしたようだ。
「それもそうだな。無理に朧さんを降参させる必要は無いだろう」
黒コートの王矮虎が答えるや、割烹着の燕順が矛盾を突く。
「TETU ちゃん、劉高の妻の役が雄猫なもので消極的ね。これが桜蘭ちゃんだったら言う事絶対に違っているわよ」
「えっ、女将さん、どういう事?」
「秦明には、部下の黄信に清風の城に手引きさせる役があるの。その時に王矮虎が劉高の妻を攫う事になっているの」
秦明は一旦清風山から戻るものの、諸般の事情により最終的に山賊に加わり、その手みやげ代わりに、清風の街を守る黄信を説得する事になっている。そうして山賊一同は花栄は家族を救い出し、加えて劉高の妻を捕まえて制裁を加える事になっている。劉高の妻に役が浮気男の守備範囲内の女であれば、かの浮気男は筋を端折るなどとは絶対に言わないであろう。
「ダーリン! 役だから役だからって言ってたけど、やっぱり下心があったのね!」
「ハ、ハニー、そ、それは違う。ハニーがここにいると余りにも幸せで、劉高の飼い猫を攫う役目を忘れてしまったんだ」
「そうかしらねえ? じゃあ、あたしが許してあげるから、さっさと猫を捕まえて来なさい!」
こうでなくてはならぬ。これは吾輩が再び登場する最後の機会なのである。あの危険な連中にどう料理されるか分からないが、よもや本当に殺される事は無い筈だから、吾輩としては登場を心待ちにしていのだ。劉高の妻は一番の悪役の筈だが、実際には殆ど登場しない。
「そうだ、ハニー。言い忘れていたけど、あの妖飼い猫を捕まえるには、護衛役の鹿の子さんをたらしこまなくっちゃならないんだ。それじゃハニーに悪いと思って我慢してたんだ。でも鹿の子さんを誘惑して構わないんだね」
さすが天下公認の浮気男である。しっかり次善の策を考えている。鄭天寿役の爆弾女は爆弾から手を離した。
「ちょっと待って、それなら話は別だわ」
そこへ、とっとが口をはさんだ。
「お二方駄目ですよ、ちゃんと猫を捕まえてくれなくっちゃ。わたしもあの猫には恨みがありますからね、しっかりお仕置きしないと」
お仕置きは余分だ。
「shion ちゃん、騙されちゃ駄目、鹿の子さんをたらし込むのは秦明役の朧さんの仕事なんだから。TERU ちゃんは猫を捕まえるだけなのよ」
「ダーリン!」
shionは再び爆弾を持ち直す。
「でもさあ、この頑固豆腐を降参させる方法がない以上、僕しか鹿の子さんをたらしこめる人間はいないじゃないか」
と抵抗するに
「朧さんを降伏させるなんて易しいですよ」
と宋江役のとっとは簡単に答えた。
「へえー、さすがサド連合会長のとっとさんね」
「どうやるんだい」
感心する山賊の面々を前に、とっとは自信たっぷりに言い放つ。
「すでに準備は出来てます。だから3分後に朧さんを解放して下さい」

そのままとっとは足を引き摺りつつ、白いシーツをかぶってラビン髭のところにやってきた。ハローインじゃあるまいし、さすがにサド連合会長のやる事は吾輩の理解を超える。
「青州の知事さーん。その役をやっている文字ゲリラさーん」
と掛ける声に、ラビン髭が答える。
「おお、これは秦明役の朧豆腐さん、首尾はいかがで」
 明らかにとっとの声と分かるのに、と思ってはたと気付いた。ニセ秦明を見破れなかった知事の役を演じているらしい。原典では宋江の策略で、秦明を装って青州城周囲の村で無垢な農民を虐殺し、村を焼いた事になっている。そうして秦明を陥れ、彼を孤立無援にしておいて山賊に加わる事を再び勧めるのである。しかも濡れ衣ゆえに家族全員を処刑された秦明に再婚相手を準備している手回しの良さだ。陰険宋江の残虐無道がこの場面ほど良く現れている所は水滸伝全編を通じて殆どない。確かにサド連合会長に相応しい役ではある。しかし、ここには燃やすべき村も殺戮すべき村民もいない。
「ふふふ、文字ゲリラさん、これを御覧なさい」
とっとの宋江は、そう言って、ゆで小豆をばらまくや、それを踏みつぶし、羊羹を握りつぶしてラビン髭に投げ、饅頭を岩角に叩き付け、抹茶の粉末を空中にほうり投げた。
「あ、あずきが、なんたる。なんと酷い事を」
ラビン髭は、思わず、そのもじゃもじゃ髭を掻きむしった。
「わが愛する小豆よ、和菓子の基本よ、なんと無惨な。羊羹の兄弟も、饅頭の従弟も、抹茶のお姉様も……。小豆の神様に誓ってこの仇はきっと討ってやるぞ」
のたうちまわりながら喚き続けるラビン髭を後に、ニセ秦明のとっとはあずまやに戻り、代わりに朧豆腐が巨大熱バケツごとラビン髭の男の前に投げ出された。バラバラだった筈の体はいつしか合体している。

