広助の『丸山歴史散歩』
平成14年8月10日よりカウンター開始しました。

この「広助の『丸山歴史散歩』」は、長崎の名所旧跡史跡を毎日更新
でお届けしております。 コースはA〜Eまでの5コースで、A:長崎駅〜県庁〜日見峠、B:蛍茶屋〜田上、C:唐八景〜丸山〜戸町、D:思案橋〜出島〜浦上、E:稲佐〜神の島です。

ブログでは、まち歩きや丸山情報など
(仮称)山口広助のブログ

  平成16年 〜2004年〜
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鐡翁祖門(てつおう-そもん)について
鐡翁(鉄翁)祖門(寛政3:1791-明治4:1871)は銀屋町の日高勘左衛門の一子として生まれ、本名を日高祖門、号を鐡翁といいます。11才で父と死別、これを機に春徳寺に出家、後年は春徳寺第14代住持となります。若い頃より石崎融思から画を学び、さらに江稼圃(こう-かほ)に南画の指導を受けるなどして腕を上げ、当時、木下逸雲、三浦梧門を合わせて崎陽三画人(三筆)と呼ばれます。また、鉄翁の描く蘭の絵は今なお絶品と賞されています。墓所は春徳寺歴代墓所内。

○鉄翁禅師碑【春徳寺境内】
春徳寺境内に立つ鐵翁禅師碑は明治21年(1888)に建立、菊地純撰文。碑は翁の史実が書かれていますが一部誤記があります。明治4年10月15日没。享年82。




A-238:摩利支天堂(まりしてんどう)【春徳寺境内】
解説版より「印度神話によれば梵天の子、マリシテンは日光を神格化したもので日天子、天下を巡行する時前駆をなし、この天を念ずれば、開運・愛情・得財・勝利を得るという。又亥歳生まれの守護神なり。当山の摩利支天は寛永年間(1624-44)京都、禅居庵の分霊として祭祀され、今日に至る。」
※禅居庵(ゼンキョウアン)は京都東山建仁寺塔頭の寺院で摩利支天をお祀りしている寺院です。




A-237:臨済宗華嶽山春徳寺(-げごくざん-しゅんとくじ)
寛永7年(1630)僧:泰室清安によって岩原郷(現 立山付近)に大梅山春徳寺が開かれます。泰室は豊後の出身で博学を持って知られ、当時、輸入唐書などがキリシタンに関したものかどうか検査役を命ぜられていました(このことから以後も春徳寺住職は書物改役に任ぜられるようになります)。その後、境内地が狭かったため寛永17年(1640)第4代長崎代官で大壇越の末次平蔵茂貞(末次家2代)の尽力によってトードス・オス・サントス教会跡地(現在地)に移転します。そしてそのとき末次家初代の末次平蔵政直の法名から華獄山春徳寺と改められます。本尊釈迦如来、脇侍文殊菩薩および普賢菩薩




A-236:トードス・オス・サントス教会跡(Todos los Santos)
セミナリオ(Seminario)/コレジオ(Collegio)跡
夫婦川町11(長崎村夫婦川郷/片淵郷)【春徳寺】
トードス・オス・サントス教会は永禄12年(1569)ガスパル・ヴィレラ神父によって建てられた教会で、ポルトガル語の「諸聖人」の意味を持ちます。この地にはもともと小さな密教寺院があって長崎甚左衛門がルイス・デ・アルメイダに与えた土地でした。アルメイダが天草に移ると代わってガスパル・ヴィレラ神父が長崎の布教の専任となり、ここに“小さいながらも美しい教会”と伝えられたトードス・オス・サントス教会が建てられるのです。天正2年(1574)西郷氏(諫早領主)と深堀氏に攻め込まれ焼失(慶長8年(1603)再建)。慶長2年(1597)にはセミナリオコレジオ及び活字印刷所がここに移され、慶長7〜12年(1602-1607)修練院も開かれます。さらに慶長17年(1612)有馬から追放 されたセミナリオがここに移り禁教令(慶長19:1614)まで存続しました。慶長19年(1614)には高山右近らが追放後一時滞在もしました。教会の建物は禁教令後も残り元和5年(1619)まで残りました。現在、遺構として井戸と大理石石版が残っています。県指定史跡




