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『吾眠ハ猫デアル』その8
『吾眠ハ猫デアル』

 -- タイムスリップした漱石猫 --

 原作(猫語): 書き猫知らず


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その8の4

人語翻訳:猫語翻訳支援ソフトウエア CAT-system Ver2.3



「では」
 黒コートの男は、席から立ち上がって、一同を見渡した。
「ハニーのお許しが出たので、ぼくの推理をお聞かせしましょう」
「わーい! TERUさんの推理のお時間だわ!」
 鹿の妖怪も、やんやと拍手を送った。
「ありがとう、鹿の子さん」
 黒コートの男は、舞台役者のように、大げさに頭を下げた。
「まったく、張り切っちゃって」
 女将は苦笑を浮かべていた。
「どうせ、下らない推理でしょうけど、しょうがないわね。聞いてあげるわ」
「どうも」
 黒コートの男も、女将に苦笑を浮かべて続けた。
「さきほど女将さんは、日ワイには動機などあってないようなものだとおっしゃいましたが、やはりここは、動機から出発するのがいいと思います。文字ゲリラさんがいったとおり、この中には朧豆腐さんを殺したいほど憎んでいたヤツがいる」
「ほう。それはだれですか?」
 ラビン髭の男は、挑戦的な口調で聞き返した。
「まあ、そうあわてないで」
 黒コートの男は、手をあげて、ラビン髭の男を制すると、マスターにいった。
「マスター。ここにはノートパソコンはあるかい?」
「ありますよ」
 マスターは、カウンターの奥から、ノートパソコンを取り出した。
「インターネットにアクセスは?」
「もちろん、できます」
「接続してくれ」
「はい」
 マスターは、いわれたとおり、ネットにアクセスした。
「しましたよ」
「オーナーが管理している、吾眠のホームページを表示してくれ。そこに、猫祭りと称する企画の第二会場があるはずだ」
「ええ、知ってますとも」
「その第七回の翻訳は、だれが担当している?」
「朧豆腐さんですね」
「ふむ。それで、朧豆腐さんは、どんなことを書いてるかな?」
「それは、さっき文字ゲリラさんがいったとおりですよ。TERUさんが、shionさんにとっちめられているところです」
「だから」
 と、ラビン髭の男。
「わたしは、TERUさんが怪しいと申し上げたんじゃないですか」
「そうでしたね」
 黒コートの男は、コートの内ポケットからタバコを取り出して火をつけた。
「たしかに、朧豆腐さんの書いた記事に注目したところまではいいでしょう。しかし文字ゲリラさん。あなたは、肝心な部分を見落としている」
「というと?」
「この記事の中で、本当に恐ろしい思いをしたのはだれなのか。そこに着目しないのはおかしいと申し上げているのです」
「本当に怖い思いをした人物ですって?」
「文字ゲリラさん。ぼくは、人物とは一言もいっていない」
「あっ……」
 文字ゲリラは、床に伏せている猫……つまり吾輩に視線を落とした。
「ま、まさか、この猫が?」
「そう。犯人は、朧豆腐さんによって、恐怖の体験させられたヤツですよ。すなわち、この三味線の材料がそうなのです」
 しゃ、三味線の材料とは、なんたる言いぐさであろうか! 吾輩は思わず立ち上がって、黒コートの男をにらみつけた。
「ほら、ごらんなさい。こいつは、人の言葉を理解しているようだ」
 し、しまった。誘導尋問だったか。ただの浮気者と思って油断した。この男に、これほどの知能があるとは……うむむむ。
 気がつくと、一同が、みな冷やかな目で吾輩を見ていた。吾輩は、尻尾をたてて威嚇しながらあとずさった。こんなところで、本当に三味線にされては、死んでも浮かばれぬ。
「なんだぁ」
 と、肩を落としたのは鹿の妖怪だった。
「猫が犯人だったのか。つまんなーい」
「すいません。同属がお騒がせしまして」
 猫又が、恐縮したように謝った。
「ま、解決してみれば単純なことだったわね」
 女将も、しらけたようにいった。
「さ、事件も解決したし、そろそろ豆板醤料理を作りましょうか」
「いいですな」
 ラビン髭の男も、吾輩にはもはや興味がないといわんばかりに、カウンターに戻った。
「女将さん、いよいよ冬らしくなってきました。熱燗を一本つけてください」
「いいわよ」
「ハニー」
 黒コートの男も、カウンターに座った。
「クリスマス・イブに日本酒とは、ちょいと興ざめだが、おいしいシャンパンは、あとで楽しむとして、まずは女将さんの料理をいただいておこうじゃないか」
「うふふ。そうね。女将さん、事件を解決したご褒美に、おいしい料理をダーリンに食べさせてあげて」
「はいはい。わかってるわよ。今夜はハッスルするんでしょ。せいぜいがんばれるように、うんと精のつく料理を作ってあげるわよ。TERUちゃん早いって噂だし」
「早くないですってば!」
 一同が、どっと笑った。
 もはや、だれも吾輩には注目していなかった。どうやら、殺人事件……いや、殺妖怪事件の犯人など、本当はどうでもよかったにちがいない。ここが魑魅魍魎の魔窟と呼ばれるゆえんが、吾輩にも、やっと理解できたのである。
 どれ、吾輩も、豆板醤料理にあずかるとするか。材料を提供したのだ。その権利はあるだろう。猫の舌で、豆板醤が食べられるかどうかわからないが。


 おわり
2004/12/24

『吾眠ハ猫デアル』 その7
『吾眠ハ猫デアル』

  -- タイムスリップした漱石猫 --

  原作(猫語): 書き猫知らず

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 その7 人語翻訳:朧豆腐

「あ、あれはーーーっ!!」
 心地よい夢の世界へと埋没していた吾輩の意識を突然現実の世界へと引き戻したのは、耳を直撃した絶叫であった。まるで、巨大な岩が頭上へ降ってきたかのようである。耳と頭の痛みを堪え、何事かと思い目を開けてみると、あのshionという女が、こめかみに青筋を走らせて般若の如き形相を浮かべている。はっきりいって怖い。吾輩、思わず粗相してしまいそうになったではないか。と文句の一つも言ってやりたいところだが、それは、人語を喋れたとしても決して口に出せぬであろう。見るがいい、この表情、この血走った目。今、運転席に座るこの女へ一言何か文句をつけようものなら、同族であっても喰い殺されかねぬ。
「つい三日前の晩は、あんなにあたしの耳元で『愛してるよ、ハニー』って囁いたくせに……くせに……」
 すっかり固まってしまった吾輩にまったく気づかないくらい、shionは、正面を睨んで歯ぎしりしている。何が起こっているのか分からない。席の上に乗っている吾輩には、ガラス張りの正面が見えないからである。とはいえ、少なくともその怒りが吾輩へ向いているわけではない、と分かって若干の安堵を覚えずにはいられなかった。この車内という密封され、かつ高速移動中の空間の中にあっては、吾輩の逃げ場はどこにもない。怪我を負った身では、目の前の般若と戦ったところで万に一つの勝ち目もないであろう。喰われるか、三味線へ生まれ変わるか。吾輩が今どれほど細い糸の上を歩くに等しい運命にあるか、つくづく思い知られる。
 と、急に車が停まった。どうしたのであろうと思っていると、shionが、鞄の中から何かを取り出した。見ると、それは先ほどの銀色の金属板ではないか。誰かから、また電話がかかってきたのであろうか、と思ったがそうではなかった。shionは、金属板の上を指で軽く叩いていた。叩くたびに、耳慣れぬ小さな音が聞こえてくる。それから指を離すと、先ほどとは違うがやはり聞いた事のない音を金属板は発したのである。その音が止むと、shionは、金属板を耳元へ持っていった。
「もしもし、ダーリン?」
 だありん?何者だ。まさか、遙か西の英国にて、進化論なる『人間や我らの先祖は共通である』という論を語ったとかいう人物なのではあるまいな?
『やあ、ハニー。どうしたんだい?』
「ううん、何でもないんだけど。ちょっと、ダーリンの声を聴きたかったの」
 金属板から男の声が聞こえてくる。この男が、『だありん』なる人物なのか。すると、今までの般若から一転、shionは、柔らかな笑みを浮かべて喋り出した。だが、目は全然笑っていない。こういう状況を、嵐の前の静けさというのであろう。
『僕だって、ハニーの声をずっと聴いていたいよ。でも、ごめん。今は運転中だからね。もうすぐ僕は吾眠に着くから、ハニーも早くおいでよ』
「そうね。あたしも、もうすぐ吾眠に着くわ。でも、今は大丈夫でしょ?信号は赤だし、助手席のコを降ろしたばっかりだし」
『……えっ?』
 だありんの声の狼狽した様子が、吾輩にもはっきりと感じられた。
『な、何をいっているんだい、ハニー?僕が、ハニー以外の女性を助手席に乗せるはずが……』
「白のブラウスとショートの髪がよく似合う、モデルみたいなコじゃないの」
『……は、ハニー。ど、ど、どうして!!』
「ふふっ。ダーリンったら、バックの確認が少し甘いんじゃなあい?」
 shionの声が、どんどん砂糖のように甘ったるくなっていく。しかし、吾輩には分かる。その砂糖菓子の声の中には、あの猫又を撃退した『ハバネロ』なる劇薬もどきと同様のものが含まれているのである。いや、もっと危険なものかもしれない。
『は、ハニー!!待ってくれ。ち、違うんだ。これは!?』
「もうすぐ、吾眠へ寄る時停めている駐車場よね。そこで、ゆっくり『お話』しましょうね。ダーリン」
 なおも喋ろうとするだありんの声を無視して、shionは電話を切った。
 どうやら、話を聞いていた限り、だありんとはshionの夫か恋人にあたるらしいが、他の女性に懸想したらしい。しかし、このような恐るべき女を伴侶としながら不貞を働こうとは、不届き極まりないというか肝が据わっているというべきか。
「じゃあ、出発するわね」
 車を動かしつつ吾輩へ声をかけてきたshionの顔は、不自然なくらいにとても清々しい笑顔だった。