その彼にいきなりラビン髭の怒鳴り声が聞こえる。
「こら、秦明! よくも裏切って山賊の仲間に入ったな、この無垢な領民を殺しよって!」
そう言いながら彼の指差す先には小豆や饅頭が踏みしだかれて散乱している。今の今まで巨大バケツの中に陥れられていた朧豆腐には訳が分からない。いや、同じ豆の仲間として、彼だって、無惨な小豆を歎き悲しんでいる筈だ。
「あのう、食べ物を粗末にしたのはどなたでしょうか」
「しらばっくれるとは顔の面の厚いやつ。厚揚げよりも厚いぞ。あのニセ豆腐がとったさんの滅茶滅茶下手な変装である事は分かっているが、ここは日ワイだ。あずきをおろそかにしたのはお前という事をこの目でしっかり見たのじゃ」
「あのう、文字ゲリラさん、仰る事が分かりませんが」
「何を今更。お前が此処に戻って来たのは、家族を引き取る為であろう。だが、その手は効かないぞ!」
ラビン髭は醤油ビンを取り出した。朧豆腐が普段から愛用している最高級たまり醤油だ。
「お前の連れ合いなんぞ、こうしてくれる」
そう言うが早いか、ラビン髭は醤油ビンを地面に叩き付けた。
「ガチャン」
「ああ、我が愛しのタマリ醤油が!」
今度は豆腐が我が身を掻きむしる番である。

そこへとっとが再び現れた。
「朧さん、愛用のお醤油を亡くされたのは誠にお気の毒ですが、不幸中の幸いと言うか、京都の出汁醤油をバケツの姐ごが持っています。それを使ってみては如何でしょうか」
なるほど、これがとっとのたくらみか。伊達にぼったくり喫茶を経営している訳ではないようだ。
かくて、さしもの朧豆腐もあっけなく山賊仲間に加わった。但し山賊仲間というよりサド仲間と言った方が良い面々ではある。
「花栄役のHit!!Me!!さん、姐ごの出汁醤油を朧豆腐にあげても良いですよね」
「そら、ええねんけど、ここにはあらへんわ」
「どこです、ワシが取ってきますから」
熱心なのはもちろん豆腐だ。
「あの猫のとこにありますねん。鹿の子はんを説得せななかん思いますけど」
 吾輩の目の前には確かに薄黒い液体の入った壜がある。姐ごの所有物だからパソコン用の油とばっかり思っていたら、同じ油でも醤油だったらしい。ラベルをよくよく見ると「南禅寺すてーき・東山醤油」と書かれてある。いかにも豆腐の喜びそうな名前だ。
「鹿の子さんなら簡単です」
白い塊はそう言うとこっちに向かって来た。
「鹿の子さーん」
と呼び掛けられた鹿の着ぐるみは、さっきから奈良特産のパンフレットを読んでいる。余程暇だったのだろう。まあ、黄信役では仕方ない。吾輩と同じぐらい出番が少ないのだ。
「黄信役の鹿の子さーん」
「あら、朧さん、何の用事?」
「そろそろクライマックスだから、鹿の子さんにも皆の宴会に加わって貰おうと思って」
宴会と言った途端に鹿の妖怪は目を輝かせる。
「やったあー。やっと本物の奈良漬けが食べられるのねー」
これでは説得でも何でも無い。
「じゃあ、さっさとあずまやに行って下さい。ワシは、Hit!!Me!!の姐ごの醤油を持って行きますから」
「だーめ、あれは今はわたしのよー」
美味しい醤油には鹿の子だって執着がある。
「じゃあ、ワシの一番良い所を食べさせてあげるから、その交換というのはどうですかい」
これは鹿の子にとって確かに魅力的な提案ではある。悩む鹿の子を前に、豆腐はその体から高級豆腐を取り出す。絹ごし木綿焼き豆腐に、高野豆腐、卵豆腐、厚揚げ、胡麻豆腐。喫茶店では決して見せない上質の品揃えだ。この誘惑には鹿の子も我慢できず、交渉は難無く成立した。朧豆腐でなければ出来ない技だ。

鹿の子が豆腐を食べはじめるや、あずまやからドカーンという音が聞こえた。ここまで来れば誰にでも予想がつく。
「ダーリン! さっさと猫を捕まえてらっしゃい!」
やっぱりだ。いつもの空中遊泳をやった黒焦げコートの王矮虎は、37秒後に吾輩の目の前に降り立った。醤油壜はとうに朧豆腐が持って行っている。豆腐は猫には興味がないのだ。
「こら、そこの妖飼い猫、年貢の納めどきだ」
そう言いつつ吾輩の背中を掴もうとする。失礼な奴だ。人の背中を掴む法があるものか。猫リレーの主人公を何と心得ておる。それに吾輩は妖怪ではない。吾輩猫である。何処ぞのネット小説家よりも遥かに多くの読者を得ているスーパースターだ。その吾輩が浮気男に年貢を納める義理あいなぞ全くない。そもそも猫が税金を納めるなんて世界が何処にあるものか。こういう輩は懲らしめなくてはならぬ。そこで、思いきり引っ掻いて、小便を引っ掛けてやった。なあに、劉高の妻だって女たらしの王矮虎に攫われた時、失禁しながら彼を引っ掻いたに決まっているのだ。
「うへー、これだから嫌だったんだ」
かくて黒焦げ女たらしは、傷だらけで小便にまみれた。これを見ると胸がスーとすると共に、少々可哀想になる。さすがに、これ以上虐める必要もあるまい。あとは彼の肩の上に乗っておとなしく付いて行ってやる事にした。