A-235:ルイス・デ゙・アルメイダ渡来碑(Luis de Almeida-とらいのひ)
夫婦川町11(長崎村夫婦川郷/片淵郷)【春徳寺山門横】
ポルトガル・リスボン出身の貿易商ルイス・デ・アルメイダ(1525:大永5-1583:天正11)は,航海中に修道士のグループに遭遇、そして来日することになります。当初、アルメイダは豊後の府内(現 大分市)で日本初の西洋医学教育を行ない私費で病院などを設立します。その後、平戸、大村、口之津、福田浦などを経て永禄10年(1567)長崎浦を訪れ、当時の当主:長崎甚左衛門純景に迎えられるのです。そして長崎甚左衛門純景の屋敷近く(現 春徳寺)に布教所を設け、布教と医療を行ないます。これが長崎における西洋医学の伝来です。翌年には天草に渡り、天正11年(1583)天草にて没。墓所は天草。この記念碑は昭和42年(1967)結城了悟神父の尽力により建立。




A-234:長崎盲唖院跡/長崎県立盲学校跡(-もうあいん/-もうがっこう-あと)
桜馬場1-12-5、6、10付近(長崎村馬場郷/桜馬場町)
明治31年(1898)長崎慈善会は鍼按教授所(興善町)を併合して同所に長崎盲唖院を設立。ここには電話発明のベルが来校して講義をしたといわれています。明治33年(1900)私立長崎盲唖学校、長崎盲唖学校などと改称。明治41年(1908)桜馬場町の砲術稽古場跡地に新校舎を建設し移転、九州の唯一の盲学校として盲教育に大きな役割を果します。さらに昭和4年(1929)長崎県立盲学校となります。昭和9年(1934)旧上野町(現 橋口町)に移転となります。昭和20年(1945)長与町に疎開、さらに大村市に移転。昭和23年(1948)橋口町に戻ります。昭和50年(1975)老朽化と手狭になったことから現在の長与町西時津郷に移ります。




A-233:砲術稽古場跡(ほうじゅつ-けいこじょう-あと)
桜馬場1-10,11,12付近(長崎村馬場郷)
トードス・オス・サントス教会の薬草園だったところは、教会の破却後(天正2:1574)、庄屋:森田家の畑地となります。その後、寛政3年(1791)砲術稽古場が設けられ、武具蔵預、遠見番、唐人番、船番、町司、散使、のちには地役人一般などの小銃、弾薬の訓練場となります。寛政9年(1797)には町年寄薬師寺久左衛門が砲術師範役となり指導が行なわれました。これらは寛政3年(1791)頃から沿岸に異国船が出没するようになったため幕府が異国船漂着処分法の発令によって行なわれたものでした。




A-232:烟草初植地の碑(たばこ-はつうえのち-のひ)
夫婦川町6-7(長崎村夫婦川郷/片淵郷)
永禄12年(1569)トードス・オス・サントス教会が現在の春徳寺のところに建てられ、その後、教会のそばに薬草園が設けられ多くの薬草が植えられます。天正4年(1576)には南京芋(ジャガイモ)が、慶長4年(1599)には煙草を輸入し栽培が始まります。これが煙草の日本の初植えとなります(平戸説、鹿児島説あり)。当時、煙草は薬として利用され「人目覚まし草、煙り草」といわれていました。その後、次第に長崎の名物となっていくのです。以前は桜馬場中学校の角(春徳寺の上り口)に碑が立っていましたが、道路改修によって現地に移されます。




A-231:瓊浦女学校跡(けいほじょがっこう-あと)
桜馬場2-1(長崎村馬場郷字龍雲寺)
東淵山雲龍寺は明治維新後、廃寺になりますが、跡地には大正14年(1925)元長崎県立長崎中学校校長の中村安太郎によって瓊浦高等女学校が設立されます。これは現在の瓊浦高等学校の前身にあたります。その後、瓊浦女学校には定時制や男子部(伊良林)が設けられます。昭和39年(1964)には瓊浦高校のすべてが現在の伊良林の地に移転します。現在、岩本歯科内に記念碑あり。