 程なく、『駐車場』なる目的地へ到着した。けれども、それは同時に、嵐の訪れでもあった。
「た、頼む。ハニー!!僕の話を!?」
「問答無用。この浮気者があっ!!」
「ぎゃあああああっ!!」
 その惨状は筆舌に尽くしがたいものであった、とだけ言っておこう。
2004/12/18

『吾眠ハ猫デアル』 その6
『吾眠ハ猫デアル』

  -- タイムスリップした漱石猫 --

  原作(猫語): 書き猫知らず

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 その6 人語翻訳:sleepdog

 宵の刻を過ぎ、有象無象の影も朧に融け出した。吾輩はトラックの中の温かさを懐かしみ、沿道に腰を落ち着け、後ろの金戸が開くのを待ち侘びた。ガラガラと赤子をあやす電電太鼓のような音が寄って来る。帽子を被った若い男が大きな四角い緑色のつづらを押して小走りに現われた。緑のつづらにもトラックと同じ猫の絵がある。まさか吾輩の同胞達があのつづらに詰め込まれている筈はあるまいが、吾輩は一歩身を退き固唾を飲んだ。しかし、中身は空と見え、吾輩の杞憂であったと座り直した。
 帽子の若い男は腰に提げた鍵を用い、金戸の錠前を外した。吾輩も薄墨の闇に混ざるように忍び足で中を窺う。隙あらばまたこの走る納屋の世話になり、未来の世の諸国漫遊と洒落込むのも悪くない。ここには吾輩の気侭な散歩に五月蝿く口を挟む主人もいない。それはそれで幾許か退屈でもあるが、時間旅行にはまたそれなりの趣があるものだ。男がつづらを畳む作業にもたつく合間に、吾輩は半開きの金戸の下を潜り、隅に丸まり出発を待った。

 真っ暗な部屋に自動車の音が鳴り響く中、積み重なった荷物の向こうから何から会話が聞こえてきた。聞かずとも害も益もあるまいが、目蓋はあっても耳蓋はない。何かと鈍い太平の逸民はともかく、猫の耳の過敏さを思えば蓋くらい欲しいと願っても不思議はない。
「……国道××号線は事故のため渋滞しており……」
 先ほどの若い男が舌打ちをした。しかし一方で、少し篭もった声の女は構わず喋り続けている。およそ意思疎通になっていないが、これもまた未来の一面なのであろうか。傍若無人たる女や、弁論する気配もない男の有り様には甚だ呆れるばかりである。吾輩は欠伸をして、むず痒い爪先を硬い床に擦りつけた。その瞬間である。
 落雷か、鉄砲水か、はたまた喧嘩神輿が軒先を蹴殴る音か、凄まじい轟音とともに納屋の壁が揺れた。戦乱の古記に城門を丸木で打ち入る下りもあろうが、まさにその如き衝撃が襲いかかり、吾輩は山寺の坊主がついた鞠の猫より高く跳ね上がり、向かい側の壁に肩を打った。事態を察する間もなく、積み上がった荷物の一端が崩れ、吾輩めがけて落下してくる。舶来文字が書かれた箱(吾輩はさすがに外来語までは読めない)が頭上に迫り、僅か一分の隙間を残してそれをかわした。傷んだ肩を庇いつつ身を立て直すうちに、納屋の揺れは収まったようである。代わりに、散乱した荷物の奥に格子戸から男の喚き声が届いた。男が横の扉を開け、駆け寄ってくる足音が続く。女の声は同じ場所から一本調子で延々と続いていた。
 金戸が開き、一陣の寒風が滑り込む。だが、それよりも刹那、ガス燈を間近に向けられたような苛烈な光が吾輩の目を射抜いた。男が荷物の惨状を見て呆気に取られている背後で、別の自動車からの白い光が放出されていた。
「うわっ、まじやべー!!」
 男は慌てて駆け上がる。吾輩は踏まれまいと避けながら、その横をくぐり道へ下りた。後ろに停まった自動車から、吾輩の主人よりもやや年かさの男が顔を出す。年かさの男の乗った自動車はトラックよりも小さくて、屋根に提灯だか行燈だか黄色く光るものが載っている。未来でも太平の逸民が夜に頼るものは変わらないようだ。
「おい大丈夫か! 人でも轢いたか?」
 年かさの男は野太い声でどやした。
「違います! 何か、そこの林から突然イノシシみたいのが――!」
「イノシシ? ここは山じゃねぇぞ」
「でも、でっかい動物の影が……――あっ!」
 若い男が蒼白な面構えで向いた先に、確かに血生臭い獣の匂いがした。吾輩も毛という毛を張り詰めて、黒い輪の陰から様子を窺った。見える、赤黒い毛に覆われた爪だ。赤黒いのは指先だけで、海老茶色の滑らかな毛が屈強そうな四肢を覆い尽くしている。吾輩は見覚えのある足の形に一抹の猜疑心を向けつつ、そろそろと身を滑らせて自動車の横へと忍び出た。
 確かに、仔牛か猪ほどもあろう獣が沿道に闊歩していた。大振りな錦蛇のごとき尾をぶらりと宙にはべらせ、血の鉄と泥の鉄とが混じった陰惨な匂いを発している。尖った耳と丸い背中と、醜く塞ぎこむような低い地鳴り声。ひゃあっ。若い男の叫び声で振り向いたその獣の面構えは、もはや疑うべくもなく吾輩と同類であった。
 こいつは猫又である。かつて鎌倉の世に法師吉田兼好が綴った高名の雑文にも出てくるが、人里を離れ棲み人を喰らう猫を古来よりそう呼ぶらしい。猫が人に喰われることはあっても人を喰うなど微塵も信用ならなかったが、この眼前に聳え立つ猛虎のごとき同胞の悪態が現実のものと悟り、吾輩は戦慄した。猫が猫を喰うなどさらに言語道断であるが、この圧倒的な体躯の差を知れば、吾輩など鼠よりも容易くあの腹に収まってしまうのではなかろうか。
 いや、その前にこの男が危ない。一刻の猶予もならぬのに、男は鼠より肝が小さいと見え、怯え切って身動き一つしないのだ。猫又にとっては格好の獲物である。吾輩がそう断ずるより先に猫又は疾風がごとく男に迫り、両手の鋭い爪を翳して飛び掛かった。
「バカ、しゃがんで――!!」
 後方で女が叫んだ。若い声だった。男は咄嗟に、猟銃で撃たれた雉より悲愴な声を上げて身を縮めた。猫又の爪が空を切り、男の髪の毛先が千切れ舞う。その黒い塵の間隙を縫って赤い燕が一羽飛来し、猫又の鼻っ面を思い切り叩いた。猫又は目を瞑り顔を顰めて、横ざまに地面を駆ける。沿道に半端な円を描いて立ち止まり、鋭い眼光で燕の姿を追った。だが、燕など既にどこにもない。吾輩も見失ってしまった。
「事故って、こいつのせいなのね?」
 先ほどの若い女が猫又を睨みつけていた。年かさの男が目を見張り、その横に女が仁王立ちしている。山の猟師の娘かと紛うほど豊潤な兎の毛皮を羽織り、黒塗りの薄衣を腿まで巻き、すらりとした首には純白の玉飾りという装いである。しかし、何よりも吾輩の虚を突いたのは、その女が玉虫色の眼鏡を掛けていることであった。明治の女は眼鏡など金満家の家人でもなければ到底持てない。そして、片足が何故か裸足だ。もう一方には赤い靴を履いている。もっともその靴も片歯しかない不恰好な下駄に見える。あれで機敏に歩けるとは思えない。
「お客さん――?」
 横から年かさの男が問う。差し詰め、あの女は年かさの男の自動車に乗っていた淑女であろうか(淑女と呼ぶには肌の露出がきつ過ぎるが)。女は溜息をつき、玉虫色の眼鏡を額へとずらした。睫毛に黒い隈取りがされている。奇妙な靴といい、まさかサアカスの女ではなかろうか。
「ふざけんじゃないわよ。こっちは急いでんだから!」
 猫又に向かって威嚇しているようだが、猫に人の言葉は通じた試しがない。まさか未来ではそれも進歩し日常化しているか、と息を飲んだが、猫又は威嚇し返すばかりだった。
「猫なら、人を見たらさっさと逃げなさいよ!」
 女はそれに怯まず言い返した。しかし、それは乱暴な理屈である。猫又は弧を描くような構えでにじり寄り、足元に先ほどの赤い燕を見つけた。燕は地面の上で伸びていた。猫又に歯を立てられても何の抵抗も見せない。女が全身から発するきつい花の匂いのせいか、猫又は苦々しい顔を差し向け、燕を咥えたまま竹薮の中に逃げ込んだ。人喰いの猫又を一撃で退散するとは女の腕前は大したものである。だが、女は血相を変えて叫んだ。
「あっ、バカ猫! あたしのヒール持ってくなって!」
 また馬鹿猫だ。猫の品位は未来では地に堕ちてしまうというのか。一方、当の女は一本足で唐傘のように跳び撥ねながら竹薮へ身を投じた。だが、猫又が竹薮の中に潜んでいないとも限らない。先ほど女は先手必勝で撃退したが、相手が待ち構えているなら命が危ない。吾輩なら猫同士で説得ができるだろうと意を固め、女の匂いの後を追った。