あずまやでは宋江役のとっとが恨めしそうな顔で吾輩を待ち受けている。ふん、こんなサラリーマンから逃げるなんてお茶の子さいさいだ。そう思って油断していると、いきなり後ろからかん袋をかぶされた。
「ふふふ、とうとう捕まえたわ」
ぬかった。最も危険な人物の事を忘れていた。パチパチパチという拍手に混ざって浮気男の声が聞こえる。
「これは、もう蹴鞠しかないですな」
「何言ってるの、この猫は今日のおでんの材料よ」
「え、そんなあ。先ずは恨みを晴らさせて下さいよ。散々酷い目にあってきたのだから」
「ちょっと待った。とっとさんは、さっき文字ゲリラさんに十分復讐してきたじゃないか。それに比べて僕は一度も良い目をみてないんだ。僕にも少しは楽しい目をさせて貰いたいな」
「駄目駄目、捕まえたのはあたしよ。猫はあたしが料理する事になっているのだから」
そう言いながら女将は吾輩のうなじを捕まえて袋から出した。
 確かに原典でも劉高の妻は燕順が一刀のもとに斬る事になっている。そして現に女将も包丁とまな板を目の前に置いている。これは本気かも知れぬ。

「大平は死ななければ得られぬ、南無阿弥陀仏なむあみだぶつ」
ほんの数ヶ月前、水に溺れて観念した時の記憶が蘇る。どのみち吾輩はあの時死ぬ運命にあったのだ。たまたま99年後の世の中にタイムスリップして時代の変遷を知る身になったが、それも1幕の夢と思えばよい。
「大平は死ななければ得られぬ、南無阿弥陀仏なむあみだぶつ」
ここに至って再びそう唱えていると、とっとの声が聞こえる。
「あのう、燕順が劉高の妻を斬るって決まっているのでしょうか?」
「そうよ、本を読んで御覧なさいよ」
「じゃあ、今日の劇は何だった訳で? わたしゃ、最後の推理だけを楽しみに数々の拷問に耐えてきたんですよ」
「えーっ。ミステリーじゃないのぉ?」
と爆弾女も残念がる。日ワイに一番熱心な鹿の子は胡麻豆腐を食べるのを止めて
「ミステリー? どこどこ?」
と皆の所にやってくる。そこへ何故かラビン髭の男までやってきた。
「ああ、大切なあずきが。ああ、美味しい羊羹が」
殆ど聞き取れない声でぶつぶつ言いながら、夢遊病者か酔っ払いの如きその足取りだ。どうやら小豆の後を辿ってここまで彷徨い出たと見える。
「お、張本人の文字ゲリラさんが来たぞ」
と黒コートの男が言うや、
「文字ゲリラさん、ミステリーはどうなったの」
「そうよ、殺人犯人は始めから分かってるじゃ無いの」
ようやくラビン髭の男ははっと気が付いて
「えっ、何の事?」
それは短気な日ワイメンバーを前に最悪の答えてある。

 ボカボカ、ガーン、ドシャッ、ドッシャン、バーン、ドカーン、ブチャ。

次の瞬間、ラビン髭は地面に伸びていた。同時に吾輩は女将の手を離れて危機を脱した。
「やったー、死体だわ!」
「これってやっぱり殺人よね」
「でも全員が犯人じゃあ、推理の楽しみがない」
「まてまて、さっきラビン髭が言ってたな、誰が致命傷を与えたかが問題かって」
「そりゃ私の爆弾に決まってるでしょ」
「ちがうわ、私のまな板よ」
「うちのバケツやあらへんか」
「あのう、私もコーヒー用の薬缶でぶん殴ったんですが」
「僕のベレッタだって活躍してるがな」
「ワシだって……」
どうやら、全員が真犯人になりたがっているらしい。しかし、これは決して決着が付かないであろう。何故ならラビン髭が気絶した本当の理由を知っているからである。それは、吾輩がどさくさに紛れて彼の餡餅に小便を引っ掛けたからである。

ーーーーーーーーーー
 1月の日は短い。若草山にも夕暮れが訪れる。
 喫茶店常連に居候する事わずか2ヶ月にて、吾輩は、この世界が、かの中学教師の世界と何ら変わらない事を知った。すなわち奇人変人の集まりである。思えばこれは僥倖と言えるだろう。日々退屈する事なく過ごす事が出来るからだ。今日のような日々が毎週繰り替えされる喫茶店は、たといオーナーがケチで新鮮な魚を食べさせてくれなくても居候するに値するところだろう。かくて吾輩はここを終の住処と決めたのである。但しオーナーが借金の余り夜逃げしなければの話であるが。

とりあえず終り。

ーーーーーーーー
配役:

 頭領の燕順:女将(Butapenn)
 女好きの王矮股:黒コートの女たらし(TERU)
 白面美男の鄭天寿:爆弾女(shion)
 性格のわるい宋江:オーナー(とっと)
 生き肝を取られる劉高:ラビン髭 →劇団の新人(桜蘭)
 一番悪役の劉高の妻に代わって劉高の飼い猫:吾輩猫
 弓矢の名人の花栄:爆弾女 →バケツ座の姐ご(Hit!!Me!!)
 花栄の妹:劇団の新人 →京都の特製醤油
 単純豪快な秦明:巨大な白い塊(朧豆腐)
 ちょい役の黄信:鹿の着ぐるみを着た妖怪(鹿の子)
 青州の慕容知事:ラビン髭の男(文字ゲリラ)
2005/02/13