A-230:臨済宗東淵山雲龍寺跡/桜馬場観音堂
(とうえんざん-うんりゅうじ-あと/さくらばば-かんのんどう)
桜馬場2-1(長崎村馬場郷字龍雲寺)
現在の桜馬場中学校の下の通りの南側は江戸時代初めまで長崎氏の花苑でしたが、その後、今下町(現 築町)の山岡吉兵衛の別荘となります。承応2年(1653)には春徳寺の2代住職の心傳にこの地を寄進、心傳は東淵山雲龍寺を建立します。嘉永4年(1851)には南画の三筆(鉄翁、逸雲、梧門)といわれた春徳寺14代の鉄翁がここで隠居していましたが、龍雲寺は明治維新により廃され、本尊の観世音菩薩像や弘法大師像を桜馬場観音堂(創立明治初年:1870頃)に移し現在に至ります。なお、現在春徳寺境内にある芭蕉等俳諧碑は安政の頃まで当時の境内にありました。




A-229:上長崎村役場跡(かみながさきむら-やくば-あと)
桜馬場1-9-8(長崎村馬場郷)【桜馬場公民館】
江戸時代、天領の長崎を囲む地域を長崎村といいました。その長崎村には13の郷(岩原、船津、西山、木場、片淵、夫婦川、馬場、中川、本河内、伊良林、高野平、小島、十善寺)があり、庄屋職を森田家が受け継いでいました。長崎村は明治11年(1878)南部と北部に分かれ、南部は下長崎村(高野平、小島、十善寺郷)、そして北部は上長崎村(残りの10郷)とに分かれます。上長崎村の役場ですが、当初は春徳寺の中に置かれたり転々とした後、この地に置かれました。明治22年(1889)上長崎村の夫婦川郷が、大正9年(1920)上長崎村全域が長崎市に合併、役場は地区の公民館として利用されます。




A-228:桜馬場(さくらばば)
長崎氏の屋敷が建つ場所を館といい、館は今の桜馬場中学校の場所にあたります。その屋敷の門前が馬場と称し、長崎開港後は屋敷に庄屋職の森田氏が住していました。慶長10年(1605)天領とし長崎代官管轄の長崎村馬場郷となり、明治22年(1889)市制町村制の施行により上長崎村馬場郷、明治31年(1898)長崎市馬場郷、大正2年(1913)桜馬場町となります。地名の由来は馬場郷は街道筋で多くの桜が植えられていたため桜馬場となったものと考えられます。




A-227:長崎村(ながさき-むら)
鎌倉時代の貞応年間(1222頃)神奈川県鎌倉の長崎?というところから長崎小太郎重綱という御家人が長崎に入ります。建山に城(砦)を置き有事の際に集結、当時、鶴の城と呼ばれていました。また、平時は現在の桜馬場中学校のところ(字館)に屋敷に構え長崎村を治めます。そして長崎村はこの屋敷を中心として城下町を形成し馬場郷、中川郷(ナカゴウ)、片淵郷に及んでいました。特に門前のところは賑やかでニ日市と呼んでいたそうですが、これは毎月2日に市が開かれていたためといいます。この長崎小太郎重綱が初代長崎村の領主で、第14代目が長崎開港時(元亀2:1571)の領主:長崎甚左衛門(純景)となるのです。この桜馬場こそが長崎の発祥の地ということになります。




真宗仏光寺派転入山深廣寺
片淵4-6-1(長崎村片淵郷)
安永天明年間(1772-1789)正覚寺の僧:観海は布教活動に熱心で帰依者も多く、寛政3年(1791)正覚寺の住持:寂興は本山の許しを得、正覚寺内に深廣寺を開き観海を開基とします。一方、片淵の地は寛永年間(1624-1644)正覚寺開基の道智がキリシタン徒への改宗教化をした地区だったこともあり正覚寺の壇徒が多く、寛保2年(1742)に正覚寺の住持:浄超が転入庵という庵を設けると片淵の壇徒はすべて属するようになります。壇徒は明治30年(1897)ごろから一寺建立を希望しますが許しが出ず、明治43年(1910)正覚寺内の深廣寺を移転させ転入庵を改称します。