 竹薮は入る者を五万の葉で酔わせ、羽虫の囁き声すら絡めとる夜の静寂に包まれていた。冬枯れに色を失った三千の筒が不惑を貫くように天を指し、葉の網を埋める闇に深く吸い込まれていく。この特異な風合いは未来でも何ひとつ変わっていない。吾輩は耳を張り、敢然と先を往く女の足音を拾った。ざわざわと風もなく竹薮が騒ぎ、常ならぬ気配を鳴り響かせる。
「いた!」
 女の声と後ろ姿を吾輩は同時に捕らえた。その向こうに猫又の大きな影が揺れ、赤銅色の眼を見開いて女を的に据えた。靴を吐き捨て、爪を立てて地面を蹴る。危ない。このままでは靴を取り返すどころか、女がみすみす餌食になってしまう。吾輩は竹の葉を踏み鳴らしながら駆け寄った。待て!と諌める一声を発した。しかし、猫又は突進を止めなかった。あやつは既に猫ならぬ物の化となり果て、猫の理性を失念したのかもしれぬ。それなのに、女は微動だにしない。牛ほどの猫が迫り来るというのに。死を覚悟したか、はたまた豪胆な山の猟師の娘であるか。女は黒革の小さな手提げ鞄から何か取り出し、それを猫又の鼻先に差し向けた。
 パァン!と風船が割れるような突拍子もない破裂音が轟いた。風船を膨らます間もなかったろうに。だが、その現に猫又は虚を衝かれてすこんとその場に立ち止まった。竹薮に住まう虫たちの囁きも消えた。当然吾輩もいま何をしようとしていたか忘れかけたほどだった。いったい何事かと女の手元を見れば、三角錐の派手な紙細工を持ち、七色の紐が幾本もそこから垂れていた。後に吾輩はとある喫茶店にて、この奇妙な紙細工がクラッカーと呼ぶ物であり、猫を騙すためではない本来の用途を知るのだが。
 そして、女は愉しそうに笑い声を上げた。
「驚かせてごめんね。でも、その靴マルニだから高いのよ。さ、返してね」
 しばし茫然と居竦む猫又を横目に、女はすたすたと藪を進んで捨てられた真っ赤な靴を拾おうと腰を屈めた。
「うそっ! よだれまみれじゃん。もう最悪!」
 猫又は大きな背を波打たせ、ぶるんと武者震いをした。これほど手強い獲物もなかったと言わんばかりの眼光で徐に腰を起こす。一方、女は己の靴から竹の葉をちまちまと剥がし、猫又の様子を見落としていた。まだ先ほどの癇癪玉を隠し持っているのだろうか。
 猫又は鼻息を抑えながら数歩退く。だが、眼差しは女の首一点を見据えたままだ。これだけ動けばさぞ腹も減ったに違いない。吾輩は一刻も早くこの藪を脱せねばと女を諭すべく、舞い上がる枯葉の中を駆け出した。女までは距離がある。そして猫又も三度踏み出し、大きな歩幅でぐいと加速したかと思うと、瞬間前のめりになった。
 吾輩が視界の隅に捉えた時、猫又は中空へと跳躍していた。この状態では、たとえまた癇癪玉を使っても、猫又の巨躯がお構まいなく降って来るという計算なのだ。むささびの数十倍はある黒影が頭上に迫れば、どんな豪気な者でも怯まずにいられない。女は片方の靴がないせいもあり、咄嗟に身を崩した。
 女への恩義云々を論じる暇などない。吾輩は人を喰う不貞の同胞の狼藉を見過ごすわけにはいかなかった。女は氷水に触れた時のような悲鳴を上げ、這いつくばった姿勢で靴のあるほうの片足を突き上げた。それで蹴返そうと言うのか。しかし、猫又の鋭い歯が剥き出しとなって襲来し、女の細い足を丸呑みにしようとした。吾輩は急いで舵を切り、女の白い足に己が身を当てた。帆の折れた帆船のごとく女の体が横転する。猫又の突き出した鋭利な爪が吾輩の半身を薙ぎ払う。背中に大火が踊り荒れ、降魔の儀のごとく騒然と枯葉が舞い上がった。
 こやつ、同胞の肉を裂くとは何たるか! 背面に声高く叫べども猫又の鼻息は一層荒く、猫の意はもはや妖魔に届かぬようだ。一方、女は片膝を立てながら口に入った枯葉を吐き捨て、吾輩の傷む背中を長い指で優しく撫でた。革の鞄の中身は散乱し、小物やら黒光りする袋やらが転がっていた。女はその黒光りする袋を握り締める。
「こいつ、ただじゃおかないからね。あんたも協力して!」
 吾輩は脇腹をむんずと掴まれると、抵抗する間もなく女に担ぎ上げられた。猫又と正面から睨み合う格好になる。待て、人身御供ならぬ猫身御供か。足に喰いつかれるところを救ったのに、太平の逸民は猫を盾にするのか。猫又に、救いを求める声は届かないのだ。
 腕の中から逃げようとする吾輩を、女は手鞠のように高々と放り投げた。地面に力む猫又の大きな鼻先が眼前に迫る。嗚呼、吾輩の時間旅行が幾許かの難儀を経て、終焉の時を迎えようとしている。走馬灯が回るような暇もない。猫又の鬱血した両眼は吾輩の到着を待ち侘びているようだった。そして門戸が開き、艶めかしい喉の奥が覗いた。猫事を尽くして天命を待つ。吾輩は最期の言葉を慎ましく胸に刻んだ。
 不意に、間際まで女の顔が迫る。吾輩を投げた張本人が吾輩を追って来たのか。いや、そうではなかった。女は、壺のように天に向かって開けた猫又の口の中に、先ほどの黒光りする袋の中身をぶちまけた。燃える石炭のように真っ赤なものが大量に口へと注ぎ込まれた。
 刹那、吾輩は生への執着を振り絞り、四肢を伸ばした。猫又の顎に爪を引っ掛け、身を翻し口を逃れた。それが合図となったか、猫又は口を閉じ、放り込まれた燃える石炭を噛み砕き飲み込んだ。そして、これが猫又の健やかなる姿の見納めであった。突如猫又は悶絶し、この世のものと思われぬ絶叫を残して、藪の中に姿を消した。
 吾輩は疲れた体を休ませながら、恐る恐る女の顔を見上げた。この女は劇薬までも隠し持っていたのか。靴の形の飛び道具といい、紙細工の癇癪玉といい、袋詰めの劇薬といい、未来では危険な道具が軍人ならぬ民間にまで広まっているのか。吾輩は空恐ろしさを禁じ得なかった。しかし、その懸念をよそに、女は黒い袋から一粒燃える石炭を摘み、口に運んだ。思わず絶句する吾輩に、女は穏やかな微笑みを向けた。
「うーん、爽快! さすがは唐辛子の十倍の威力。こんなもん喜んで食べる生き物って、地球上で人間くらいだもんね」
 劇薬というのは吾輩の思い過ごしであったのか。どうやらそれは太平の逸民だけが食すものらしい。袋には「暴君ハバネロ」と得体の知れない文字が並んでいた。

 女は靴を履き、竹薮から外に出た。吾輩も何となく横に付き添い、猫又が性懲りもなく再来しないかと気を張っていた。しかし、劇薬を大量に食わされて藪の奥で悶絶していると思われ、悲愴な叫びが藪の抜ける風の唸りとなって聞こえるようだった。
 道には吾輩を乗せてきたトラックの姿はなかった。年かさの男の姿も既にない。女は道端に停めておいた真っ赤な流線形の自動車の前に立ち、ふと吾輩のほうに目を落とした。肩の切り傷を舐める吾輩をしげしげと見つめる。
「あんた……怪我してるの? もしかして、さっきのやつで?」
 吾輩は首を垂れた。今夜の宿を探さねばならない。腹も空いた。傷口に夜風が凍みる。出血は止まっていたが、歩くと背中の皮が少し痺れた。
 そのとき、女の鞄の中から突然誰かが歌い出した。女が銀色の金属板を取り出し、蓋を開けると歌は止まった。誰が歌っていたのか皆目検討も付かない。
「あー、もしもし? ごめん、渋滞とか変なのに捕まって、まだ東京出てないの。うん。今から高速飛ばしてそっちに向かうから。――ねぇ、みんな集まってるの? ああ、ほんと。一番遅くなるのはやだなー。でもしょうがないかぁ」
 女は電話を終えると、蓋を閉じた。そして、吾輩の前にしゃがみ込んで頭を撫でた。
「うーん。恩人だもんなぁ、お前。暖かい場所で手当てもしてあげたいし……」
 吾輩は疲れた体を休めるため、また自動車のお世話になりたかった。猫又のせいでとんだ災難に遭ったが、こんなおまけも悪くない。女は顔を明らめ吾輩の首筋を指で弄んだ。
「ね。ちょっと遠いけど、一緒に名古屋まで行くぅ? 知り合いの喫茶店でね、三周年記念のパーティをやるの。マスターが腕によりをかけて美味しいもん作ってくれるから、あんたもおこぼれに預かれるよ。どう、乗る?」
 女は自動車のドアを開けた。見上げると、トラックにはなかった心地良さそうな座布団がある。吾輩は女の厚意に甘えて自動車の中に飛び込んだ。すると女の尻が迫り、吾輩はすかさず隣りに飛び移った。
「さ、急がなくちゃ!」
 言うが早いか、真っ赤な自動車は凄まじい爆音を轟かせ、夜道を高速で泳ぎ始めた。他の自動車を次々に追い抜きながら一気に加速していく。吾輩なこの女の危険性を察知しながら、頭や首筋を撫で回した指の温かさを静かに想った。
「あ。ねぇ、あたしの名前はshionて言うの。――あなた、名前は?」
 吾輩は座布団の上に丸くなり、にゃあと答えて眠りに落ちた。
2004/12/13