『吾眠ハ猫デアル』その8
『吾眠ハ猫デアル』

 -- タイムスリップした漱石猫 --

 原作(猫語): 書き猫知らず


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その8の1

人語翻訳:猫語翻訳支援ソフトウエア CAT-system Ver2.3


 吾輩は猫である。名前は、いまだにない。どこで生まれたのかも、いまだに思い出せない。いや、そもそも記憶すらしていないのだろう。薄暗く、じめじめしたところでニャーニャー泣いていた記憶が、うっすらとあるだけだ。
 吾輩は、そこではじめて人間なるものにであった。それは書生という、人間の中でももっとも獰悪な種族で、われわれを捕らえて煮て食うという。しかし、当時はそんなことを知らなかったから、べつだん怖いと思わなかった。彼の手にのせられて、スーッと持ち上げられたとき、フワフワした感じがあっただけである。

 だがしかし……

 吾輩も年月をへて、なるほど人間とは恐ろしい生き物だと理解できた。いや、狡猾というべきだろうか。さらになんの因果か、時間を飛び越え、吾輩の生まれた時代から遠く離れてみると……
 吾輩は、いまいる場所の、いまいる人間たちを見渡して、毛が逆立つような、しっぽが丸まるような、薄ら寒い恐怖を味わっていた。そう。ここは、吾眠という喫茶店だ。ふつうの猫なら、いや、ふつうの人間でも、永眠しかねない危険地帯と聞く。

「聞いてよ女将さん」
 shionという女が、カウンターの向こう側でおでんを煮ている割烹着の女にいった。
「ダーリンたら、また浮気してたのよ。それもわたしの目の前で」
「知ってるわよ」
 女将と呼ばれた女は、クスクスと笑っていた。
「あんたも、懲りずにTERUちゃんをとっちめたみたいじゃない」
「あら。なんで知ってるの?」
「駐車場であんだけ大騒ぎしてれば、だれだってわかるわよ」
「そうですよ」
 と、こんどは喫茶店らしくコーヒーを入れている男が口をはさんだ。
「うちの駐車場は各闘技場じゃないんですから、ほどほどにお願いしますよ」
「ははは」
 と、笑ったのは、ラビン髭の、和菓子を食べている男だった。
「マスター。駐車場が各闘技場になるくらい、かわいいものじゃないですか。ふだんは、この店の中が戦場みたいなものなのだから」
「それは、いわない約束ですよ、文字ゲリラさん」
 マスターという男は苦笑を浮かべた。

 戦場? ここが? なのに苦笑を浮かべるだけなのか。女将に至っては、いまだクスクス笑っているではないか。
 ふうむ。どうやら、shionという女が、ダーリンという男をとっちめるのは、日常茶飯事のことらしい。まったく信じられないことだ。あんな恐ろしいことを日常としてしまうとは。やはりここは、噂に違わぬ危険地帯らしい。
 そろそろ、おいとましたほうがよさそうだ。と、吾輩が思ったとき、都合よく吾眠のドアが開いた。吾輩は、さっと外に出るべくドアに駆け寄ったが、ドアを開けて中に入ってきた男が、吾輩を捕らえるとぐっと持ち上げた。