心田庵(しんでんあん)
片淵2-18-18(長崎村片淵郷)
心田庵は唐小通事の何兆晋(ガチョウシン)が天和元年(1681)頃に建てた別荘で、江戸時代中期の庭園が残っています。約530坪(1750平方メートル)の庭園には長崎市街地では唯一の木造茅葺きの建物(茶室、玄関)や土蔵などがあります。心田庵は以前まで増田水産の所有でしたが平成23年(2011)に長崎市に譲渡され市有形文化財に指定されました




A-225:天寿庵(てんじゅあん)
夫婦川町12-38(長崎村夫婦川郷字天寿庵)【中川家所有】
天寿庵は付近の小字にも使われていて、その昔、長崎甚左衛門の庵があったところといわれ、現在は中川氏所有のお堂としてお祀りされています。また、この中川氏は中川という地名の由来ともなった家系で、長崎甚左衛門の流れを持っているともいわれています。このほか長崎四国八十八ヶ所巡拝の際、この天寿庵は霊場の一つとされています。




A-224:夫婦川観音堂(ふうふがわ-かんのんどう)
夫婦川町4 (旧長崎村夫婦川郷字トッポ水)
夫婦川観音堂独鈷水/トッポ水の上にある観音堂のことをいい、延宝7年(1679)に観世音菩薩を本尊として創立しました。言い伝えによると、その昔、この夫婦川郷が飲み水に大変困っていたとき、ここの観世音菩薩に祈願し開墾したところ清水が湧き出したといわれ、それが現在、お堂下の泉といわれています。また、この泉は長崎に入港した唐船やオランダ船の飲み水に使われたともいわれています。




A-223:独鈷水(とっこ-すい)
夫婦川町4 (旧長崎村夫婦川郷字トッポ水)
一般にトッポ水(みず)といわれるこの泉は、昔から“泉質透明、冷徹、旱天にも涸渇せず”といわれている湧き水ですが、正確な名称は独鈷水といいます。言い伝えによれば弘法大師(空海)がこの地を訪れたとき、付近の人々が水に大変困っていることを哀れに思い、携えていた仏具の独鈷を地面に突き刺したところ水が湧き出したといわれています。




長崎祠記の碑(ながさき-しき-のひ)【織部善神堂境内】
長崎祠記織部神社にお祀りしてある長崎為英(織部亮)とその兄の長崎甚左衛門について刻まれたもので、明治27年(1894)当時の長崎市議会議長で漢学者の西道仙によって建てられました。碑文も漢文で西道仙によって作られています。材質は鳴滝にある琴石と同質ものです。




A-221:織部善神堂(おりべぜんじんどう)
夫婦川町3-5(長崎村夫婦川郷)
織部善神堂はもともと織部神社に葬られている織部亮(長崎為英)のためのお堂で、長照寺の末寺としてお祀りされていましたが明治時代に廃されました。平成21年(2009)12月7日、長照寺によって再興され、日蓮聖人と鬼子母神、そして織部亮(長崎為英)をお祀りしています。織部亮の仏体はのちに再興されたもので、長崎甚左衛門の子孫の方の顔を基に再現されています。




A-220:斎道寺観音堂跡(さいどうじ-かんのんどう-あと)
夫婦川町3or4(長崎村夫婦川郷)
斎道寺は当初、神宮寺(長崎公園付近)の支院として建てられますが、キリシタンによって破却されます。その後、僧:良明によって再興されますが、すぐに途絶えてしまいます。明治36年(1903)付近の田川金吉によって復興しますが現在は存在していません。なお、斎道寺境内にあった泉は夫婦川の由来ともなったの方の泉で、寛永年間(1624-43)長崎に来航した多くの外国人がわざわざ水を汲みに来たと伝えられています。