吾眠は猫である:その5
 『吾眠ハ猫デアル』

  -- タイムスリップした漱石猫 --

  原作(猫語): 書き猫知らず

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 その5 人語翻訳:文字ゲリラ


 吾輩が娘について行こうとすると、娘は振り返って言う
「あんた、まだお腹すいてんの?」
ここでニャーと答えては肯定に取られかねないから、あくびをして食べ物に無関心な様子をみせた。それを見て安心したのか娘は
「なーんだ」
と言って歩き出した。足取りは重そうだ。気になってついて行く。すると、また振り返って
「こっから先は危ないから来ちゃ駄目よ」
 危ない? 何が? どのように?
 理由は分からぬが、この恩人が危ないというから危ないのだろう。だが、吾輩は考えた。ここに残ってもあの野良猫たちに見つかったら同じではないか。どうせ危ないなら、娘について行くべきだ。しかし、その一方で、娘を心配させては恩を仇で返す事になる。そうだ、ちょっと距離を置いてついて行けば良い。
 2分も歩かないうちに彼女の服から音楽がなった。しかも、何だか弦を鳴らす音である。これには驚いた。俗謡に使われる弦音楽と言えば同族の皮を使った三味線とかいう楽器で奏でるものに決まっている。もちろん、その手の音楽が至る所から鳴るのは昨日から何度も経験しているので…交差点で、店の前で、道行く雑踏から、あるいは遥か彼方のゴーゴーする音のするあたりから…今更恐れるには値しないが、そんな危険な音楽が、先程猫たちに食事を与え、この吾輩にすら恩恵を施し、更には危険を警告してくれた、この恩人から聞こえてくるとは、まさに人を見たら猫食いの書生と思えという格言の通りである。
 だが、驚きと同時に奇妙な感じもした。というのも、こんな危険な楽器を持ち歩いている癖に、彼女への親近感が失せなかったからである。彼女への親近感は、その他の人間への警戒の裏返しである。それほどに昨日の雑踏には人間味が感じられなかった。皆が皆、せかせかと歩いていたのである。しかも、仮面でもかぶったようなぶすっとした表情で。これでは機械じかけのおもちゃと変わり無い。大平の逸民の集う中学教師の家では考えられない没個性ぶりだ。
 その逸民たちの話によれば…山羊髭の独仙君だったか主人だったか忘れてしまったが…人情と表情を失うのは文明の行き着く先だそうである。この事実に昨日の雑踏で気付いたからこそ、今が未来であると推定し、その推定に基づいて今朝は行動しているのだ。しかし、それにしても、不思議な事が余りにも多い。娘の服から鳴り出した音楽にしてもそうだ。
 どういう仕掛けになっているものかと思ってじっと見ていると、娘は小さな鰹節のようなものを取り出してそれを耳に当てた。昨日、雑踏のオッサンたちがやっていたのと同じだ。昨日は小型の三味線に見えたが、今は小型の鰹節に見える。鰹節と三味線とは雲泥の差がある。もっとも、持ち主が違うと、同じものも異なって見えるのは、別にこれに限らない。刀は鍛冶が持ては伝統を感じるが、博打打ちが持つと危なっかしい。税金の本は代議士が持つと胡散臭いが、教師が持つと物悲しい。小判は貧乏人が持つと有難いが、吾輩が持っても全く意味が無い。同じ論理で、彼女の持っているモノは吾輩には危険ではなかろう。
 仕掛けは分からないが、話をしている所をみると、電話の仲間らしい。横町の金満家の家で見たやつとは似ても似つかぬ。吾輩の知識によれば、電話とは電話室なる特別な空間に鎮座すべきものである。そうして、ジルジルとかリリーンとか言った人を驚かすような警報をたて、その警報を受けて受話器を耳にあてるべきものである。しかるに、昨日以来見てきた電話は、公衆空間に存在し、音楽を鳴らし、その音楽に応じて、なんと半数の人間が電話と睨めっこをする。今は未来であるから、技術の進歩ごときには吾輩は驚かないが、それ以外のものの変化は唖然とせざるを得ない。なんだか、外国よりも遠い、そう月か火星あたりに飛んでしまったような感じすらする。
 そうこう考えるうちに恩人の話声が聞こえて来る。猫の聴力に聞こえないものはない。
「あー、小春」
さっきまでの声とは違う猫なで声だ。若い娘が声色を使い分けるのは、恩人に始まった訳では無い。あの、金田の娘なぞ、2秒で夜叉声と菩薩と使い分けておった。
「えーっ! うっそー」
今度は全然違う歓喜の声。その間、確かに2秒だ。
「ふんふん、学祭ねえ」
またしても声色が変わる。さすがに娘だ。
「へえ、小春は送籍大の人と知り合いなの?」
小春というのは恩人の友だちらしい。
「飯倉? そんなダチ、いないわよー」
ダチとは友だちの事だろう。
「で、何やんの?」
ははあ、頼まれ事と見える。
「いやーよ。そりゃ、あたし猫好きだけどさあ」
そうだろう、そうだろう、そうでなければ恩人にはなるまい。
「それってほんとに主役? 嘘じゃ無いの?」
ニャーって言って驚きたいのはこっちのほうだ。恩人が主役を? さすが我が恩人である。偉い娘なのだ。
「しゃあないわあ、あたし、ほんとはそんなんイヤなんよ……分かった、放課後ね」
電話を服に戻した娘は、イヤと言った割には明るそうな表情だ。少なくともさっきまでの寂しさは無い。恩人が嬉しそうな顔をしていると吾輩も嬉しい。だが、一方で一抹の不安もある。かの中学教師の家で聞いたところによると、主役とは、越智東風先生の催す朗読会や水島寒月先生の俳劇の世界に登場する連中である。どうみても賢い役回りとは思えない。そういう役を彼女は引き受けるのであろうか。
 気がつくと、何時の間にか大きな門の前に来ている。恩人と同じ服を着た連中が次々に入っていくその門には『落雲館高等学校』と書いてある。落雲館と言えば、主人の家の隣の腕白坊主の根城である。吾輩の記憶に間違いがなければあれは中学校だった。そうして、その中学生のうち、もっともデキル奴が高等学校とかいう所に進学して、書生という世の中で最も危険な種族になるとか聞いておる。何がデキルのかは定かではないが、ともかく高等学校というのは吾輩にとって危険な場所である事には変わり無い。
 そう思って身構えるや、ほのかな甘い香りがしてきた。言わずと知れたマタタビの香りだ。痺れるように気持ち良い。ここは危険な場所なんだぞ、と我が身に言い聞かすが、この香りには逆らい難い。駄目だ、ここで誘惑に負けては高等学校の書生に食われて、皮は三味線になってしまう。三味線の猫捕りがマタタビを使うのは昔からのやり口だ。昨日から町中を埋め尽くしている弦の音で神経過敏になっているのかも知れぬが、用心に越した事は無い。そうとは分かっているものの、理性は吾輩に警告を発するものの、本能はついつい香りの元を捜す。

 かの危険な男の不細工な顔を吾輩は二度と忘れないであろう。マタタビの香りはその近くから発されているのである。こいつに捕まっては食われてしまう、三味線になってしまうと分かってはいても、マタタビが我が身を縛り付ける。誘惑に負けてそろりそろり近付いて行くと、別の野良猫がマタタビに近付いて行くのが見えた。そうして、その猫がマタタビにじゃれ始めるや、不細工な顔の男が隠しもった網でばっさりと猫を捕まえた。あの野郎め、と思った時には我が身にも危険が訪れていた。そうである、男は一人では無かったのだ。
 危険を察して慌てて逃げようとしたその刹那に、別の網が降り降ろされ、吾輩は髭の差で魔の網から逃れた。なるほど、恩人の警告の通りだ。ここは危険極まりない。振り返ると、3人目の男が網をもった吾輩を捕まえようとする。こうなれば、虎口に活を見い出すしかない。そう思って、一人目の不細工な顔の男に飛びかかった。こう見えても吾輩は明治の猫である。いくら仲間の猫に運動神経が劣るとはいえ、現代猫の比ではない。男の頭を飛び越えて、一目散に、近くに止まっていたトラックの上に登った。危険を感じるたら高い所に登る。降りる時の事は考えてはならない。これは猫の秘伝である。そして、今回もこの秘伝のお陰で猫狩りの難を逃れたのである。というのも、吾輩が登るやトラックが動きだしたからである。背後には保健所と書かれた車が残された。
 乗ってみて始めて気付いたのだが、このトラックと言うのは便利なものである。安全に何処にでも連れて行ってくれる。危険な野良猫に襲われる心配もなければ、猫捕りに追われる心配も無い。しかも、若干あたたかい。こりゃ、今後もちょくちょくお世話になろうかな、とそう思って道路を行き交うトラックを眺めると、時折猫の姿を描いたトラックが走っている。荷台が無いのが玉に傷だが、もぐり込む事は可能なように思える。猫のマークがあるほどだから、よもや猫を虐待はしないだろう。これは良いものを見つけた。そう喜んでいるうちに、やがて、吾輩を載せたトラックは『送籍大学』と書かれた門の中に入っていった。恩人が電話で話していた大学だ。
 大学と言えば書生の本拠地である。そんな危険な所に入り込んでしまった吾輩は不運の輪廻から抜けきれないでいるらしいが、同時に、あの恩人に再びあえるのでは無いかという期待がもたげて来た。恩人に何の恩返しも出来ずに逃げ出して残念に思っていたところなので、危険を承知で夕方まで恩人を待つ事にした。なあに、マタタビの誘惑に負けなければ大丈夫だろう。門を見下ろす位置に木を見つけて、その梢で寝る。昼寝をしない猫は猫ではない。