「なんだ雄か」
 その黒コートの男は、吾輩の股間を見て、つまらなそうにいうと、吾輩を店の中にポイと放り投げた。
 きさまは、雌なら猫でもいいんかい!
 床に着地した吾輩は、黒コートの男に抗議してみたが、人間である彼には、吾輩の声は、ニャーニャーとしか聞こえていないのだった。
「あら、ダーリン。もう復活したの?」
 shionが、冷やかな目を投げつけた。
「もうちょっと、駐車場で伸びててもよかったのに」
「ハニー。まだ怒ってるのか」
 黒コートの男は、苦笑を浮かべてshionのとなりに腰を下ろした。
「だから、誤解なんだってば。あれはただ、仕事関係の女性を近くまで送ってあげただけであって、きみが思っているようなことは一切ないんだよ」
「うそばっかり。モデルみたいにきれいな子だったわ」
「そりゃモデルだからね」
「なんですって!」
「ハニー。ぼくの仕事はなんだと思ってるんだ」
「つまり、仕事で会ったモデルをナンパしたわけね」
「ちがうってば。仕事関係の女性には手を出さないと決めてある」
「仕事関係の女性には? 仕事関係じゃなければいいわけ?」
「うっ……だから、そうじゃなくて……えっと」
 黒コートの男が言葉につまったとき、また吾眠に新しい客が入ってきた。吾輩は、それを見てギョッとなった。なんと、巨大な豆腐なのだ。
「やあ、やあ、どうも。みなさんおそろいで」
「あら、朧豆腐さん、久しぶり」
 shionが、豆腐の妖怪に声をかけた。
「どうもどうも」
 と、豆腐の妖怪。
「shionさんもTERUさんも、相変わらずお盛んなようで」
「だから、誤解だってば」
 黒コートの男は眉をひそめた。まったく、なにが誤解なんだか。真相は、この豆腐の妖怪が書いたとおりなのだ。吾輩は知っているのだ。その一部始終を見ていた……いや、見せられたのだから。
「朧豆腐さん。ちょうどよかったわ」
 女将が、にっこり応えた。
「おでんの具が心もとなかったところなのよ。ちょっと焼き豆腐にでもなって、鍋に入ってもらえないかしら」
「勘弁してくださいよ」
 豆腐の妖怪は、ぷるぷると、首を振った。いや、振ったように見えた。正確には、どこが首なんだかわからない。
「おほほ。冗談よ。でも、この寒さで冷や奴になるよりいいんじゃない?」
「冷や奴のほうがいいです」
 豆腐の妖怪は、そういってカウンターに座ると、マスターに熱い紅茶を注文した。豆腐の妖怪がいること自体、すでに常軌を逸しているのだが、それを不思議とも思わないのがこの喫茶店の常連たちらしい。吾輩は、だんだん頭が痛くなってきた。
 と、吾輩が頭を抱えようと思ったところに、こんどは、鹿の妖怪が入ってきた。
「こんにちは!」
「鹿の子さん、お久しぶりです」
 マスターが、ほほ笑みを浮かべた。
「うーっ、寒い寒い。鹿の子冷え性だから、冬は大嫌い。マスター、あつーいココアをくださいな」
「はい、お待ちください」
 吾輩は、その鹿の妖怪をよく見た。どうも、ふつうの人間が、鹿の着ぐるみを着ているようなのだが、ここは喫茶吾眠なのだ。やはり、鹿の妖怪なのだろう。きっと、奈良の公園で凍死した鹿が、化けて出てきたのにちがいない。くわばらくわばら。
「こんにちは」
 また、新しい客が入ってきた。こんどは……なんと猫だ! しかも猫又ではないか!
「これはこれは、猫又さん」
 ラビン髭の男がいった。
「人間との、新婚生活はいかがですかな」
「うふふ。おかげさまで、ダンナには猫の妖怪だってバレずにうまくやってます……あら、この猫ちゃんどうしたんですか?」
 人間と新婚生活を送っているらしい、猫又は、吾輩をじっと見た。
「ああ、それは」
 マスターが応えた。
「なんか、迷って入ってきたみたいなんですよ。この寒空に追い出すのもかわいそうなんで、ほってあるんです」
「ふうん……」
 猫又は、吾輩を見ながらニヤリと笑った。そして、吾輩にだけ理解できるように、猫語でいった。
『あんた、妖怪じゃないみたいだけど、ただ者ならぬ、ただ猫じゃないわね』
『い、いや、吾輩はその……』
 吾輩は、しどろもどろになった。まさか、こんなところで同属の妖怪に会うとは。遠い過去から飛んできたといって、信じてもらえるだろうか。
『吾輩なんて、古風ないいまわしね。まあいいわ。マスターがいうとおり、寒空に追い出すのもかわいそうだから、悪さしなきゃ、しばらくここで暖をとりなさい』