A-219:夫婦川(ふうふがわ/めおとがわ)
夫婦川はもともと大村氏の所領の長崎村に属し、長崎開港後の慶長10年(1605)天領とし長崎代官管轄の長崎村夫婦川郷とします。明治22年(1889)市制町村制の施行により上長崎村夫婦川郷、明治31年(1898)長崎市夫婦川郷、大正2年(1913)夫婦川町となります。地名の由来は付近にトッポ水(みず)【雌】斎道寺泉(さいどうじ-みず)【雄】という二つの川があったところからこう呼ばれます。一方を雄水、他方を雌水と称して夫婦(めおと)川となる訳です。ここで川と表現されていますが正確には井戸や湧水のことを長崎では井川(いがわ)と呼ぶところから川と呼びます。なお、斎道寺泉とは春徳寺下付近あった湧水のことをいい、現在は織部神社横に湧水を引き込んでいます。付近の話では雄水と雌水は透明ながら色がついていて、さらに合流部でまた不思議な色に変わるといわれています。




A-218:織部神社(おりべ-じんじゃ)
夫婦川町3(長崎村夫婦川郷)
織部神社は長崎の領主:長崎甚左衛門の弟の長崎為英(ためひで)=織部亮(おりべのすけ)をお祀りした神社で、墳墓の上に社を建ててあります。この長崎為英は大変豪傑で兄の甚左衛門を陰ながら支えていたと伝えられています。寛永4年(1627)没。ここを参詣したある俳人は「いさぎよき 名は花に出て 苔の下」と為英のことを詩っています。




A-217:桜馬場天満宮(さくらばば-てんまんぐう)
大生山寳正院威福寺は明治維新を経て、桜馬場天満宮と改称されます。江戸時代はオランダ船からの寄進があったのですが、明治時代以降、寄進がなくなり維持が困難となり、社殿も老朽化が進みます。明治末期、再建計画を始め寄付を募り、大正2年(1913)改築が行なわれました。この改築の際、社殿格天井に48枚の絵を長崎画友会が奉納しています。現在は桜馬場地区の氏神さまとして大切になれています。




惜別の宴(せきべつの-えん)/あと賑やかし/灘渡し(なだ-わたし)
出島オランダ商館長(カピタン)は江戸参府と称し、将軍に拝謁して、献上品を差し出す仕来りがあって、寛永10年(1633)から嘉永3年(1850)までの217年間に116回も行なわれました。長崎から江戸までの行程は約3ヶ月、50人程の行列で、長崎の町を出て長崎街道にて小倉に向います。そして海路大坂へ、あとは東海道を使って江戸に入っていました。
 一行は、まず前日に威福寺にて惜別の宴を受けます。そして早朝に一行を見送ると、あとの者はあと賑やかしといって道中安全の意を込め宴を始めました。一行が小倉から海路に入る際(出発から約1週間後)、今度は航海安全を祈って留守を預かる者がこの威福寺に再び集まり、灘渡しという宴を行ないました。このように事あるごとに威福寺に集まり宴を張る慣わしでしたが、この威福寺はオランダ人との関係が深く、オランダ船入港の際は威福寺へ砂糖を献上することもありました。




A-216:真言宗大生山寳正院威福寺跡(-たいせいざん-ほうせいいん-いふくじ-あと)
桜馬場1-4-18(長崎村馬場郷)【桜馬場天満宮】
江戸時代初め、佐賀県唐津から多年にわたり天満宮を信仰していた威福院高順という僧が長崎に入りします。高順は寺院を創建したい望みを持っていましたが、当時の長崎はキリシタンの全盛期でそれまであった長崎の寺院はすべて破却されている状態でした。慶長12年(1607)高順東中町の筋違い橋辺りの小屋に密かに天神像を安置します。しかしキリシタンからの妨害があったため、慶長15年(1610)八幡町に移ります。慶長18年(1613)禁教令後は落ちつき、元和9年(1623)第4代長崎奉行長谷川権六郎守直は馬場郷の場所を寄付し再興が始まります。これが長崎における寺院再興の始まりとなります。




A-215:「長崎街道ここに始まる」の碑
桜馬場1-2-4(長崎村馬場郷)
長崎街道は小倉まで25宿、57里(228キロメートル)の脇街道で江戸時代の長崎-江戸間を結ぶ重要な街道でした。初期の頃は長崎から浦上-時津へ、そして海路にて彼杵を経由して佐賀および小倉へのコースでしたが、その後、長崎から日見、諫早、大村経由のコースになります。また、諫早から海路にて柳川へ出て薩摩街道へ渡る短距離のルートもあって、この長崎-日見-矢上というコースが一般的になります。この「長崎街道ここに始まるの碑」の立つこの場所は当時の長崎の入口に位置し、ここが江戸時代、交通の要所として栄えた場所でした。出島オランダ商館長(カピタン)一行の江戸参府などもここを通って江戸に向っていました。なお、「長崎街道ここに始まる」とありますが、実際、街道とは江戸を起点に整備されていたため厳密にいえばここは終点ということになります。