 目を覚ますと日は既に傾いている。寝そべったままで門を見張っていると、やがて恩人が2人連れ立ってやって来た。嬉しくなって飛び出しニャーと言う。
「あれ、今朝の猫にそっくり!」
ニャーニャーいってじゃれつく。
「まさか、ここまで2キロも離れているのよ」
そう言っているのは今朝の電話相手の小春だろう。
「そうね、でもどうしてこんなに人懐っこいのかなあ」
もちろん同じ吾輩であると知って欲しいからだ
「それは凛子が猫に似てるからよ」
恩人の名前は凛子っていうらしい。
「似てないってばあ」
 と、その時、不健康そうな顔をしたひょろ男がやってきた。こんな男が女にもてるとは思えないが、それでも小春に親しそうに手を上げる。暫く人間世界の退屈な儀式…挨拶と紹介…が続き、いよいよ本題に入る。
「まず脚本なんですが」
「文字なんてタルイ、ぶっつけ本番じゃ駄目?」
「へへへ、そうでしょうそうでしょう」
と男は愛想笑いをする。だが、よく見ればあの迷亭が主人をかつぐ時とおなじ表情だ。腹に一物あると見える。
 男は2人をオンボロ長家に連れて行き、そこの部室とか称する汚い部屋で機械の説明とかしている。なんでもビデオとかいうものだそうだ。その原理は分からないが、活動する写真のようなものらしい。先客がいて、これまた貧相な若者だったが、彼が飯倉という奴だそうだ。連中が説明を受けているスキに、男の書いたと思われる脚本をさがす。するとアルファベットと数字の並んだ板の上に立て掛けてあった。板の前に座って読む。

ーーーー 読者の皆さんは、ここで高橋京希さん作の外伝を御覧下さい ーーーー

 こういう役を恩人は好むであろうか? 吾輩には分からぬ。分からない時は傍観するに限ると思って、カメラの置いてある部屋に向き直った瞬間に、足元からカチカチと音がした。この時は分からなかったが、吾輩はパソコンのキーボートを叩いていたらしい。後ろを振り返ると、白い画面に書かれていた筈のさっきの文章が、こんどは赤い画面の中に入っている。吃驚した反動で、足が動いて、カチっと音がするや、今度は文字が一瞬に消えて真っ白な画面が残るのみとなった。これは魔法だ。恩人の劇どころではない。呆然としていると、さっきの男が駆け込んできた。
「コラーッ」
慌てて飛び下りる。男は吾輩に目もくれず画面を見ている。
「ええーっ、何だって、セイブされてる!」
気も狂いそうな姿だ。小春も入って来る。
「どうしたの」
「台本が消えてしまったよう、あの猫のせいで」
「バックアップは」
「とってない、うえーん。」
「ばーかみたい」
 歎く男を尻目に娘たちは飯倉という若者と一緒に帰ってしまった。吾輩もついて行きたかったが、飯倉という若者の目つきが危なそうだったので諦めた。下手について行ったら実験材料に使われ兼ねない。台本にもそう書いてあるではないか。
 危険な男たちを避けて、漸く外に出ると、そこには猫の絵を描いたトラックが泊まっていた。
2004/11/29

外伝
 突然場面が切り替わり、鼠色のスーツ姿をしたキャスター、高橋京希がにこりともせずに今これを読んでいるあなたに向かって、喋りだした。
「写生文の途中ですが、ここで臨時ニュースの時間です。今日未明、自称文士・高橋京希氏の書いた『吾輩は猫である』部門の小説『風する猫は相及ばざる』中に登場する劇中作品『吾輩はタチである』内に描かれていた実験が読者の想像と化学反応を起こし、現実の世界で実際にその現象が具現化するという世にも信じられない事件が起きました」
 更に画面は切り替わり、VTRが再生される。


吾輩猫の写生文コーナー・外伝

『吾輩はタチである』現代に現る


「うわー、本当だ。猫耳だ。猫耳がついてる」
「本物だー、嗚呼。彼女は現代のラムちゃんだ」
 人だかりが出来ているけど、その人だかりはなんだか変。全員男子、眼鏡、長髪、小太り、リュックサック、シャツはジーパンにしまうスタイル、のいずれか或いはそれ総てが見受けられる姿をしていた。
「やっぱりこういう現象あるのですね。ヒエロニムス的であります」
「あ、原作どおり、尻尾が生えている!」
 人だかりの中心に居たのは3人組で、女子2人に男子1人。女子二人は19、20歳ぐらいだろうか。見た目もタイプもまったく異なるが、どちらも魅力的である。反面、20代半ばぐらいと思える青年は周囲を取り囲んでいる青年たちと同様の匂いを感じる。冴えない感じだった。
「一体これ、どういう事?」
「わ、わかりません。しかし、実験は成功したようです。ここはもしや異次元なのでは?」
「この馬鹿巨根! 異次元に来ちゃってどこが成功にゃんだにゃ!」
 胸の大きな女の子が発する「にゃ」という小倉優子も真っ青なヘンテコ語尾に周囲の股間まで引きこもった男子たちがどよめく。女の子は動じず青年をヘッドロックしていた。
「ね、ねえ凛子。これ、ちょっと変だよ。私たちなんか、見られてない?」
「ん? そー、言われてみればそうにゃ。有名人になったようにゃ気分?」
「何のん気な事言ってるのよ。多分私たち、いきなりこんな場所に現れたから目立っちゃってるんだわ。とにかくどこかに逃げましょう」
「逃げる? ふにゃん! なんであたしたちがそんにゃ事しないといけないにゃー!」
「り、凛子さん。おかしいですよ、この人たち、僕たちのこと知ってるみたいです。原作通りってどういう意味でしょうか」
「そういうの考えるのはあんたの役目でしょうにゃ! ちょっとそこの眼鏡してる割りに馬鹿そうな人たち! 説明しなさい!!」
 凛子のそんな尊大な態度にも「原作どおりだ」「原作どおり」とまるで天孫降臨した神を崇め奉るようにしてヲタクたちは理由を説明した。
「そ、そんな」
「馬鹿な……」
「意味わかんにゃい」
「だからぁ、私たち、どうもこの世界では空想の産物らしいのよ」
「それってユニコーンとか、フェニックスと一緒にゃ?」
「うん」
「あー、そんな事になるなんて! やはり私は天才だっ!!」
「あんたにょ実験が失敗したからこんにゃ事ににゃってるんでしょ!!」
 と、言い争いをしているうちにヲタクたちの鼻息が荒くなっていく。
「確か凛子ちゃんは股旅を嗅がせると誰にも見境無くやってくれるんだよ……」
「小春たんは耳が性感帯なんだ……」
 じわり、じわりと眼鏡たちが近づいてくる。
「現実の人たちじゃないんだし、何したって捕まらないだろぅ」
「ね、ねぇ。私たち、一体どんな風に伝わってるわけ?」
「にゃんでそんなプライベートな事知ってるんにゃ、こいつら。きもいにゃー」
「ふむふむ。あー、これが僕たちの出てくる本か。うわ、懐かしいなぁ。あはは。こんな事もあったあった」
「何読んでるの飯倉さん」
「そこの人から借りたんです。これが僕らの出てくる本らしい。どうやら僕たちは官能小説の登場人物らしいですよ」
「あー、にゃっとく」
「じゃ、この人たち……」
 見回すと、全員目付きがヤバイ。あと、なんかちょっと変な匂いがする。
「もしかして私たち……襲われちゃう?」
「いにゃぁーん」
「飯倉さん、なんとかしてよ、男でしょ!」
「男でしょ、たって。僕はそういうのはからっきしで……。ね、ねえ皆さん。冷静に話し合いましょうよ」
「あー、そんにゃの聞く耳持ってるわけにゃぁでしょ!」
 あわや男たちは凛子と小春を乱暴に掴み、服を脱がそうとする。全員童貞なので前戯のやり方なんて知らないぞ。
 人だかりが増えていき、周囲には報道陣と思われるスタッフやカメラマンが居る。レポーターが、
「襲われている気分はどうですか?」
 なんてマイクを差し向けてくる。
「どこの放送局にゃ、こんなの放送していいにゃ!?」
「人でないあんたたちが何をされても問題じゃない。それに、TVの報道とは人の観たいものを魅せて視聴率を稼ぐんだ。人の姿をした人でない君たちなら性器を丸写しにしても何しても問題ではない。こりゃ視聴率が稼げるぜ。ひっとひっとひっと」
 プロデューサーが下品に笑う。
「人が嫌がる姿を見せて笑うあんたらの方がよっぽど人間じゃにゃいにゃぁああ!!」
「いやぁー! 凛子、助けてぇ!」
「あー、くわばらくわばら。女の登場人物じゃなくて良かったです」
 ほっと飯倉が胸をなでおろしたのも束の間。
「ぼ、僕、エロ小説に出てくる男に目が無いんです」
「ひっ、ひえええ!! 助けてぇ! 凛子さぁああん!!」
「むにゃああああああ!!!!!」
 凛子は叫び、猫と融合したDNAを覚醒させる。その筋力は並みの人間の比ではない。次々とヲタク青年をぶん投げ、放り投げて行く。
「今よ。逃げるにゃ」
 凛子は小春と飯倉を抱えて跳躍した。ビルの屋上まで飛び上がり、また飛び移り、はるか彼方へと消えて行く。
 画面はまた変わり、キャスターの高橋京希。
「いやぁ、もう少しで大手を振ってエロ画像をTVで流せたんですけどね。惜しい事でした。では今の放送にメールで意見をいただいているので読んでみましょう。ええっと……『即出会い生ハメ可能!』。あ。これじゃなかった。さきほどのニュース映像は酷かったと思います。と、こういう意見読んでおけば公平になるからね。どんなの放送しても構わないんだよ。へらへら」
「へらへらしてんじゃにゃぁあああ!!!!」
 ドロップ・キックが高橋京希の顔面にクリーン・ヒット。回転して着地した凛子が吼える。
「あんたがこんにゃ小説書いたせいで酷い事ににゃっちゃったじゃにゃいの!」
「うわぁあ。ごめんなさい、こんな小説書いて! つまりその、エロス表現の光と影についてやメディア及びマスコミ批判をやりたかった訳で」
「こんにゃの書いてる時点で、あんたも同罪!!」
「ぼ、僕に夏目漱石みたいな小説書けるかな? ろくでなしの僕に」
「不可能!!」
「つーか、これ、作者が同じって思ってもらえるかな?」
「不可能!!」
「あー、もう完璧な脱構築」
「外伝どころか小説の枠組みからも外れ始めたにゃ」
「ぼ、僕はどうしたら」
「罰としてみんなの前でオナニーしなさい!!」
「えええ!? そんなんできるかぁ!」
「あんたさっき私たちに酷い事させようとしたじゃにゃい!」
 飯倉ががっちりと高橋京希を抱え、小春が彼のねずみ色したズボンを下ろす。凛子がかわいらしい文士の筆に手をかけ上下に擦り始めた。やがて文士は普通に果てて、修正液を発射する。
 これが本当の射精文、なんちって。
 ……とっとさん、これ、使えますか?