『どうも……恐縮です』
「なに話してたんですか?」
 マスターが聞いた。
「ええ、暖をとらせてもらってありがとうですって」
「それはよかった」
 マスターは、吾輩を見てニッコリ笑った。
 なんだ。常連たちの摩訶不思議さはともかく、こうしていると、ふつうの喫茶店ではないか。吾輩は、少しだけホッとした……のも束の間。この、一見平和な喫茶店に悲劇が訪れるとは、いったいだれが予想したであろうか……
2004/12/24

『吾眠ハ猫デアル』その8
『吾眠ハ猫デアル』

 -- タイムスリップした漱石猫 --

 原作(猫語): 書き猫知らず


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その8の2

人語翻訳:猫語翻訳支援ソフトウエア CAT-system Ver2.3



「うううっ! く、苦しい……」
 豆腐の妖怪が、急に苦しみだしたかと思うと、顔と思われる場所を真っ赤にして、そのままカウンターに倒れ込んだ。
「あら、どうしたの朧豆腐さん。真っ赤になって倒れちゃって」
 女将が、べつに心配している風でもなく声をかけたが、豆腐の妖怪は、ピクリとも動かなかった。
「みんな、朧豆腐さんに触るな」
 そういって、真っ先に立ち上がったのは、黒コートの男だった。先ほどまでの浮気男の顔ではなかった。
「こ、これは……」
 黒コートの男は、朧豆腐を見下ろしながらいった。
「驚いたな。豆板醤になっている」
「トウバンジャンですって?」
 shionも席を立って、黒コートの男に並んだ。
「ホントだ。豆板醤の匂いがしてる」
「ああ。どうやら、唐がらしを盛られたようだ」
「唐がらし? それで豆板醤か……それにしてもすごい威力ね。ダーリン。ふつうの唐がらしでこんなふうになっちゃうものなの?」
「おそらく、レッドサビナだろうな」
「なにそれ? 唐がらしを使った毒薬かなにか?」
「ちがう。ハバネロ種に、レッドサビナという品種があるんだ。こいつは、世界一辛い唐がらしといわれている」
「ああ、知ってるわそれ」
 女将がうなずいた。
「ハバネロってたしか、お菓子になってるやつね」
「そうです」
 と、黒コートの男。
「ですが、お菓子に使われているような、辛味の調整されたものではなく、レッドサビナのペーストをそのまま飲んだのでしょう。レッドサビナの辛味は、一般的な唐がらしの100倍以上ありますから、考えようによっては、即効性の毒物ですよ」
「ふうむ」
 ラビン髭の男が、髭をなでながらいった。
「しかしTERUさん。その推理にはおかしな点がありますよ」
「と、いいますと?」
「いえ、そんな辛いものを飲んだら、ふつうはすぐに吐き出すでしょう。なのに、朧豆腐さんは、ぐびぐび飲んでいましたよ」
「それは、彼が豆腐だからです」
「というと?」
「いいですか、文字ゲリラさん。豆腐は、われわれ人間とは味覚の伝達速度がちがうんですよ」
「伝達速度?」
「こういっては、豆板醤になった朧豆腐さんに失礼だが、要するに鈍感なんです」
「つまり、自分の飲んでいるのが、じつは唐がらしペーストだとは気づかずに飲んでいたと?」
「そう考えるのが、この場合もっとも合理的でしょう」
「ちょっと待ってくださいよ」
 こんどはマスターが口をはさんだ。
「豆板醤って、そら豆と唐がらしが原料ですよ。豆腐から作るわけじゃない」
「マスター。それは彼が、ただの豆腐ではないからだ」
「どういう意味です?」
「妖怪だからだよ。きっと、彼の中で、唐がらしが複雑に変化して、こういう事態になったのだろう」
「うーむ。なんだか納得できないなあ」
 吾輩も、黒コートの男の説明に納得ができないが、それはそうと、ここの連中は、常連仲間が死んだというのに、そのこと自体は悲しまないというか、問題にしないのだろうか。
「まあ、なんでもいいわ」
 女将がいった。
「せっかく、豆板醤ができたんだから、なにかお通しでも作りましょう。そうね、大根ときゅうりの豆板醤あえなんてどうかしら」
「いいですねえ。一本つけてくださいよ女将さん」
「賛成ですな」
 黒コートの男と、ラビン髭の男は、うれしそうに応えた。
 どうやら、常連仲間が死んだことを悲しむような連中ではなかったというか、そもそも、悲しまないのかなどと、疑問に思うことからしてまちがっていたようだ。