A-214:浄土真宗大谷派西明寺(さいみょうじ)
片淵1-13-14(長崎村片淵郷)
西明寺は諫早市飯盛町里名田結が本院で、ここはその分院にあたります。当初、西明寺は出張所を出来大工町に開き、その後、大正3年(1914)新中川町(現電鉄蛍茶屋営業所付近)に移転します。一方、昭和3年(1928)長崎刑務所が移転した跡地は、次々に払い下げられ住宅地となるのですが、刑務所の北隅は絞首台のあったところで長い間、空地になっていました。そしてここを西明寺が払下げを受け移転することになります。




A-213:長崎監獄片淵分監跡
(ながさきかんごく-かたふちぶんかん-あと)
片淵1-13付近(旧長崎村片淵郷)【旧済生会病院】
慶長5年(1600)南馬町に牢屋敷が建てられますが、翌年、桜町のキリシタン墓地が立山に移った後、牢屋敷が移設されます。慶長19年(1614)禁教令によってサン・フランシスコ教会が破却された後の元和6年(1620)現在の市役所別館の敷地が牢屋敷に変わり規模が拡大します。明治維新後は桜町監獄と改称。明治15年(1882)片淵に移転し名称を長崎監獄と改称します。明治41年(1908)諫早市に新設の監獄が作られたためここを長崎監獄片淵分署と変更、さらに長崎刑務所片淵分署に改称されます。しかし片淵付近の市街化が進み、昭和3年(1928)浦上の岡町(現平和公園)に移転します。




A-212:英語伝習所跡(えいご-でんしゅうじょ-あと)【旧済生会病院一帯】
安政4年(1857)幕府は長崎奉行所西役所内にオランダ通詞、唐通事のほか一般の者も集め英、仏、露語の学習を始めるよう命を出し、ここに語学伝習所を発足させます。翌5年、岩原屋敷に移し英語伝習所と改称。文久2年(1862)片淵の乃武館内に移し英語稽古所と改称。翌年、立山に移し、すぐに江戸町に移転、洋学所と改称します。慶応元年(1865)新町の旧長州藩蔵屋敷に移し済美館とし歴史、物理、経済なども教えるようになります。明治元年(1868)旧立山役所に移し広運館、すぐに長崎府の入れかえで旧西役所に移転。明治4年(1871)文部省管轄となり、翌5年、第六大学区(のち第五大学区)一番中学となり、翌6年、立山に移り外国語中心の広運学校となります。翌7年、長崎英語学校と改称。明治10年(1877)文部省が経費削減のため廃止し、その代わり公立師範学校への補助を充実させます。この広運館には督学(監督)に丸山作楽(島原藩士国学者)やフルベッキ(オランダ人宣教師)が就き、英語はオランダ通詞が担当し楢林栄左衛門などが指導していました。井上馨(外務,内務,大蔵大臣)が館長兼国学や漢学の講師にもなりました。そのほか卒業生に西園寺公望(第12代首相)や伊東巳代治(農商務相)などがいました。




A-211:乃武館武芸所跡(だいぶかん-ぶげいしょ-あと)
片淵1-12,13付近(長崎村片淵郷)【旧済生会病院一帯】
江戸時代末期、片淵のこの地には長崎奉行所役人官舎がありました。文久3年(1863)第116代長崎奉行服部長門守常純はその官舎のそばに武道の奨励のため乃武館という道場を設け、地役人を始め番所詰めの者やその子弟ほか市民まで多くの者を受け入れます。明治に入り廃止されますが、明治元年(1868)戊辰戦争へ長崎から出征した振遠隊は、隊員全員がこの乃武館出身者で、建物は明治10年(1877年)西南戦争時、戦病者病院として使用されました。




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