  おわり

 気を取り直して、次の方、muraさんの続きをどうぞ!

2004/11/22

『吾眠は猫である』その4
『吾眠ハ猫デアル』
  -- タイムスリップした漱石猫 --

  原作(猫語): 書き猫知らず

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その4  人間語翻訳:mura


 自分で思っていた以上に疲労していたのであろうか。吾輩は社殿の下の雨露の凌げるあたりに潜り込むと、まさに泥のように眠ってしまったのである。あのような深い眠りは初めてというほどの、底なしの眠りであった。
 その眠りを覚ましたのは、恐ろしいまでに悪意の篭ったうなり声と、胴体に与えられたドスンという衝撃だった。吾輩は慌てて飛び起きた。夜はとっくの昔に明けたようだったが、吾輩のいる社殿の床下は真っ暗だった。
 その暗闇の中、赤く丸く光るものが幾つも動き回っている。猫の瞳だというのは、吾輩にもすぐにわかった。これこそが吾輩が目覚めたら探そうと思っていた”仲間”たちだ。何やら怒っているようにも見えるが、そこはそれ猫同士のこと、話せば解るに違いない。
「えー、ちとものをお尋ね申すが」
 吾輩は丁寧に話し掛けた。礼儀正しいのである。
「こちら様の大将殿にご挨拶を申し上げたい。どなたかご案内を……」
 返事は暗闇から勢いよく繰り出された前脚だった。危ういところで頭を引いたので鼻先を少し引っ掛けられただけで済んだが、下手をすると目をやられていたかもしれぬ。
 これは拙いことになったわい、と吾輩も感じていた。人間の家庭で飼われるうち、感覚が少々ずれていたらしい。猫の野生の中で一番重い”縄張り意識”というものを吾輩は甘く見ていたのだ。
 怯んだ吾輩の尻に、別な猫が噛み付いた。吾輩、思わず、ぎゃあ、と悲鳴をあげた。吾輩は思考するを得意とする猫であって、喧嘩は苦手、ご免蒙りたい。
 三十六計逃げるに如かず、とばかり吾輩は遁走を試みた。この森は危険すぎる、脱出しなければならぬ。が、ここでも知性派と武闘派の差が歴然、怒り狂って追いかけてきた野生の猫たちに、森の出口あたりであっさり追いつかれてしまったのだ。やられる、野生の猫たちにずたずたに引き裂かれて今度こそ一巻の終わりである。
 溺死したはずが不思議の力でこの世界に転生し、あの恐ろしい”走る墓”車からも逃げ切れたというのに、まさか同胞たちの手にかかって果てるとは。そんなことを思いながら目をきつく閉じ、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と唱える。が、今回はあの時と違って、とてもじゃないが、ありがたいありがたいという気にはなれぬ。
 そのときである。
「こらあ。喧嘩するんだったらあげないよー」
と言う、うら若き乙女と思しき声が響いた。地に伏し仏の名を唱えていた吾輩は、そろりと片目を開けてみた。吾輩を今まさに引き裂かんとしていた野生の猫たちは皆、同じ方向を見つめ、耳をピンと立てている。そして次の瞬間には、彼らは一目散に同じ方向に向かって走り出していた。
 何が起こったのであろうか。吾輩はこっそりと彼らの後を追った。すると、若い娘が、森に隣接する雑草だらけの空き地で、紙袋から何やら土くれのようなものを地面に撒いている最中で、猫たちは遠巻きにしてそわそわとそれを見守っているのだった。吾輩、初見では土くれと見たが、風下であるこちらに、食欲を刺激する良いにおいが漂ってきた。娘が猫たちの方に顔を向けながらそろそろと後ずさりを始めるや、みな、わっとばかりその土くれに駆け寄り、がつがつと食しだした。やはり食べ物だったらしい。
 強烈に空腹を意識したが、その群れに加われば先ほどの仕打ちが繰り返されることは目に見えている。吾輩は彼らを遠回りして避け、娘の方を追うことにした。
 娘は空き地を出、大通りをだらだらとしまりのない歩き方で歩いていた。やはり以前吾輩がいた世界の女たちとは随分様子が違って見える。まず何と言っても着物が短い。短すぎる。おまけに膝からくるぶしまでを、奇妙なぶわぶわした白いものが覆っている。そしてこの娘も髪の色が黒ではなく黄色がかった茶色だった。
 娘はぺたんこの黒い鞄を振り回しながら、
「チョーかったりー。ガッコばっくれよっかなー」
と、ひとりごちた。
 吾輩は悩んだ。今のは果たして日本語だったのであろうか。辛うじて聞き取れたのは”学校”に近い発音だった。あとは腸がどうしたとか。
 更に彼女の口元から白く丸いものがぷぅーっと膨らみながら出現したときには、心底魂消た。おまけに吾輩の存在に気付いた彼女が「ん?」とこっちを向いたとたんそれがパチンと弾けたので、吾輩は思わず背中の毛を逆立て、飛び上がった。
「あれぇー? アンタ新顔? 喰いっぱぐれたん?」
 娘は口の中で何かをクチャクチャ言わせながら、吾輩の傍でしゃがんだ。手を差し出されてまた驚いた。突き刺さりそうな長い爪に、花が咲いている。恐る恐るにおいを嗅いでみた。花の匂いはしないが、厭な感じではない、柔らかな匂いを彼女は発していた。
「やっぱおなかすいてるんだぁ? 待ってな、そこのコンビニでネコ缶でも買って来てやるから」
と、吾輩の頭をクシャクシャと撫でた。
 コンビニというのは朝から晩まで人間相手にいろいろな物を売る場所で、ネコ缶というのは丸い金属の容器の中に猫が好みそうな食品を詰め込んだものであると、このとき知った。吾輩はコンビニの駐車場の片隅で、そのネコ缶の中身を恥ずかしいほどの勢いで貪り食った。こんな美味しいものがこの世にあったとは。そんな吾輩を娘はしゃがんだ膝の上で頬杖をつき、笑みを浮かべ見守っている。
 ネコ缶を食べ終え、盛んに舌なめずりしている吾輩を、娘はひょいと抱き上げ、
「ネコはいいよなー。あーガッコ行きたくねー」
と、たまらなく淋しげに呟いた。
 そんな呟きを漏らすこの娘も、先の主人やその友人たちと同じく、呑気に見えて心の底を叩いて見ると悲しい音がしそうに思えた。少々日本語が変でも服装が珍妙でも、人間というものは、その辺は今も昔も変わりはないらしい。
 この娘には危ないところを救われ、空腹をも満たして貰った。吾輩は彼女に借りがある。しばらくはこの娘に付き合い、必ずや恩義に報いたいと思う。
 吾輩は義理堅い猫である。
2004/11/17