 ところが……

「ふふふ」
 不気味な笑い声をあげたのは、鹿の妖怪だった。
「これは、日々楽々ワイド劇場、略して日ワイの再来だわ」
「日ワイの再来ですって?」
 shionが、眉をひそめた。
「そうですよ!」
 鹿の妖怪は、ここぞとばかりにいった。
「これはミステリだわ! 絶対、ここに朧豆腐さんを殺害した犯人がいるにちがいありません。さあ、みなさん! その明晰な頭脳で、朧豆腐さん殺害の謎を解きましょう!」
「鹿の子ちゃん」
 女将がタメ息をついた。
「最近、日ワイの原稿が届かないからって、なにトチ狂ってるの。ここは吾眠なのよ」
「出るものはところかまわずですよ」
「汚い例えねえ。ところかまって、トイレで出してちょうだい」
「だからぁ、せっかく朧豆腐さんが死んでくれたんですから、それをネタに楽しまなきゃ損じゃないですか」
「まあ、そりゃ、そうだけどねえ」
 女将は苦笑を浮かべた。
 なんという連中だ。悲しむどころか、楽しむのか。
「望むところですな」
 と、名乗りをあげたのは、ラビン髭の男だった。
「わたしは、日ワイに登場していないので、一度探偵役をやってみたかったのですよ」
「ぼくも出てませんよ」
 と、マスター。
「わたしも出てませんよ」
 と、猫又。
「わかったわ」
 女将がいった。
「それなら、文字ゲリラさんとマスター、それに猫又ちゃんに探偵役をやってもらいましょう。日ワイ役者のわたしたちは、彼らのお手並み拝見よ。いいわねTERUちゃん?」
「いいですよ」
 黒コートの男は、意外にも素直にうなずいて、席に着いた。
「わたしは……」
 shionは、ちょっと肩をすくめてから、黒コートの男のとなりに座った。
「本当は、久しぶりに、ダーリンの推理を聞きたいんだけどなあ」
「まあまあ、そうおっしゃらないで」
 ラビン髭の男がいった。
「浮気者でもなんでも、愛するTERUさんのカッコいいところを見たい気持ちはわかりますが、われわれだって、shionさんの期待を裏切りませんよ」
「そう願ってるわ。さあ、どうぞ。推理して」
「いいでしょう」
 ラビン髭の男は、コホンと一つ咳払いをしてから語り始めた。
「まずは動機からです。いうまでもないことですが、動悸息切れめまいのことではありませんよ、とくに鹿の子さん」
「ちぇっ」
 鹿の妖怪は、舌打ちをしながら、ポケットから出した茶色の小瓶をしまった。どうやら、動機と聞いた瞬間、反射的に『求心』を出そうとしたらしい。
「さて、問題の動機ですが、この中に朧豆腐さんを殺したいほど憎んでいた人間がいる可能性がありますね」
「ほう。それはだれですか」
 マスターが聞いた。
「簡単な推理ですよ。それはずばり、TERUさん。あなたです」
「ぼく?」
 黒コートの男は、さして驚く風もなく、自分を指さした。
「それは、自分でも気がつかなかったな。ぼくはなんで、朧豆腐さんを憎まなきゃならないんです?」
「簡単ですよ。TERUさん、あなたは過去に、朧豆腐さんによって、shionさんとの痴話喧嘩を暴露されている。ちがいますか?」
「まあ、仮にそうだとしても、吾眠のオーナーがいまだに健在なのが不思議だな。なぜなら、とっとさんこそ、ぼくの素行を暴露する大家だからね。もしそんなことが理由で、ぼくが殺人を犯すのなら、とっとさんを、五回ぐらい殺さないと理屈が合わない」
「そうよ」
 と、shion。
「だいたい、ダーリンの素行なんて、みんな知ってるんだから、いまさらそれが動機になんかならないわ」
「shionちゃんの意見に賛成ね」
 女将がいった。
「文字ゲリラさん。あんた、出発点からしてまちがってるわよ」
「どういう意味です?」
「いいこと、文字ゲリラさん。日ワイ劇場で起こる殺人事件はね、動機なんてあってないようなもんなのよ。順番に死体役と犯人役と探偵役をやってるんだから」
「う、うーむ……それをいわれると、推理の根本が揺らぎますな」
「それにね」
 と、shionが女将のあとを続けた。
「悪いけど、ダーリンが犯人ではありえないのよ」
「なぜです?」
「ダーリンの行動は、あたしがすべて把握してるから」
「ぼくの行動を把握してるだって?」
 驚いたのは黒コートの男だった。
「ふふん。なにせ今日はクリスマス・イブですもの。あなたがどこで浮気するかわからないから、そのコートに、探知機を仕込んであるのよ」
「探知機だって!」
 黒コートの男は、あわててコートをまさぐった。すると、コートの襟から、最新型の探知機が出てきた。
「い、いつの間に、こんなものを……」
「あら、乙女のたしなみってヤツよ」
「どこが! だいたい、ふつうの人間は、探知機なんてもの、持ってるどころか、見たこともないはずだぞ」
 そのとき。
「はい、はーい! あたしも持ってまーす!」
 鹿の妖怪が手をあげた。
「ほら、これのことでしょ?」
 そういって鹿の妖怪は、ポケットから、得意気に、求心とはちがう茶色の小瓶を取り出した。
「どれどれ」
 shionは、その小瓶を受け取って、裏に書いてある説明を読んだ。
「えーと、この薬品は、白せん菌に対して優れた抗菌力を持つトルナフテートを主成分とし、角質軟化剤サリチル酸、局所麻酔剤リドカインを効果的に配合した水虫、タムシの治療薬です……って、鹿の子ちゃん、これは探知機じゃなくて、タムシチンキよ」
「あれ? 鹿の子、まちがえちゃった。てへ」
「探知機とタムシチンキか……」
 黒コートの男は苦笑した。
「鹿の子さんのギャグもハイブローになってきたというか、苦しくなってきたというか、親父ギャグ化してるというか」
「それより鹿の子ちゃん」
 と、女将。
「あんた、そんな着ぐるみを年がら年中着てるから、水虫なんかになるのよ」
「いや〜ん、鹿の子、水虫じゃないもん」
「あのーっ!」
 いままで豆板醤になって死んでいた豆腐の妖怪が、むくっと起き上がった。
「さっきから聞いてると、わたしを殺した犯人探しはそっちのけで、なにかお笑い劇場に突入しているようなんですけど!」
「ちょっと」
 と、女将。
「だめじゃない、起き上がっちゃ。死体はおとなしく死んでなさいな」
 女将は、おでん鍋からおたまを取り出して、豆腐の妖怪の頭をパカンと殴った。その拍子に、豆腐の妖怪は、ぐちゃりとつぶれて息絶えた。
「とどめを刺しましたな」
 ラビン髭の男が、崩れた豆板醤を見ながら苦笑した。
「おほほ。どうせ料理するつもりだったし、手間が省けたわ」
「さすが女将さん」
 黒コートの男が、感心したようにいった。
「貫祿がありますね。だてに還暦間近じゃない」
「還暦ですって?」
 女将のこめかみにピクリと血管が浮かんだ。
「TERUちゃん、おもしろいジョークじゃない。そうそう、思い出したわ。あんたも来年、四十になるんですってねえ」
「うっ……思い出したくないことを」
「おほほ。そういえば、猫又ちゃんも三十の大台に乗ったそうじゃない。みんな年寄り仲間になってけっこうなことだわ」
「ひどーい、女将さん。あたしは猫又だから、歳なんて関係ないんです!」
「まあまあ、みなさん」
 マスターが、間に入った。
「仲間割れはやめて、女将さんがとどめを刺した朧豆腐さん殺害事件の真相を究明しましょうよ」
「要するに、女将さんが犯人だろ。とどめを刺したんだから」
 と、黒コートの男。
「いや、だから、そうじゃなくて、最初に唐がらしを盛った犯人をですよ」
「真相なんて、どうでもいいじゃないか。それよりぼくは、早く豆板醤料理のご相伴にあずかりたいね」
「あたしも、お腹空いてきちゃった」
 shionも、苦笑を浮かべた。
「ダメーッ!」
 と、叫んだのは鹿の妖怪だった。
「これは日ワイ劇場の再来なんだから、どんな結末でも、とにかく結末を迎えなきゃ読者が納得しないでしょ!」
 と、いう割りには、鹿の妖怪は、どこから出したのか、大きなタッパーに豆板醤を詰めていた。
「鹿の子ちゃん、あんたなにやってるの?」
 と、女将。
「えっと、おうちにもって帰って、お料理しようかなと」
「あんたの食欲が旺盛なのは知ってるけどね、そんなに豆板醤ばかりあっても困るでしょうに」
「大丈夫です。冷凍しときますから」
「そうね。あたしも、うちにもって帰りましょ」
 女将も、どこかからタッパーを取り出して、もと朧豆腐だった豆板醤を詰め込んだ。
2004/12/24

『吾眠ハ猫デアル』その8
『吾眠ハ猫デアル』

 -- タイムスリップした漱石猫 --

 原作(猫語): 書き猫知らず


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その8の3

人語翻訳:猫語翻訳支援ソフトウエア CAT-system Ver2.3


 あらかた、豆板醤が片づいて一息つくと、ラビン髭の男がいった。
「どうやら、マスターの掃除の手間が省けたところで、話を続けましょう」
「いやあ、助かりました」
 マスターは、本当に掃除の手間が省けて、ホッとしたように応じた。
「では、こんどはわたしが推理をしてみますよ」
「どうぞ」
 と、ラビン髭の男。
「ええとですね。たぶん犯人は、文字ゲリラさん。あなたですね」
「わたし?」
「そうです。さっき、一度探偵役をやりたかったといったじゃないですか。ですから、これはあなたの自作自演でしょう」
「それはまた、突拍子もない推理ですな」
 ラビン髭の男は、肩をすくめた。
「マスター。そういう方向で推理をするのなら、shionさんのほうが怪しいよ」
「あたし?」
「そうです」
 ラビン髭の男は、shionを見た。
「さきほど、TERUさんの推理を聞きたいとおっしゃった。つまり、あなたはマジメなときのTERUさんが好きなんだ。だから、こういう謎をぶら下げてやれば、TERUさんがマジメに探偵役をやると思った。ちがいますか?」
「お話し中申し訳ないが」
 黒コートの男が口をはさんだ。
「ぼくは、いつだってマジメですよ。そうだろハニー?」
「そうね」
 shionは、黒コートの男を、キッとにらんだ。
「マジメに浮気するあなたが大好きよ」
「だから、誤解なんだってば。ぼくが、きみ以外の女を愛することなんてありえない。本当だよ。きみの美しい髪も、澄んだ瞳も、キュートな唇も、すべてぼくの心を捕らえて離さない。もし仮に、百歩……いや一万歩譲ってぼくが浮気をしているとしよう。でも、そんなものに愛はない。ぼくが愛しているのはきみだけだ。クリスマスの夜、きみに寂しい思いをさせたことは一度だってないはずだよ」
「そ、それは、そうだけど……」
「男なんて、哀れな生き物さ」
 黒コートの男は、大げさに両手を広げた。
「守るべきものがなければ、生きる希望はなにもない。ハニー。ぼくが守りたいのはきみだ。きみのためなら、ぼくはどんなことだってできる。お願いだから、その美しい瞳を曇らせないで、ほほ笑んでくれよ。きみの笑顔が、ぼくの生きる希望なんだから」
「ダーリン……」
 shionの瞳が揺れた。
「困った人ね。そうやっていつも、あたしの心を弄ぶんだから」
「退屈しないだろ。きみが百歳になっても、恋する乙女でいられるように、がんばってるんだよ、これでも」
 黒コートの男は、shionにウィンクした。
「もう、本当に困った人」
 shionは、ついに黒コートの男に抱きつき、彼の胸に顔を埋めた。
「でも、そんなあなたが大好きよ。愛してるわダーリン。とっても愛してる」
「ぼくもさ」
「TERUちゃん」
 と、女将。
「また、うまく誤魔化したわね」
「それにしても……」
 ラビン髭の男が苦笑を浮かべていた。
「目の前で見ると、なんとも、甘ったるいというか、鳥肌がたつ光景ですな」
「オホン」
 猫又が咳払いした。
「TERUさんたちの愛憎劇も片づいたところで、こんどはわたしの推理です」
「どうぞ」
 と、ラビン髭の男。
「ええと、わたし、犯人は女将さんだと思います。いっときますが、とどめを刺したからじゃないですよ」
「根拠は?」
 女将が、腰に手を当てながら聞いた。
「はい。犯人は、豆板醤料理が作りたかったのだと思います。でなければ、唐がらしを盛って朧豆腐さんを殺害しようなんて発想自体がなかったはずです。となると、一番料理に詳しい女将さんが犯人だと考えるのが妥当です」
「根拠が薄弱ねえ」
 女将は笑った。
「わたしが犯人だったら、そんな、もって回った方法はとらないわよ。最初から、堂々とみんなが見ている前で殺害するわ。そして堂々と料理を作るでしょうね。さあ、みなさん。さっき殺した朧豆腐さんの料理よ、どうぞ、召し上がれってね」
「うん」
 鹿の妖怪がうなずいた。
「日ワイに出てるときの女将さんなら、マジメにミステリするでしょうけど、吾眠に出てるときの女将さんは、そういうキャラじゃないかも」
「鹿の子ちゃんのいうとおりよ。shionちゃんもそう思うでしょ?」
「え?」
 黒コートの男に抱きついていたshionが顔を上げた。
「ごめん。いまダーリンとクリスマスの過ごし方を相談してて聞いてなかった。だれが犯人ですって?」
「もうういいわよ。あんたたちは、勝手にラブラブしてなさいな」
 女将は、やれやれとタメ息をついた。
「八方塞がりですな」
 ラビン髭の男も、大きなタメ息をついた。
「こうなっては、だれは犯人でもおかしくないし、だれが犯人でもおかしい。通常の意味でのミステリとは同列に語れない。つまり、論理的な推理は不可能ということですよ」
「ふふふ」
 shionが笑った。
「ダーリン。みんな困ってるわよ。ここは、あなたの出番じゃないの?」
「ぼくの?」
「そうよ。どうせ、その灰色の脳細胞は、犯人がだれかわかってるんでしょ?」
「さすがハニー。ぼくのことはなんでもお見通しか」
「やっぱりね」
 shionは、楽しそうに笑って、黒コートの男にキスをした。
「さあ、早くこのミステリもどきを終わらせて、ホテルに行きましょ。シャンパンが飲みたいわ」
「そうだな。そろそろ幕を引くか」
 黒コートの男も、shionにキスで応えた。
2004/12/24

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