『吾眠は猫である』その3
『吾眠ハ猫デアル』
  -- タイムスリップした漱石猫 --

  原作(猫語): 書き猫知らず

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その3  人間語翻訳:とっと

 はてさて、今の状況をいかが説明するべきか。
 歩けども、歩けども、見る物は人間の足、足、足。その傍らを墓石改め、四輪自動車が信じられないほどの速度で走り抜けてゆくばかり。所変われば人変わると言うが、変わるのは人間ばかりではないらしい。人間も自動車も、吾輩の知っているそれとは大きく容姿を変えてはいるが、なにより不可思議なのはそれ以外のものをまったく見かけぬ。猫はおろか、人間の忠実な僕である犬すらも見かけぬ。この世はあの獰悪な人間に支配され、その他の種は淘汰されてしまったのだろうか?
 吾輩は歩きながらそう考え、何度も首をひねったが、それにはどうにも合点がいかぬ。あの墓石ならぬ自動車のたまり場でたしかに人間は吾輩のことを『バカネコ』と呼んだ。つまりは猫というものがまだ認知されている所為である。猫と言うものがこの世界に存在しているのであれば、何故出会わぬのだろう?
 同輩に会わぬこと以上に困惑するのがあたりの様子である。ここらの土は真っ黒でしかも硬い。細かな石ころが敷きつめられているだけなのに、それがまるで糊ででも貼り付けたかの様に礫のひとつもびくともせぬ。歩きにくいというほどでもないが、なんとも気持ち悪い。さらには周囲の塀も皆、見たこともないようなものばかり。塀と言えば木と相場が決まっておるものだとばかり思っていたが、ここらには木の塀など見当たらぬ。目が覚めてから何度も思うことではあるが、本当に異国の地にでも迷い込んだ気分である。なれ親しんだ景色が見えぬというのがかようにも心細いものとは……。

 さらに暫く歩き続けると道を遮る白い塀の向こうにこんもりと繁る森を見つけた。
 あぁ、助かった。
 そこがまるで故郷でもあるかのように感じる。こんなところには一刻もおれぬと駆け出した吾輩に黒い影がかぶさる。ハッとして足を止めた吾輩に向かい、これまで聞いたことも無いような獰猛な金切り声をあげて例の四輪自動車が目の前に迫った。まったくもって人間の僕に過ぎないあの犬でさえあのように恐ろしげな声をあげることはあるまい。ここだけの話、吾輩は瞬間、喰われる! と思った。後から考えれば自動車が猫を喰らうというのはとんと馬鹿げた話ではあるが、そのときはそれほどに恐ろしい心地がしたのだ。どうせ一度は死んだと思ったこの身、なにを怖がる事があろうか等とは到底思えぬ。あぁ、今度こそ本当にお陀仏か……。
 ところが吾輩はよくよく悪運が強いのか、その獰猛なる四輪自動車は大きくその体をうねらせると、まるで吾輩の存在を無視するかのように彼方へと走り去ってしまった。

 久しぶりの土の感触が心地よく、吾輩は大きく伸びをした。久しぶりと言うのも変な感じがするが、最後に土を踏んでからどのくらいの時間が経っているのかかいもく見当がつかぬ。ただ感覚的に久しぶりと感じたので、やっぱり久しぶりなのであろう。
 森の中にようようたどり着いて初めて心持ちを落ち着けることができた気がする。ここら辺り――ここがどこなのかは皆目検討もつかぬのだが――は土埃こそないものの、吾輩が以前いた所に比べて格段に空気が悪い。これまでは吾輩も混乱して気がつかなかったが、森の中に入ってみて初めてそれに気がついた。奥に社殿のようなものが見えるので、神社・仏閣のたぐいなのではあるまいか。それで空気が住んでいるのかも知れぬ。どのみち吾輩の知っているそれとは比べるべきもないが、それでもここは外よりも幾分ましであった。同輩達が一向に姿を見せぬのも、あの空気を嫌ってのことなのかも知れぬ。さすればこの森の中でならば一匹や二匹は見つかるのではないだろうか? さすればここがどこなのかわかるやも知れぬ。
 淡い期待ではあるが、今はそれにすがるしかあるまい。吾輩はそう考えた。――そう考えたが、見知らぬ場所に放り出されたことに思いの外気疲れをしたようだ。もはやヘトヘトという他なく、動くことは一歩もままならぬ。落ち着ける場所を見つけたと言うことがこれまでの緊張を一気にゆるめてしまった所為であろう。とりあえずは一休み。しかし目を覚ましたらここらの大将を探さねばなるまい。ひょっとしたらここが当面のねぐらとなるやも知れぬのだから。
2004/11/13

『吾眠は猫である』その2
『吾眠ハ猫デアル』
  -- タイムスリップした漱石猫 --

  原作(猫語): 書き猫知らず

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その2  人間語翻訳:BUTAPENN

 墓場だと思っていた場所(実際にはそれは駐車場だった)を命からがら逃げ出した吾輩は、通りに出て、またもや八万八千八百八十本の毛髪を一度に逆立てることになった。
 川に似ている。水がない川である。その上を墓石がけたたましい音を立てて往来している。
 中洲には樹木が植わり、その中州より手前の墓石は右から左へ、中洲より向こうの墓石は左から右へと整然と走り、しかも、その走る速度の猛烈さたるや、隅にへばりついて見ている吾輩の髭をぶるぶると震わすほどなのだ。
 その時分には、吾輩もようやくそれが墓石ではなく、車輪のある自動車であることに気づいた。正面からばかり見ていたから、今までわからなかったのだ。
 先ほども言ったように、我輩はかの金満家の屋敷で輸入自動車を見たことがある。そもそも四輪自動車は明治31年に初めて日本で外国車が試走、吾輩が生まれた年に国産第一号が誕生している。しかし馬のない馬車といった風情だったあれに比べて、なんとも奇妙な形をしているではないか。時には家一軒まるごと移動しているような大きさのものもある。
 唖然として観察していると、通りの縁を、がやがやと若い人間たちが一団となって通り過ぎていった。吾輩はまた目を疑った。
 その人間たちの毛髪が茶色や黄色なのである。黒もいるにはいるが、ごく少数だ。
 おまけに、着物を着ている者はひとりもいない。すべて西洋式の洋服だ。女も髷を結わずに洗い髪のままである。
 さらに言うならば、みな驚くほどひょろ高く、しかも足が長い。まるで竹馬に乗っているようだ。それに比べれば、吾輩の家の主人や細君や下女のおさん、主人の友人の寒月、迷亭先生たちなどは、胴から屏風の台が生えているようなものだ。
 吾輩はそれらのなつかしい人間の顔を思い浮かべて、ちょっと悲しくなった。
 ここが吾輩の家から、二度と戻れぬほど遠く離れた場所であるのは、もう間違いない。吾輩は甕の中で溺れたと見えて、実は甕の底から地面を突き抜けて、地球の裏側に出てしまったのではあるまいか。ここは異国なのだ。そう考えれば、この人間たちの風体も合点がいく。
 しかし、それでは妙だ。この人間たちは、風体は異国人でも、口から出ることばはどれもこれも国語に相違ないのである。多少早口で甘ったるい発音だが、理解できる。そう思って見れば、顔ものっぺりとして西洋人には見えぬ。
 それならば、ここは本当に日本なのか。吾輩のうちにむくむくと学者の家に寄寓する猫としての好奇心が頭をもたげてきた。
 そこで、こっそりとその人間たちの後をつけることにした。

 やがて、地面の一角が、白黒の縞模様になった場所に来た。人間たちが立ち止まって待っていると、ほどなく車が次々とその前でうやうやしく止まるではないか。そして、吾輩が地面から三寸くらい飛び上がったことには、どこからか「通りゃんせ」のわらべうたが聞こえてくるのだ。誰かが隠れて笛でも鳴らしているのだろうか。人間の一団はその中を悠々と通っていく。
 わかった。これは大名行列に違いない。笛や太鼓の囃子の中を、大名一行を通すために、車は止まっているのだ。そうすると、ここは旧幕時代か。吾輩は過去に来てしまったのか。
 いや、それはいかにも可笑しい。江戸の世には、こんな車はなかったはず。
 不思議だ。何もかもが解せない。
 ぼんやりと考え込んでいた吾輩は、ふと我に帰り、あわててあの人間たちを追いかけようとして、もう少しで、走り出した車にぺしゃんこにされるところだった。
 しくじった。遅れをとってしまった。
 地団駄踏んでいると、また新しい人間たちがやってくる。しばらくすると車が止まり、人が渡りだす。今度は対岸からも人がやってくる。吾輩もおっかなびっくり渡ろうとすると、また車に轢かれそうになる。
 何回かそんなことを繰り返して、ようやく規則らしきものが見えてきた。
 正面に二種類の奇妙な絵図があって、それが緑の絵図になったとき、車は止まり人が往来する。
 赤い絵図に変わったとき、車は走り出し、今度は人が止まる。
 この赤緑の絵図が、それぞれに指示を出しているに相違ない。吾輩はその法則を発見して、風呂から素っ裸で飛び出たという希臘の哲学者のごとく有頂天になった。
 こんなことは、車屋の黒や他の凡庸な猫にわかるはずはなく、ましてや遠近無差別黒白平等の水彩画程度にしか物が見えないという犬などに理解できる道理もない。
 この赤緑絵図は、通る者の進化を試す試験を与える役目を負っているに相違ない。
 そして、吾輩はその試験に合格したのだ。
 いささか迷う気持ちもあった。ここを渡って行けば、あの駐車場からどんどん遠く離れてしまう。それは、元いた主人の家に戻る道を絶ってしまうことを意味する。
 しかし、こうも思った。
 行きたいところへ行き、見たいものを見、聞きたい話を聞くのが、猫の本分である。ここで怖気づいて、珍しいものを見聞できぬのは、猫たるものの恥ではないか。
 そう決意して、吾輩は髭をぴんと立てた。
 そして、空を踏むがごとく、雲を行くがごとく、尻尾を振って縞模様の道を渡っていくのであった。
2004/10/30

『吾眠ハ猫デアル』 その1
『吾眠ハ猫デアル』

  -- タイムスリップした漱石猫 --

  原作(猫語): 書き猫知らず

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その1  人間語翻訳:第48代我輩

 気が付くと、あたりの風景がすっかり変わっている。ただでさえ狭かった庭が姿を消し、代わりに巨大な墓石が所狭しと並んでいる。まるで大谷本願寺の裏にある墓地だ。もしかして、吾輩は鼠に生まれ変わったのか知らん。だとしたら鼠と云うのは残念だが、人間に生まれ変わらなかっただけで善しとせねばならぬ。
 と、その時気付いたのだが、生まれ変わるなら、墓地ではなく、巣とか家である筈である。よしんば墓場に巣食う鼠に生まれ変わったにしても、いきなりこんな光景が目に入るのは妙だ。のみならず、吾輩は閻魔王に会った記憶が無い。吾輩の記憶にあるのは、自称美学者と玉擦りの落第生と危険な3人娘の巣食う、冴えない英語教師の家で、彼の放任のままに、大平の逸民の言動を観察かつ記録した事だけだ。
 ここまで頭が覚醒した時、全てを鮮やかに思い出した。そうだ、吾輩はビールとかいうものを飲んで陶然となったままたらいに落ちたのだが、しばらくもがいた後、もがくのを止めた途端に身体が楽になって、水の中だか畳の上だか分からない奇妙な感じがしたのだ。てっきり往生するものとばかり思っていたが、実際のところ往生した記憶はない。代わりに心臓のドキッドキッという音が、段々機械的なドッキンドッキンという音に変わって、変だなと感じたばかりである。陶然と機械音を聞いているうちに、いきなり覚醒したら、こんな変な所に来ていたのだ。
 これらの事実を吟味すれば、結論は一つ、吾輩は死んではおらんし、閻魔王に会っておらんし、鼠に生まれ変わってもおらん。ようするに何かのはずみで墓場に来たのだ。吾輩が死んだと思って、埋葬をする積もりでここに連れて来たのかしらん。それならそれで良いが、このざわつきは下せない。墓場とは閑寂なところな筈である。にもかかわらず色々な音が空から降って来る。もちろん主人の家にしたところで、始終人間の罵声とか、烏の泣き声とか、往来を行き交う人の雑踏とか、塀向こうの中学生の遊び声とか聞こえてはいたが、いま吾輩が聞く音は全然違う。路面電車のモーターのような音や、その警笛のような音、それに銅鑼を叩いているような音ばかりが聞こえている。こんなに騒々しいところに墓場を作る連中の気が知れない。
 今にして思えば、吾輩の経験したのは時間旅行というものだったのだろう。玉擦りの落第生によれば、吾輩の生まれた翌年に、アインシュタインとか言う酔狂な男が、一般相対論とかいう算術のお遊びの仮定として、未来には行く事ができるが過去に戻る事は出来ない、と言ったそうだが、その原理の実験台第1号だったに違いない。そういえば、あのビールがあやしい。あれは実験の前に打つとかいう麻酔だったのではあるまいか。この麻酔というのいうのは我々猫族にとっては危急の大事である。このあいだ会ったシャム猫のミー子によれば、麻酔とかいうものを打たれるのは大抵が避妊手術とかいうものをするらしい。ある大学病院から命からがら逃げてきたという雑猫のハル君によれば、それで麻酔を打たれたが最後、マトモな猫生活は遅れなくなるそうだ。
 これらの証言を勘案するに、吾輩の飲んだビールというのは麻酔の一種に違いなく、あのたらいと思ったのは実験装置に違いなく、水に溺れたと思ったのは幻覚に違いない。要するに吾輩は態の良い実験台にされたのだ。何かというと、人間は直ぐに猿猫鼠を実験に使いたがるが、我々は実験される為に生まれたのではない。猫は眠り遊ぶ為に生まれ鼠は猫に追われる為に生まれ猿は猿真似をする為に生まれたものだ。実験台にするのは我々のしもべたる人間の更にしもべたる犬で十分ではないか。ともすると連中は我々猫族を迫害する為に生まれてきたものだと自惚れるから、さっさと連中を実験なり召し使いなりに使ってくれたまえ。そうすれば天下は何時までも猫の為に回ってくれる。
 しかし、この時はそのような知識も無かったので、吾輩は目の前の墓石を呆然と眺めるばかりであった。それにしてもこの墓石は奇妙だ。どれもこれも、その土台の下に黒くて丸いものがついている。しかも、色が滅茶苦茶だ。大抵は白だが、時々変な色だの変な模様だので彩られている。もっとも、墓にも色々流行があって、元々は木の立て札1枚だけだったのが、小さな石となり、やがては、武士とか庄屋とかが巨大な石墓を作るようになって来たものだから、これも流行の一つかも知れない。そう思っている内に一つの事に気が付いた。そういえば墓の上には文字が刻み付けられている筈だ。それを見ればここが何処だか分かるだろう。そう思って墓の上に飛び上がった。
 この時、妙だと思った感じが今でも残っている。第1に、墓の中段に着地するや、あの墓石独特の石の感触が全くなく、ボトンという空虚な音と共に熱気が伝わって来た。吾輩はいままで色々な墓石を知っているが、湯たんぽのように暖かい金属で出来たものは知らぬ。のみならず、家の名前だの南無阿弥陀仏だのの文字の彫ってあるべき正面が薬缶のようにつるつるで、しかも少し中が透けて見みえる。暫く考えて、これがガラスというものである事にようやく気がついた。墓にガラスを使うとは、斬新なデザインを考えた奴もいるものだ。斬新は良いが、墓石は丈夫なもので無ければならない。千年とは言わないまでも最低でも百年二百年は頑丈で無ければならない。その墓石にガラスを使うのは理解できない。
 暖かい墓石の上でぬくぬくとしていると、突然巨大な音が近くで聞こえた。岡蒸気のボイラーのような出来の悪い大砲のような爆発音である。講和したはずのロシアが攻めてきたのか、或いは政府の言論弾圧に反対する自由民権論者がゲリラ戦を始めたのか知らぬが、危険な事には変わり無いので、条件反射で墓石から飛び下りた。するや
「あ、ネ・コ! 気を付けて」
という女の声に続けて
「この、バカネコ!!」
という太い声が正面の墓石から聞こえてきた。
 吾輩はバカという名前では無い。バカネコという名前でも無い。れっきとした名無しである。断っておくが、あの自称美学者の云う猫又でも、車屋の黒の云う正月野郎でももちろんない。にもかかわらず、かの見知らぬ男は吾輩の事をバカと呼んだ。理不尽にバカというのは主人だけではないらしい。人間とは、どうして見るもの全てにバカと名付けたがるのであろう。吾輩から見れば墓石なんかの中に入り込んでいる人間の方が余程バカである。しかも公平の見地に立てば、人間がバカというべき対象は人間に限るべきだ。人間以外の動物に対して言べき言葉ではない。但し、人間と言うのは公平という概念を全く理解しない動物だから、ここで吾輩が怒ってみたところで無意味に相違ないのでそのままにしておいた。公平が理解できるなら、はじめから植民地だの、何処かの国だけ武器を持ってよいとかいうルールだの、2重スタンダードだのといったものが生まれる筈が無かろう。
 人間の不公平について考察は、しかるに次の事件で中断を余儀無くされた。というのも、あの奇妙な墓が勝手にものすごい加速で動き始めたからである。墓石の回りには誰もいない。押す人も引く人も無くいない訳である。しかも、ここには電線と言うものも煙突というものも無い。電車なら電線が必要な筈だし、岡蒸気なら煙突というものがある筈だ。つまり、何の力学的理由も無く墓石が動いたのだ。もちろん、文明の最先端を知る吾輩が、輸入自動車というものを知らない筈がない。現に、かの角向こうの金満家の家でも見かけた事がある。しかるに、あの自動車と、ここに並んでいる墓石とは似ても似つかない。これが、21世紀人の乗る自動車というものの見始めであろう。吾輩のタイムスリップの先は駐車場だったのである。この駐車場が、かつて吾輩の主人の住んでいた所に作られたものであるという事は最近になって知った。
 但し、そのような考えは思いもつかなかったから、吾輩は墓場の墓が物理法則に反して勝手に動き出したと思ったばかりである。とすれば、これは幽霊以外にあり得ない。文明開化の明治に幽霊が出るとは思えないが、現にこうして目の前で墓石が勝手に動いておる。目の前の事実は事実として認めなければならぬ。かの物理学士寒月先生ですら心霊の話をしておった訳だから、幽霊は確かにいるのだろう。そして、先ほどの男女は幽霊に相違ない。そういえば、墓石のガラスの向こうで良くは見えなかったが、日焼けをすべき身体が真っ白で、しかも妙ちくりんなピラピラ服を来て、身体の殆どを露出しておったようだ。
 これはいよいよ幽霊に極まった。真昼に堂々と出て来るのは下せないが、場所が変われば幽霊も変わる、別に不思議では無い。化け猫なら話せば分かろうが、人間の幽霊となれば、これは逃げるに如かず。こんな無気味な墓場から一刻も早くおさらばした方が良い。墓場より駐車場の方が遥かに危険な事は論に及ばない。しかしそれは21世紀の知識だ。当時の吾輩にとっては、幽霊の出る墓場ほど危険な場所はない。動く墓石の出て行った方向と逆の方に一目散に駆けて行った。
 この目論見は裏目に出た。というのも、出口と思しきところから、いきなり墓石が入って来たからだ。全面に狼後面に虎とはこの事だ。肝を潰した吾輩は、どこでも良いからと、墓場の間をくぐり抜けて境界の塀に飛び上がった。だが、ここで吾輩は白状せねばならん。この時の墓石は、吾輩にとっては生みの親のようなものである。この時、あの車が駐車場の入口から入って来なければ、吾輩はそのまま通りに飛び出して車に轢かれていたに違いないからである。
2004/10/25

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